夜明けの元夫婦
夕食の席は静かだった。私は黙々と料理を口に運び、エリクスさんも何やら物思いに耽っているような顔でテーブルの木目を睨みつけている。
ほとんど同時に食事を終えた頃、エリクスさんはおもむろに口を開いた。
「……『設置は二時の下 広場にて』。これが意味することは、」
「歴代町長の像……ですよね」
私は目を伏せたまま言葉を継ぐ。エリクスさんも短く頷いた。
「町長の像は全部で十二体。それらは円形の広場の外周に沿って等間隔に配置され、時計に見立てて伝えても不思議ではありません。……二時の下ということは、二代目町長の像が置かれた台座の下に、あの機械が設置される、ということかと。あの台座も人の背丈以上の高さがありますし……」
私の推論に、エリクスさんは「そうだね」と相槌を打つ。
「僕もそう考えている。だが、しかし……何かが引っかかるな……」
眉根を寄せ、エリクスさんが低く呟いた。しかし、私が何か声をかけるよりも先に、「それはまた別のところで審議すれば良いか」と結論づけてしまう。
どうにも気だるい空気が漂っていた。私は口が重く、エリクスさんも特段無駄口を叩くつもりはないようである。
「僕は明日、支部に成果を報告するために早朝に家を出るから、恐らく君が起きたときには既に出発したあとだろう」
食器を重ねながら、穏やかな声で彼は目を伏せたまま告げる。それはただの連絡事項である。
「この部屋に関しては、のちのち担当の人間が片付けに来るはずだから、無理に掃除や片付けをしなくても大丈夫だよ。必要なものは忘れていかないようにね」
「エリクスさん……」
私は堪えきれずに声をかけた。エリクスさんは一瞬だけ黙ったが、続けて口を開く。
「……切符はあらかじめ用意できなかったから、駅に着いたら自分で買って欲しい。明日の朝、このテーブルの上に必要な金額を置いておくから、それを使ってね」
「エリ、」
「切符の買い方は分かる? 間違って往復切符を購入しないように気をつけるんだよ」
「エリクスさん!」
私はついに腰を浮かせて、その顔をじっと見据えた。エリクスさんは目を伏せている。私は眉をひそめた。
「……エリクスさん。どうして、さっきから私の方を見てくれないんですか?」
「今日は朝から出かけていて疲れただろう。子どもは早く寝なさい」
「私、子どもじゃありません。……もう、一人の諜報員です」
「あはは、任務をいくつこなそうが、子どもは子どもだよ。子どもを大切にするのが、年長者の務めってやつだ。どうか守らせてよ」
エリクスさんは私の言葉を一笑に付し、軽く首を傾げてみせる。私はもう返す言葉もなく、黙ったまま、俯いて唇を噛んだ。
***
私たちの家に静かな足音が響いていた。扉が開閉する音。洗面所の蛇口が捻られる音。水が排水溝を流れてゆく音。蛇口が閉められる。再び足音。扉の蝶番が軋む音。やかんに水を汲む音。火を付ける音。床が僅かに軋む。咳払い。椅子が引かれる。机の上にことりと皿が置かれる。
そうした生活音を、微睡みの中で聞いていた。枕に頭を埋めたまま、布団の中に潜ったまま、私はぼんやりとした頭で考える。
(……エリクスさんは、今日の早朝に、出る、んだっけ)
そう胸の内で呟いて、目を閉じかける。が、すぐに私はぱっと両目を大きく見開いた。
(挨拶もなしにエリクスさんとお別れ!? そんなの駄目!)
がばり、布団を蹴飛ばして飛び起きる。
(それに私、エリクスさんにまだお礼を言ってない!)
これはいけない。私は慌てて手櫛で髪をまとめてひとつに結ぶと、ほとんど扉を蹴破るようにして居間に突入した。
「エリクスさん!」
「わっ、びっくりした……。どうしたの?」
「おはようございます! あの、お伝えしておきたいことがあるのですが……!」
騒々しく駆け込んできた私に、エリクスさんはその両目を大きく見開き、ぱちぱちと瞬きをしている。私は肩で息をしながら、今度は大人しく扉を閉めた。
「と……とりあえず、座りなよ」
エリクスさんは未だ驚き冷めやらぬ様子で、私に椅子を勧める。私は促された通りに腰を下ろした。
見れば、半開きのカーテンの向こうには、まだ薄暗い空がある。千切られたような細い雲が、掠れながら空にたなびいている。空の端は僅かに赤みを帯びていた。普段ならまだ寝ているはずの早朝である。急に飛び起きたせいで、心臓が変な風に脈拍を打っていた。眠気も腹の底に重く溜まっていたが、それも気にならない。
私は膝の上に置いた拳を、強く握りしめた。
(どんな反応をされたって構わない。私はどうしても、エリクスさんにこの思いを伝えたい)
そう腹をくくってはいても、やはり怖いものは怖いのである。私は唇を噛みしめる。
(あなたに助けて頂いたおかげで、今もこうして生きているんだって。あなたに憧れて、今こうして同じ道を歩んでいるんだって。あなたのように、誰かを救える人になりたいって、私はちゃんと伝えたい。……あなたとまた会えて本当に嬉しかったって、あなたと一緒に仕事ができて幸せだったって、あなたのことが、とても大切だって、)
たとえエリクスさんが何も覚えていなくたって、それで良い。きっとエリクスさんはたくさんの人を助けることができるひとで、私はその中の一人にしか過ぎないのだ。だから一顧だにされなくたって全然平気だ。
(これを伝えるのは、私の我が儘であり、押しつけにしか過ぎないんだから)
私は一度俯き、大きく息を吸って、吐いた。
「…………。」
エリクスさんはしばらく、黙ったまま私を見据えた。それから、ややあって、片手を挙げて私を制する。
「――その前に、僕の話をしても良いかな?」
いきなりの言葉に、私は目を丸くする。エリクスさんは苦笑交じりに続けた。
「『任務が終わったら教えてあげる』と言っていたのに、結局まだ言っていないことに気づいて。これを逃したら、もう話す機会もないだろうしね」
「あ、えっと……そ、そうですよ! 私、まだ聞いていません!」
慌てて記憶を辿ってから、私は勢いよく頷いた。
数日前、エリクスさんが『任務が終わってからね』とぼかした話題があった。それは、戦闘員であったはずのエリクスさんが、何故かこうして諜報活動に参加している理由である。
エリクスさんはマグカップに口を寄せ、湯気の立つコーヒーを一口飲んでから、ふっと視線を薙いだ。そこに物憂げな色を感じて、私は緊張気味に肩を強ばらせる。
「これは、あまり人に話したことのない話題だ。本部に帰っても、あまり言い触らしたりはしないで欲しい」
「も、もちろんです」
こくこくと頷くと、彼はマグカップを置いて、天板の上で緩く腕を組んだ。
「あらかじめ前置いておくけれど、これはそれほど愉快な話ではない。僕も包み隠さず全てを話す訳ではない」
そう言って、エリクスさんは、静かに微笑んだ。
「端的に言おう。初任務での話だ。――――僕は、守るべき民を目の前で見殺しにしたんだよ」
その言葉に、私は、ゆっくりと息を吸った。目を見張りはしたものの、言葉にして反応を示しはしなかった私に、エリクスさんは訥々と語る。
「あの頃の僕は、ちょうど今の君と同じくらいの年で、未熟で向こう見ずなところのある子どもだった。女王陛下の特別部隊に戦闘員として入隊して、そうして迎えた初任務は、対応が後手に回ったことによる緊急出動だった」
淡々と言葉を紡ぐ、その目に迷いはなかった。それは、あまり人に話したことがないという彼の言葉と矛盾しているように思えた。否、彼はきっと、幾度となくこの話題を繰り返してきたのだろう。……何度も何度も、胸の内で数え切れないほど反芻し、自らに突きつけてきたのだろう。そうと分かる眼差しだった。
しかし、その直後に続いた言葉に、私は心臓が凍り付くような衝撃を受ける。
「ユティニアと呼ばれる、とある少数民族に対する侵略から、彼らを守れ。それが、僕の初任務だった」
(……ユティニア!?)
それは、私の生まれ育った村の名前であり、名乗っていた民族の名でもあった。私は束の間の混乱に叩き落とされる。しかしエリクスさんの言葉は続く。
「ほぼ全ての人間が異能を持つ、それは今となっては非常に特異な、純系の異能者の血筋を継ぐ民族だった。そのせいで彼らは狙われた」
「えっ……?」
私は思わず口を手で覆った。大きく目を見開く。エリクスさんの語る内容が分からない。ちっとも分からない。
「……ほぼ全ての人間が、異能を持つ……?」
(そんな話、私は知らない)
ぐるりと地面が一回転したようだった。私は視界が大きく歪むのを感じた。「そんな民族があるなんて驚きだよね」とエリクスさんが応じるのを、聞くともなく聞きながら、私は浅い呼吸を繰り返す。
(ユティニアの人たちが異能者? でも、違う、知らない。私は知らない。お父さんもお母さんも、異能を使っているところなんて見たことはない。弟だって、決して異能者ではなかった、そのはずだ)
私の動揺を知ってか知らずか、エリクスさんはそのまま話を進めてしまう。
「しかし、侵攻の動きを掴むのに手間取り、僕たちがその村に駆けつけたときには、村は既に酷い有様だった。家々は破壊され、あちこちが燃え落ちて、たくさんの村人が姿を消していた。……そんな中で、僕は、誰かを探しながら通りを歩く男性と、近くの陰に隠れて銃を構える人影を見つけた。それが襲撃者であることは一目瞭然だった」
腕を解き、彼は緩く十指を組み合わせた。その顔には、諦念のような微笑の他に感情は見られない。
「銃は支給されていた。だから僕はすぐに銃を抜いて構えた。狙撃の実技はいつも好成績でね。現場に出てもそれが変わらない自信はあったし、事実その通りだった。でもね、遅かったんだよ」
エリクスさんは、笑顔の残骸のようなものをその頬に引っかけたまま、目を細めた。
「僕の銃弾は、確かに襲撃者の肩を撃ち抜いた。でも、そのときにはもう遅かった。僕よりも早く、襲撃者は男性の頭を撃ち抜いていた」
ひゅっ、と、私は息を止める。血の気が引くような心地がした。エリクスさんは、もはやその顔に笑顔などちっとも浮かべてはいなかった。その顔は酷く青ざめていた。
「僕は間に合わなかった。現場まで駆けつけておきながら、目の前でみすみす市民を殺されたんだ。僕は慌てて倒れた男性を安全な物陰まで移動させたけど、もう施す手はなかった」
それは、絶望という言葉がよく似合う表情だった。きつく組み合わせた十指の先が真っ白になっている。
エリクスさんは、まるで血でも吐くみたいに、苦しげな声で囁いた。
「彼の最期の言葉は端的だった。――『子どもたちを助けてくれ』、と。彼が何度も呼んでいた名前は彼の娘と息子のものだった」
私は、身じろぎ一つできないまま、呆然とする。頭が回らなかった。呼吸が、まるで泣き出す前のそれみたいに、徐々に徐々に、速く、浅く、戦慄いていくのが分かった。ふいごのように、空気が激しく出入りする。胸の内が熱い。痛い。それなのに、手足の先は逆に、氷のように冷え切っていた。それがひどく痛くてつらい。
(これは、……誰の、話だ)
嫌な予感がしていた。言葉には形容できない。証拠もない。それなのに、私は、四肢をその場に縫い止められでもしたように、エリクスさんを見つめていた。
「――それから程なくして、僕は、銃を突きつけられている、小さな女の子を見つけたんだ」
エリクスさんの言っていることが分からない。聞きたくない。思い出したくもない、惨憺たる光景が脳裏に浮かんでは消えてゆく。聞きたくない。これ以上聞きたくない。耳を塞ぎたい。それなのに私は動けなかった。
「咄嗟に銃を抜くことはできなかった。銃を構える時間も資格もないと思った、少女を襲う二人組を取りあえず死なない程度に殴り飛ばして、僕はその子をすんでの所で助けることに成功した」
そこで一旦話を切ったエリクスさんは、くしゃりと顔を歪めた。
「……この話は、ここでやめておこうか? きっと気分のいい話じゃないから。君みたいにまだ若い子に聞かせるような話じゃないよ」
その言葉に、私の口は、是とも否とも答えられず。けれど、気づけば首だけが横に動いていた。続けて、と、唇だけで囁く。
やめないで。最後まで聞かせて。私はあなたの話が聞きたい。私はあの日、何があったのかを知りたいのだ。
やめようか、という提案に拒否を示した私に、エリクスさんは露骨に苦笑した。いかにも口が重そうに、彼は小さく息をついてから口火を切る。
「何だか変な予感がしてさ、僕はその子に名前を訊いたんだ」
名前を訊く、その下りには覚えがあった。私ははっと目を見張る。
(……いや、だ)
いやだ、これ以上は聞きたくない。それなのに耳が塞げない。話を遮れない。私は肩を強ばらせたまま、血の気の引いた顔を伏せた。
「訊いても仕方ないことだったんだ。あのとき訊かなければ良かった。そう、身勝手にも思ってしまったこともある」
エリクスさんが唸る。私の喉はまるで凍り付いたようだった。鼓動が止めどもなく早まる。唇を歪める。鼻に皺を寄せて堪えようとしたのに、両の目頭がカッと熱くなるのを感じた。
「僕が見殺しにした男性が呼びながら歩いていた二つの名前を、僕は覚えていた。忘れられるはずがない。今まで思い出さなかった日なんてない。訊けば、僕が助けたその子はすぐに名前を教えてくれたよ。……なあ、信じられるかい、」
その目元は真っ赤に染まっていた。目は痛々しいほどに充血し、それでもエリクスさんは息を揺らがせることも、何かを目から零すこともなく、彼は、吐き捨てた。
「同じ名前だったんだよ。――僕が助けられなかった男性は、僕が助けたと思っていた少女の父親だった。……『助けた』なんて大嘘だ。僕は、あの子の大切な家族を見殺しにした張本人なんだから」
瞬間、私は堪えきれずに嗚咽を漏らした。膨れ上がった雫が、堰を切ったように目の縁から溢れ出し、頬を伝い、顎の先から滴り落ちた。不意に泣き出した私に、エリクスさんは『だから忠告したのに』と言いたげな顔をした。
話を打ち切ろうとするエリクスさんを制するように、私はかぶりを振った。頬を伝う雫が手元に落ちる。
(聞かなければいけない。私は聞き届けなければいけない)
訊いたって仕方のないことを、訊いても今更何も変わらないことを、訊かなくたって分かることを、訊いたら取り返しのつかなくなることを、しかし私は訊かなければならなかった。
「――その、子は。な……な、んと、いう、名前だった、んですか」
息ができない。頭が痛い。体が動かない。激しくしゃくり上げる合間に絞り出せば、エリクスさんは「変なところが気になるんだね、」と眦を下げる。
エリクスさんは、……私の命の恩人は、私がずっと憧れてきた人は、私の初恋の人は、彼は、
……消え入りそうな声で、震える声で、しかしはっきりと告げた。
「――――『メルセリナ』」
私は、口元だけに、そっと笑みを浮かべた。
(……ああ、)
繋がってしまった点と点に、私は、呆然と、息を吐いた。次第に息が落ち着いてゆく。それなのに、目からは涙が流れ続けていた。
家族はみんなどこかで一緒に生きていてくれるんだと、そう信じて今までやってきた。私だけが分かたれてしまったけれど、きっと残りの三人はまだどこかで幸せに暮らしていて、再会さえすれば私はそこに受け入れられて、また元通りに暮らすことができるんだって。――私には帰る場所があるのだと信じて、今まで生きてきた。
(……おとうさんは、もう、)
はらはらと、音もなく溢れては伝い、滴り、染み込んでゆく。
気づけば窓の外には薄青の空が広がっており、どこからともなく小鳥の鳴き声が聞こえている。光が射した。僅かに金色を帯びた光線を浴びながら、私はゆっくりと、胸を上下させていた。
エリクスさんは瞑目する。
「……それから僕は、諜報部に移籍することを希望した。諜報員になれば、もっと早く、未然に被害を防ぐことができるかもしれない、そう言って……。でも結局、諜報部への異動は女王陛下に却下されたよ」
額を押さえていた手をぱたりと落とし、彼は息混じりに囁いた。
「女王陛下はよく分かっていらした。僕がそんな崇高な目的から諜報員への道を志したんじゃなくて、ただ戦場から逃げ出したいだけの臆病者であることを、よく見抜いておられた。……そういう訳で今は、戦闘員と諜報員を兼任するような、どっちともつかずの立場にいるというわけ」
そうまで言い終わって、エリクスさんはへらりと笑った。
「君がどこで僕のことを知ったのかは知らないけれど、僕はちっとも優秀でもなければ目標にするところもない、どうしようもない人間だよ。幻滅してくれて構わない。僕はあれ以来銃を持つこともできやしないんだ。怖いんだよ、……あのときの女の子が、――メルセリナが僕を非難する夢を何度も見る。『どうしてお父さんを助けてくれなかったの』って。僕はね、もう何年も昔に会っただけの、たった一人の女の子が今でも怖いんだ」
私は「そんなこと」と頭を振った。でも言葉がどうしても上手く出てこない。エリクスさんは私の否定など聞こえなかったような素振りで、「もうこんな時間だ」と腰を浮かせた。
「まずいな、もっと早く出る予定だったんだけど」
言いながら、エリクスさんは傍らに置いてあった鞄を取り上げる。
「あまり楽しくない話を聞かせてごめんね。どうか忘れて欲しい。……僕も少し取り乱してしまったみたいだ」
鞄から封筒を出して、テーブルの上に置く。切符代だろう。
私はろくろく言葉も紡げないまま立ち上がり、出て行こうとするエリクスさんを見送ろうと追いかけた。
「ま……待って、エリクスさん、」
エリクスさんの手が玄関の扉にかかった瞬間、私は手を伸ばして声をかけていた。ほとんどつんのめるようにして前へ出た。
私は伝えようと思っていた。私は昔あなたに命を助けられて、それがきっかけであなたと同じ道を志したんです、と。あなたが憧れなんです、と。
そこで、私ははたと足を止める。
(……言える、訳ない、)
エリクスさんは、まさか件の子どもが、今目の前にいる私であるなどとはつゆ知らずに話したはずである。だからこの話を打ち明けてくれた、そのはずである。
(私が本当のことを告げたら、エリクスさんはどう思う? 今でも私に責められる夢を見るというエリクスさんは、どれだけ衝撃を受けるだろうか)
伸ばした指先が震えた。唇を噛む。くしゃりと顔が歪んだ。
(……何より、私自身が、それを告げられる状態では、ない)
止めどなく溢れる涙を自覚しながら、私は深く項垂れた。
私の手を優しく振り払って、彼は「ごめん」と囁く。頬を伝う涙を、エリクスさんはもう拭ってはくれなかった。「君を甘やかしてあげる資格はもうないから」と、そっと突き放される。
「一週間にも足らない時間だったけれど、君と一緒に生活できて楽しかった。君はとても真面目で頑張り屋だし、誠実だ。ほんの少し感情が顔に出やすいのが難点だけど、上手くすれば、それも君の強い武器になると思う。君はもう立派な諜報員だよ」
エリクスさんは身を屈め、私と目線を合わせて微笑んだ。
「君は、僕なんかよりずっと優れた諜報員になれる。君は人を救える人だし、人に救われる人だ。誰かにとっての光になれる、そうした資質を持っている人だ。今から将来が楽しみだよ」
ほら、もう泣かないで、とエリクスさんが苦笑し、そうして不意に顔を寄せた。
「――さようなら、僕の元奥さん」
一度だけ額に口づけて、エリクスさんはそのまま玄関の扉を開け放つ。規則正しい歩調で歩き出したエリクスさんを、私は黙って眺めた。玄関先で立ち尽くしたまま、後ろ姿を見送ることしかできない。嫌味なほどに爽やかな風が吹き込み、濡れた頬を乾かしてゆく。
「元気でね」と言葉を残して、扉が閉じる。
ひとり取り残された私は、ただ、呆然と、その場で佇んだまま、もう向こうから開かれることのない扉を見つめていた。




