129.再燃
「さぁ入って。好きなと所に座ってね」
「はい……」
歓迎の笑顔にぎこちなく頷いて、重い足取りで扉をくぐる。パーラーとして割り振られたそこは、ヴィオレットが実母と生活していた頃とそう変化はない。飾られている写真が家族三人の物になったくらいだろう。それも以前はオールドの幼少期の写真がおびただしい数飾られていたのだけれど。
授業を終えて、すぐに帰宅した。ロゼットにはお昼に予定が出来た事を伝えたが、相当酷い顔をしていたのか、何度も大丈夫なのかと心配をさせてしまった。あの時はエレファの事以上にユランの事で落ち込んでいたけれど、今はもうこの空間が恐ろしくて仕方がない。
出来るだけ扉に近い位置のソファに座って、綺麗にセッティングされたテーブルの上を見る。運ばれてきたお菓子も、お茶も、きっと素晴らしい物なはずで、きっととても美味しくて。部屋で一人だったなら、笑顔で手を伸ばせたはずのそれが、今は一つも喉を通る気がしなかった。
「沢山あるから遠慮しないでね」
「ありがとうございます」
黙ってジッとしている訳にはいかないので、とりあえず手近なカップを手に取った。赤みが強くて、フルーティーな香りが漂っている。ホットミルクか甘いミルクティーが多いヴィオレットにはあまり馴染みの無いお茶だった。ベリー系のフルーツティーだろうか、恐らくエレファのお気に入りなのだろう。
ニコニコしながらこちらを見ているエレファの手前、誤魔化す様に何度もカップを口に運んだ。甘酸っぱいような口当たりで、不味くも苦くもない。ただ好きかと言われれば、好みではなかったけれど。
(ホットミルクが飲みたい……)
マリンの入れた蜂蜜たっぷりのホットミルクが恋しい。豪華な銘菓が目の前にこんなに沢山あるのに、ヴィオレットにとっての一番はマリンが持ってきてくれるシスイ手作りの甘味達だった。彼だって腕の良い料理人なのだから劣らないのは当然かもしれないけれど、菓子職人としてはヴィオレットに作り始めてからなので、本人曰く歴は浅いらしい。
(早く、終わらないかな……)
制服から着替えに部屋に戻った時の、マリンの泣きそうな顔を思い出す。行かないで欲しいと言いたげな、でも口に出せず苦しんでいる姿。出来るだけ笑顔で、なんて事の無い様に務めてはいたが、きっと自分も酷い顔をしていた。
警戒しようにも、何をどうしたらいいのかが分からない。
例えばこれが父相手なら、攻撃される事が分かっているし反論したら火に油、何を言っても曲解されて結局はあの男の信じた事が事実になる。メアリージュンだったなら、相手に悪気はない、悪気がないのが厄介ではあるが、攻撃としての言葉でない事だけは分かる。二人とも、こちらが黙って望む通りの答えを言えばそれで治まる。心を殺して合わせればそれで、後は時間が拘束を少しずつ解いてくれる。
でも、この人は違う。時間を掛ければ掛けるほど、長く共にいればいるほど、ゆっくりと拘束されていっている気がして。気が付いたら、手枷足枷と共に牢の中にいた、なんて事になりかねないくらい。何も感じない、感じない事が恐ろしい。悪意があればすぐに気が付けるはずなのに、それすら、彼女には見出せない。
関係性を考えれば、嫌われていて当然だ。正直、オールドの様に分かりやすく嫌ってくれていた方がずっと納得が出来る。今までは、オールドと違ってエレファは無関心なタイプなのだと、勝手に理解した気になっていた。
それが突然、全速力で距離を詰められた。輪郭がぼんやり見えるくらいに離れていた相手が、急に触れられる場所まで近付いてきて。同時に、彼女から向けられる物が、美しい好意ではない事まで認識出来てしまった。
この人は、いったい何を──
「──私ね」
「ッ……」
「ずっと、こうしてあなたに会いたかったの」
そう言って立ち上がったエレファが、悠々とした足取りでヴィオレットの隣に腰を下ろした。元々二人が座ってもまだ余裕のある大きさだから、狭いとか窮屈に感じる事はない。ただそれでも、対面していた頃よりもずっと近い、小指同士が触れる距離で、どこまでも無垢で純然な笑顔がヴィオレットの瞳に映っている。
「本当は、ずっとこうして話したかったわ。でも彼、オールドは私やメアリーがあなたの傍に行く事をとても嫌うの……折角、こんなに近くにいるっていうのに」
ヴィオレットが後退ったても、それ以上の距離が詰められる。ヴィオレットの背中が肘掛けにぶつかってしまえば、もう離れる術を持たない。
ヴィオレットの頬に、白魚の様な手が伸びる。滑らかで、白くて美しくて、ゾッとするほどに冷たい。何度も何度も、頬の輪郭をなぞる。指の腹が顎に掛かって、逸らそうとした顔を許さないとばかりに抑え付けた。
「あぁ──やっぱり」
うっとりとした、碧い目。溶けた金属を思わせる、どろりとした視線がかち合って、朝に見えた熾火が再燃しているのが見えた。もしかしたら再燃なんかじゃなくて、初めから大きく燃えていたのかもしれないけれど。
もう片方の手が、ヴィオレットの瞼を撫でた。まるで宝物を触るかの様に、宝石の表面を確かめる様に。
ずっとずっと、彼女は笑っている。楽しそうに、優しく、子供の様な純粋さで。甘く甘く甘く、噎せ返りそうな女の香りを纏って、嬉しくてたまらないと言った、恍惚さで。聖母の仮面の下、ある日の影を見た。
同時に理解した、何故自分とマリンが、あんなにもこの人を恐れたのか。
「彼に、よく似ているわ」
──この人が、あの日々の悪夢と同じだったからだ。




