第三十話 「死んでもあなたを……」
キキ――――――ッ! という耳をつんざくような甲高い音が響き、その直後にドンッという心臓に響くような重い音が聞こえた。その音に、青松久隆は思わず顔を真っ青にしながら正面を凝視する。彼が運転する乗用車の前……その宙を、今まさに自分がはねた女性がまるでスローモーションのような速度でゆっくり落下していくのが見えた。
「う……嘘だろ……」
青松は恐る恐る運転席の窓を開けて顔を外に出して確認する。だが、車のヘッドライトに照らされて路上に転がる女性は、ピクリと動く事もなく頭から血を流し続けていた。
「や……やっちまった……」
状況は明らかだった。青松が運転する乗用車が、急に道路に飛び出してきたこの女性を思いっきりはねてしまったのである。
時刻は深夜十一時。場所は八王子市郊外の寂れたビル街。夕方から降り始めた小雨が路上を濡らしている。大手生命保険会社に勤務する青松はお得意先の接待からの帰りだった。運が悪い事に青松はその際少し酒を飲んでおり、大したことはないと高をくくって車で帰宅していたのだが、その矢先にこの事故を起こしてしまったのだ。明らかに飲酒運転による事故である。こんな事がばれたら会社にいられなくなるだけではなく、下手をしたら何年も刑務所行だ。青松は自分の人生がガラガラと音を立てて崩れていくのを確かに聞いていた。
「何とか……何とかしないと……」
青松はうわごとのように呟いて咄嗟に周囲を見回した。寂れたビル街という場所柄と、時間が遅い事もあってか、一通り見た限り目撃者らしい人影も見当たらない。青松は一度車から降りると、傘をさす事も忘れて女性の近くに近づいた。だが、雨に濡れたその体は明らかに青白くなっており、素人目にも死んでいるのは明らかだった。
「どうしたら……どうしたらいいんだ……」
何にせよ、このままにしてはおけない。反射的に携帯電話を取り出して警察に電話しようとし……その指が不意に止まった。
「待てよ……」
青松の頭に不意に悪魔のささやきが響いた。今この場に目撃者は誰もいない。事故が起きた事を知っているのは死んでいるこの女性を除けば自分だけだ。ならば……やり方次第では事故をなかった事にできるのではないか、と。
「……」
青松はしばらくその場で呆然としていたが、やがて何か決断したように頷くと、改めて周囲を見回して誰もいない事を再度確認した。そして、路上に転がる遺体を血かつかないように慎重に担ぐと、そのまま自分の車のトランクに放り込む。路面の血はこの小雨が洗い流してくれるはずだ。そのまま青松は無言で乗用車を発進させた。
それから三十分後、到着したのは八王子市から少し離れた場所にある雑木林だった。青松は車から女の死体を引きずり出すと、そのまま雑木林の中へと入っていく。
もちろん、こんな場所に死体を埋めて安心するほど青松も馬鹿ではない。万が一何らかのアクシデントで死体が見つかってしまえば死体の損傷から自動車事故に遭遇した事は明白なので、言い逃れができなくなってしまうからだ。青松の目的はそこではなく、雑木林を少し分け入ったところにあった。
そこには、雑木林を貫くようにして高速道路が走っていた。道路は雑木林から少し下の辺りを貫いていて、青松のいる辺りからは道路を見下ろす形になる。元々あった雑木林を掘り進んで強引に開通した結果このような場所になったのだが、青松にとっては好都合だった。
死体に残された自動車事故の痕跡を消す事はできないし、死体を永久に隠し通す事など絶対にできない。ならば、最初から別の自動車事故の死体として晒してしまえばいい。それが青松の考えた作戦だった。
深夜ではあるが、高速道路にはトラックなどが多く通行している。だが、この特異な地形と比較的簡単に雑木林に入れる事もあって、ここから高速道路に飛び込んで自殺する事件が今までにも何度か起こっていた。実際、青松も生命保険会社の社員として何度かここで起こった自殺事件の保険金支払いに関する調査をしていた事もあって、それゆえにこの場所の存在を知っていたのである。
「この場所なら……もう一件自殺が起こったところで、誰も疑わない……」
青松はそう言いながら、傍らの遺体を持ち上げて高速道路に投げ込む準備をした。向こうから何台もトラックが迫ってくるのを確認すると、あとは何も見ないように目を閉じて、そのまま死体を思いっきり投げ込む。直後、下の方からドンッという音が聞こえた。
「やった……」
青松はそう呟くと、それ以上結果を確認する事もなく、即座に雑木林を引き返していった。もちろん、足跡を消すようなへまはしていない。息を切らせて乗用車に乗り込むと、そのままアクセルを一気に踏む。
「これでいい……これでいいんだ……」
念仏のようにそう呟きながら、青松の乗用車は闇夜へと消えて行った……。
翌朝、青松は自宅アパートの布団の中で最悪の気分で目覚めた。ひどい悪夢だった。だが、昨夜起こったあれは夢ではない。死体を運んだ時の嫌な感触が今でも手に残っていた。
「……行かないと」
今日も一日が始まる。あれだけの事がありながら、何事もないように時間は進んでいく。青松は布団から起き上がると、洗面所で顔を洗い、歯を磨き、髪を整え、いつもの通りスーツに着替えてトーストを焼いた。そして、テレビのニュースで昨日の高速道路で何か事故が起こっていないかを確認する。が、しばらく見てみたが事故のニュースは流れない。もっとも、日々多くの交通事故が起こるこの東京である。事故が深夜だった事もあって、マスコミも情報を掴んでいないのかもしれない。
「でも……昨日のあれは現実に……」
その瞬間、彼女の虚ろな顔が頭に浮かび上がり、青松は反射的にテレビの電源を切った。ゼエゼエと呼吸を切らし、落ち着くのにしばらくかかる。
「忘れろ! 怪しまれるわけにはいかないんだ……。平常心だ……」
そう言いながら、青松は強引に頭を振って鞄を手に取り、自分の部屋を出た。階段を下り、アパートの出口に到着すると、目の前の道路をトラックが轟音で通り過ぎる。いつも通りの日常だった。
「大丈夫、落ち着け。何も問題はない。いつも通りでいいんだ。いつも通りで……」
そう言い聞かせながら何気なく正面を向いた……その瞬間だった。
目の前に、昨日高速道路に捨てたはずのあの女が、自分目がけて空中から飛びかかってくるのを青松は見た。
「え……」
この世のものとは思えない光景に、青松は思わず固まってしまう。が、その間にも飛びかかってきた女の体が青松にぶつかり、青松はまるで押し倒されるように地面に倒れる。その瞬間、彼女の体の重さと異常な冷たさが彼の体に伝わり、同時に血まみれで虚ろな表情をした彼女の顔がガクンと青松の顔に倒れて触れた。そして、青松は自分が殺した女の死に顔を、至近距離から間近で見る事になってしまった。
「ぎ……」
直後、青松の視界が真っ白に染まり、彼の中で何かがプツリと切れた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
恐ろしいほどの長い絶叫が響いたのち、白に染まっていた彼の視界は、一気に暗転してしまったのだった……。
「……これは、一体どういう現場だ?」
それから一時間後、件のアパートの前で、警視庁刑事部捜査一課警部補の榊原恵一は眉をひそめていた。そこには、驚愕の表情のまま仰向けに倒れているビジネススーツ姿の男と、その男に抱きつくようにしてうつぶせに覆いかぶさっている血まみれの女の姿があった。
「来たか、榊原」
先着していた同じく刑事部捜査一課所属の同僚・橋本隆一警部補が声をかける。
「わざわざ八王子くんだりまで来てみれば、一体どういう状況なんだ?」
「それが俺にもさっぱりでな。そこで仰向けに倒れて死んでいるのは、このアパートの住人で大手生命保険会社社員の青松久隆。目撃者の話だと、アパートを出たところでこの女の死体が空中から飛びついてきたらしい。そのまま絶叫して死亡。死因は急激なショックによる心臓麻痺。この男の死そのものに事件性はない」
「……は?」
わけのわからない話に、さすがの榊原も絶句した。橋本も難しい表情で言葉を続ける。
「いや、俺だって自分が何を言ってるのかわからんよ。だが、実際そうだったんだから仕方がないだろう?」
「だったら、わかるように説明してくれ。死体がこの男に飛びかかったっていうのはどういう事だ?」
橋本は黙って近くで停車している大型トラックを指さした。
「より正確に言うなら、あの大型トラックのコンテナの上に乗っかっていた死体が、そのアパート前の急カーブでの遠心力で吹っ飛ばされて、たまたまアパートから出てきたその男に命中したって話だ。どうも、ずっと死体を乗せて走り続けていたらしい」
「そのトラック運転手の犯行か?」
「どうも違うっぽいな。運転手は血相を変えて否定しているし、死体が乗っていた事も気付いていないようだった。ただ、言われてみれば昨日高速道路を走っていた時にドンと何か変な音がしたような気がするとは言っていた」
「つまり、高速を走っているときに死体がトラックのコンテナの上に落ち、そのまま気付かずに走り続けていたと?」
「正確にはその直後に近くのパーキングで仮眠をとって、朝になってまた走り始めたらしいがな。寝る前に一応周囲は確認したが、何かにぶつかった痕跡はなかったから気のせいだと思ったんだとか。まぁ、コンテナの上まで見るわけにはいかないしな。で、この女の死体だが……検視官の話だと、車に轢かれた痕跡があるらしい」
「……轢殺か」
「ただし、トラックに彼女を轢いた痕跡はないから轢いたとすれば別の車。あのトラックは完全な巻き添えと考えて間違いないだろう。問題は、何でそんな轢殺体がトラックのコンテナなんかに乗っていて、そしていくら死体が飛んできたからとはいえ、何でそれでこの男までがショック死してしまったのかという事だ」
そう言いながら橋本は二つの死体を見下ろす。榊原もそれにならった。
と、その時鑑識をしていた圷守警部補が声をかけてきた。
「おい、ちょっと妙な話になったぞ」
「どうしたんですか?」
「念のため、ガレージにあったこのショック死した男の乗用車も調べたんだが……なぜか知らんがその乗用車から人を轢いた痕跡が出た。しかも、被害者はどうもそこで死んでいる女らしい」
「……はい?」
今度は榊原と橋本が一緒になって絶句した。が、圷ははっきりした口調で言う。
「俺だって信じられんよ。だが、フロントの破損部分に付着していた繊維や毛髪とその女の衣服の繊維や毛髪が一致した。それにトランク内にはわずかだが血痕が付着していている。詳細は結果待ちだが……もしかしたらその女の血痕と一致するかもしれない」
「……本当に何がどうなっているんだ?」
思わず二人は顔を見合わせた。橋本が顔をしかめながら状況を整理する。
「えっと……要するにその男がこの女を轢き殺した犯人で、その死体がなぜか知らんがトラックのコンテナに移動した後、犯人のこの男に飛びかかってきたって事になるのか?」
「そうなってしまうな」
「いやいや……何をどうしたら轢き逃げした死体がトラックの上に移動するような事が起こる?」
さすがの百戦錬磨の二人でも、何がどうなっているのか全くわからない状態だった。
「で、この女の身元は?」
「わからん。身元を証明するものは何も持っていなかった」
「しかし、ひどい頭の怪我だ。出血もひどいな。まぁ、車に轢かれたのならそれも納得だが……」
そう言って改めて女性の表情を見やった榊原だったが、その顔が急に厳しくなった。
「おい、ちょっと待て。この女、どこかで顔を見た事があるぞ」
「ん?」
榊原の言葉に橋本も改めて女性の顔を見やる。そのまましばらく黙っていた二人だったが、不意にその顔が緊張した。
「こいつ……」
「あぁ、間違いない。元ホステスの毒島伊沙子……」
榊原は、その正体を告げた。
「西日本を中心に連続五人を殺して逃亡し、指名手配中の連続殺人犯だ……」
「毒島は元々広島市内にあるスナックのホステスだったんだが、金に目がくらんだのかどうかは知らないが、客の一人を毒殺して金品を強奪して逃走。指名手配された。だが、その後も素性を隠して逃亡先でホステスとして潜り込み、頃合いを見て裕福そうな客を毒殺しては金品を奪って逃亡するという事を繰り返していた。最初の広島を皮切りに、岡山、神戸、高松、大阪の五ヶ所で犯行を行っていて、合計五人が死んでいる。警察の間では『血塗れ毒婦』だの物騒な異名が付けられていた」
「その『血塗れ毒婦』が、東京の片隅であっさり交通事故死するなんて皮肉ですね」
事件から十数年後、私立探偵となっていた榊原は、事務所で自称弟子の高校生・深町瑞穂に事件の結末を説明していた。
「その後の捜査で、この奇妙な事件の大まかな状況がわかってきてね。ショック死した青松久隆は、おそらく八王子市内のどこかで毒島を自動車で轢いてしまった。その時期、毒島が八王子市内にあるスナックに偽名で勤務した事が後の調査ではっきりしているし、青松の通勤経路も八王子を通っている。最後まで詳しい場所までは特定できなかったが、多分その通勤経路のどこかなんだろう。で、事故を隠すために奴は高速道路に毒島の死体を投げ込んで自殺に見せかけようとした。投げ込んだ現場も見つかったよ」
「そんなの、よく見つかりましたね」
「トラックの運転手が異音を聞いた場所を特定してね。その辺におあつらえ向きに高速道路が谷底を走っている場所があって、その上の雑木林から投げ込んだと推察された。しかもここは元々自殺者が多い場所で、生命保険会社勤務だった青松もここで起こった自殺事件の保険調査をやっていた事があった。調べたら、ちゃんと痕跡も残っていたよ。本人は消したつもりだったんだろうがね」
「でも、捨てた死体は運悪く轢かれずにトラックのコンテナに落ち、しかもそのままトラックは走り続けてしまった」
「悪い偶然だよ。トラックは途中のパーキングでの仮眠を挟みながら、朝になると高速を降りて市街地を走り始めた。で、これも運悪く、何の因果か轢き逃げの犯人だった青松の自宅アパートの前で死体は振り落とされ、よりによって今まさに出勤しようとした青松目がけて飛びかかっていった」
「そりゃ、死ぬほど驚きますよねぇ。自分が轢き殺して高速道路に捨てたはずの女性の死体が、罪悪感で一杯になってアパートから出ようとした瞬間にいきなり飛びかかってきたら」
「しかも血まみれの死に顔でだ。どんな極悪人だってショック死してもおかしくない。そして、実際にそうなった」
「そして、死体に抱きつかれてショック死した男の死体の出来上がり、ってわけですか。何か、ちょっとホラーですね」
瑞穂は少し薄気味悪そうにそう言ってから、ふと気づいたように言った。
「っていうか先生、その毒島って女の人、五人を殺した殺人犯なんですよね」
「あぁ」
「で、死んだ後になっても自分を殺した轢き逃げ犯の元に帰って来て、物の見事にその犯人をショック死させる事に成功している」
「よくわかっているね」
「つまり……その人、死体になっても人殺しをしたって事になりませんか?」
その言葉に、榊原も厳しい表情で頷いた。
「あぁ。私も色々な事件を解決してきたが……死体になってまで殺人をしでかした犯人などというものはこれが初めての経験だ。『死んでもあなたを殺します』というセリフはドラマなんかでよく聞くが、それを実践する奴がいるとはね。正直、私もこんな奴とは、二度とお目にかかりたくはないものだがね」
「……私も、そんな犯人とは絶対に会いたくないですね」
少々背筋が寒くなりながら、瑞穂は心の底からそう思ったのだった……。




