202.新居へ
静かで平穏な日々だ。かつてならば、嵐の前だと警戒していた様な、平和に浸かって抜け出せなくなる様な時間。それが普通の、当たり前の日常であるのだと知れたのは、嵐がもう過ぎ去った後だからかもしれない。
「ヴィオレット様、私の準備は済みましたが……」
「私も大丈夫よ。迎えは既に下に居るそうだから、行きましょうか」
「本当に、私も行くのですか?」
「勿論。マリンの家にもなるのだから」
「住み込みの使用人、という意味ではそうですね」
「ユランにも一緒に行く事はちゃんと伝えてあるわ」
卒業式本番を目前に控え、ほとんどの生徒が休み期間を満喫している今日。生徒会の引継ぎで忙しそうにしているユランも、漸くひと段落したらしい。先延ばしにしていた邸宅訪問が決定したのは、つい数日前の事だ。
幼い頃から話に聞くだけで訪ねた事のない、ユランの生家。彼の実母はそこに居ないけれど、クグルス邸を訪ねた時と同じタイプの緊張が少しだけ。マリンもいるし、シスイも既に住み着いて仕事をしているそうだから、固くなる必要はないのだけれど。
「ヴィオレット様も行った事は無いんでしたね」
「えぇ。そういう建物があるとは聞いてけれど、ユラン自身あまり興味がなかったみたいで」
ユランが実母と住んでいたのはほんの僅かで、今から行く邸宅に住んでいた期間は更に少ない。ユラン名義であっても、幼い自分達だけで気軽に足を運べる場所でもない為、今回話に出るまでヴィオレットもすっかり忘れていた。
「山奥とまでは行かないけれど、周りは緑に囲まれていて空気が綺麗な所だそうよ」
都市から離れ、買い物するにも移動の方が時間を取る様な場所にある、大きな屋敷。妾と、火種となる妾腹を隠すのに打って付けの立地だ。外界と遠ざかり、いつの間に消えていても誰も気が付かない。実際、ユランの母は影すら残さず消えてしまった。
「マリン達には大変な場所かも知れないけれど」
「私はヴィオレット様の傍を離れませんし、シスイさんは元々距離より食材な方ですから」
「そういえばそうだったわね」
急に姿を消したと思ったら、三日後にふらっと戻ってきた事もあった。聞けば海の先まで香辛料を買いに行っていたのだと。数十分数時間なんて、シスイにとっては三秒とそう変わらないだろう。
「まさか彼まで家を辞めているなんて思わなかったわ」
「……自由人ですからね。彼が何をしても、今更驚きはありません」
「ふふ、そうね。でも……ついて来てくれるとは思っていなかったの」
自分を追って来るのは、マリンくらいだと思っていたのだ。シスイには昔から、何ならマリンよりも長い付き合いではあるけれど、だからこそ情や忠誠で動く人間でない事を知っている。
ユランからヴァーハン家を辞めて家で働く事になったと聞いた時は、まさかあのシスイがと驚いたものだ。その後マリンまで家を辞めユランに再雇用されたと知った時には、驚きを越して思考が停止してしまった。ヴァーハンを辞めた事もそうだし、それを簡単に受け入れて雇用するユランにも。薄々勘付いてはいけれど、自分の周りは吹っ切れてからの行動が早い人ばかりらしい。
「シスイの話をしていたら、久しぶりに彼のチョコレートが食べたくなったわ」
「ご用意していると思います。昼食は向こうで召し上がるんですよね?」
「えぇ。中を見て回るだけでどれくらいかかるのかしら……」
「お庭がとても広い事だけは聞いていますが……」
妾の為とはいえ、王家が用意した邸宅。恐らく、手切れの意味も込めていた事だろう。大人と赤子の二人で暮らすには過剰が過ぎる建築物である事だけは確かだ。
「……なんだか、別の意味で緊張してきたかも知れないわ」
「……私もです」




