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7「何をそんなに湿っぽい顔」




 最初に認識したのは、背中に触れる硬い感触だった。次いで、腕と指先、それから、足。全身が、温かい何かに包まれていることを認識する。

 そうしてから、私は、ゆっくりと目を開いた。眉を潜め、小さな声で呟く。


「…………風呂?」



 風呂である。へえ、なるほど、風呂…………風呂?

 慌てて自分の体を見下ろす。服を着たまま浴槽に放り込まれているらしい。そう気づいた直後から、体に纏わり付く布の感触に不快感を覚えた。

 ざばりと音を立てて両手を引き上げると、そこにあるのは見慣れた肌色の十指だ。全身が氷に包まれていたのが夢のようである。

 視界はほかほかとした蒸気で白くなり、体も温かくなっている。



 ……しかし、何が一体どうして私が着衣で風呂に入っているのか分からない。困惑したまま体を起こし、縁に手をかけて腰を上げようとしたところで、風呂場の扉が勢いよく開かれた。

「溶けた……?」

 薄らと湯気を立てるやかんを手に、エリクスさんが呆然と呟く。しばらく戸惑ってから、エリクスさんはやかんを私の頭の上で傾けようとした。私は慌てて「ちょ、ちょっと!」とそれを押しとどめる。


「あの、私、何が何だか……」

 おずおずと浴槽から立ち上がろうとすると、エリクスさんは私の両肩を押さえつけて浴槽に沈める。

「体が冷えているだろうから、まだ温まっていた方が良い」

「服着たままお湯に浸かっている方が気持ち悪いです」

「そ、そっか……ちょっと待ってね、着替えがないか探してくるよ」

 私の言葉に、エリクスさんはあたふたとやかんを手に風呂を出て行った。私は呆然とその背中を見送る。



 ややあって、外から「タオルと着替えを置いておくね」と声がかけられて、扉が閉じる音がした。私はしばらく躊躇ってから、縁に手をかけて立ち上がる。全身から一斉に水が落ち、水音が響く。

 のそのそと緩慢な動きで風呂場を出た私は、服を脱いでタオルを手に取った。体を拭き、置かれていた着替えを身につけてから、脱いだ服を絞って洗面器に入れておく。


 それにしたって知らない場所だ。私は脱衣所を見回して首を捻った。生活感はそれほどないけれど、清潔に保たれているし、頻繁に使われている場所のような気もする。

 まさか、と私はそこで一つの可能性に思い至り、はっと口元を押さえた。

(もしかして、ここ……エリクスさんの自宅とかでは!?)

 そう考えると、何だか俄然鼓動が早くなってくる。えっ……有り得るんじゃない? もしかして、もしかする?


 私は動揺を隠しきれないまま、頭からタオルを被って、そっと脱衣所を出た。その瞬間、「ん?」と声を漏らして私は眉を潜める。

(どう見ても家っぽくない廊下……)

 私は顔を引きつらせた。左右に伸びる長い廊下には、いくつもの扉が等間隔に並んでいる。これが家ならとんでもなく縦長の豪邸だ。家じゃないな、と目を細める。これは家というよりは……。

(……訓練生だった頃に住んでいた寄宿舎とほぼ同じ……)

 そう思ったところで、一つの扉が開いて、中から見慣れない女性が顔を出した。彼女はぱっと顔を輝かせると、部屋の中を振り返って「出たみたいよ」と声をかける。


「あっ、あなたがエリクスのパートナーの子ね?」

「ぱ!?」

 突如として駆け寄られて、私はぎょっとしてたじろいだ。いきなり両肩を掴まれる。

「かわいーい! 若い子ってやっぱりフレッシュさが違うわぁ……! エリクスみたいなのには勿体ないわね」

「え、あの、あの、」

「やっぱりハニトラ系って顔が良くないと採用されないのかしら? うーん、私が落とされたのはそれが理由なのね、きっと」

「えっと、あ、えと、」

 訳が分からずに答えあぐねる私の前で、女性は目を輝かせてにこにこしている。悪意がないのは分かるのだが、如何せん相手が誰だか分からない。



 私が当惑していると、慌てたような早足が近づく。目の前の女性がべりっと引き剥がされた。渋面で間に分け入ったのはエリクスさんである。

「うちの子を困らせるのはやめてくれ、アネラ」

「わあ口うるさい。過保護なんだから」

 女性は体をひょいと曲げて顔を出し、私に向かって片目をぱちんと閉じてみせた。

「あとでつついておくと良いわよ。今でこそクールぶってるけど、この男、あなたを助けるってんで、そりゃもう血相変えて大騒ぎだったんだから」

「アネラ!」

 大声を出してエリクスさんが遮る。私は目を丸くしたまま二人を見比べる。こんなエリクスさんは初めて見た。


「……とにかく、事情を説明するから入って」

 エリクスさんに背中を押され、私は明かりのついた一室に足を踏み入れた。給湯室と休憩室らしい。なおさら寄宿舎にそっくりだ。



 エリクスさんはしゅんしゅんと湯気を立てるやかんを手に取りながら、ため息交じりに呟いた。

「……さっきのはただの同僚で、あれが言うことは真に受けなくて良いから」

「エリクスさん、さっき私のこと『うちの子』って言いませんでした? 『子』って」

「そっちも気にしなくて良いから」

 そう言って、エリクスさんは私の目の前に大量のお湯を注いだマグカップを置いた。飲めということだろう。

「ええと、何から説明するかな……」

 私にはお湯を出しておきながら、自分はコーヒーをお飲みになるらしい。いや、飲み物を出してもらう身分で文句は言うまい。


 エリクスさんは目を逸らしながら、早口で告げる。

「……ここは特別部隊第六支部で、場所は駅の近く。まあ、要はこの街の拠点で、簡単な居住施設でもある」

「ああ、どうりで寄宿舎に似ていると……」

 私は大きく頷く。白湯を一口飲むと、エリクスさんがすかさずやかんを手に取って再びなみなみと注ぎ足した。……そういう方式らしい。

(飲んでも飲んでもきりがないわ……)

 私は半目になりながら、温かいマグカップに両手を当てて息を吐いた。



「簡単に結論から説明しよう。異能者集団は確認できた限り全員捕縛し、祝祭への影響は一切出ていない。現在は取り調べの最中だ」

 エリクスさんは足を組み、膝の上に組んだ十指を乗せる。

「祝祭への影響はない……と言ったけれど、まあ珍事と言えば、いきなり時計台から子どもが『メルセリナを助けて』って叫びながら駆け出してきたくらいかな」

「あはは……」

 十中八九、レイディスである。ちゃんと名前を強調して教えてあげた甲斐があった。それにしても、名前を連呼して外をダッシュされるのも恥ずかしいものだ……。


「で、慌てて駆けつけたら、ご存知の通りという訳だけど」

「どうもありがとうございます……」

 私はテーブルに手をついて深々と頭を下げる。正直言って記憶はまばらだが、何やら大変なことになっていたことは分かる。私はおずおずと顔を上げた。

「……あの、エリクスさん。あの氷って何なんですか?」

「それを今僕は君に訊こうとしていたところだよ」

 私たちは顔を見合わせる。最初に口火を切ったのはエリクスさんだった。


「……前に訊いたとき、異能者じゃないって言ってたよね?」

「い……言いました」

 私がぎこちなく頷くと、エリクスさんは半目で私を見た。どことなく非難するような視線に、「だってそう思っていたんですもん」と言い訳がましく付言する。エリクスさんは肩を竦めた。

「まあ、そのうち担当部署から検査の連絡が行くと思うから、そっちの指示に従ってね」

「はい」

 素直に応えると、エリクスさんはにこりと微笑んだ。


「あとこれ、」

 言いながら目の前に置かれたものを見て、私は眉を上げる。

「あ、エリクスさんがくれた髪留め……」

 窓から投げたはずなのに、どうして……? 首を傾げる私に、エリクスさんはくすりと笑ったようだった。

「時計台の近くでこれを拾って、すぐに君のものだと分かったよ。ここを通ったのは間違いないと周辺を捜索していたところで、あの少年と鉢合わせしたわけで」

 私は思わず頬を緩めた。これを投げたのが功を奏したのもそうだが、こうして手元にまた戻ってきてくれたのが嬉しい。せっかくエリクスさんが私にくれたものだし。


 笑みこぼれる私に小さく頷いて、彼は組んでいた足を解く。

「ともかく、この任務が無事に終了したことは確かだ。被害者は出ていないし、テロの企てがあったことすら市民は知らない。それで良い」

 満足げに呟くと、エリクスさんはテーブルに手を置いて腰を浮かせた。

「……君も、初任務でこんな目に遭って大変だったね。本当にお疲れ様。素晴らしい活躍だ」

 そんな言葉と共に、私の頭に一度だけ手が乗せられ、すぐに離される。私はくすぐったいような気持ちで首を竦めた。



 しかし、エリクスさんはこれで話は済んだと言わんばかりに視線を浮かせた。私は目を疑う。

「そこにあるお湯をできるだけ飲んで、体を温めるように。じゃあね」

 と、それだけ言って、エリクスさんがそのまま私の横を素通りして部屋を出て行こうとする。私は思わず「待ってください」とその裾を捕まえた。

「え? それだけですか?」

「…………他に話すべき話題があったかな?」

「一番デカいの忘れてるじゃないですか」

 微笑みで誤魔化そうとするエリクスさんを捕まえたまま、私は真剣な表情でその顔を見上げる。


「エリクスさん、どこに行こうっていうんですか?」

「祝祭ももうじき終わるし、巡回にでも行こうかと」

「だったら私も行きます!」

 慌てて立ち上がると、エリクスさんは私の手を裾から離させながらしかめっ面をした。

「馬鹿言うんじゃない。自分がどれだけ命の危機にさらされていたのか分かっているのか」

「エリクスさんこそ、ご自分があの朝、どれだけ大きな爆弾落として去ったか分かってますか?」

「………………。」

 じとり、と見上げると、エリクスさんは露骨に困ったような顔をして頭を掻く。



「言いましたよね、『任務が終わったら言いたいことがある』って。エリクスさん、まだ聞いてくれてません」

 私は視線を強めてエリクスさんを見据える。エリクスさんは目を逸らした。

「下手な相槌だけで良いですから。……何の言葉も求めませんから。私がただ喋りたいだけなんです」

 追うように告げると、ちらり、とその目が私の方に一瞬だけ向けられた。どこか途方に暮れたような、叱られるのが分かっている子どものような後ろめたさが、両目に浮かんでいる。その事実に気づいたとき、私は新鮮な心持ちがした。

 いつも飄々として口が上手く、何でもそつなくこなす、年上の男性の中に、このように幼げな一面があるなどと、私は思ってもみなかったのである。


「せっかくだからお祭りを見に行きましょうよ。私、子どもの頃は人里離れた辺鄙な村だし、村を出てからもずっと訓練生だから外出できなくて……こうした大きなお祭り、見たことがないんです」

 少しわざとらしいくらいの笑顔で告げると、エリクスさんはじっくりと躊躇ってから、渋々と頷いた。



 ***


 祝祭に影響が出ていないのは本当らしい。もう日が傾いてきているにもかかわらず、屋台が立ち並ぶ通りには人々がひしめき合っている。それを眺めながら、私はそっと笑みを浮かべた。

「みんな笑顔ですね。お客さんも、店の人たちも」

「そうだね」

 エリクスさんは両手を上着のポケットに突っ込みながら頷いた。その表情は強ばっており、どこか落ち着かない様子も漂っている。そんな横顔をちらと見上げながら、私は眦を下げた。


 仕事上の付き合い。そんな、やや遠くも心地よい関係は、既に壊れていた。夫婦ごっこで無邪気にじゃれ合っていられたのは過去のことである。任務は既に終了した。私たちはもはや夫婦役ではない。……その上、単なる同職の仲間ですらない。

 それよりももっと重い、根の深い関係が、私たちの間には横たわっていた。



「広場に行きましょうか。ステージで何か出し物をしているのが見られるかも」

「そうだね」

「エリクスさん、さっきから『そうだね』ばっかり」

 私は軽い非難を込めて、ふざけて睨んでみせた。すると、エリクスさんは目を伏せて「ごめん」と呟いてしまう。私は呆気に取られて言葉を失う。


(……エリクスさん、私が思っている以上にだいぶ気にしているんだ)

 ひょっとしたら私より参っているくらいかもしれなかった。もしかしたら私に現実味がなくていまいち理解できていないだけかもしれなかった。

「エリクスさん。まさか、私が何か文句を言うために、あなたを連れ出したと思っています?」

「……それも無理はないことだと思う」

 苦しげに視線を落としたエリクスさんに、私は思わずぎゅっと眉間に皺を寄せた。知らず知らずのうちに唇が尖る。


「――もうっ!」

 私は両手を持ち上げ、項垂れるエリクスさんの頬を勢いよく挟んだ。ぱちん、と小気味よい音が出た。エリクスさんの頬が押しつぶされ、唇が飛び出る。

「お祭りだっていうのに、何をそんなに湿っぽい顔をしているんですか!」

「え、っと」

 私はエリクスさんの顔から手を離さないまま、背伸びをして視線を近づけた。

「文句ですか? そりゃありますよ。……エリクスさんはいつも私を子どもだと思って甘く見るし、私のことなんてちっとも興味ないし、一度も名前を訊かなかったし、呼ばないし」

 その双眸が、困惑したように瞬いた。ぽかんと口が少しだけ開く。私はエリクスさんの目の奥を覗き込んだ。


「私、メルセリナっていいます。まずは、それを覚えて帰ってもらうだけで良いです」

 私が強気に宣言すると、エリクスさんは躊躇いがちに目を逸らしてから、小さな声で呟く。

「メル、セリナ……ちゃん」

「メルで良いです」

「……メルちゃん」

 ちゃん付けか、とも思ったけれど、まあ別に良い。エリクスさんからすれば、八つも下の小娘を呼び捨てにするのも何となく躊躇われるものがあろう。……それに、案外悪い響きではない。


「よし、じゃあ行きましょう」

 私はエリクスさんの顔を解放し、その代わりに片腕をがしりと拘束して歩き出す。振りほどくのは簡単だろうに、エリクスさんは抵抗一つせずに私に従った。



 ***


 広場に足を踏み入れると、何やらステージ上で演劇をしている最中らしい。そちらに目を留めた私は、大仰な仕草でステージ中央に歩み出た女性を見咎める。

「あ、カーラさん」

 折しもそれは、私たちが生活をしていた集合住宅に住んでいたご近所さんである。私が呟くのとほぼ同時に、エリクスさんもその姿に気づいたらしい。「お、」と声を漏らして立ち止まる。


 どうやらタイミングの良いことに、前に参加を誘われた演劇発表の場にちょうど居合わせたようだった。

 自然とステージの見える位置に寄り、二人で並んで立つ。町長の像が置かれた台座に軽くもたれかかるようにして、私はステージの上を眺めた。



 それは、一度は友人たちと衝突した少年と少女が、周囲の人の助言と手助け、そして対話によって人の輪へ戻ってゆく、単純ながら分かりやすい筋書きを描いていた。ふと思い出す。――この演劇の脚本は、ライデリー・センタルラスが書いたのだったっけ。

(………………。)

 私は何とも言えない気持ちで目を眇めた。物語など、本心が何を思っていたって、いくらでも作り出せるものである。それは今回の件で実感したことだ。……だから今更、ライデリーが近隣住民のために書いた脚本がどのような物語を綴っていたって、それは何の関係もないことだ。



 私はぽつりと呟いた。

「……私、今度からは、異能者の側に立って物事を考えるようになると思うんです。でも、それでも、私は今のまま変わらないでいたいなって……」

 エリクスさんの視線が私に下ろされた。私は真っ直ぐ正面を向いたまま、ステージを見据える。

「異能者がどうとか関係なく、罪のない弱者たちを虐げるような企てを、私は許したくない。でも、……犯人をそういう凶行に駆り立てる原因にも、目を向けていきたいと……そう思います。異能者の一人としても」

「……メルちゃん、」


 気づけば、ステージの上では役者たちが揃って礼をしている。拍手が鳴り響く中、私たちも手を叩いてステージ上に賞賛を送った。ご近所の贔屓目を抜きにしても良い劇だったと思う。きっとたくさん練習したのだろう。



 ふと、舞台上でカーラさんがぱっと表情を輝かせる。こちらに向かって大きく手を振るような仕草を見せた彼女に、私たちは一瞬顔を見合わせてから、おずおずと手を振り返した。


「ご挨拶もなしに姿を消すなんて、何だかちょっと不義理ですね」

「まあ、世の中いろいろあるからね。いきなり引っ越す人だっていないわけじゃないし」

 エリクスさんは苦笑した。「少なくとも、こうして元気そうな姿を見せておけただけでも良かった」

 その言葉に、私は曖昧な笑みを浮かべる。ステージ上で笑う人々の顔を、それを見上げて手を叩く人々の歓声を、じっと目に焼き付けた。

「……君が守ったんだよ」

 エリクスさんは柔らかい声で呟いた。怪訝な顔で見上げると、エリクスさんは私を促して歩き出しながら、ゆったりと目を細めた。


「君が証拠を見つけ出し、そして企てを防いだんだ。自らを差し出してまでも人を助けようと奮闘する。口にするのは容易くとも、それを実行に移すことができる人は、実はそう多くない。誇るべきことだし、僕は君が誇らしいよ」

「えへへ……」

 どうもエリクスさんは私を褒めるモードに入ったらしい。私は頬が緩むのを隠しもせずに頭を掻いた。

「でも、違いますよ、エリクスさん」

 私はエリクスさんの腕を再び捕まえながら、これ見よがしに胸を張ってみせた。

「人々を守ったのは『私たち』です。私ひとりじゃ立ち向かうことなんてできませんでしたもん。……エリクスさんが来てくれるはずだって、そう思えたから、私も踏ん張れたんです」

「メルちゃん、」


 虚を突かれたようにエリクスさんは目を丸くする。それから少し照れ笑いに似た苦笑、そして「そっか」とだけ呟いた。



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