第二十一話 「新庄警部補の奥さん」
「……つまり、この花瓶からあなたの指紋が検出されたら、その時点であなたが犯人である事が確定するのです。さて、これ以上の議論は必要ないと考えますが……まだ続けますか?」
私立探偵・榊原恵一の鋭い指摘に対し、彼と対峙していた男(本名不明)はわなわな口を震わせて何か反論しようとしていたようだったが、やがてもはや反論できないところまで追い詰められているのを自覚したのか、その場でがっくりとうなだれて崩れ落ちてしまった。すかさず、その様子を近くで見守っていた警視庁の斎藤孝二警部と新庄勉警部補のコンビが男を取り押さえる。
この日、榊原はいつものように警視庁の要請である殺人事件の解決の依頼を引き受け、そして今しがた犯人を完膚なきまでに追い込んで見事に陥落させたところだった。犯人である名もなき男が斎藤たちに引き立てられるのをじっと見送る榊原に対し、傍らに控える榊原の自称助手の高校生・深町瑞穂は感心したような表情をしていた。
「凄いです、先生。さすがですね」
「今回は運が良かった。普通ならここまでうまくはいかない」
そう言いながら、榊原はようやく息を吐いて気を緩めた。実際、依頼を受けてからわずか三時間での解決劇で、榊原の手掛けた事件の中ではそこまで難しいものではなかった。
二人はそのまま追及の舞台となった事件現場である家から外に出た。解決が早かった事もあってまだ午後二時くらいである。
「さて、思いの外早く終わったが、これからどうするか……」
「ご飯食べに行きましょうよ。お腹がペコペコです」
「そうだな……。じゃあ、ラーメンでも食べに行くか」
「先生、女子高生が一緒なのにラーメンはないでしょう」
「問題でも?」
「……いや、私も食べたいですけど」
そう言って二人が現場から離れようとした時だった。
「あなたぁ、こっち、こっち!」
突然そんな場違いな声が現場に響いた。振り返ると、二十代前半と思しき女性が、なぜか知らないが規制線の向こうから誰かに満面の笑顔で手を振っている。見た感じは大学生くらいだろうか。お世辞抜きにも美人の部類で、こんな殺人現場にいるような人間にはとても見えない。
一体誰に向かって手を振っているんだろう、と瑞穂は一瞬思った。が、それに応えたのは、何と今まさにパトカーに犯人を押し込もうとしていた新庄警部補だった。
「茜……何でこんなところに」
「だって、今日は非番で一緒にご飯食べに行こうって言っていたのに、なかなか来てくれないから」
茜と呼ばれた女性はすねたように言う。新庄は苦笑いしながらこう答えた。
「しょうがないだろう。急な仕事が入ったんだから」
「でも、もう終わったんでしょ? だったら、一緒に行きましょうよ」
「それは……」
新庄が困ったような顔をする。そこで上司の斎藤が苦笑いしながら助け舟に入った。
「ここはもういい。元々今日の榊原さんに対して依頼をした一件は私の独断によるところが大きいからな。たまには奥さん孝行をしてあげなさい」
「警部……、すみません、この埋め合わせは必ず」
新庄は頭を下げるとパトカーから離れ、そのまま照れたように笑いながら茜に近づくと、少し何か話をした後でそのまま一緒に現場を去っていった。二人の顔は幸せいっぱいで、見ている方が恥ずかしくなってくる。
「彼女は相変わらずだな。だが、幸せそうで何よりだ」
榊原は苦笑気味にそう言うが、一方の瑞穂はあんぐりと口を開けて呆然としているという乙女らしからぬ表情を浮かべ、しばらく沈黙した後やがて榊原にこう問いかけた。
「今……斎藤警部、『奥さん孝行』って言いましたか?」
「言ったな。それがどうしたんだ?」
そこで瑞穂は絶叫した。
「し、新庄警部補って結婚していたんですかっ! しかも、あんなに若くて美人な奥さんと!」
「ん? 知らなかったのかね?」
「初耳です! てっきりまだ独身なのかと思っていました!」
「まぁ、結婚してまだ数年といったところのはずだ。子供はまだいないし、刑事の仕事を優先しているからそう見えるのも仕方がないかな」
榊原は苦笑しながらそういう。一方瑞穂は真剣な目で榊原に詰め寄った。
「先生、後で詳しく教えてもらいますよ!」
「そんなに驚く事かね……」
あまりの瑞穂の態度に、今度は榊原が当惑しているようだった。そういうところが先生らしいのかもしれないと、瑞穂は内心ため息をつくしかなかった。
「彼女は新庄茜さん。旧姓は……忘れたな。三年くらい前に新庄警部補と結婚した。私も式に呼ばれたよ」
とりあえず二人で入ったラーメン屋のカウンターで、ラーメンをすすりながら榊原は瑞穂にそんな解説をしていた。
「でも、茜さん、随分若いですよね。三年前だったらまだ二十歳を過ぎたくらいじゃないんですか?」
「詳しい年齢はさすがに言えないが、まぁ、そのくらいだろうな」
「どうして結婚を? というか、どうやってあの二人が出会ったんですか?」
榊原は水を一杯飲んで落ち着くと、淡々と話し始めた。
「別に珍しい話じゃない。あの二人はある事件の時に出会ったんだよ」
「事件、ですか?」
「あぁ、三年前に解決したある誘拐事件だ。彼女はその事件で誘拐された被害者で、その捜査に参加して彼女を救い出したのが他ならぬ新庄刑事だ。そこから恋が芽生えて、こうして結婚するに至ったというわけだ。傍から見てもお似合いのカップルだと思うよ」
「はぁ、そんなドラマみたいなことがあるんですねぇ」
そう言ってから、瑞穂はふと気になったように尋ねた。
「そういえば、斎藤警部の方は結婚しているんですか?」
「もちろんだ。若い頃に見合い結婚して、今は圭子さんという君と同い年くらいの娘さんがいる。親子三人で仲良く暮らしているそうだ」
「そこだけは先生とは正反対ですよね」
「興味がないものでね」
「それも問題です」
どうでもいい掛け合いがなされ、合間にラーメンをすする音がする。
「……でも、三年前にそんな誘拐事件ってあったかな? 二十歳くらいの女の人が誘拐されたなんて事件、私は聞いた事がないんですけど」
「あぁ、それはね……」
榊原がそれに対して答えようとした時だった。不意に榊原の携帯電話が鳴った。訝しげな表情でそれを取り出すと、相手は今しがた別れたばかりの斎藤警部である。
「はい、榊原」
『斎藤です。別れたばかりなのにすみませんが、力を貸してもらえませんか?』
「何かあったのか?」
『それが……ついさっき別の班がある暴力団事務所に家宅捜索をかけた際に、仁科泰平という指名手配犯を発見したんです』
榊原は反射的に指名手配犯の名前を脳裏で検索する。
「仁科……確か、一年ほど前に北海道で敵対する暴力団事務所を襲って五人を射殺した男だったな」
『そうです。どうやら匿われていたみたいなんですが、元々かなり凶暴な男で、その場で捜査陣と激しい銃撃戦になりましてね。結果的に捜査員三名が負傷し仁科は事務所から逃亡。そのまま近隣のイタリアンレストランに逃げ込んで、客を人質に取って立てこもりました。今、機動隊やSATが集結しています』
「それは……大変な事になったな。だが、正直そこまで行ってしまうと私が関与できる状況ではないと思うが?」
榊原の問いに対し、斎藤は緊迫した様子でこう続けた。
『それが、占拠されたイタリアンレストランなんですが、さっき別れた新庄たちも食事をしていまして……犯人は男性客をすべて店から追い出し、現在女性のみを人質にして立てこもっています。そして、その中に新庄の奥さんもいるんです』
その言葉に、榊原の顔色が変わった。
「それは……まずいな」
『えぇ、まずいです。そこで榊原さんにもアドバイザーになって頂けないかと』
「わかった、すぐに行く。場所を教えてくれ」
電話が切れると、榊原は残ったラーメンを喉に流し込んでから立ち上がった。瑞穂もそれに続くが、こちらはすでにラーメンを食べ終わっていたようだ。
「どうしたんですか?」
「立てこもり事件だ。さっき話していた茜さんが人質になった。急がないと大変な事になる」
「た、大変な事?」
よくわからない事を言う榊原に戸惑う瑞穂であったが、榊原は何も答えないまま店を飛び出し、瑞穂も慌てて後に続いた。
現場は騒然としていた。榊原たちが到着すると、待ち構えていた斎藤に前線本部となっている警察車両に引っ張り込まれる。そこには仁科に店から追い出されてしまった新庄が切羽詰まった表情で店の方へ向かおうとしているのを、他の捜査員が必死に押しとどめていた。
「放してくれ! 早くいかないと、茜が……茜が!」
「わかっている。とにかく落ち着け。榊原さんにも来てもらったから、とにかく作戦を考えよう」
斎藤が必死になだめながら榊原の方を向く。
「状況は最悪です。奴はよりにもよって数いる人質の中から茜さんを選んで、彼女に銃を突きつけながらこちらを威嚇しています。このままだと……」
「あぁ、厄介な事になるな」
榊原も深刻そうな表情をしている。
「犯人の要求は?」
「逃走用の車と一億円を要求しています。上は『絶対に飲むな』と言っていますが……」
「まぁ、最近はテロだのなんだので、そういう要求は飲まないのが原則になりつつあるからな。しかし、そうなるとそれはそれで大変だな」
榊原は車両の窓から店の方を見る。一方、瑞穂としては何が何だか全くわからない状態だ。
「あのぉ、さっきから『大変』って連呼していますけど、茜さんが人質だと何が大変なんですか? もしかして、何か持病でもあるとか?」
瑞穂がおずおずと尋ねる。
「いや、そういうわけじゃないんだが……どう説明したものかな」
なぜか歯切れが悪い。ますますもって瑞穂には意味不明である。
「あぁ、もう! いい加減にはっきりしてくださいよ! 一体何が問題なんですか!」
「あー……実はだね……」
榊原がそう言って説明しようとした・……まさにその瞬間だった。
「ぎ、ギャアァァァァッ!」
突然、そんな絶叫がレストランの周囲に木霊した。刑事たちがギョッとした様子で店の方を見ると、店の奥から何か激しく物が壊れる音が響き渡っている。
「しまった、遅かったか!」
榊原が厳しい表情で叫ぶ。と、同時に新庄が他の刑事の制止を振り切って、拳銃片手に店へと突撃していった。斎藤が慌てて呼び止めようとするが後の祭りである。
「待て、新庄! ……くそっ! 榊原さん、どうしますか!」
「こうなったら突入するしかないだろう! 運を天に任せるしかない!」
「了解です! 全員、突入!」
その言葉を合図に、刑事たちが拳銃を構えながら店に突入していった。同時に誰が投げ込んだのかスタングレネードが炸裂し、煙がもうもうと立ち込める店内から他の人質たちが飛び出してくる。が、茜や犯人の姿はない。榊原と瑞穂はそんな刑事たちの後に続いていた。
「あの、一体何が、どうなっているんですかっ!」
「……ここまで来たら見た方が早い。百聞は一見に如かず、だ」
「見た方が早いって……」
その瞬間、店内からドンッ、ドンッと銃声が木霊した。慌てて店内を覗き込んだ瑞穂だったが、その視界に飛び込んできたものは……
床に突っ伏して全身ボコボコにされた凶悪犯・仁科を踏みつけながら、無表情に犯人の持っていたはずのリボルバー式拳銃を握り、手慣れた様子で仁科の顔面すれすれの床に銃弾を撃ち込み続けている茜の姿だった……。
「……は?」
瑞穂としては緊迫した場面にもかかわらず、思わず呆けた感じでそうコメントする他なかった。何がどうなれば人質だったはずの茜が犯人に対して一方的に銃を打ち込み続ける状況になるのかがわからなかったからである。第一、五人殺して捜査陣営と派手な銃撃戦をやった凶悪犯という触れ込みの仁科が、もうすっかり戦意喪失した状況で虚ろな視線を茜に向けているのだからますますわけがわからない。どうも、突入する前に茜にボッコボコにされて、銃も奪われてしまったようである。
「ごめんなさい……もうしません……許してください……助けてください……」
どこからともなく……というか仁科の口からそんな声まで聞こえてくる。が、茜は全弾撃ち尽くすと、これまた手慣れた様子で銃の弾(これも仁科が持っていたもののようだ)を交換し、今度は仁科の後頭部に銃を突きつけた。その目は冷酷無情その物で、先程までの明るい感じは微塵も感じられない。このままでは仁科が殺されてしまう。
と、その瞬間だった、そんな茜の数メートル手前で茜に向かって銃を構えていた新庄が叫んだ。
「茜、やめろ! 俺はここにいる! もう大丈夫だ!」
その言葉を聞いた瞬間、茜の眼の色が変わった。文字通り今までの冷酷無情な目つきから、まるで憑き物が落ちたかのように新庄を見やると、当惑気味に呟いた。
「あれ、私……何してたんだっけ?」
そう言ってから手元の銃を見つめ、そしてすべてを理解したように顔色を変える。
「……もしかして、私、やっちゃったの?」
「大丈夫だ! ぎりぎり間に合った。彼は無事だよ」
新庄がそう言うと、茜は銃を放り出して新庄の胸に飛び込んでいった。
「あなた!」
「茜!」
二人で抱きしめ合っている間に、後方にいた刑事たちが倒れている仁科を逮捕する。それをさらに後方の店の外で見ていた榊原は、ホッとしたように頷いた。
「どうやら、私が出るまでもなかったようだ。めでたし、めでたし……」
「めでたくありません! あれは一体何なんですかぁ!」
瑞穂の絶叫が現場に響き渡った。
「今から十六年ほど前だったか。当時七歳だった少女が公園から突然失踪するという事件が起こってね。まぁ、その少女が茜さんだったわけだが、犯人の男は殺し屋で、そいつは茜さんを殺すのではなく、彼女を殺し屋として育てて自身の後継者にしようと考えた。彼女に拒否権はなく、それから十三年、茜さんは殺し屋としての教育を受けた。そして二十歳になった時に一人前と認められ、初めてある人物の殺しを殺し屋から命じられたんだが……ちょうどその時に、斎藤率いる捜査一課第三係がその殺し屋を逮捕し、標的が殺害される前に茜さんを解放。十三年ぶりに誘拐事件を解決した」
「どうりでまったく聞き覚えがないと思いました……。十六年前の事件だったら、私はまだ赤ちゃんじゃないですか」
事件解決から三十分後、ようやくなされた榊原の説明に対し、瑞穂はやや呆れ気味ながらも納得したように頷いた。
「まぁ、そんなわけで茜さんは誰も殺さないまま一般社会に復帰できたわけだが……なんだかんだ言って、十三年間徹底的に叩き込まれた殺し屋としての技術は残ったままでね。今でもああいう修羅場になると反射的に殺し屋時代の本能が蘇ってしまうらしくて、相手に対して一切容赦がなくなる。この事は新庄に近い警察関係者ならみんな知っているから、ああいう事態になってしまうと彼女ではなくて犯人を助けるために必死になる。下手に長引くと、彼女の方が犯人を殺しかねないからね」
「はぁ……何とも強烈な個性の人ですねぇ」
瑞穂としてはそうコメントする他ない。
「ちなみに、元殺し屋としてはどれ位の腕なんですか?」
「えーっと……確か三年前に確保された時には殺し屋モードになっていて、新庄警部補と郊外の倉庫で激しい撃ち合いを展開したらしい。一時間にわたって他の刑事が手を出せないほどの撃ち合いを延々と繰り広げた挙句、双方弾切れになって、そのまま今度は互いに殴り合いに突入。さらに一時間ほど肉弾戦を展開したところで彼女が正気に戻って無事に確保されたという事だ。それが縁で二人には恋愛感情が目覚めたらしい」
「……ちょっと、常人にはまねできない恋愛のやり方ですね」
マンガじゃあるまいし、古今東西、撃ち合いがきっかけで結婚した男女というのも珍しいだろう。
「ちなみに、警視庁があの二人の結婚を許可したのは、もちろん双方が互いの事を愛し合っているという理由もあるんだが、万が一彼女が殺し屋モードになった際に心の底から愛している新庄の言葉だけは耳に届くからという理由もある。まぁ、要するに警視庁としては彼に監視役を押し付けたという事なんだろう。もっとも……本人たちはそんな事情などどこ吹く風でラブラブなんだがね」
「うわ、先生からラブラブなんて言葉が出てくること自体がびっくりです」
「まぁ、他に適当な言葉が出てこないものでね」
「……それは同感ですね」
そう言いながらも、瑞穂は現場の近くで見つめ合っている二人を見て、何とも言えない気持ちになってくるのだった。
「あなた……ありがとう」
「君こそ、何事もなくて本当に良かった……」
夕焼けの中、見つめあう二人の頭上を、なぜか一匹のカラスが鳴きながら通り過ぎて行ったのであった……。




