真夜中の偽夫婦
真っ赤な顔で黙々と食事を頬張る。向かいで頬杖をついているエリクスさんの視線が突き刺さってくる。
「それにしても、酔っていてもきちんと演技を続けられるのは流石だね」
「んぐっ!?」
まじまじと私を眺めながら、エリクスさんは感心したように呟いた。私は思わず鶏肉を喉に詰まらせかける。慌てて飲み下す。
「いや、帰ってきてすぐに寝たことからしても相当酒が入っていたとは思うんだけど、それでもちゃんと新婚夫婦のふりができるのは凄いことだよ」
私はまだ新しい心の生傷をほじくり返して、記憶を反芻する。私、何をしたっけ……。
(……演技……してたっけ……?)
突如浮上した疑惑に、私は渋い顔をした。
(何ならあれが素……もしかして私、あれが本性……?)
恐ろしい結論が頭に浮かびかけて、私は慌ててぶんぶんと首を振る。不思議そうな顔のエリクスさんに「それほどでもないですよ」と引きつった笑みを向け、私は小さく息をついた。
それからしばらく私が食事を続けている横で、エリクスさんは書類に目を通しているらしかった。ちらと横目で窺うと、恐らく任務に関する書類らしい。
「……ごちそうさまでした。おいしかったです」
私はそっと食器を置きながら、控えめな声で告げた。皿を重ねて台所に持って行く。エリクスさんが食事に使った分の食器は、既に籠の中で伏せられていた。
(今のうちに食器洗っちゃうか)
そう思って水道に手を伸ばした私に、エリクスさんから声がかけられる。
「食器は明日にでも僕が洗っておくから、一旦こっちに来てくれるかな。言っておきたいことがある」
その言葉に、私は目を瞬いてエリクスさんを振り返った。エリクスさんはいやに真剣な顔で私に手招きしている。私はゆっくりと息を飲み、背筋を強ばらせた。
私がおずおずと向かいの椅子に腰掛けると、エリクスさんは「これなんだけど」とおもむろに何かを取り出して、私の前に置いた。それをまじまじと見下ろして、私は目を丸くする。咄嗟に胸元に手をやると、そこには硬い感触がない。じゃあ目の前に置かれているのがそれである。
「これ、私がつけている、異能封じの加護……」
私は常に、小さな透明の石がついているペンダントを下げている。これは異能持ちではない特別部隊員のために女王陛下から特別に賜った代物である。初任務と同時に支給されたもので、非常に貴重かつ重要なものだった。
見覚えのあるそれと同じ形のものが、私の目の前に置かれている。しかし、
「……石が、黒くなっている……?」
愕然と呟いた私に、エリクスさんは「その通り」と短く首肯した。
「君が帰ってきてすぐに寝てしまったあと、襟元でも緩めておこうと思ったときに気づいたんだ。勝手に体を探るようなことをして申し訳ない」
「あ、いえ、それは別に良いんですけど、」
私は頭を振って、再びペンダントに目を落とした。
透明な石が、嵌まっているはずだった。台座の上できらめいていたはずのそれは、今はどす黒く染まり、輝きを失っている。
「これは、一体……」
「異能を封じたということだ。本来の役目を果たし、使用済みになった印」
言いながら、エリクスさんは片手をすいと持ち上げた。その中指には、エリクスさんと再会したその日に見せられた指輪が嵌まっている。それをじっと見つめて、私はその石が薄らと黒ずんでいることに気づいた。
なるほど、この石は、使用する――異能を封じるに従って、徐々に黒くなっていくものらしい。
エリクスさんは腕を組みながら告げる。
「僕は大体七年弱の間、この仕事をしている。その間、加護を新しいものに替えたのは三回。単純計算で言えば、二年と少しで加護は使用済みになる。もちろん僕も、異能に関する任務だけを行っている訳ではないから断言はできないけれど、それにしたって君の加護は消費が早すぎる」
「だ、だって私、これを支給されたのはつい数日前ですよ……!」
私は身を乗り出して言う。エリクスさんは重い表情で頷いた。
「同じ場所で寝泊まりしている僕の石に変化はなく、君の石にだけ異常な消耗が見られる。では、どこでこの違いが生じたのか? 僕たちが異なる行動を取っており、なおかつ君だけが異能者に曝露する可能性の高い場面は限られてくる。たとえば――」
エリクスさんは腕を組んだまま、目を眇めた。その双眸に鋭い光が浮かぶ。
「――ターゲットであるライデリー・センタルラスに、君だけが長時間接近している、とか」
私は息を飲んだ。真っ黒になった石を見下ろす。異能から私を守ってくれた結果、使用済みになった石である。しかし……。私は顔を上げ、エリクスさんに向かって首を振ってみせた。
「でも、ターゲットといる間、そのような様子はありませんでした。物体が変な動きをすることもなければ、妙な現象だって、何も」
「異能に関してはまだ分からないことが山積している。だが、一口に異能と言っても、やれ物体を動かすだの、火や水を操るだのといってものばかりではない。これは習ったはずだよ」
そう言われて、私は教官の言葉を頑張って思い返す。他には何があるのだっけ。……確か、座学の授業で聞いた気がする。私は目線だけでエリクスさんを窺い、恐る恐る答えた。
「……精神に関する、異能?」
「僕はその可能性を考えている」
エリクスさんは低い声で応じ、ため息をついた。
「少なくとも、ライデリー・センタルラスという男が、感知しづらい何らかの異能を持っている可能性は非常に高い。そして、石の消費速度からして恐らく、相当に強い作用を持っているだろうということもだ」
その言葉に、私は思わず身震いした。机に置いていた指先に力が入らず、私はぐっと拳を握りしめる。
「ど……どうすれば、」
「君の加護はもう使用に耐えられる状況ではない。ターゲットの前で割れなくて良かったくらいだ」
エリクスさんはペンダントを指先でつまみ上げた。目の高さまで持ち上げ、石の状態をしげしげと観察する。
「明日……もう今日か、僕が支部に行って新しい加護を支給してもらえないか掛け合ってくるよ。ついでに、どのような異能に晒されたのかの解析も依頼してくる」
「じゃあ、私は明日、加護なしで……?」
この潜入捜査にかけられる時間は、もう残り数日しかない。まだターゲットの目的は掴めていない。けれど、相手が異能者であると分かっていて、加護のないまま接近するなんて……。
エリクスさんは「いや、明日は外出禁止だ」と厳しい口調で私に告げた。
「僕が新しい加護を支給されて持ってくるまで、一歩も外に出ないように。分かったね?」
「で、でも、任務が……あと数日しかないのに」
「君がターゲットの異能の被害に遭う方が最悪だからね。連れ去られたり、操られたり……。君の今の任務は、ターゲットから距離を置いて、絶対に近づかないこと。分かったね?」
怖い顔で言われて、私は今度こそ口答えせずにかくかくと首を上下させた。
全身を緊張させたまま動けない私に、エリクスさんは少し苦笑して腰に手を当てた。
「加護なしで接近しろとか、僕はそこまでの鬼畜じゃないよ」
(あ、ちょっとは鬼畜なんだ……)
内心でそう思ったのは、秘密である。
***
「行ってらっしゃい、エリクスさん」
「うん」
エリクスさんは軽く頷いて、玄関の取っ手に指先をかけた。扉を開ける前に一旦振り返り、私に向かって指を立ててみせる。
「今日は、外に出てはいけないからね」
「はい……」
丸一日、一歩も外に出ないで、一体何をしていれば良いのだろう。任務中なのに仕事がない……。
不承不承頷いた私に、エリクスさんは苦笑した。
「そんな不満そうな顔をしないでよ。そうだな、じゃあ、昨日の分のお皿洗いと、あとは洗濯を頼めるかな」
「……はい!」
そうだ、今の私は専業主婦ってことになっているのである。家事をこなすのは当然じゃないか。
勢い込んで頷くと、エリクスさんはくすりと息を漏らして笑った。
「じゃあ、代わりの加護をもらってくるのと、解析の依頼を出してくるよ。できるだけ早く戻ってくるから、大人しく待っていてね」
「分かりました」
「ん」
笑みを深めて、エリクスさんが取っ手を捻る。開いた隙間から、どこかのったりとした風が吹き込んだ。
緩やかな風にエリクスさんの前髪が僅かに浮く。
「そういえばさ、」
肩越しに振り返りながら、彼は目尻を下げ、はにかむような笑顔を浮かべた。私は黙って目を瞬く。エリクスさんは僅かに頬を赤くして、小さな声で呟いた。
「……昨日、『おかえり』って言ってくれたの、あれ……ちょっと嬉しかった、かも」
じゃあね、と言い残して、エリクスさんはぱたんと扉を閉めてしまった。鍵がかけられる音。本当に鍵がかかっているか確かめるように、一度扉が向こうから動かされる。
その間、私はただ無言で立ち尽くしていた。
「は……?」
規則正しい足音が離れてゆくのを、聞くともなく聞きながら、私は声を漏らす。瞬きを繰り返しながら、頭の中で疑問符を並べ立てる。ちょっと理解が追いつかない。
「……可愛すぎない………………???」
ぽつり、思わずそう漏らしてしまってから、私はその場でよろめき、壁に頭から激突する。鏡を見なくたって、顔が真っ赤なことは分かる。
そのまま壁に肩と額をつけ、私は深々とため息をついた。
「エリクスさん、実はハニトラ専門に転向してた……? それとも本物の魔性……?」
私がこの数年必死に学んできた籠絡術なんか、真性の前ではまるでお遊びである。全身がカッと熱を持つ。
「うう……しんどい」
こんなに感情が揺すぶられまくる生活なんて初めてである。本当に心臓が持つか怪しい。ずっとドキドキしっぱなしだ。
「だ、だめだめ……『諜報員たるもの常に冷静にあれ』だよ……」
私は胸の上から心臓を押さえながら念じるように呟いた。全然効果がない。
(数日前まで『一目見るだけで良い』とか言っていたのはどこの誰だっけ……)
遠い目をしながら、私は息を吐いた。




