第153話 幻魔は勇者を襲います
「……おかしいな」
鬱蒼とした森の中、周囲を見回したセシルが呟いた。
「どうかしたか?」
数歩遅れてついて行くココも周りを見回してみる。
「特に変わった様子はないけど」
「パッと見はな」
二人の周りでは深い針葉樹林の中、木々の間を兵士たちが移動している。
日の光が届きにくいせいか下生えの雑草類はほとんど育っておらず、深い森のわりに歩きやすかった。その代わりに地形は低い丘の連続らしく、さっきからずっと緩やかな傾斜を上ったり下ったりが続いている。
見通しが悪いので遠くの様子は分からない。
薄暗い森の奥をセシルが睨む。
「この森でこの時間に、こんな霧のようなものが出てくるはずが無いんだ」
言われてよく見れば、次第に白い靄の密度が増している気がする。
「森で霧がかかるのは良くあることじゃないのか?」
「夜や明け方は確かにそうだ。だがおまえ、昼飯をいつ食った?」
「……ついさっき」
セシルが剣の柄を握りしめた。
「ここも一応国内だ。この付近に視察で来たこともある。だから断言できるが、自然現象でこれは無い」
王子の言葉を聞いて、ナバロが伝令兵に叫んだ。
「各隊に通達! 警戒をさせろ!」
「了か……うわっ!?」
騎兵の返事が終わらないうちに、一気に津波のような白い靄が押し寄せる。
あっという間に充満した靄で周囲が白く染め上げられ、三歩より先の景色が乳白色の空気に隠れてしまう。
かろうじてココから顔が見えるセシルの横顔が、焦燥に歪んでいた。
「判断が遅かったか……」
「今の位置を動くな! 陣形が崩れたら中に入りこまれるぞ! 隣の兵と肩を寄せて方陣を組め!」
天候の急変に驚き戸惑う兵たちに、指揮官の指示が飛ぶ。慌てて密集陣形を組みなおすが、待つほどもなくそれが現れた。
ヒョオオォォォォオオオッ!
洞穴を吹き抜ける風のような、甲高い妙な音。
背筋が寒くなるような、異様な何かが駆け寄ってくるような……。
風切り音みたいな怪音を立て、霧を裂いて幽鬼が現れた。
ほとんど視界が効かない中、急に間近に出現して前衛に襲いかかる。
「うわっ!?」
盾を構えた最前列の兵が悲鳴を上げた。
いきなり目の前に現れた化け物は、鋭い斬撃を一太刀浴びせて靄に消えた。兵がかろうじて持ち上げた盾が剣先で激しく叩かれ、きしんだ音を立てる。
霧の向こうから、次々と同様の悲鳴が響いてきた。付近に広がっていた他の隊も襲われている。中にはやられた者もあるに違いない。
反撃しようとして剣を抜いた騎士がうろたえて叫ぶ。
「敵が……見えない!」
濃い霧と空を飛ぶような素早さのおかげで、相手がどのような魔物か、まともに姿さえ視認できない。
ココたちはとにかく受け身で盾を並べた中に籠るしかないが、不意を突かれるばかりで何度も切り崩されそうになった。
「隣の部隊さえどうなったか分からない……まずいな、指示が行き届かないから損害が大きくなるぞ」
セシルが焦るが、そう思ってもどうにもならない。
とにかく今をやり過ごさねば……そう思ったところへ。
『おーい! おーい!』
人間の呼び声にハッと見れば、別の部隊が隊列を組んでこちらへ向かってくるところだった。見覚えのある軍装の一団が、手を振っている。
「おおっ、友軍だ!」
歩兵を指揮していた騎士がホッとした顔で振り返った。
「殿下、心配した連中が危険を押して……」
「バカッ、よく見ろ!」
逆にセシルの顔色が悪くなっている。
「ラカント王国の兵は主力部隊に参加していない! この場にいる筈がない!」
皆が「あっ!」という顔になった途端、接近していた友軍兵の姿が滲んで幽鬼の群れになり、風のように斬りかかってきた……。
かろうじて陣中になだれ込まれるのは防いだが、押し返した兵たちに勢いはない。
「考えてみれば、あの距離から歩いてくる姿がこの霧で見える筈がない……」
ナバロが呻いた。
風のように襲ってくるだけでなく、友軍の幻影まで見せるとは……。
今のはたまたまセシルが見破り、直前に気が付いた。
だが、もし本隊に参加している五か国の兵の姿で来られたら……。
青くなる側近に、王子が別の問題も指摘した。
「それだけじゃないぞ。同じことが他の部隊でも起きているかもしれない」
セシルも焦燥感を隠しようもない。
今ここでそれを心配しても、各隊に注意のしようもないのだ。
動揺する兵に向かってセシルが叫ぶ。
「落ち着け! どちらにしてもこの襲撃を耐えなければ友軍と連携しようもない! 平常心を保て!」
横でセシルの尻をいやらしく撫でるゴブリンも頷く。
「ギャッ! ギャッ! (そうだ、平常心! 平常心だ! 普段と変わらない冷静さが大事だ!)」
「そういうおまえはどさくさ紛れに何をやっている!?」
「ギャギャッ! (気づくのにずいぶん時間がかかったな。おまえも平常心を保て。周りが見えなくなるぞ?)」
ココに通訳されて、言い返せず悶絶しているセシル。かなり悔しそうだ。
「ゴブさんは落ち着いているな。どう思う?」
ココがいつも通りのゴブリンに聞くと、ゴブリンは油断なく周囲を見回す騎士団長の尻を撫でながらこっくり頷く。
「ギャッ! ギャギャギャ! (若い弾力のある尻もいいが、ベテランの巌のような尻も捨てがたいな。どちらを選ぶと聞かれても難しいぞ)」
「そいつは私より同好の士が集まった時にでも語ってくれ」
敵襲について聞かれると、ゴブリンはあまり興味無さそうだった。
「ギャッ! (姿は見えないけど、どうせゴブリンだしな)」
「……この攻撃がゴブリンによるもの?」
「ギャ! ギャ! (臭いがゴブリン。時々まとまって来る)」
ゴブリンに言われて、ココは目よりも耳を意識して警戒してみる。
怪音。
接近する気配。
剣戟の音。
逃げ去る足音。
「ホントだ! 眼で見える幽鬼の姿と剣が当たる音に時間差がある!」
「なんだと!?」
セシルも同じようにした。
「……さっぱりわからん」
「うーん、修羅場をくぐった数が少ないおぼっちゃまには分かんないかな」
だが、今のゴブリンの話はヒントになった。
頭で考える事ならば、知能犯セシルは得意だ。
「このおかしな状況は、あくまで視覚だけをごまかしているということか。我々に幻覚を見せておいて、実際には夜襲と同じようにゴブリンが一撃離脱をしている……ならばこちらにも出せる手がある!」
セシルは方陣を組む兵士たちに指示を出した。
「第二列はこれを装備して第一列と一斉に替われ! いいか? 一気に交代だぞ!?」
◆
幻魔グラーダが作り出す大規模な幻覚に合わせ、ゴブリンたちはあちこちから人間軍の防衛陣に走り寄って短剣で斬りつける。
普通なら長剣を装備する軍隊にそんな無造作なことをすれば自殺行為だが、今は目くらましで直前までバレない。ゴブリンの連続攻撃で崩れるところがあれば、そこから一気になだれ込む手はずになっている。
……なっていた。
走り寄せる目の前で、陣を守っていた盾兵が一斉に後ろの者と替わった。
どうやら疲弊した守備を予備と替えたらしい。
持久戦の様相を見せているので、今のうちに疲れていない兵に交代させるのも確かに手だ。
だが、代わりに未経験の者は勝手がわからず隙も多い。
これは突き崩す好機かも知れない。
ゴブリンたちは間近まで押し寄せ、剣を振りかぶって……急ブレーキをかけた。
「ギャッ!? ギャギャッ! (うっそ!? すげえ、ニューバージョンだ!)」
「ギャッ!? ギャギギャ!? (マジ!? 見たい! 見たい!)」
ゴブリンたちは戦いを忘れ、第二陣の盾に張り付けられたシスター・ステイシーの姿絵に群がった。
◆
「ゴブリンはあらかた退治したかな?」
「“ブレマートンの聖女様”の威力は大したものですな……ゴブリンども、みんな集まって来ちまったみたいですぞ。もう後が全然来ない」
急に静かになった戦場で、警戒の目を飛ばしつつも一息ついたセシル達。
ココは別の意味で脱力しながら、“霊験あらたか”な肖像画を横目で眺めた。
魔王軍相手に二度も活躍しちゃ、もう確定かなあ……。
“聖女”の肩書を盗られそう。
(いや、別にやりたいわけじゃないんだけど……)
確かに誰かに譲りたかったんだけど……。
でも散々苦労してから、他人に美味しいところだけ横から攫われるの……。
しかも肖像画だけで、本人は現場にも来てないのに。
「なんか、納得いかないよなー……」
お株を奪われた“ゴートランドの聖女様”はため息をついた。
気が緩みかける周囲と逆に、セシルは表情を険しくして注意を促した。
「おい、油断するな! このおかしな霧がまだ残っている。術をかけている奴はまだやる気だぞ!」
「あっ……!」
そう。
濃密な霧はまだ全然晴れていない。
王子に言われ、騎士たちが慌てて兵に陣形を再度組み直させ始める。
ココも自分で頬を叩き、気を引き締めて周囲に気配に気を配ることにした。
『ココ……』
「ん?」
ココは懐かしい声を聴いた気がして、敵への警戒と別の目で周りを見回した。
「今、変な声が聞こえたような……」
『ココ……!』
今度ははっきり聞こえた。
その証拠にココだけじゃなくて、周りの人間も不審げにキョロキョロし始めている。
『ココ……!』
声に誘われて聞こえる方向を見る。
ココたちの目に飛び込んできたのは、一人の女性の姿。
『ココ……!』
靄の中に立つ、細身の女。
癖のない銀髪を腰まで流し、靄の中に今にも溶けて無くなりそうな……そんな儚げな雰囲気の美しい女性。
その容姿は、まるでココが大人になったような……。
「……母ちゃん?」
ココは目を見張り、棒立ちになった。




