サイドストーリー:硝子の靴は砕け散った ~悲劇のヒロインを演じていたつもりが、私が一番滑稽なピエロだった話~
「ミオちゃんは、もっと輝けるはずだよ」
その言葉が、私の人生を狂わせた魔法の呪文だったのかもしれない。
言ったのは、富樫リョウ。今をときめく人気俳優で、私がずっと憧れていた「王子様」のような人。
当時、私は地味で真面目な脚本家、翡翠蓮司の婚約者という立場に甘んじていた。
蓮司は悪くない人だ。優しいし、私のわがままも聞いてくれるし、何より稼ぎがいい。彼のタワーマンションでの生活は快適そのものだった。
でも、彼は「地味」なのだ。
彼が書く脚本も、彼の生き方も、すべてが堅実で面白みがない。私は女優よ? もっとドラマチックで、刺激的な毎日を送る権利があるはずでしょう?
だから、リョウくんと関係を持ったのは必然だったの。
蓮司が仕事部屋に籠もってキーボードを叩いている間、私はリビングでリョウくんと愛を囁き合った。
蓮司の高いワインを勝手に開けて、二人で彼の悪口を言う時間は最高にスリリングだった。「バレるかもしれない」という緊張感が、私の女優としての感性を刺激してくれた。
「蓮司ってば、私が家政婦扱いされてるのにも気づかないの。本当に鈍感」
「あいつは脚本のことしか頭にないからな。ミオちゃんの魅力なんて理解できてないよ」
そうやって慰めてくれるリョウくんこそが、私の本当の理解者だと思っていた。
蓮司はただのスポンサー(ATM)。私が大女優になるまでの踏み台。そう割り切っていた。
◇
あの日、蓮司から『リアル・ラブ・ストーリー』の企画を聞かされた時、私は心の中で小躍りした。
全国ネットのゴールデン特番。しかも生放送。
ついに私の時代が来たと思ったわ。
「リョウ、お前にはミオを口説き落とす『理想の王子様』を演じてもらう。そしてミオ、君は世界で一番幸せな『シンデレラ』になるんだ」
蓮司がそう言った時、笑いを堪えるのが大変だった。
だってそうでしょう? 蓮司は自分で自分の首を絞めるロープを用意してくれたんだもの。
私とリョウくんは、すぐに裏で打ち合わせをした。
「ねえ、いっそのこと本番で公開略奪しちゃおうよ」
「それ最高! 蓮司の顔が見ものだな」
私は想像した。
生放送中にリョウくんからプロポーズされ、蓮司という「束縛男」から解放される私。視聴者はきっと涙を流して祝福してくれる。
「ミオちゃん、辛かったんだね」「リョウくんとお幸せに!」
そんなコメントでSNSが溢れかえる未来しか見えていなかった。
◇
放送当日。
スタジオのセットは、私のためのお城に見えた。
純白のドレスに身を包み、メイクも完璧。鏡に映る私は、誰よりも美しかった。
「本番、スタート!」
カメラの赤いランプが点灯する。私はスイッチを切り替えた。
か弱い、可哀想な、でも愛を信じているヒロイン。
涙を浮かべるタイミングも、声の震わせ方も完璧だったはずよ。
そして、クライマックス。
リョウくんが台本を無視して、指輪を取り出した瞬間。
「ミオ、俺は本気で君を愛しているんだ」
スポットライトが私たちを包む。
ああ、これよ。私が求めていたのはこの瞬間。
私は蓮司との退屈な日常を捨てて、ついにスターダムへと駆け上がるの。
「……嬉しい。私も、ずっとリョウくんのことが好きだったの!」
抱き合った瞬間、スタジオ中が歓声に包まれた。
私は勝った。人生というゲームに、完全勝利した。
……そう思ったのは、ほんの数秒のことだった。
「……カット」
無機質な声が響き、スタジオの空気が凍りついた。
そして、あの悪夢のような映像が流れ始めた。
スクリーンに映し出されたのは、美しい私……ではなく、下品に笑い転げる女の姿だった。
『あ、こぼしちゃった。ま、いっか。どうせゴミだし』
蓮司が私のために書いてくれた脚本を踏みつける映像。
「え……? なにこれ……嘘……」
頭の中が真っ白になった。
なんで? なんでこんな映像があるの?
私の顔、あんなに意地悪そうに歪んでたっけ? 声も、あんなにキンキンしてて耳障りなの?
『視聴者なんて馬鹿だから、涙流せばイチコロよ』
楽屋での陰口が流れた瞬間、客席の空気が一変した。
さっきまで私を「可愛い」「お姫様」と見ていた視線が、一瞬にして「汚物」を見るような目に変わる。
侮蔑、嫌悪、殺意。
数百人の悪意が、物理的な重圧となって私にのしかかってきた。
「最低!」「消えろ!」「化けの皮が剥がれたな!」
罵声が飛んでくる。怖い。やめて。見ないで。
私は助けを求めてリョウくんを見た。
でも、私の王子様は、機材を蹴り飛ばして暴れ回るただの野獣になり果てていた。過去の悪事を暴かれ、顔を真っ赤にして醜く叫んでいる。
「嘘だ! 捏造だ!!」
そんな……かっこ悪い。
こんな人が私の王子様だったの?
違う。私は悪くない。私は唆されただけ。
そうだ、私は被害者なのよ!
「わ、私は……リョウくんに唆されただけなの! 私は悪くない!」
私は叫んだ。蓮司なら、きっと助けてくれる。彼は私に惚れているんだから。
カメラに向かって手を伸ばす。
「蓮司、助けて! お願い!」
でも、スピーカーから返ってきたのは、冷酷な事実の羅列だけだった。
ファンを馬鹿にした裏アカウント、スタッフへの悪口。
私が隠し通してきた「本性」が、日本中に拡散されていく。
私の築き上げてきた硝子の城が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく音が聞こえた気がした。
◇
それからの日々は、地獄だった。
事務所はクビ。違約金は数億円。家も追い出され、カードも止められた。
街を歩けば指をさされ、「あ、あの浮気女だ」「実物もっと性格悪そう」とヒソヒソ言われる。
リョウくんは逮捕されたらしい。ざまあみろ、と思った。あいつのせいで私の人生はめちゃくちゃだ。
でも、私にはまだ「切り札」がある。
蓮司だ。
彼は怒っているかもしれないけど、本気で私を嫌いになれるはずがない。だって二年も一緒にいたのよ?
私が泣いて縋れば、きっと許してくれる。
「仕方ないな、ミオは」って、またあの広いマンションに迎え入れてくれるはず。
だって彼は、私がいなきゃ華のない地味な男なんだから。
一ヶ月後、私はボロボロの服で、かつての我が家へ向かった。
プライドなんて捨てた。今はとにかく、暖かいベッドとご飯が欲しい。
「蓮司! ああ、蓮司……よかった、まだいてくれたんだ……!」
ドアが開いた瞬間、私は演技のスイッチを入れた。
可哀想な、反省している、愛に飢えた女。
でも、蓮司の目は死んでいた。
私を見ているのに、まるで道端の石コロを見ているような、冷たい目。
「君が愛していたのは俺じゃない。俺の金と、俺が提供する『都合のいい環境』だ」
図星を突かれて、私は言葉を失った。
なんで? なんでバレてるの? 私は完璧に演じていたはずなのに。
「単純明快な三流脚本だよ」
彼はそう言って、私を切り捨てた。
そして、あろうことか、あの生意気なマネージャー、如月雫を庇った。
「雫は俺のパートナーだ」
はあ? あの地味な眼鏡女が?
蓮司、あんたバカじゃないの? 私みたいな美女を振って、あんな女を選ぶなんて!
「……う、うああああぁぁぁぁ!」
私は叫びながら逃げ出した。
悔しい。悲しい。ひもじい。
どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの?
私はただ、幸せになりたかっただけなのに。
私はヒロインなのに!
マンションを飛び出し、あてもなく街を彷徨う。
ショーウィンドウに映った自分の姿を見て、私は足を止めた。
そこに映っていたのは、シンデレラでも悲劇のヒロインでもない。
薄汚れて、髪はボサボサで、鬼のような形相をした、ただの惨めな女だった。
「……うそ」
へなへなと、その場に座り込む。
通行人が私を避けて通っていく。誰も私に手を差し伸べない。王子様も、優しい魔法使いも、もうどこにもいない。
蓮司が言っていた言葉が、呪いのように頭の中でリフレインする。
『君の役はもう終わったんだ。退場してくれ』
そうか。
スポットライトはもう消えたんだ。
エンドロールも流れ終わって、客席には誰もいない。
暗闇の舞台に、私だけが取り残されている。
「……カット、って言ってよ……誰か……」
私の呟きは、都会の喧騒にかき消されて、誰にも届かなかった。




