第四十二話 「レディース殺人事件」
「綾川心音、十七歳。一応都内の都立高校在籍だが、ほとんど学校には行っていないらしく、レディースの一人として都内で暴走行為をよく行っていた……簡単に言えば『走り屋』だ」
その日、警視庁刑事部捜査一課の榊原恵一、橋本隆一の両警部補は、品川署の取調室の中をミラー越しに見つめていた。状況を説明しているのは橋本で、榊原は取調室の中を見ながら黙ってそれを聞いている。
そして、その視線の先……取調室の中には、一人の少女がふてくされた様子で腰かけていた。茶髪に派手な服装をして、攻撃的な視線を正面の所轄署の刑事に向けている。
「こんな子が、殺人事件の第一容疑者とはな」
「だが、限りなく疑わしいのも事実だ。しかも、よりによって対立するレディースのメンバーを殺害した容疑だ」
そう言うと、橋本は事件の内容を確認する。
「今朝の六時頃、品川区内の首都高速の高架下の空き地で、彼女の所属レディース『ガンズ』と対立するレディース『ナイズ』のメンバー・黄桜梅乃の死体が発見された。死亡推定時刻は昨夜午後十時頃。死因はナイフで左腹部を刺された事による出血死で、現場に残されたそのナイフに彼女の指紋が付着していた。以前補導された時に採取された指紋がデータに残っていて、それがきっかけで任意同行と相成った次第だ」
「本人は認めているのか?」
「現状ではだんまりだ。あぁやって所轄の刑事を睨みつけてばかりで一言も話そうとしない」
橋本は続いて彼女をめぐる状況について説明していく。
「問題のレディース『ガンズ』は総長の小沼七緒を中心とする三十人程度のグループで、交通課の間では要注意グループとしてここ数年マークされている存在だった。彼女は高校入学後しばらくしてこのグループに所属している。何でも、総長の小沼が自らスカウトしたらしい」
「スカウトって、彼女、中学時代から荒れていたのか?」
「いや、同級生の話ではむしろ気の弱い文学少女だったらしい。当時の写真がこれだ」
そこに写っているのはどちらかといえば根暗な感じの少女の写真だった。榊原は思わず現在の彼女と見比べる。
「……変われば変わるものだな」
「何でも高校受験に失敗してふさぎ込んでいた彼女に声をかけてこの道に引きずり込んだのが小沼らしい。両親は最初こそ怒っていたが、最近はもうあきらめて放置気味だったらしい。彼女のように、小沼に引き込まれてすっかり染まったメンバーはかなり多いそうだ」
「……何とも言えん話だ」
榊原はため息をつくが、すぐに事件の事に頭を切り替えた。
「それはともかく、いくら対立グループとはいえ、彼女に被害者を殺す動機はあるのか?」
「元々よく張り合って首都高辺りでスピード争いする間柄だったらしいが、メンバーの一人が、最近二人が路地裏で密会して口論しているのを目撃していた。内容まではわからんが、双方ともにかなりの剣幕だったそうだ」
「弱いな。口論内容がはっきりしない限り、それだけじゃ検察も起訴を渋るだろうよ」
「俺も同感だが、あの通りだんまりではどうしようもない」
橋本は肩をすくめる。
「被害者の経歴は?」
「こっちは中学校時代からかなり荒れていたらしい。高校には進学せずにそのままレディース『ナイズ』に入り、毎日のようにバイクを乗り回していたようだ。綾川とはその頃に出会い、かなりライバル視をしていたというのが仲間の弁だ。『ナイズ』の総長は松高八重奈という人物で、こっちもかなりの武闘派らしい。メンバーを殺された事にかなりいきり立っていて、捜査の状況次第では『ガンズ』と抗争になるかもしれないというのが担当部署の報告だ」
「厄介な話だな」
榊原は苦々しい表情でそう呟いた。
「現状はそんな感じだな。さて、お前ならどう攻める?」
「……まぁ、やり方次第だろう。ひとまず、やれるところまでやってみるか」
そう言うと、榊原は部屋を出て取調室のドアをノックした。中に入ると、所轄の刑事が小さく頭を下げた。彼女に聞こえないように素早く小声で会話を交わす。
「捜査一課の榊原です」
「ご苦労様です。まぁ、ご覧の通りですよ」
「少し時間をください。私がやってみます」
「お願いします」
そのまま刑事は後ろに下がり、榊原が彼女の前に腰かけた。心音はチラリと榊原の方を見やったが、すぐにふてくされたように視線を逸らす。榊原はそんな彼女を無視して、一方的に話し始めた。
「警視庁刑事部捜査一課の榊原です。今から私が君の尋問を担当します。構いませんね?」
「……」
返事はない。相変わらずだんまりを決め込むつもりのようだ。その態度に対し、榊原はわざと手元の資料を確認するようなそぶりを見せると、口調を変えずに話し続ける。
「尋問の前にまずは君の身元について確認をしておきますが、えーっと、名前は……綾川『こころね』さん、でよかったですかね?」
その瞬間、心音は一瞬ピクリと眉を動かして何かを言いかけたようだが、すぐに唇を噛み締めるような仕草を見せた。もちろん、榊原ともあろう人間が橋本からすでに聞いている容疑者の名前を間違えるはずがない。わかった上での会話を誘発させるための発言である。そして、相手からの返事がないのを確認すると、榊原奈々にも気づかなかったかのように淡々と話を続けた。
「返事がない、という事はこれで正しいという事ですね。わかりました、では『こころね』さん、これからいくつかあなたに質問をしたいと思います。何か反論したい事や言いたい事があれば遠慮なく言ってください」
ことさら「こころね」を強調して話を進める榊原に、心音は再び眉をピクリと動かす。向こうもこちらがわざとやっている事はわかっているようだが、無視はできないようだった。にもかかわらず、榊原はさらに言葉を畳みかけてくる。
「まず事件の状況ですが、『こころね』さん、あなたは昨夜午後十時頃、首都高速道路の高架下の空き地で黄桜梅乃さんを殺害した容疑で現在拘束されています。この件について何か言う事はありますか?」
「……」
「ありませんか。いいでしょう。黙秘権も立派な権利ですからね。ただし、黙秘権は黙秘することそのものが罪に問われないだけで、黙秘した結果事件そのものに対する『こころね』さんへの評価が有利にも不利にもなるという事はわかっておいてください」
「……」
「では『こころね』さん、次に聞きたい事ですが……」
と、ここでついに心音は我慢ができなくなったようだった。
「……『ここね』だよ」
「はい?」
「心音だっつってんだろうが! 聞こえねぇのかこの鈍感刑事!」
額に筋を浮かばせて心音が啖呵を切る。が、それを見た榊原が不敵な笑みを浮かべた事で、心音は自分が榊原の思惑通りに動いた事を嫌でも実感していた。
「ようやく話してくれましたか、『心音』さん。しかし、鈍感刑事とは随分な物言いですね。どの辺が鈍感なのか、参考までにできれば詳しく教えてほしいのですが」
榊原はそう言ってジッと心音を睨む。心音は再び黙秘をしようとしたが、一度感情を爆発させてしまった以上、理性よりも感情がそれを許そうとしなかった。
「……知るかよ、馬鹿野郎」
「知るか、ときましたか。しかし、そうなると心音さん、君は根拠もなく人を罵倒した事になります。人間としてそれはどうかと……」
「うるせぇな! あぁ言えばこう言う、こう言えばああ言う! あんた、どっかおかしいんじゃねぇか!」
どう考えても年上の人間に言うようなセリフではなかったが、榊原はあくまで冷静かつ余裕をもってそれを受け止める。
「さぁ、どうでしょうね。自分の事はよくわかりませんから。それと、私の名前は『あんた』ではなく榊原です。私もちゃんと君の名前を呼んでいるんですから、君もせめて私の名前くらいは正しく言ってほしいものですね」
「……ちっ」
心音は小さく舌打ちして、調子を狂わされたかのようにそのままパイプ椅子の背もたれにもたれかかった。そのタイミングを見計らって榊原が静かに切り込む。
「では、改めてもう一度同じ事を聞きますが、心音さん、昨夜起こった黄桜梅乃殺害事件について何か言いたい事はありますか? あるなら今のうちに言っておいた方がいい。刑事の私が言うのもなんですが、黙っているだけだと事実に反した憶測をされる危険性もありますから」
「あたしがやった」
唐突にどこか投げやりな様子で心音がそんな発言をした。だが、榊原は冷静にそれを切り返す。
「確かですか?」
「しつけぇな。あたしがやったって言ったんだ。これでいいんだろ? さっさと刑務所でもどこでも放り込んでくれよ」
だが、榊原はそれに対してなぜか苦笑という反応を返す。
「何がおかしいんだよ!」
「いえ、何だかんだ強がっていますが、やはり隙があるとわかって安心しているだけです」
「はぁ、あんた何言って……」
「自分がこの後どうなるかも全くわからずに自供するというのは随分度胸のある行為ですが……感心はしませんね」
そう言って榊原は鋭く相手を見据える。その視線に相手は少し動揺したようだが、それでも無理やりに声を出して榊原を威嚇する。
「意味わかんねぇよ」
「単純な事です。君は自分が人を殺したと言っておきながら、犯罪者であれば当然気にするであろう刑事手続きについて全く知らない。それはちょっとどうかと思うだけです」
「手続きって……」
「まず、逮捕された君が放り込まれるのは刑務所ではなく留置所、もしくは拘置所です。正確には警察の取り調べ中は留置所、取り調べが終わって起訴された後に収容されるのが拘置所です。刑務所は、裁判で懲役刑が確定した後に収容される場所ですよ」
いきなり専門的な事を言い始めた榊原に、心音は目を白黒させる。だが、榊原は気にせずにさらに言葉を紡ぐ。
「さらに、君は十七歳ですから本来なら少年審判の対象で家裁送致になるはずです。まぁ、今回は殺人という重大犯罪ですから家裁から検察への逆送という形になって地裁での通常裁判の後に……」
「ちょっと待てよ! さっきから何を言ってるんだよ! わけがわからないよ! 私がやったって言ってるのに、これ以上何が必要なんだよ!」
思わず心音はそう言って榊原の言葉を遮る。だが、榊原はあくまでも冷静な表情のままで即座に言葉を返した。
「わかりませんかね? 殺人のような重大犯罪では、単に自供しただけで話が丸く収まるほど甘くはないと言っているんです」
「な……」
今まで比較的穏やかな会話だったところに唐突な宣戦布告。話の急展開に心音が絶句する中、間髪入れずに榊原は畳みかけた。
「で、どうやって殺したんですか?」
「え?」
「どうやって殺したかと聞いているんです。自供したのは君だ。言ったからには責任を持ちなさい!」
「あ、えっと……」
心音は動揺しながら目を左右に泳がす。この時点で、会話の主導権は完全に榊原が握っていた。榊原が真剣な表情でジッと心音を睨む中、彼女は何とか言葉を紡ぎ出していく。
「えっと、あの夜、あたしはあいつを高架下に呼び出して……」
「何時ですか?」
「は?」
「呼び出したのは何時かと聞いているんです」
「え、えっと……確か夜の十一時頃に……」
「なるほど。で、君はその後どうしたんですか?」
「どうしたって、あいつとちょっと口論になって、それで反射的に持っていたナイフで……」
「口論の内容は?」
「……言いたくない」
「言いたくない、ですか。まぁ、いいでしょう。で、ナイフはどうやって刺しましたか?」
「は、はぁ?」
「どうやって刺したか聞いているんです。片手か両手か、正面から突っ込んでいったのか相手を拘束しながら刺したのか、あるいは馬乗りになって刺したのか?」
立て続けに畳みかけるような榊原の問いに、心音は何か考える余裕もなく答えるだけで精一杯の様子だ。そして、それこそが榊原の狙いでもあった。
「えっと、……カッとなって正面から刺した」
「両手で、それとも片手で?」
「か、片手だよ」
「どっちの手で?」
「どっちって、右手だけど……」
「どうしてナイフを持って帰らなかったんですか?」
「は、はい?」
「なぜ自分の指紋が付いたナイフをそのまま現場に放置したのかと聞いているんです。普通は持って帰るか、そうでなくても指紋を拭くものでしょう」
「そ、それは、思わず動揺して……」
「では、凶器のナイフの入手先は?」
「にゅ、入手先?」
「いつ、どの店で、いくらで買ったのか……わざわざ持って行っている以上、それくらい覚えているはずですよね。まさか、それも忘れたというつもりですか?」
「そ、それは……」
先程とは別の意味で心音が黙り込む。だが、榊原は一切手を緩めるつもりはないらしい。ここで緩めれば、まただんまりに逆戻りである。そうなる前に、引き出せるだけ情報を引き出してしまえというのが榊原の判断だった。一方の心音は最初の強情さはどこへやら、榊原から休む間もなく浴びせかけられる想定外の質問にもはや混乱状態である。
「そんなの……そんなの覚えていねぇよ!」
「自分のナイフの入手先を覚えていない、ですか。妙な話ですね」
「知らねぇ、あたしは知らねぇ!」
「……まぁ、いいでしょう。それで、犯行を終えた後、君はどうしましたか?」
「どうしたって……」
「被害者を殺した後、君がどのような行動をしたのか聞いているんです」
「に、逃げたよ」
「どうやって?」
「バイクでだよ!」
「そうですか。では、現場から具体的にどのルートを通ってどこへ逃げたんですか?。ちょっと地図で示してください」
そう言うと、榊原は机の上にこれ見よがしに現場周辺の地図を差し出し、持っていたペンを心音の前に置いた。心音は思わず息を飲む。
「さぁ」
「……」
心音はしばらく無言で抵抗の意を示していたが、やがて諦めたようにペンを手に取って右手でキャップを外すと、そのまま震える手で地図上に線を書こうとした。榊原は黙ってそれを見つめている。
だが、何かを書く前に心音は力尽きたかのようにペンを落とした。
「……覚えてねぇ」
「はい?」
「覚えてねぇよ。どこをどう走ったかなんて、そんな事はいちいち」
「……では、道順は結構なので、どこへ逃げたのかを教えてください。さすがにそれも覚えていないというのは通じませんよ」
そう念押しされて、心音は呻くような声を上げると、しばらく黙った後でポツリと告げた。
「……ここにある廃工場へ逃げた」
「理由は?」
「あたしら『ガンズ』の隠れ家の一つなんだ。逃げたときは誰もいなかったけど。そのあと少ししてから家に帰った」
「確かですか?」
「あぁ」
「なるほど。では最後にもう一つ。現場となった高架下の空き地ですが、普段使われていないだけあってその入口には鎖の巻かれたフェンスがありました。まぁ、警察が来た時にはすでに壊されていたわけですが……なぜそんな場所を待ち合わせ場所に?」
その問いに、心音は一瞬戸惑ったような顔をしながら答える。
「それは……人目につかないようにと思って」
「結局、被害者と君、現場にはどちらが先に来たんですか?」
「あ、あたしだけどよ」
「では、そのフェンスはあなたが壊したわけですね。どうやって壊したんですか?」
「どうやってって……近くに落ちていた石を適当に拾って叩き壊した」
「そうですか」
「……もう、あたしが話す事はねぇよ」
心音はそう言って榊原から顔をそむける。それに対し、榊原は相手を見据えながら静かに答える。
「えぇ、私が聞きたい事もこれ以上ありません」
「だったら、もういいだろ? さっさとあたしを……」
だが、その言葉を遮るように、榊原は鋭く宣告した。
「心音さん、君は誰をかばっているんですか?」
その瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
「え、な、かばってるって、何を……」
「はっきり言います。君の証言は矛盾だらけで全くお話になりません」
榊原は断定的に告げた。
「お話にならないって……」
「慣れない事はするものではありませんね。まぁ、だからこそ最初のうちはぼろを出さないように黙ってやり過ごす腹だったんでしょうが……生憎ですが、私にそれは通じません」
そう言ってから、榊原は心音を糾弾しにかかった。
「突っ込みどころは色々ありますが、まず何よりも殺害時刻を間違えているところが痛いですね。君は待ち合わせの時間を午後十一時と言っていましたが、実際の死亡推定時刻はその一時間前の午後十時。これは専門の医師による司法解剖で得られた公式記録です。君が証言した時間では、被害者は一時間も前に死んでしまっているんです」
「え……」
心音の顔が青ざめる。何かを言おうとする心音に、榊原はさらにこう追い打ちをかけておいた。
「一応言っておきますが、ここまで引っ張っておいて今さら『間違いでした』は通じませんよ。訂正する時間は発言後かなりあったはずですからね」
もちろん、榊原は死亡推定時刻の矛盾に即座に気付いていたが、彼女が発言した時点ではわざと一切指摘をせず、あえて彼女がすべてを語り終えた段階を狙ってその矛盾を叩き込んでいた。すぐに指摘されれば訂正できる事でも、時間が経過してしまうとおいそれと訂正できなくなってしまう……それを狙っての事だった。案の定、心音は反論する事もできず、その場で固まってしまっている。
「次に、犯行状況に大きな矛盾があります。君の話では、君は被害者の正面から右手一本で相手の左腹部を刺した事になっています。実際、ナイフからは君の右手の指紋が出ているので、右手でナイフを握っていたというのは確かでしょう。また、右手を使ったのなら被害者の左腹部に傷があるのも納得はできます」
「だったら……」
「しかし、右手一本で被害者を刺すというのはいただけませんね」
榊原はそう言って心音の言葉を遮った。
「何でだよ!」
「だって、君は左利きでしょう」
「なっ……」
心音が絶句した。ただし、それは「なぜそれを知っている」という意味での絶句だった。それに対する榊原の解答は単純だった。
「何を驚いているんですか。今さっき、君は私の目の前で、そのボールペンを左手に持って地図に線を書こうとしたではないですか」
「っ……!」
心音は思わず左手を押さえる。そう、彼女はあの時右手でペンのキャップを開けてそのまま地図に線を書こうとしていた。この場合、右手でキャップを外している以上はペンを持っているのは左手であり、実際に榊原の目の前で余裕をなくして動揺する心音はペンを持ち替える事なくそのまま左手を使っていた。
「どうやら普段は右手を使っているようですがね。人間というものは、追い詰められたときにその本性が出るものです。まぁ、何にしても、衝動的な殺人の場で利き腕以外の手一本で相手を刺殺するというのはいささか不自然でしょう。そうでなくても、ただでさえ利き腕でなかったら握力は弱いはずですし、ちょっと無理のある話です」
「……そのためにこの地図を用意したのかよ」
恨めしそうに言う心音に、榊原は首を振った。
「いえ、それは予想外の収穫です。実際の所はもう一つの疑惑を証明するためのものでした。そして、それも無事に証明できたと考えます」
「これ以上何があるんだよ」
「単純です。君はこの地図の上に逃走経路を書く事ができませんでした。それが大きな矛盾になると言っているんです」
その言葉に、心音は食って掛かる。
「だから、覚えてねぇって言ってるじゃねえか!」
「……確かに逃走経路ならその言い訳で通るかもしれません。しかし、それで済まないものもあるんですよ」
「わけわかんねぇよ!」
「では、こう質問を変えましょう」
そう言うと、榊原はこう切り込んだ。
「今からそのボールペンで、君が被害者を殺害した現場のある場所に印をつけてください。さすがにこれを覚えていないとは言わせません。その場所に被害者を呼び出したのは君だと君自身が証言しているわけですからね」
「っ……」
「さぁ!」
鋭い視線を送られ、心音は手を震わせながらペンを持ち、ジッと地図を見据える。が、そのペン先が動く事はなかった。
「……どうやら君は、被害者がどこで殺されたのかも知らないようですね」
「それは……」
「さっき地図を見て迷っていたのは逃走ルートがわからなかったからじゃない。そもそも、犯行現場がどこなのか地図上からはわからなかったからこそ、どうしても書き込みをする事ができなかったんです。さっきも言ったように、犯人だったら犯行現場を知らないという事は絶対にあり得ませんからね」
「ち、違う! あたしは……」
それでもなお、否定をしようとする心音に榊原は追い打ちをかける。
「否定しなくても結構。それ以前に、君は犯行現場に行っていない事を自白しているわけですからね」
「な、あたしがいつそんな事を……」
「最後の質問の時です。私は、空き地の入口にあったフェンスの鎖をどう破ったのか君に聞き、君はそれを石で壊したと言いましたね」
「そ、そうだよ! それが何の問題なんだよ!」
そう言った瞬間、なぜか榊原は小さく頭を下げた。
「その前に、ここで私は君に謝罪をしておかねばなりません。申し訳ありませんでした」
「な、何だよ」
急に下手に出られて、心音は一瞬動揺する。だが、直後その動揺は大きな衝撃に変わった。
「現場の入口にフェンスがあったという話ですが……すみません、これは私の嘘です」
「……は?」
「現実の現場にフェンスなどというものはありません。誰でも出入り自由です。それをわかった上で、君に先程の質問をしました。もし、君が実際に現場に行っているなら、こんな子供だましのトラップに引っかかる事はないはずです。しかし……実際の君は私のしたささやかな嘘に引っかかり、存在しないフェンスの鎖を壊したと主張しました」
「て……てめぇ……」
心音としてはもうそう言う他ない。が、すでに手遅れなのは明らかだった。
「嘘というものはこうやって使うものです。すべてが嘘だと一つほころびが出た瞬間にすべてが崩壊する。ほとんど真実である中に少しの嘘を混ぜた方が、その嘘の破壊力は決定的なものになるんですよ。まぁ……君にとっては今さらでしょうし、もしその手を使ったとしても私はそれを容赦なく暴き立てるつもりですが」
「……」
「以上より、君はあの現場に行った事はないという事がわかります。行った事がない以上、君が被害者を殺害したというのも嘘。つまり、真犯人がいる事になります。しかし、君は殺害を自供し、さらに現場には君の右手の指紋が付いたナイフまであった。そして、その事実を君は否定していない。つまり、君は指紋付きのナイフが現場にあった事を承諾した上で、殺人を自供している事になります。これは、君が真犯人をかばっていないと起こり得ない状況です。さて、もう一度同じ質問を今ここでするとしましょう」
そして、榊原は心音にとどめを刺す。
「君は、誰をかばっているんですか?」
その言葉に、心音は少し俯いて拳を握りしめながら体を震わせていたが、それから五分ほどして彼女の口から嗚咽が漏れ始めた。
「……すみません……もう……無理です……」
その瞬間、心音は机に突っ伏して泣き出してしまった。それが、心音が初めて見せた素顔のように、榊原には感じられたのだった……。
「……で、結局、犯人は誰だったんですか?」
……それから十数年後、品川駅を出ながら、警察を辞職して私立探偵となっていた榊原に対し、自称助手の女子高生・深町瑞穂は興味津々に尋ねていた。二人は今、依頼を終えて事務所に帰るところである。
「結論から言うと、犯人は彼女……綾川心音が所属していたレディース『ガンズ』のリーダーだった小沼七緒という女性だった」
「……まぁ、そうじゃないかなぁとは思いました。今の話に出てきた人間の中で、その心音さんって人がかばうような人間ってその人しかいませんでしたから」
「もちろん、それから裏付け捜査だのなんだのはあったがね。比較的早い段階で証拠がそろって、綾川心音が陥落した三日後には小沼七緒を逮捕する事ができた」
「逮捕された小沼の反応はどうだったんですか?」
「完全否認だ。ナイフの指紋を盾にひたすら綾川心音の犯行だと強弁した。奴は完全に綾川心音を自分の身代わりとして使い潰すつもりだったようだ」
「ひどい……」
瑞穂は少し憤慨した様子を見せる。だが、同時に少し同情するような口調で続けた。
「でも、その小沼の取り調べを担当したのって……」
「まぁ、私だ」
「ですよねぇ……何て言うか、抵抗するには相手が悪すぎますよ……」
実際、取り調べを担当した榊原の繰り出す徹底した論理攻勢に、身代わりがいると完全に高をくくっていた小沼はまともな反論すら許される事はなく、結局一日持たずに完全自供に追い込まれてしまっていた。それは、警察が警戒を続けていた大規模レディースのリーダーとしてはあまりにあっけなく、そして惨めな最期だったという。
「その後の捜査で、小沼はこれ以前にも自身の犯した犯罪をメンバーに身代わりとして押し付けるというような事を何度も繰り返していた事がわかった。彼女に心酔するメンバーが多いあのチームだからこそできた裏技だな。もっとも、さすがに殺人はあれが初めてで、今までと違って捜査一課という捜査のプロ集団が出てきた時点で運のつきだったわけだが」
榊原は事の顛末を語っていく。
「被害者の黄桜は何度もレースをする中で綾川心音に対して盟友めいた好意的な印象を持つようになり、同時にリーダーの小沼の他のメンバーを犠牲にしてのし上がってきたという裏の側面にも気づいていた。だが、小沼に心酔する心音は彼女の忠告を聞く様子はない。事件前の二人の口論は、それに関する事だったようだ。そこで黄桜は直接小沼に直談判を試み、それをうるさく感じた小沼が彼女を逆に殺害した……という流れだったようだ。殺害後、小沼は身代わり役をよりにもよって黄桜が心配していた心音にする事にし、彼女をアジトに呼び出して殺人の罪をかぶってくれるように懇願。心音がこれを了承すると、凶器のナイフを彼女に握らせた上で、再度現場に戻ってこれを放置したという事だ。だが、この工作の過程で当の心音に現場を見せず、余計な事を思われないように必要最低限の情報しか話していなかったのが失敗だった。小沼は心音に『何を聞かれても黙って通せ。刑務所を出たら幹部にしてやる』と言っていたらしいが、取り調べ段階で心音の黙秘が崩される可能性は全く考慮していなかったらしい」
「何て言うか……杜撰ですね」
瑞穂の感想は辛辣だった。榊原は黙って苦笑いを浮かべる。
「それで、その後どうなったんですか?」
「小沼七緒はその悪質性からかなりの懲役を食らったはずだ。さすがにもう刑期は終わっているから、出所しているとは思うがね。心音は結局利用されただけだったから、この殺人に関しては特におとがめなしとなっている。とはいえ、リーダーを失った『ガンズ』はそのまま空中分解して、残党の何人かは事件の真相を知ってメンバーに同情した『ナイズ』のリーダー・松高八重奈が自分の傘下に加えたらしい。その『ナイズ』も数年後に松高が引退した事で自然に解散したという事だ。風の噂だと、松高は結婚して幸せな生活を送っているらしい」
「じゃあ、心音さんは?」
「それは……」
と、そこへ不意に二人の後ろから小さなクラクションが鳴らされた。振り返ると、そこにはスカイブルーという変わった色のタクシーが停まっており、その運転席の窓から制服を着た運転手が顔を覗かせていた。
「やぁ、榊原先生! 久しぶりだね。仕事帰りかい?」
それは、年齢二十代後半くらいの女性のタクシー運転手だった。それに対して、榊原はこう答える。
「狙ったかのようなタイミングだね。心音君」
「心音って……えぇっ!」
瑞穂が驚いた声を上げてその女性運転手……心音を見やる。確かに、運転席のプレートには「綾川心音」の文字が書かれていた。
「いやぁ、その辺を流していたら、榊原先生の後ろ姿が見えたからね。ちょっと声をかけてみたんだよ」
「君も相変わらずだ」
「ひどいねぇ。ちゃんと足を洗って、こうして品川界隈で真面目にタクシー運転手をしてるっていうのに」
「品川界隈のマドンナ運転手、だったか?」
「ちょっと、その呼び方はやめてよ。まぁ、確かにこの辺りで女性の運転手何てあたしくらいしかいないけどさ」
心音は朗らかに笑いながらそんな事を言う。榊原は瑞穂の方を振り返って告げた。
「……と、まぁ、こういうわけだよ。私もたまに仕事で必要な時は彼女に乗せてもらっている」
「はぁ……」
瑞穂は呆れたような表情を浮かべた。と、心音が瑞穂に気付く。
「で、そっちの子は? 初めて見る顔だけど」
「あぁ、この子は……」
「深町瑞穂です! 先生の助手をしています!」
瑞穂は慌てて挨拶する。それを見て、心音は意味ありげな顔をした。
「助手、ね。もしかして、あんたも榊原先生に助けられたくち?」
「えーっと……そう、ですね」
「やっぱり。ま、あたしもそうなんだけどね。こう見えても昔は走り屋だったんだけど、それができなくなった後でこの仕事を紹介してくれたんだ。刑事を辞めたのは残念だけど、今でも榊原先生はあたしの恩人だよ」
「そう、なんですか」
心音は深く頷きながら言った。
「だから、助手っていうのなら、この先生に色々教えてもらいなよ。あたしは、色々知る前にあたしの事をちゃんと見ていたくれた人を亡くしちゃったからさ……。あいつの分まで、あたしはこの世界で頑張らないといけないんだ。あんたはあたしみたいになっちゃいけないよ」
「は、はい」
「まぁ、とにかく、あたしも応援してるからさ。……おっと、そろそろ行かないと。じゃあ、榊原先生、また何かタクシーを使うような事があったら連絡よろしく!」
そう言うと、心音はそのまま走り去っていった。それを見ながら、瑞穂はポツリとこう言った。
「先生……人の縁って凄いんですね」
「あぁ。人はどこでどうつながるかわからない。私の遭遇する事件はそうした人の縁の上に成り立っているものも多いから、必然的にそれを意識する機会も多いんだがね。それも踏まえて……私は人の縁というのは、本当に大切なものだと思っている。君も私から何かを学びたいというのなら、それを肝に銘じておく事だ」
「……はい!」
瑞穂がそう返事すると同時に、二人はそのまま品川の雑踏の中へと消えて行ったのだった。




