私はあなたを信じている
(……おなかすいた)
私は床に転がされたまま、天窓から見える空が赤く染まり、やがて暗がりに飲み込まれるのを見守った。本当なら今頃汽車を降りているはずだった頃である。昼食は駅で弁当でも買おうと思っていたから、昼食を抜いてしまったということか。
ぐぎゅ、と情けない音を立てた腹を一瞥して、私はため息をつく。
「ここ、どこなんだろう……」
そう呟いて、私は頭を浮かせて周囲を見回した。
歯車がいくつも転がる、この部屋はまるで屋根裏部屋のような様相をしている。床は厚い埃に覆われ、まるで木目の上に薄らと雪が降ったかのようだった。そんなところにごろんと転がされているので、私の体はいつしか埃まみれである。息を吹くと床の埃が飛んでいった。
「あんたたちのお仲間には、きっと想像もできないところだよ」
「……誰?」
部屋の隅にある扉が開き、姿を現したのは随分と小さな体だった。どう見たって子どもだ。声も少年のそれである。
「普通に考えて、名乗っちゃ駄目だろ。それくらい分かんないの?」
暗がりから歩み出て、少年は私に歩み寄る。夕陽の射し込む先に足を踏み入れた。それで、その姿がよく見えた。
「……まだ、ほんの子どもじゃない」
私は眉をひそめて頭を上げる。そこにいたのはまさしく子どもだった。私だってまだちっとも大人なんかじゃないけど、そういう問題ではない。
「どうしてあなたみたいな子どもが、テロリストの仲間に……」
「僕は子どもじゃないし、ライデリーたちはテロリストなんかじゃない!」
「『自分は子どもじゃない』ってわざわざ否定するのはね、みんな子どもなんだよ」
と、自分自身にも刺さることを言いつつ、私は一度仰向けになってから上体を起こした。
ふっくらとした頬は赤く、手足も細い。やや癖のある髪は若干長すぎ、前髪が目の上にまでかかろうとしている。両手はお盆を持っているが、――何よりも目を引くのは、その肩ほどの高さで宙に浮いている水差しだった。
「ほら、夕飯」と少年はぞんざいな手つきで私の近くの床にお盆を置き、浮遊している水差しを掴んで、それも床に置いた。私は目を丸くしてその様子を見つめる。
「……何?」
「それって、異能?」
「手品にでも見えるのかよ」
私の問いかけにぶっきらぼうに応えて、少年はさっさと立ち去ろうとした。私は慌てて「待って!」と呼び止める。
「何だよ。あんまり話するなって言われてるんだけど」
「いや、そう……話はしないでいいんだけど、」
私は気まずい表情で目を逸らした。十歳にも満たないかもしれない子どもにこんなことを言うのも恥ずかしいものである。
「背中で両手が縛られているから、食事ができない、ですね……」
少年の目が、心底うんざりしたように細められた。
「ほら、口開けろ」
「あ」
「食え」
「うん」
情けなくも、いくつも下の子どもに介護され、私は忸怩たる思いで項垂れた。
「そんなに口の周り汚して、みっともないな。それで本当に大人かよ」
「……君よりはね」
食わせているのはお前だ、と言いたくなる気持ちをぐっと堪えて、私は大人しく頷く。「口を拭ってやるなんて嫌だからな」と少年は顔を顰めた。直後、お盆の上に置かれていた布巾が音もなく浮き上がり、乱暴に私の顔面に突撃する。
「わぶっ」
「あー、ごめん。調整がまだ下手でさぁ」
ちっとも思っていないような声で謝って、少年は布巾を指先でつまみ上げて回収した。
私は目を眇めた。
「それが、君の異能なの?」
「そうだよ。他の奴らにはない、僕だけの才能だ」
私は「へえ」と一旦相槌を打ってから、その言葉を反芻した。
「……才能、」
呟くと、少年は「その通りだよ」と頷く。私は黙ったまま、続く言葉を待った。
「僕たちは選ばれた存在なんだ。あんたたち一般人とは違って、もっと特別で優れている。凄い力を持っているし、あんたたちよりもっと、ずっとたくさんのものが見えている」
「…………。」
「それなのに、あんたたちは、ずっと僕たちの存在を認めず迫害してきた。こんなのは間違っている。今でこそ、確かに人目を忍んで活動しているかもしれない。でも僕たちはこのまま日陰に隠れているような存在なんかじゃなくて、もっとたくさんの人に大切にされるべき存在なんだ。だから僕たちはそのために先陣を切って世界を変えようと、」
その言葉に、私は顔を伏せたまま床を睨みつけた。
「目の前にいる人々すら大切にしないような人間が、どうして名も知らぬたくさんの人に大切にされると思うのよ。本当に崇高な行いをしていると思っているのなら、どうして日陰に隠れる必要があるの」
厳しい声をぶつけてしまってから、私は自身の境遇を思い出した。そ、そういえば私、身動きもできない捕虜なんだった。
「……ごめん、」
私は顔を背けて呟く。少年はしばらく呆然としてから、キッと私を睨んだ。
「才能もない一般人のくせに、偉そうなことを言いやがって」
「だからごめんってば、ちょ、やめ」
先程雑に私の口元を拭った布巾が再び宙に浮き、ぱしぱしと私の頭を叩く。目の前の少年がこれを動かしていることは明らかで、私は不思議なものを見るような心地で布巾を見上げた。
「ものを浮かせるのが、君の異能、じゃなくてその……才能だってこと?」
「そうだよ」
少年は首肯し、片手をすいと持ち上げる。私の肩の辺りで浮いていた布巾が、頭の高さまで上がった。
「とはいえ、まだまだ力が弱くて、自分の身長以上の高さには上げられないし、遠くのものも、重いものも持ち上げられない。数もせいぜい二つか三つまでだ」
ふてくされたように唇を尖らせてぼやく少年に、私は笑みを漏らす。
「でもすごいじゃん、そんな力が合ったら便利そうだね」
「え?」
「だってもう二、三本腕があるようなものでしょう? 格好いいし、結構色んなところで羨ましがられる能力だと思うけどなぁ」
洗濯物を取り込むときとか、皿洗いのときとかにお役立ちだ、という言葉は飲み込んでおいた。自分の異能は家事グッズじゃない、と怒らせてしまいそうだ。
ふっと、息を漏らして柔らかく微笑む。
「私はメルセリナ。君は?」
「僕はレイ……じゃなくて、……あんたに名乗るような名前はない!」
「あはは、それでも良いよ」
私は緩やかに目を細めた。――子どもはこれだから良い。
「私のことは信用してくれなくたって構わないからさ、もっと話が聞いてみたいな。私、君みたいな能力を持った人と会うのは初めてなんだ」
そう言うと、少年はあからさまに狼狽えた。その両目に逡巡が浮かぶ。
「だめ……かな?」
駄目押しの一言に、ついに少年は小さく頷いた。私は笑みを深めた。
(素直な子どもは良い。――与しやすいからね)
「――それで、僕はお母さんに黙って家出してきたんだ」
「そんな……。じゃあお母さん、きっと心配してるんじゃないの?」
「心配なんてしてるもんか。お母さんは僕のことを昔から気味悪がってたし、兄ちゃんの方が大切なんだろ」
そう吐き捨てた少年に、私は眉根を寄せた。
「ここの人たちは、本当に優しいし、僕の気持ちを分かってくれる。こんなに親身になって話を聞いてくれる人なんて他にいない」
彼は真剣な表情でそう語る。私は適当に相槌を打ちながら、少年の横顔をちらと見る。
(こんな、出会ったばかりの女にすぐに心を開くような子どもなら、そりゃ扱いやすいでしょうね)
小さくため息をついた。事態が終着したら、この子は逮捕するんじゃなくてカウンセラーのところに連れて行ったあと、ご家族のところに送り届けてもらうように口添えしておこうか。今ならまだ被害者として許されるところ……引き返せるところにいるだろう。
私が胸の内で思考しているのを知るよしもなく、少年は目を輝かせて告げた。
「もっとこの力を上手く使えるようにって、すごく色んなことを教えてくれるんだ。――ライデリーなんか、僕の能力を引き出すための『特別な機械』まで作ってくれた。やっと完成したから、明日試させてくれるんだって!」
その言葉に、私はぴくりと肩を跳ねさせた。一瞬の空白ののち、息を飲む。
(……特別な、機械?)
「明日が楽しみだなあ。……僕が上手に能力を使えるようになったら、もしかしてお母さんも褒めてくれるかもしれないだろ?」
「待って、その機械って、」
私は大きく目を見開いたまま、少年に詰め寄ろうとした。ざあっと血の気が引く。
ライデリーの屋敷の地下にあった機械が脳裏をよぎる。異能者に凄まじい負荷を与えて、その能力を最大まで引き出し、操る機械だ。
エリクスさんの言葉が耳に蘇った。
『異能者が入った場合は、良くて廃人……最悪の場合は死に至る。死体すらも残らない』
瞬間、全身が凍り付くような恐怖に襲われる。私は少年の目を見据え、慌てて口を開くが、動転して上手く言葉が見つけられない。この子を納得させられる言い方で、このことを伝えなくてはならない。この子を早く逃がさなければ、
しかし、それは叶わなかった。
「――駄目じゃないか、レイディス。あまり仲良くするなと言っただろう?」
扉が開き、姿を現したのはライデリーその人である。大股で部屋を横切ったライデリーは、勢いよく私に近づくと、顎を掴んで猿ぐつわを噛ませた。
「むぐ、」
「あなたも、随分とお喋りなようだ。うちの大切な仲間を誑かさないでもらえるかな」
後頭部で布の端をきつく縛りながら、ライデリーが薄ら笑いとともに低く囁く。私はそれまでの平静をかなぐり捨て、身をよじってライデリーの手から逃れようとする。直後、私は乱暴に頬を張られて吹っ飛ばされた。全身を打ち付け、私は低い呻き声を漏らす。床の埃に私が滑った跡がくっきりと残り、もうもうと埃が舞い上がった。
「まったく、こんな幼気な子どもにも色仕掛けで近づこうなんて、恐ろしい女だ」
「いろ……じかけ?」
少年――レイディスの目が、愕然としたように私を見下ろしている。突如振るわれた暴力と新たな単語に、理解が追いつかないように瞬きを繰り返した。
「そうだ、レイディス。こいつはね、男に媚びを売って擦り寄り、情報を手に入れようとする、卑しい女スパイなんだよ。もしかして言われなかったかい? 例えば――『もっと話が聞きたい』、とか」
はっと目を見開いたのは、私もレイディスも同時だった。その言葉は確かに私が先程口にしたのと同じものだ。視線は一瞬だけ重なった、が、レイディスはすぐに目を背け、ライデリーに視線を戻す。
その、間際の眼差しに、随分と鮮明な軽蔑が浮かんでいたので。
(まずい、ここであの子の信用を失っては、助けようにも助けられなくなる)
私は慌てて体を起こし、レイディスに向かって首を伸ばす。必死に逃げろと伝えようとしても、しかし私の口から出るのは、声にもならない無様な呻きばかりである。自然と息は上がり、鼻で激しく呼吸を繰り返せば、「そんなに鼻息を荒くしなくたっていいだろう」と嘲笑される。
「この際だから教えて差し上げますよ」
ライデリーはレイディスを先に行かせ、床にうつ伏せになったまま身動きできない私を見下ろした。
「どうせ、地下室を見たんでしょう? 壁にこれ見よがしに貼ってあったメモだって見たはずだ」
(……壁の、メモ?)
私は眉をひそめる。確か文言は、『設置は二時の下 広場にて』。
そこから、私たちは円形の広場の外周に沿って置かれた、歴代町長の像十二体を思い浮かべた。そして、仕掛けが設置されるのは二代目町長の像の下であると結論づけた。だって他に広場に十二個置かれたものなんて存在しないのだ。――広場には。
「あの『広場にて』という言葉はね、あとから付け足した、根も葉もない大嘘なんですよ。どうせあの像のことだとでも思っているんでしょうが」
(広場は、関係ない……!?)
「ここは時計台の中、時計盤の裏。商店街を丸ごと見渡すことができるうえ、誰かがおいそれと立ち入ることもない。あなたがどんなに騒いだって、これだけ高さがあれば誰も聞き咎めることはない」
私は声もなく瞠目した。
「異能者がその力を発現させるには、『目』がなきゃいけない。異能の及ぶ範囲とは、目の届く範囲のこと」
そう言って、ライデリーは私の腕を掴み上げ、反対の手で壁の一部をぐいと押した。が、と音を立てて、壁が開く。そこが窓だったのだ。
ライデリーは私の上体をその窓から突き出させた。一瞬、突き落とされるのかと思ったが、どうやらそのつもりはないらしい。
冷たい夜風が頬を撫で、私は眼下に広がる市街地の遠さに、くらりと目眩がするような心地だ。ちらと目を横にやれば、分針がちょうど動くところだった。ここは本当に時計盤の裏なのである。
……そして、この場所から商店街を見下ろすにあたって、視界を遮るものは何もない。
私の体を押さえつけながら、ライデリーは背後から身を寄せて低く囁いた。
「ここからなら、祝祭の全ての範囲を狙うことができる。――当然、罠に引っかかってノコノコと広場に集まってきた、あなたのお仲間たちもだ」
私は息を飲む。首を捻ってライデリーを振り返れば、そこには初めて会った頃の温和な表情など片鱗すら見当たらない。
「あの子どもの能力があれば、祝祭に来た全ての人間を宙高くまで持ち上げることなど容易いことだ。空に浮かんでしまえば、誰も何もできやしない。そうして一気に手を離せばどうなるか……分かるでしょう」
私は鼻に皺を寄せ、ライデリーに険しい目を向けた。噛まされた猿ぐつわが軋むほどに奥歯を噛みしめる。
(……たくさんの人が、為す術もなく地面に叩きつけられることになる。無事でいられるはずがない)
ライデリーは嘲笑しながら、私の体を室内に引き戻し、窓を勢いよく閉めた。床に突き転ばされて、私は喉の奥で呻く。
「明日は、特等席で一部始終を見せてあげますよ」
嗜虐的な色の滲むその声音に、私は拳を握りしめた。
(このままでは、罪のないたくさんの人が被害に遭う。何としてでもこの企みを防がなきゃいけない。……でも、どうやって……!)
柱に背をつけ、一度拘束を解いた両腕を柱に回してから縛られる。これで柱から離れることもできなくなった。
「それでは良い夜を、――奥さん」
そんな言葉を残して、ライデリーは部屋を出ていく。物音が消える。
私はただ一人、時計台の最上階に取り残されたまま、明かりのない部屋の中で、必死に考えを巡らせていた。
(何とかして伝えなければいけない。広場がブラフであること、機械は時計台にあること、このままでは多くの命が奪われること……でも、伝える方法なんてない。それに、あの子……レイディスも、何も知らないままその力を利用されて実行犯になり、彼自身も壊される。そんなの許せるはずがない)
ずきずきと頭が痛む。意識が遠のきそうだ。蹴られた脇腹も、叩かれた頬も痛い。ここに来るまでの間に何度も打ち付けた肩や膝も、きっと痣になっているだろう。けれどそんな痛みが何だ、傷が何だ。
(私が何とかしなきゃ、たくさんの人が死ぬ。……違う!)
私は柱の角に擦れる前腕の皮膚が熱くなるのを感じながら、姿勢を正し、昂然と頭を振り上げる。
(『私たち』が防ぐんだ。エリクスさんは絶対に私を助けに来てくれる。私にできることはこの地獄で待っていること、そして、)
ぐっと、猿ぐつわを噛みしめた。頭を柱に付けると、ほつれかけた結び目に硬い感触がする。そういえば、エリクスさんにもらった髪飾りをつけてきたんだった。ただちょっと後頭部に異物感を感じただけのことなのに、胸の奥に光が灯るような気がした。
瞼をひらめかせ、毅然とした眼差しで周囲を見回す。私は内心で強く言葉を噛みしめた。
(私にできることは、――絶対に諦めず、最後の最後まで足掻き続けることだ!)
考えろ。限界まで思考を回せ。
(異能者を消費してその力を操る機械。機械に入った異能者は壊される。一般人が入れば何が起こるか分からない)
私は黙考に沈む。私を遮るものは何もなく、一筋の明かりもない時計盤の裏には、一分おきに分針がかちりと動く音ばかりが響いていた。鳥も鳴かない闇の中、どうしようもない孤独に足先から蝕まれるような心地だった。
(髪飾り。加護の代わりとして買ったもので、透明な石が嵌まっている)
私にできることは少ない。とても少ない。私たちはひとりで大いなる脅威に立ち向かうことはできないし、ひとりで世界を救うこともできない。
(エリクスさんが選んで、髪を留めてくれたものだ)
声が耳の底で蘇る。『手作りだから、当然ぜんぶ一点もの!』。それは、店番をしていた少女の明るい声音である。
(黒く染まった加護の石。未確認の異能)
私は戦えもしなければ、不思議な力で誰かを直接助けることもできない。私にできることと言ったら、表情や身振り、言葉を弄して人を誑かし、嘘をつき、はったりを言い、会話を思う方向へと導くことだけである。
(――ユティニア。純系の異能の血筋であるとされている民族。既に滅びた村。その存在や詳細を知る者はもはや少ないだろう、でも)
私は瞑目した。
(異能者を『選ばれた存在』と考えるような人間が相手ならば、……ユティニアの名は、使えるかもしれない)
……瞼の裏で、父が微笑んだ気がした。




