4「決行は明日の夜」
エリクスさんの部屋に放り込んでしまった靴を、せっせと回収して靴箱に戻す。こんな姿をエリクスさんに見られてしまう前に証拠隠滅して、上手いこと取り繕って報告をしたいところである――
「あれ、僕の部屋で何してるの?」
「ギャーッ!」
――直後、何の気配もなく背後から声がして、思わず私は持っていたサンダルを放り投げて悲鳴を上げた。
「おっと、危ない」
エリクスさんはサンダルを空中で素早く捕まえると、そのまま腰に手を当てて首を傾げる。私は中腰で振り返り、首を竦めた。言葉が咄嗟に出てこず、無言で口をぱくぱくさせる。
「お……おかえり、なさい」
「ん」
ややあってようやく絞り出した言葉に、エリクスさんは軽く頷くだけで応じた。
どうやら激しい風に揉まれたらしい、いつもより髪が乱れ、服も幾分かよれっとしたエリクスさんが、身を屈めて私と目の高さを合わせた。
「何があった? さっき階段ですれ違ったご近所さんから、いきなり『奥さんに可愛い靴を買ってあげてね』って言われたんだけど」
「うぐ……」
私は反対のサンダルを握りしめて呻いた。その様子に、どうも嫌な予感がしたらしい。エリクスさんはすっと目を眇める。
「……何をされた?」
「えっと……」
「目を逸らさない。僕の目を見ろ」
剣呑さを増したエリクスさんの声音に、私はこわごわ顔を上げ、それから長い沈黙を挟んでから口を開いた。
「――それで、何とか言い訳しようとしたら、僕が妻の靴を隠すタイプのとんでもない束縛夫になってしまった、と」
「ごめんなさい……」
私はしょんぼりと肩を落としながら項垂れた。エリクスさんは何とも言えない顔である。呆れと安堵と困惑の入り交じった目が向けられる。
「そうだね、……とりあえず、君に危険なことがなくて良かったよ」
エリクスさんは長い息を吐きながらそう言った。「あんなに血相を変えて僕の部屋を漁っているものだから、てっきり脅されたか操られているか……何か異変でもあったんじゃないかと思った」と胸を撫で下ろす。漁っていた訳ではないのだが、口答えできる立場ではない。私は更に小さくなって肩をすぼめた。
エリクスさんは腕を組んで、実に気楽な口調で呟く。
「まあ、そう思われてしまったなら、今後から僕がそう振る舞えば良いだけの話だ」
「お?」
予想だにしなかった反応に、私は思わず呆気に取られて口を開けた。てっきり怒られると思ったのに、いやにあっさり、しかも快諾である。不思議な顔で見上げていると、エリクスさんは軽く肩を竦めた。
「少なくともターゲットは既に僕をそういう夫だと認識しているだろうから、今更だよ」
「そうなんですか?」
「結構僕は分かりやすく牽制をかけているつもりなんだけどな……?」
不思議そうな顔をするのはエリクスさんも同じである。私たちはお互いに怪訝な表情のまま顔を見合わせ、それから「まあそれは良いとして」と話を置くことにした。
「新しい加護なんだけど、あれは女王陛下から直接頂く都合上、すぐに用意できるものではないと言われてしまった。少なくともこの任務中には間に合わないそうだ。だからとりあえず、やむを得ずターゲットに接触する場合は僕の加護を一旦貸し出すことにするよ」
言いながら、エリクスさんは片手を挙げる。中指に嵌まっている指輪を示して、「あとでサイズを調整できないか試してみようかな」と手を下ろした。
「それと、君の持っていた加護の方だけど、簡単な解析結果が出た」
エリクスさんが鞄の中から折りたたんだ紙を出す。私はそれを受け取って、数行の走り書きに目を落とす。そこには細々としたメモや、よく分からない数値などが並んでいる。首を傾げた私に、エリクスさんは淡々とした口調で告げる。
「予想通り、あの石には精神に作用する異能を防いだ形跡が残っていた。しかしそれは、あの石にかけられた負荷の中では、それほど大きな割合を占めない」
私は眉をひそめる。
「……それ以外の異能が、私に向けられていたということですか?」
「その通りだ」
重々しい口調で頷いたエリクスさんに、私は慎重に「一体どういう異能が?」と問う。エリクスさんはしばらく沈黙し、ややあって「分からない」とだけ答えた。
「分からない?」
私は思わず紙を置いてエリクスさんを直視した。彼は難しい表情で私を見返してくる。
「少なくとも、これまでに確認されたことのない異能だと解析班は言っていた」
「み、未確認の異能……」
あまりにも想定外の言葉に、私は呆気に取られた。しかしエリクスさんの顔は真剣そのもので、とても冗談を言っているようには見えない。
「系統としては、恐らく精神系ではなく、実際に周囲に干渉する現象系だそうだ。でもターゲットと接触している間に妙な現象はなかったんだよね?」
「は、はい。もちろん、酒に酔っていて感覚が鈍っていた可能性はありますが……私は何も気づきませんでした」
「そうか」
エリクスさんは腕を組んで嘆息する。私も眉根を寄せ、この状況について考える。とはいえ、考えたって、私は異能の専門家でも何でもない。詮無いことだ、と項垂れて、私は息をついた。
「……一つ確認しておきたいことがある」
エリクスさんは一言、短く問う。
「正直に言って欲しいんだけれど、――君は、本当に、異能は持っていない?」
突然の言葉に、私は目を瞬いた。……私が? たっぷり三秒は考えたが、思い当たる節は全くない。私はこくりと頷く。
「はい、……私には異能なんて、」
「そうか。分かった」
エリクスさんはあっさりと頷き、「厄介な事態だな」と呟いた。
「近辺に他の異能者がいるかもしれなくて、おまけにその異能が未知で感知しづらいときた」
その言葉に、思わず私も気弱に眦を下げてしまう。い、いや、不安がっては駄目だ。私は一度頭を振ってから、彼に向き直る。
「……でも、もう祝祭まで時間はありません。今週末のお祭りで、相手は何かを仕掛けるんですよね?」
「向こうの通信を傍受した解析班によれば、その通りだ」
頷いたエリクスさんに、私は身を乗り出して告げる。
「それなら、多少の危険を冒してでも調査を続行すべきです。私たちが証拠を掴まなければ、たくさんの罪のない人がテロリストの被害を受けることになる。そんなの許せません」
言いつつ、私は回覧板を取り出してエリクスさんの前に置いた。挟まれている紙のうちの一枚を手に取り、「これです」と指を指す。
「どうもこの近辺の住人で、祝祭にて特設されるステージで演劇をするみたいなんです。ターゲットもこれに参加するとかで、明日の夜にある練習に出席するとか。……つまり明日の夜、練習をしている間は、ターゲットは屋敷にいないことになります」
エリクスさんは目を眇めた。
「その機を狙って、屋敷を捜索しようと?」
「はい。ターゲットが本当に練習に参加しているのを確認でき次第、屋敷に入って探索を」
私が頷くと、エリクスさんは「ふむ」と声を漏らして顎に手を当てた。その目が文面を行き来する。しばらく思案した後、「悪くはないね」と頷いた。
「少しリスクはあるけれど……祝祭まで時間がないことを考えても、良い案だと思う」
「本当ですか!?」
エリクスさんに言われて、私はぱっと顔を輝かせた。一笑に付して却下されることも考えていたのである。
勢い込んで私は拳を握る。
「どうしますか? 私がターゲットを足止めして、エリクスさんに侵入してもらうか……あ、でも屋敷内の構造は私の方が分かっているから、」
「いや。この先、僕たちは二手に分かれない方が良い。未知の異能者がどこに潜んでいるか分からない以上、離ればなれになるのは危険だ」
エリクスさんは首を振り、重いため息をついた。
「しかも、今の僕たちには異能に対する加護が一つしかない。一つの加護で二人分を守るためには、どちらかが加護を所持して、常に一定の範囲内にいるしか手段はないんだ」
「お?」
雲行きが何だか不思議な方向に動き始めた。……この先。新しい加護を支給されるまで、私たちはずっと一緒にいなければならない、と?
(役得…………だ、駄目駄目! なんてこと考えているのよ、任務中だっていうのに! こんなんじゃエリクスさんに怒られちゃう)
浮かびかけた言葉を慌てて振り払って、私はぶんぶんと首を振る。向かいのエリクスさん不思議そうな顔だ。
「じゃあ、決行は明日の夜ということで、……それまでどうしますか? 今日の午後と明日の昼間……」
「何もしないで過ごすのは気が引ける、ということかな?」
「そうです」
少し項垂れながら頷いた私に、エリクスさんは「そうだなぁ」と首を傾げる。少しの間斜め上を見上げてから、彼は人差し指を立てた。
「今日は天気も悪いし、外出はやめておこうか」
言われて外を見てみれば、先程までそれほどでもなかった雨脚が随分と強くなっている。風も激しい横殴りだ。確かにこれで外出は厳しい。ばつが悪くて、私は少し首を竦めた。
エリクスさんは指を立てたままにこりと目を細めた。
「だから明日、買い物がてら祝祭の下見にでも行ってくるのは、どうかな?」
「下見?」
私は目を瞬く。エリクスさんは軽く頷いた。
「そう。どうもあの屋敷はここから見張っていても動きはなさそうだし」
窓の方を一瞥してから、彼は人差し指を振る。
「恐らく相手は祝祭で人が集まっているところを襲撃するはずだ。狙われそうなところを実際に歩いて構造を把握しておいた方が、いざ証拠を見つけたときに目的が理解しやすいかもしれない。土地勘ばっかりは、地図を見てもどうしようもないものだからね」
「なるほど。勉強になります……」
メモを取り出した私に、エリクスさんが「真面目だねぇ」と苦笑する。
腕組みを解いて頬杖をついたエリクスさんが、ふっと息を漏らした。
「――まあ、初任務っていうのは、成功しても失敗しても、そのあとにずっと残り続けるものだからね、」
どこか含みのある口調に、私はメモを取る手を止めて顔を上げた。怪訝そうな顔を向けると、彼は「ああいや、気にしないで。こっちの話」とひらひら手を振って誤魔化した。けれど、私だってそんな雑な言い分で誤魔化されるはずもない。
私はおずおずと口を開いた。
「エリクスさんの初任務は、どういう内容だったんですか?」
彼は無言で微笑んだ。
「……その話はまた今度にしようか」
エリクスさんはそう言うだけで、私の問いに答えてくれることはなかった。それでも何故か言葉を止めることができず、私は追って質問を投げかけてしまう。
「成功しましたか? それとも、その……」
彼はしばらく沈黙した。その唇は弧を描いたままだった。しかし、双眸だけが、鋭く眇められる。びくりと肩を跳ねさせた私に、彼は静かに笑みを深めた。
「――僕は間に合わなかった。それだけの話だよ」
***
私は、燃えさかる村を前に、呆然と立ち尽くしていた。これは夢だ、とすぐに分かったが、さりとて逃げる方法があるでもない。私は身動きができなかった。炎は目に眩しいほどに揺らめいているのに、何故かちっとも気にならないのだ。それよりも気になることはたくさんあった。
お父さんがいない。お母さんがいない。弟の姿も見当たらない。私は半泣きになりながら、潤む両目で必死に瞬きを繰り返し、村の中を恐る恐る歩き始めた。
ユティニアの村は、もはや見る影もなく崩壊していた。みんな逃げてしまったのだろうか。見つけられない。誰も、どこにもいない。逃げ遅れている人だっていない。倒れている人もいない。見つけられない。見つけられない。
私は誰にも見つけてもらえない。
全身が氷のように冷たくなっていた。周囲で家々を飲み込む炎とは対照的に、私ばかりが冷たかった。冷たい。痛いほどに冷たいのだ。
泣き声が喉元までせり上がったが、ついぞそれは音の形を取らなかった。腹の底で感情がゆらゆらと渦巻く。私はこの感情を外に出す術を知らない。私は激情に体を乗せられない。
これは夢だ。これは夢なのだ。それも、とびきり悪い夢だった。
――だれか。言葉ばかりが口からこぼれ落ちる。どうか、だれか、私を……
ひびの入った窓ガラスに、私の顔がちらと映り込んだ。私はそれを一瞥する。瞬きをして、一瞬のうちに見開かれた双眸は、いやに鮮烈な青色をしていた。深い色だ。
それはまるで、凍った湖の水底のような、……頑なに閉ざされた氷層の下の、途方もなく広い湖底のような、
これが夢だろうと現だろうと構わない。私はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。
――私を、見つけて。




