エピローグ:カーテンコールのない舞台裏 ~全てを失った元婚約者が「あれは演技だった」と縋り付いてきたが、俺はもう次のヒロインと歩き出している~
あの日、日本のテレビ史に残る「放送事故」が起きてから、一ヶ月が経った。
その波紋は、俺が想定していたシナリオを遥かに超える規模で広がっていた。放送直後、ネット上のサーバーはパンクし、SNSのトレンドワードは上位二十位すべてが番組関連の言葉で埋め尽くされた。
『富樫リョウ逮捕』
『姫川ミオ引退』
『リアル・ラブ・ストーリー』
『公開処刑』
あの一夜にして、二人の名前を知らない日本人はいないほどの有名人になった。ただし、彼らが望んでいたような「スター」としてではなく、史上稀に見る「道化」としてだが。
俺は今、ガランとしたタワーマンションのリビングに立っていた。
かつてミオと共に暮らし、彼女のために整えた家具たちは全て処分業者に引き渡した。残っているのは、窓から差し込む西日と、舞い上がる埃だけ。あの夜、リョウとミオが浮気に耽っていた革張りのソファも、もうない。
「……随分と片付いたわね。もっと感傷に浸るかと思っていたけれど」
玄関の方から、ヒールの足音が響いた。如月雫だ。彼女は今日、俺の引越しの手伝いと、事後処理の報告のために来てくれていた。
「感傷なんてないよ。ここはただの『セット』だったんだ。芝居が終われば撤収する。それだけのことさ」
俺が淡々と答えると、雫は小さく肩をすくめ、手元のタブレットを開いた。
「そう。じゃあ、事務的な報告を済ませておくわね。まず、富樫リョウについて」
彼女の指先が画面をスワイプする。
「彼は放送終了直後、スタジオに駆けつけた警察官に任意同行を求められたわ。横領の証拠があまりにも明白だったから、事務所も庇いきれなかった。それに加えて、未成年者略取誘拐の容疑も固まりつつある。……実刑は免れないでしょうね。出所したとしても、数億円規模の賠償金が待っているわ」
「そうか。……彼が望んだ『伝説』にはなれたな。犯罪史に残るという意味で」
リョウの傲慢な笑顔が脳裏をよぎる。彼は常にスポットライトを浴びることを渇望していた。皮肉なことに、手錠をかけられてパトカーに押し込まれる姿は、連日ワイドショーでトップニュースとして扱われ、彼の人生で最も注目された瞬間となった。
「次に、姫川ミオについて」
雫の声が少し硬くなる。
「所属事務所は即日解雇。CMやドラマの違約金、それに今回の番組を台無しにしたことによる局からの損害賠償請求……総額で五億円近くになるそうよ。もちろん、彼女に支払える能力はないから、自己破産の手続きを進めているみたいだけど……免責が認められるかどうかは微妙ね。悪質性が高すぎるもの」
「自業自得だ。彼女は『シンデレラ』になりたがっていたが、魔法が解けた後の灰被りの方がお似合いだったということだ」
俺は窓の外を見つめる。この街のどこかで、彼女は今も呼吸をしているのだろうか。煌びやかなドレスを剥ぎ取られ、嘘で塗り固めた仮面を割られた彼女が。
「……それと、蓮司。管理人さんから連絡があったわ。ここ数日、マンションの周囲をうろついている不審な女性がいるって」
「不審な女性?」
「ええ。ボロボロの服を着て、帽子を目深に被った……」
その時だった。
エントランスのインターホンが鳴り響いた。
俺と雫は顔を見合わせる。この部屋は今日で引き払うことになっている。訪ねてくる人間などいないはずだ。
俺は壁のモニターへと歩み寄った。
画面に映っていたのは、幽霊のような女だった。
髪は脂ぎって乱れ、頬はこけ、目の下にはどす黒い隈ができている。着ているのは薄汚れたパーカーとスウェットパンツ。かつて「清純派女優」として世の男性を魅了した姫川ミオの面影は、微塵もなかった。
「……蓮司? いるんでしょ? お願い、開けて……!」
マイク越しに聞こえる声は、しゃがれていて耳障りだった。
「どうするの? 警察を呼ぶ?」
雫が冷静にスマホを取り出す。俺は少し考え、首を横に振った。
「いや、いい。これが最後の演出だ。カーテンコールくらいはさせてやろう」
俺は解錠ボタンを押した。
数分後、玄関のドアが激しく叩かれた。鍵を開けると、ミオが転がり込むようにして入ってきた。
「蓮司! ああ、蓮司……よかった、まだいてくれたんだ……!」
彼女は俺の足元に縋り付こうとした。だが、俺が一歩下がって避けると、彼女は床に這いつくばる形になった。その姿はあまりにも惨めだった。
「……何の用だ、ミオ。いや、姫川さん」
冷たく突き放すと、ミオは顔を上げた。その目には、狂気じみた光が宿っていた。
「ひどいよ、蓮司。なんであんなことしたの? 私、怖かった。ネットの人たちが毎日毎日、私の悪口を書いて……家の前にもマスコミがいっぱいいて……もう住むところもないの。友達も、誰も助けてくれないの……」
彼女は涙を流し始めた。だが、その涙に俺の心はピクリとも動かない。かつてはこの涙を見るたびに胸を痛め、彼女を守らなければと誓ったものだが。
「それが君の蒔いた種だ。俺に同情を求めても無駄だよ」
「違うの! あれは演技だったのよ!」
ミオが叫んだ。
「え?」
「だから、あの浮気も、悪口も、全部リョウくんに言わされてただけなの! 『こうすれば番組が盛り上がる』って、リョウくんが無理やり……! 私は断ったの。でも、彼が怖くて、逆らえなくて……!」
呆れて言葉も出ない。
ここまで落ちぶれてなお、彼女は「悲劇のヒロイン」を演じようとしているのか。リョウという悪役がいなくなった今、全ての罪を彼に押し付け、自分は被害者だと言い張るつもりらしい。
「あのね、蓮司。私は蓮司のことだけを愛してるの。本当よ? 二年間の思い出、嘘じゃないでしょ? 私が風邪ひいた時、蓮司が一晩中看病してくれたこと、覚えてるよ。あの時、私すごく嬉しかった。やっぱり私には蓮司しかいないの……!」
ミオは必死に俺の手を掴もうとする。その手は震えていた。
「だから、お願い。やり直そう? ね? 私、もう女優なんてどうでもいい。蓮司のお嫁さんになる。毎日美味しいご飯作って、蓮司の脚本執筆を支えるから……だから、この借金も一緒に……」
「……本音が出たな」
俺は彼女の手を振り払った。
「結局は、金と住処か。君は本当に変わらないな。……いや、最初からそういう人間だったのを、俺が見抜けなかっただけか」
俺はポケットから、一枚の紙を取り出した。それは、放送前に二人に書かせた誓約書のコピーだ。
「君はここにサインした。『いかなる演出も受け入れる』と。そして、『虚偽の発言や行動があった場合、その責任は全て本人が負う』とも書いてある」
「そ、そんな紙切れ……!」
「紙切れじゃない。君が自分の意思でサインした、君の人生を決定づける契約書だ。……それに、リョウに言わされた? 笑わせるな。俺のペットカメラには、君が自分からリョウを誘い、俺を嘲笑う様子が何時間も記録されている。警察にも証拠として提出済みだ」
ミオの顔色が土気色に変わる。
「君が愛していたのは俺じゃない。俺の金と、俺が提供する『都合のいい環境』だ。そして、もっと条件の良いリョウが現れたら、すぐに乗り換えた。……単純明快な三流脚本だよ。そこに『愛』なんて高尚なテーマを混ぜ込むな。作品が汚れる」
俺の言葉は、鋭利な刃物となって彼女に突き刺さった。
ミオはパクパクと口を開閉させ、何か言い訳を探しているようだったが、やがて力が抜けたように項垂れた。
「……じゃあ、私はどうなるの? お金もない、家もない、仕事もない……死ねっていうの?」
「生きるも死ぬも、君の自由だ。ただ、俺の目の前からは消えてくれ。君はもう、俺の物語の登場人物じゃない」
「蓮司……!」
ミオが再び泣き叫ぼうとしたその時、背後から凛とした声が響いた。
「もういいでしょう。退場のお時間よ」
雫が前に進み出て、俺とミオの間に割って入った。彼女はミオを見下ろし、ゴミを見るような目で言い放つ。
「警備員を呼んだわ。あと一分でここに到着する。不法侵入で警察に突き出されたくなければ、自分の足で出て行きなさい」
「あ、あんたは……! 如月雫……! あんたが蓮司を唆したんでしょ!? 私たちの仲を引き裂いて……この泥棒猫!」
ミオが逆上して雫に掴みかかろうとする。
だが、俺はとっさに雫の前に出て、ミオの腕を掴んだ。
「触るな」
今までで一番低い、怒気を孕んだ声が出た。
「雫は俺のパートナーだ。そして、今回の復讐劇を成功させてくれた恩人でもある。君のような人間が、指一本触れていい相手じゃない」
俺の剣幕に、ミオはひっ、と息を呑んで後ずさった。
俺の目には、かつて彼女に向けていた優しさなど微塵もない。あるのは、完全なる決別と軽蔑だけだ。それを悟った瞬間、彼女の中で何かが完全に折れたようだった。
「……う、うああああぁぁぁぁ!」
ミオは獣のような叫び声を上げ、顔を覆って走り出した。開け放たれたドアの向こうへ、逃げるように去っていく。
廊下には、彼女の絶望的な泣き声だけが残響として残った。
やがて、遠くから警備員の慌ただしい足音が聞こえてくる。彼女がつまみ出されるのも時間の問題だろう。
静寂が戻った部屋で、俺は深く息を吐き出した。
肩の荷が、ようやく全て下りた気がした。
「……大丈夫?」
雫が心配そうに俺の顔を覗き込む。いつものクールな表情の中に、隠しきれない優しさが滲んでいる。
「ああ。これでもう、本当に終わりだ。……ありがとう、雫。君がいてくれてよかった」
素直な感謝を口にすると、雫は少し驚いたように目を瞬かせ、それから照れくさそうに視線を逸らした。
「べ、別に。私はマネージャーとして当然のことをしたまでよ。……それに、私だって許せなかったから。大切なあなたが、あんな女に傷つけられるのが」
その言葉に、俺の胸が温かくなる。
俺はずっと、遠くにある偽物の星を追いかけていた。けれど、一番近くで俺を照らしてくれていた光に、ようやく気づくことができたのだ。
「雫」
「な、なに?」
「この部屋を出たら、新しい脚本を書こうと思うんだ」
「……復讐劇はもうお腹いっぱいよ?」
「違うよ。今度は、もっと明るい話を書きたい。信頼できるパートナーと共に、人生を歩んでいく物語だ」
俺は雫の手を取った。彼女の指先は少し冷たかったが、握り返してくる力は強かった。
雫の顔が真っ赤に染まる。
「そ、それって……主演女優は決まっているのかしら?」
「ああ。ずっと俺の傍にいてくれた、世界で一番素敵な女性にオファーするつもりだ。……受けてくれるか?」
雫は眼鏡を外し、涙ぐんだ瞳で俺を見つめ、満面の笑みを浮かべた。
「……喜んで。ただし、ギャラは高いわよ? 一生分の愛で支払ってもらうんだから」
「望むところだ」
俺たちは繋いだ手を離さずに、何もない部屋を後にした。
エレベーターホールへ向かう足取りは軽い。
外に出ると、初夏の日差しが眩しかった。
空はどこまでも青く、澄み渡っている。
かつて俺が書いた「最高視聴率の復讐劇」は、大団円を迎えて幕を下ろした。
ここから始まるのは、誰に見せるためでもない、俺と雫だけの「リアル・ラブ・ストーリー」だ。
シナリオも、演出も、結末も決まっていない。
けれど、きっと最高傑作になる。そんな予感がしていた。
俺は雫の手を強く握り直し、新しい未来へと続く一歩を踏み出した。




