103.貴方の隣に帰ります
すっきりしたというには、喪失感の方が大きい気がする。それだけの面積を占める感情で、記憶だったという事だろう。寂しい訳ではないし、後悔も無いけれど、やっぱり彼の存在は愛とはかけ離れた場所で特別だったから。
「遅くまですまなかったな。迎えは大丈夫か?」
「はい、いつもこのくらいまで残っていますから」
まだ残るらしいクローディアを置いて、暗くなる前にと帰宅を促されたヴィオレットは先に生徒会室を出る事になった。玄関口まで送るとの申し出を断って、いつになく軽く和やかな雰囲気に違和感と同じだけくすぐったい気になる。
終わったと言っても、この先自分達の関係性がどうなるのかはまだまだ未定……疑問しか無い。元々が特殊だったからか、今更真っ当に変化しようにもどう始めて良いものやら、お互いに触れない様にしている。友人というほど近くも無いが、だからと言って今日から赤の他人ですというには関わり過ぎた。前までの二人なら、きっとそうなるのが自然であったはずなのに。一方的に交流を望んでいた頃よりも、距離を保とうとした今の方が名付けるに困るとは。
「……これは命令ではないし、お願いとも違う。ヴィオレットに選択権があると理解した上で聞いて欲しいのだが」
歯切れの悪い言葉選びと、気不味げに逸らされた視線に、ヴィオレットは首を傾げた。基本的にはっきりとした物言いをするクローディアが、ここまでの前置きまでしている事に疑問だけが浮かぶ。
その視線に観念したのか……腹を決めたのか、一度の深い呼吸の後でしっかりとヴィオレットに視線を合わせて口を開く。
「ヴィオレットさえ良ければ、生徒会に入らないか」
「…………え?」
「仕事の速さと正確さは、何度か手伝ってもらって分かっている。人格的にも信頼しているし、家柄に煩い者達も君なら文句は言えないだろう」
並んだいくつもの勧誘理由は、確かにどれも正当で筋も通っている。クローディアとしても、嘘を吐いているつもりは無い。ただ目に見えて戸惑うヴィオレットには、どれも受け入れ難い物らしかった。彼女の自己評価の低さが原因であるのは瞭然で、同時に、クローディアもまだ言っていない事がある。
初めてヴィオレットをこの部屋に招き、共に仕事をした日から、考えていた事。
「それに生徒会の仕事なら……帰宅時間が遅くなっても、問題はないだろう」
「っ……!」
自宅に何かしらの居心地の悪さを感じている事は、以前から気付いていた。楽しそうとは言い難い表情でぼんやりしている所を見かけた事だって……ヴィオレットに新しい家族が増えた頃から、何度となく目撃した。
中身を確認した訳ではないから、本当の所は分からない。継母と異母妹、それがヴァーハンの家にどんな影響を与えたのかも。ただ一人で、家にも帰らず誰かと話す事もなく、風に揺られる花の中に溶け込む姿は消えていきそうで。
何か紛れる理由と手段はないのか、考えた時に思い付いた。ヴィオレットの為なんて綺麗事ではなく、クローディアの方にも利益がある、需要と供給の話。施しの様な気持ちで手を差し伸べられるだけの理解なんて、二人の間には無いのだから。
「勿論、責任の伴う仕事だ。拘束時間も長いし仕事量も今日の比ではないだろう。俺達は助かるが、逆に与えられる物はほとんど無い」
「…………」
「だから、今すぐに返事を貰えなくていい。いつまでも、とはいかないが、充分に考えて決めてくれ」
「は、はい……」
まだ混乱しているらしいヴィオレットは、どこか舌足らずな返事で視線を彷徨わせていた。自分のせいだと分かっているクローディアにはどうする事も出来ないが、拒絶反応を示していない事には幾分か安心する。これまでと、今日を思えば、ここで綺麗な文面の断りを入れられても文句は言えなかったから。
「では、気を付けて」
「クローディア様も……ご無理を、なされませんよう」
ヴィオレットからの労いに苦い笑みを返して、再び生徒会室に戻るクローディアを見て、まだまだ仕事が山積みらしい事が想像出来た。無理をしたくなくとも、それを叶えられる手が足りないらしい。だからこそヴィオレットを誘ったのだから当然と言われればそれまでだけれど。
(生徒会……)
昔の自分だったなら、喜んで頷いていた事だろう。仕事である事も理解せず、その価値があると言われただけで全てが許された気になって。いとも容易く調子付く己の所業が想像出来てしまう。
今ならば、そんな簡単な話でない事が理解出来る。疲れた様子の彼に、たった二人で回すには多過ぎる仕事量に、減った様子が見受けられない紙の束に。それを少しでも助けられるなら、猫の手程度の力にでもなれるなら、今までの迷惑を掛けた分も受けるべきなのではないのか。
(……でも、なぁ)
迷惑を掛けた事は反省しているし、家に帰らないでいい大義名分も魅力的だ。他ならぬクローディアがヴィオレットでいいと言っているのなら、能力の既定値は備わっているのだろう。正義感や同情心に釣られやすい性格ではあるけれど、それだけで重要な役員を決めるほど愚かではない。
相互利益のある話である事も、分かっているのだけれど、それでも頷けない理由は──。
「──おかえり」
窓枠に腰を掛けて、こちらを見る目。微笑に細まって、縁取る睫毛が影を作っていた。綺麗で、可愛くて、優しくて柔らかい。人の笑顔は安心するのだと、教えてくれたのは彼だった気がする。笑っていても泣いていても怒っていても、人は全部全部恐ろしいと思っていたから。
「あれ……おかえりはちょっと違うかな?」
「いいえ、あってるわ」
どこに居ても、誰と居ても、ここに帰りたいと思う。
そこが、自分の居場所だと、思う。
「ただいま、ユラン」
君と一緒にいたいから、なんて。
そんな理由で断ったら、彼はまた、笑ってくれるだろうか。




