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第七話 情は通わぬ


 帰宅したのは深夜だが、仕事へ向かうのは早朝に片足を突っ込んだくらいの時間だ。太陽すら半分も顔を出していないくらい、薄っすら夜の名残を残している空を美しいと感じる暇はない。

 シャワーを浴びて着替える、その間に朝食は車の中にでも準備されている事だろう。シスイはユランに美味しいと言わせたいらしいが、今の所『片手で食べられて便利』以外に感想を抱いた事はない。ヴィオレットの希望さえ叶えてくれれば他は好きにして貰って構わないが、こんな腕の振るいがいもない相手によくもまぁ熱心だこと。毎日試行錯誤に楽しそうで何よりだ。

 適当なタイを首に引っ掛けて、寝室の扉を静かに押す。古い屋敷も手入れをすれば滑らかな動きで道を開いてくれる。流石に初めて訪れた時はキィと不快な音を立てる所もあったが、今ではどこを切り取っても潤いのある人の住む場所になった。そうなるだけの時間を、過ごして来た。


 ベッドの上に描かれた緩い山が微かに上下している。それだけで、まだ始まったばかりの今日が幸せに終わる予感がした。胸の真ん中に柔らかな綿が膨らんでいく様な、穏やかで幸せな感情。その心地良さに思わず笑みが零れ落ちて、あまりにも単純な自分に呆れてしまった。馬鹿だなぁと思う、そして、一生馬鹿なままでいいと思う。


(よく寝てる……)


 足音を立てない様に近付くと、淡い色のシーツに溶ける様に紛れる髪が覗いて、その先を辿ると雪の様に白い肌が見えた。伏せられた睫毛が呼吸の度微かに揺れるけれど、息苦しい様子はなかった。隠れた鼻と口で器用に隙間から呼吸をしているらしい。

 柔らかな布団の中で、胎児の様に丸くなって眠るのは、今更変えられないヴィオレットの癖だ。共に眠る時は普通でも、朝起きるとユランの腕の中で丸くなっている。苦しくないのかと尋ねた事もあるが、無意識の内にそうなっていると言うし、矯正するような事でもないだろう。

 枕元に腰を下ろしても起きなくなったのは、何時頃からだっただろう。ユランは元から寝付きが良くないけれど、ヴィオレットも人の気配に敏感な方だった。寝室を共にしたばかりの頃は、互いに眠れず夜通し昔話をしたりして。ユランの寝不足を心配したヴィオレットに寝室を分けようと提案された時は、見っともなく焦ったのを覚えている。


「少し、顔色が悪いかなぁ……」


 触れるか触れないかの距離で、ヴィオレットの閉じた瞼の上で指を滑らせる。こうして寝ている姿は毎日見ているけれど、起きている姿を最後に見たのはいつだったか。白い肌に血色が少なく感じるのは寝ているからというだけではない気がする。

 気を揉ませているのは知っている。友人の出産だけでなく、その子をユランがどう思うのかまで考えが及んでしまうのは、ただ思慮深いからで済むものではない。通じる経験があるから、簡単に想像出来てしまう。期待を裏切られた者の暴挙を、その人生が物語る。

 申し訳ないと思う。寂しい想いをさせている事も、心労をかけている事も、可哀想にと思う。そんな事、気にしなくていいのに。


「ヴィオちゃんは優しいねぇ……」

 

 冷たい指先は、ずっと冷たい。だからきっと触れていない。彼女の体温を感じないから、ユランはずっと冷たいままだ。どこまでも、果て無く、失くしてゆける。

 生まれてくる子がどんなでも、もし不幸にも生まれる事が出来ず終わっても、どうでも良い。金眼でもそうでなくとも、男児でも女児でも、祝福が落胆に変わっても、それで傷付く人がいても。愛しもしないが憎みもしない、恨みはない、妬みはない、羨ましいとさえ思わない。

 何でもいい。興味がない。

 今更、もう、何も。

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