第六十五話 「出頭」
「自首……しようと思うんだ」
俺がそう言った瞬間、春恵は顔を真っ青にして持っていた食器を落とした。わかっている、俺がとんでもない事を言った事は。だが、もうこれ以上は限界だったし、何よりもう春恵に迷惑をかけたくなかった。こんな俺を……人を殺して指名手配されている俺をかくまい続ける生活など、彼女のためにももう終わりにしなければならなかった。
俺が人を殺したのは、もう五年も前の話になる。俺がどんな経緯で人を殺す事になったのか……それについての詳細をこの場で語るような事はしないでおく。確かなのは、警察の捜査でその事件の犯人が俺だという事がすぐにばれてしまった事。そして俺は逃亡せざるを得なくなり、以降、五年に渡って指名手配され続けているという事だけである。
春恵とは逃亡中に出会った。彼女は俺が指名手配中の殺人犯だと知った後も、俺を警察に突き出さずにかくまう道を選んでくれた。そこに至るまでの経緯についてもここで改めて語るような事はしない。ただ、皮肉な事だが、そこで俺は人の温かさというものを初めて知り、そして初めて自分が犯した罪を心から反省する事となった。俺は毎晩のように自身が犯した罪の罪悪感に苦しんだ。だが、自身が捕まるリスクを負ってまで俺をかくまってくれた春恵の事を思うと、簡単に自首する事もできなかった。俺は心の奥底に苦悩を抱えながら毎日を過ごし、そのまま時間だけが流れていった。
だが、それももう限界だった。俺はもう疲れ果てていた。そして、これ以上の罪悪感には耐えきれないと自分で感じていた。もう、この辺りが潮時かもしれない。このまま罪悪感に押しつぶされて残りの人生を生きるより、しっかりと罪を償って堂々と彼女と共に生きていきたいと思ったのだ。
春恵も、俺の決意の強さを悟ったのだろう。彼女は何も言わなかった。ただ、俺に縋り付いて涙を流してくれた。俺は、何の関係もなかった彼女に涙を流させてしまった自分を憎らしく思い、そして彼女のためにもしっかり罪を償わなくてはならないと改めて実感したのだった……
……次の日、俺は春恵に付き添われて、潜伏場所の最寄りの交番に出頭する事にした。おそらく当面見る事ができなくなるであろう町の景色は美しく、俺はその光景をしっかりと目に焼き付けながら交番へ向かった。傍らの春恵は我慢しているようだが、それでも目にうっすらと涙が浮かんでいる。本音を言えば、俺と関係ない事を強調するためにも彼女には家で待っていてほしかったのだが、春恵はそれを頑として聞き入れず、最後まで俺に付き添う事を主張した。あの時、彼女のような存在さえいれば殺人を犯す事もなかったのかもしれないが……今となっては未練というものだろう。
しばらく歩くと、人通りの少ない交差点の角に小さな交番があるのが見えてきた。ここが俺のゴール地点である。俺は一呼吸を置いた後、覚悟を決めて交番へ向かった。
「すみません、誰かいませんか?」
入口に立って声をかけると、しばらくして奥から制服を着た若い警察官が姿を見せた。
「はい。何か御用でしょうか?」
「あの……実は……」
俺は自首しに来たとその警官に言おうとする。が、自分の気持ちに反して口はうまく動かない。何しろ自分の人生を自分で終わらせようとしているも同然なのだ。覚悟を決めていたとはいえ、現実はそう簡単にその言葉を口に出す事はできなかった。
しばらく何も話せずにいると、さすがに相手の警官も訝しげな表情を浮かべ始める。
「あの、何か?」
「いえ、その……」
躊躇する俺だったが、そんな俺の背中を、隣にいる春恵がそっと押してくれた。ハッとして横を見ると、春恵は目に涙をためながらも微笑みを浮かべ、そして無言で頷いてくれた。俺には味方がいる……俺はそんな彼女の行動に勇気づけられ、改めて一呼吸置くと、困惑した顔をしている警官に向き直って、償いのための言葉をしっかりとした口調で言おうとした。
「実は、俺は……」
と、まさにその瞬間だった。
「う……う……あ……」
突然、そんな呻くような声が聞こえてきて、俺の言葉は途中で止まった。何の声かわからず、俺は反射的にさっき目の前の警官が出てきた交番の奥の方に視線を向ける。そして、俺はしっかりそれを見てしまった。
他でもない、交番の奥から床を這いずるようにしてこちらへ向かってくる、血まみれになった警官の制服を着たの男の姿を。
「な……」
さすがの俺も絶句してしまった。そしてそれは横にいた春恵も一緒で、彼女は口に手を当てて言葉を失っている。と、その男は必死に俺に向かって手を差し伸べながら呻くように言葉を発する。
「に……逃げろ……早く……」
「え?」
思わず俺がそう聞き返した……次の瞬間だった。
「うるさいな」
そんな声がすると同時にパンッという鋭い銃声が響き、床を這いずっていた男の背中からさらに血が噴き出した。血まみれの男は低い唸り声を上げて、そのまま動かなくなる。そして、銃を撃ったのは……
「あーあ、見ちゃったんなら仕方ないなぁ。もう少し続けられると思ったのに。残念だなぁ」
そう、さっきまで俺たちに応対していた、あの若い警察官だった。その顔には警察官らしからぬ狂気じみた笑みが浮かんでおり、その手には一丁の拳銃が握られていた。
「お前……」
「ちゃんと殺したはずだったんだけどなぁ。悪いね、おじさん。恨むんだったら、警官のくせにあんたに助けを求めたこいつを恨んでよね」
そう言いながら、その若い警察官は俺たちに拳銃を向ける。俺は咄嗟に春恵をかばうように前に出て叫んだ。
「何のつもりだ!」
「何って、死んでもらうんだよ。『目撃者は消せ』……犯罪者の常套手段だよね。陳腐だけど、実際にやる側になったら大切な事だってわかったよ」
直後、その警官はあろう事か春恵の頭に銃を向けた。
「じゃ、まずはレディーファーストって事で。頼むから、すぐに死んでよね」
瞬間、俺の頭の中が怒りではじけ、反射的にその警官に飛びかかっていた。
「ふざけるなぁぁぁっ!」
……今にして思えば、拳銃を持っている相手になんて無謀な事をしたのかと思う。が、春恵を狙われて俺は完全にキレていた。そして、そんな襲ってくる俺に余裕の表情で拳銃を向けた奴の顔が、すぐに呆気にとられるのが俺には見えた。それはそうだろう。
何しろ、俺の手には一本のナイフが握られていたのだから。
「グアァァァァァッ!」
俺が突き出したナイフが警官の右腕に突き刺さり、奴の手から離れた拳銃が交番内のどこかへ飛んでいくのが見えた。あのナイフは、五年前に俺が殺人を犯した際の凶器だ。自首してももしかしたら信じてくれないかもしれないと考え、俺が犯人である事を証明するためにずっと持ち歩いていた凶器のナイフを持参していたのである。もっとも、まさかあのナイフが再びこうして凶器になるとは思わなかったが、そんな事を言っている場合ではなかった。
「お、お前ェェェェッ! よくもっ! よくも僕を傷つけたねっ!」
警官はそう叫びながら左手で右腕に刺さったナイフを抜き取り、そのままどこかに投げ捨てると、狂気に支配された顔で俺目がけて突っ込んできた。だが、体格ではどう見ても俺の方が勝っていて、しかも実際にやり合ってみるとこいつは警官のくせに滅茶苦茶弱かった。交番内での大乱闘の末、結局五分ほどして俺はこの殺人警官を床に組み伏せていた。
「くそっ! 放せ! 放せよぉっ!」
「畜生! 何でこんな事になるんだ!」
とにかく、誰かに知らせなければならない。俺は交番の入口で顔を蒼ざめさせている春恵に叫んだ。
「春恵! すぐに救急車と警察を呼べ!」
「わ、わかった!」
春恵が慌てて交番の床に転がっていた電話を手に取って通報する。その間にも警察官は俺から逃れようと必死にうごめいていたが、今の大乱闘ではがれて床に落ちた指名手配のポスターを見た瞬間、急にその顔が驚愕に染まった。
「え……」
見てみると、そこには俺の写真がデカデカと掲載されている。そして、その警官はそれを見てようやく俺が何者かという事に気付いたようだった。
「お、お前! まさか、指名手配犯の殺人犯っ!」
「あぁ、そうだよ! わかったら、おとなしくしやがれ!」
「ひ、ヒィィィィッ! 助けて! 殺さないで! 死にたくないよォォォォッ!」
今までの大暴れは何だったのか、その警官は情けなさ過ぎる悲鳴を上げて、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら俺に懇願してくる。俺は同じ殺人犯としてこいつの態度に呆れ果てながら、それでもしっかりこいつを拘束しつつ、近づいてくるサイレン音を聞いていた。
「ったく、どうしてこんな事になっちまったんだ! せっかく覚悟を決めてきたのに、頼むから自首くらいまともにやらせてくれ!」
そんな俺の叫びに、近くにいた春恵も、何だか複雑そうな顔をしていたのが印象的だった……
「ったく、何て野郎だ!」
……それから一時間後、現場となった交番に駆け付けた警視庁刑事部捜査一課十三係の橋本隆一警部補はそう吐き捨て、その横で同じく十三係所属の榊原恵一警部補も厳しい視線を現場に向けていた。その目の前で、鑑識による作業が今も行われている。
「被害者はここの警官だと聞いたが」
「あぁ。寺木要吉巡査部長と小瀬高雄巡査部長。二人とも長年この交番に勤務し、地域の人間からも愛された実直な警察官だ。そんな人をよくも……」
橋本が拳を握りしめながら怒りを押し殺す。駆けつけた警察が交番内を調べた所、奥の休憩室は血まみれになっており、そこにもう一人の警察官も倒れていた。こちらは拳銃で脳天を撃ち抜かれており、ほぼ即死だったという。
「犯人は、いわゆる警官マニアだったらしいな」
「あぁ。名前は草金敦毅で職業は警備員。かねてからの警官マニアで、過去に実際に警察官採用試験も受けていたが、結果は不採用。それでも警察官へのあこがれを捨てきれず、ついに警官を襲撃して制服を強奪し、それを着て警官に成りすます事を思いついたそうだ。ふざけやがって!」
橋本はそう吐き捨て、事件の詳細を説明する。
「供述によると、事件当時、この交番には寺木巡査部長と小瀬巡査部長がいたようだが、犯人の草金は小瀬巡査部長が空き巣の通報を受けて交番から離れ、交番内に寺木巡査部長一人になった瞬間を見計らって犯行を決断。落とし物を拾った風を装って交番を訪れ、応対した寺木巡査部長の隙を見計らって持ち込んだサバイバルナイフで襲撃し、奥の休憩室まで押し込んだ上で何度も刺して瀕死の重傷に追い込んだ。その後、寺木巡査部長の拳銃を奪うとそのまま交番内に隠れ、やがて帰ってきた小瀬巡査部長が休憩室を確認して寺木巡査部長を発見。思わず駆け寄った小瀬巡査部長の背後から拳銃を発砲して即死させ、その後は警官のふりをして交番にやってくる人たちの応対をしていたという話だ」
と、ここで榊原が呟くように言う。
「ところが、そんな所へよりにもよって指名手配中の別の殺人犯が出頭しに来てしまったというわけか」
「あぁ。五年前に喧嘩相手を殴り殺して逃走中だった石垣勝という男で、当局の目を逃れてずっと潜伏し続けていたんだが、良心の呵責に耐えかねて今日になって出頭を決断したらしい。かくまっていた女性とともにこの交番にやって来て、警官のふりをして応対した草金に出頭しに来たことを言おうとしたら、奥から瀕死ながらもまだ生きていた寺木巡査部長が這い出てきたとの事だ。で、草金は寺木巡査に向かって発砲し、そのまま目撃者である石垣たちを消そうと銃を向けてきたので、石垣は自身が本物の石垣勝である事を証明するために持って来ていた五年前の事件の凶器の刃物でやむなく応戦。まさか反撃されるとは思わず不意を突かれた草金は初撃で右腕を切られて拳銃を落としてしまい、そのまま組み伏せられてなお反撃しようとしたが、ふと目に入った指名手配ポスターの写真に写っていた殺人犯と目の前の男が同一人物だという事に気付いて戦意を喪失。おとなしく捕まり、石垣自身が警察に通報して事件が発覚したという流れだ」
「最初は指名手配犯が交番を襲撃したのかと思ったが、まさかその指名手配犯に救われる事になるとはな。何がどうなるかわかったもんじゃない」
もちろん、最初に駆けつけた警察官も最初は逃走中の石垣が再び凶悪犯罪をしでかしたのかと思ったらしいが、草金を取り押さえていた石垣とその場にいた春恵という女性の必死の証言により事の次第が明らかになり、交番内に設置されていた防犯カメラの映像からその話が真実であると断定されるに至ったのである。
「しかも、石垣の通報で救急車がいち早く駆け付けたおかげで、寺木巡査部長の方は助かるかもしれないって話だ」
そう、頭を撃ち抜かれていた小瀬巡査部長はさすがに助からなかったが、瀕死の重傷にもかかわらず必死に石垣たちに警告をしようとした寺木巡査部長の方はかろうじてまだ息があったのである。彼はすぐに病院に運ばれ、医師の話では五分五分ではあるとはいえ、命が助かる可能性があるのだという。
「これ、どうなるんだ?」
「どうって、草金はどう考えても極刑だろう。こんなふざけた動機で警察官二人を殺傷しておいてただで済むわけがない」
「そうじゃなくって石垣の方だよ。榊原はどう思う?」
橋本の問いかけに、榊原はこの男にしては珍しい事に複雑そうな表情を浮かべた。
「どうだろう。ひとまず、今回草金を取り押さえた事は正当防衛になると思う。刃物を使った事は多少問題になるかもしれないが、何しろ相手は拳銃で石垣を殺そうとしていたんだ。拳銃相手に刃物を防衛手段として使う事は少なくとも『過剰』とは言えないだろうし、相手が拳銃を手放してからは刃物を使っていないようだから、裁判所も過剰防衛ではなくちゃんとした正当防衛を認める可能性が高い」
「それはまぁ……そうかもしれないが」
「だが、それと五年前の殺人は全く別の話だ。それはそれで罪が消えるわけもないし、証拠さえそろっていれば普通に起訴されるはず。それ以前に石垣は指名手配犯だから、今回のこれは『自首』ではなくただの『出頭』だ。従って、出頭した事で無条件に罪が軽減されるわけではないから、五年前の殺人の裁判に及ぼされる影響は少ないと思う」
そもそも刑事法上の『自首』とは「犯罪事実が捜査機関に発覚していない段階、または発覚していても犯人が特定されていない段階で捜査機関に名乗り出る事」を指し、例えば指名手配のようにすでに犯人が特定されている状態で名乗り出ても『自首』にはならず、単なる『出頭』扱いとなる。先程から榊原たちが『自首』という言葉を使わず『出頭』とばかり言っているのもそれが理由であった。そして『自首』は任意的な減刑事由(絶対減刑しなければならないというわけではないが、裁判官が被告人を減刑する時の法的根拠として任意に使う事ができるという意味)としてちゃんと刑事法上で明記されているが、『出頭』にはそのような規定は存在しないため、『出頭』が減刑の理由になる事は実際に裁判をする裁判官が個々の裁量で認めない限りはほとんどあり得ないという事でもある。
「ただまぁ、認められるかどうかは別として、弁護側が石垣が出頭した事や別の殺人犯を捕まえて他人の命を救おうとした行動を理由に情状酌量による減刑を主張し、裁判官が己の良心を根拠に減刑を認める可能性がないとまでは言い切れない。あくまで認められるかどうかは別として、ではあるが」
「指名手配犯じゃなかったら表彰されてもおかしくない話ではあるが、実際はそこまで甘くないし、殺人という罪は簡単に消えないって事か」
「あぁ」
そう言ってから、榊原は複雑そうな表情でこう付け加えた。
「だが、あくまで個人的にではあるが、今回ばかりは杓子定規な判断ではなく柔軟な対応をしてもらいたいものだ。結果的に量刑が変わらなかったとしても、だ」
「……同感だな」
とはいえ、それを判断するのは榊原たちではない。榊原と橋本は何とも言えない顔で、連行されていく石垣を見送っていたのだった……。
「……で、結局どうなったんですか?」
……それから約十年後、警察を辞めて私立探偵となった榊原に、かつての事件の話を聞いていた自称助手の女子高生、深町瑞穂が興味深げに尋ねた。
「草金の方は小瀬巡査部長を殺害した容疑と、寺木巡査部長に重傷を負わせた容疑で起訴され、無期懲役の判決が下されている。さすがに死者一名で死刑判決は出なかったが、それでも充分重い判決で、今も仮釈放が認められないまま刑務所に収監されているはずだ」
「じゃあ、肝心の石垣の方は?」
「概ね当時私が予想した通りだったよ。草金を取り押さえた一件については正当防衛になる可能性が高いと検察も考えたのか、結局不起訴扱いになって、審理自体がなされていない。まぁ、妥当な所だろうな。検察はそもそも勝てない裁判はしない主義だし、いくら殺人犯でもこの一件で石垣を傷害罪なりに問うのは無理筋過ぎると考えたんだろうね。というより、下手に起訴して肝心の殺人罪の裁判でこの件が減刑理由にされてしまうのを嫌った可能性もある」
「はぁ」
「その代わり、五年前の殺人に関してはきっちり裁かれた。もちろん弁護側も色々情状酌量を主張したが、結局第一審は懲役七年の実刑判決を下し、本人が控訴せずに刑を受け入れたため、この判決で確定している。あれから十年以上が経つし、さすがにもう出所しているとは思うがね」
「今、どこで何をしているんでしょうね?」
「さぁね。私の仕事は事件の真相を明らかにする所までだ。ちゃんと罪を償ったのなら、これ以上私が言うべき事はないし、言うべきではないとも思う」
「そうです、ね」
榊原の言葉に、瑞穂も同意するように頷きを返したのだった……
その日、俺を訪ねて来た男は出し抜けにこう名乗った。
「寺木です。お久しぶりです……と言うべきなのでしょうね」
……俺は刑期を勤め上げた後、七年間ずっと待っていてくれた彼女……今の妻と無事に結婚した。収監中に何度か仮釈放の話はあったが、俺はそれをすべて断り、七年間を満期で勤め上げた。それが俺の償いだと思ったからだ。
出所後、俺は妻の生まれ故郷である瀬戸内の小島に渡り、そこで漁業をしながら静かに暮らしている。もちろん、年に一度ではあるが、俺が殺してしまった被害者への墓参りに行く事も忘れていない。遺族の方からの視線は冷たいままだが、それは当然の事だと思う。
そんなある日、俺を訪ねてきた男がいた。杖を突いたその男は「寺木」と名乗ったが、俺はその名前に確かに心当たりがあった。
「もしかして……あの時の?」
「はい。あなたが自首をした交番で草金に殺されかけた警察官です。こんな体になってずっと内勤になっていましたが、先日、無事に定年を迎える事ができましてね」
そう言ってから、彼はしみじみとした口調で話し出す。
「あの時、私はあなたに間違いなく命を助けられました。ですが、警察官という立場上、あなたにお礼を言う事ができなかった。あの時のあなたは裁判中の殺人犯であり、殺人犯に警察官が感謝するなどという事は許されなかったからです」
そう言ってから、彼は真剣な表情でこう続ける。
「しかし、あなたはちゃんと罪を償い、こうして再犯する事もなく生活を送っている。そして、私も先日警察を退職し、肩書きのないただの一般人に戻った。ならば、もう遠慮する事はない。今から言う言葉は、警察官ではなく一個人としての私の言葉であり、長年どうしても言えずにいた言葉です。今日は、それを伝えるために、こうしてお邪魔させて頂きました」
そして、彼は頭を下げてこう言った。
「助けてくれて、本当にありがとう」
その瞬間、俺の目からなぜか涙が流れ出た。ふと振り返ると、いつの間にか出てきていた妻があの時と同じように俺の横で目に涙をためながら微笑んでいる。こんな最低な俺でも感謝してくれる人がいた……その事実は、あの時自首を決断した己の判断が間違いなく正しかった事を、この上ない形で示すものに他ならなかったのだった……




