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132.個


 幼い頃、朝になれば世界が変わっているんじゃないかって期待していた。色んな事が良い方向に転がって、恐れる物は何もない。誰にも傷付けられず、誰も不幸にならず、優しい世界になっているんじゃないかって。

 そして太陽が昇り、丸まって眠る自分に気が付いて、泣きたくなる。

 世界は変わらないし、変えられない。ただその瞬間を耐えて、耐えて、足元に転がる自分の骸達に知らないふりをする。いつの日か、目覚める事がなくなる日まで。


「おはよう、マリン」


「おはようございます。今日は少し肌寒いですね」


 泣き叫びたくなるような痛みでも、いつかは慣れてしまうものだ。それが繰り返されれば、慣れるまでの期間もどんどん短くなる。そうやっていつか、痛みすら感じなくなる。

 昨日の全てが、夢だったかの様に穏やかな朝。夜は明けるし、雨は上がる。人はそれをまるで希望の様に言うけれど、それは再び訪れる日没を、豪雨を、恐れる時間の始まりだ。


「膝掛をお持ちしますね。必要なさそうでしたら送りの者に預けて頂いて構いませんから」


「ありがとう」


「包帯も交換しませんと。朝食の前になさいますか?」


「後でにするわ」


「畏まりました。もう準備は出来ていますよ」


 昨日の今日で、平然とあの二人の前に座っていられる自信はなかった。マリンもそれを分かっていたのだろう。

 微かに腫れたマリンの目元に、昨日の記憶がコマ送りで再生される。右手を見ると綺麗に巻かれた包帯があって、白い肌をより病的に印象付けていた。痛みはない……ただ感じなくなっているだけかもしれないけれど。昨日は腫れて、血も出ていた。マリンが手当て中ずっと悲痛に歪んだ顔をしていたけれど、見た目ほど酷い怪我ではなかったらしい。骨に異常がない事は確認してもらった。


(……うん、動く)


 何度か握って開いてを繰り返してみたが、特に問題はなさそうだ。学生の身分で一日酷使された後はどうなっているか分からないけれど。

 マリンは傷が残らないか気にしていたが、ヴィオレットにとっては今更な話だ。成長と共に消えていったが、少年だったヴィオレットにはいくつもの傷があった。活発だったらしいオールドの幼少期と同じ様に過ごし、同じ傷を作り上げ、同じ様に治癒していったのだから。時には母の爪が食い込んで血を流した事もあった。オールドとの僅かな差異にも神経質だったくせに、自分が付けた傷には嬉しそうに笑う、そんな人だったから。

 蝶よ花よと育てられた箱入り娘ではない。箱に押し込まれただけの人形だ。飽きられたから捨てられて、別の人の元に渡る。必要とされる事は、喜ばしい事なのだろう──ただの人形であったなら。


 ヴィオレットは人間だ。残念な事に、多くの人が、それに気が付いていないけれど。


(どうすればいい?)


 少なくとも後一年、この家で過ごさなければならない。エレファが自分にどういった感情を抱いているのかは、何となく理解出来た。ただ、何を望んでいるのかが分からない。今のヴィオレットはただの父親似の娘でしかなく、似てはいても生き写しからは遠ざかり、もう近付く事はないだろう。

 そもそも、エレファがそれをヴィオレットに望む必要はない。ベルローズの時とは違って、エレファはそもそもオールド本人に愛されている。わざわざ愛する男と別の女との間に生まれた子を、似ているレベルの偽物にするメリットがどこにあるというのか。

 人形であった頃と同じだとしても、切れた糸が元に戻る訳ではない。新しく繋がれたとして、その先に求められる物は何だ。


 なんであっても、エレファが望んだなら、オールドは当然の様にヴィオレットを差し出すはずだ。

 そうなってしまえばもう──この家から己を断ち切る方法は失われる。


(……頭が重い)


 圧し掛かる何かで、思考が遮られる。どうすれば良いのか、考えようとする度に鈍い痛みで邪魔をする。まるで全部が無駄だとでも言いたげに、諦めろと、積み重なった経験達が叫んでいる。聞いてはダメだと分かっているのに、もう足が動かない。耳を塞ごうにも、腕を持ち上げるのすら億劫で。


 輪郭が滲んでいく。ゆっくりと、溶けていく。

 水に沈む氷の様に、何かが、形を失っていく気がした。

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