第一稿:ありふれた裏切りのプロット ~彼女は俺の部屋で、俺の親友と愛を囁き、俺の書いた脚本をゴミ箱に捨てた~
午前二時を回ったテレビ局の制作ルームは、深海のような静寂に包まれていた。微かに聞こえるのは、空調の低い唸り声と、俺がキーボードを叩く乾いた音だけ。デスクの上には飲みかけで冷え切った缶コーヒーと、無造作に積み上げられた資料の山。モニターの明かりが、俺、翡翠蓮司の疲れ切った顔を青白く照らし出している。
「……よし、脱稿」
エンターキーを強めに叩き、俺は深く息を吐き出した。来季のゴールデンドラマの第一話、その修正稿がついに完成したのだ。脚本家としてデビューして五年。最初は名前も出ないゴーストライターのような仕事ばかりだったが、ここ数年でようやく業界内での評価が固まりつつある。「翡翠蓮司の脚本には、緻密な構成と人間心理の鋭い描写がある」――そんな評価を貰えるようになったのは嬉しいが、その代償としてプライベートな時間は削られ続けていた。
スマートフォンを手に取り、画面を点灯させる。待ち受け画面には、花束を抱えて天使のように微笑む女性の写真。姫川ミオ。今、最も勢いのある若手清純派女優であり、俺の婚約者だ。世間には公表していないが、俺たちは都内のタワーマンションで二年ほど前から同棲生活を送っている。
「ごめんね蓮司、今日も泊まり込み? 体調崩さないでね。愛してる」
数時間前に届いていたメッセージアプリの通知を見て、俺の口元は自然と緩んだ。彼女の存在があるからこそ、この過酷な業界で筆を折りもせず戦ってこられたのだ。ミオは、俺にとってのミューズであり、守るべきヒロインだった。
ふと、自宅に残してきた愛猫のノワールのことが気になった。自動給餌器はセットしてあるが、ちゃんと食べているだろうか。俺はアプリを切り替え、リビングに設置してあるペット用の見守りカメラを起動させた。スマートフォンの画面に、自宅のリビングが映し出される。
ラグジュアリーな革張りのソファ、間接照明に照らされた大理石の床。俺が必死に働いて手に入れた、ミオのための城だ。しかし、そこに映っていたのは、猫のノワールだけではなかった。
「……は?」
思考がフリーズする。画面の中、俺が座るはずの特等席であるソファに、見知らぬ男が座っていた。いや、見知らぬ男ではない。派手な金髪に、整いすぎた甘いマスク。俳優の富樫リョウ。俺の大学時代の同期であり、かつては同じ演劇サークルで夢を語り合った「親友」だった。
そして、そのリョウの膝の上に跨るようにして、ワイングラスを傾けている女性。透き通るような白い肌と、艶やかな黒髪。間違いなく、俺の婚約者、姫川ミオだった。
音声機能をオンにする。ノイズ混じりの音声が、イヤホンを通して鼓膜を突き刺した。
「ねえリョウくん、もう一本開けちゃう? 蓮司のコレクション、高いやつらしいよ」
「いいねえ。あいつ、味も分からないくせに高い酒ばっかり集めてさ。本当に『形から入る』タイプだよな」
リョウが下品な笑い声をあげながら、俺が記念日に開けようと大切にしていたヴィンテージワインのコルクを抜く。ミオはそれを咎めるどころか、ケラケラと笑いながらグラスを差し出していた。
「仕方ないじゃない。蓮司ってば、脚本書いてる時は周りが見えなくなるんだもん。私なんて家政婦扱いよ。……あーあ、リョウくんみたいな刺激的な人が彼氏だったら良かったのに」
「よせよ、俺みたいな遊び人と付き合ったら、ミオちゃんの清純派イメージが崩れちまうだろ? まあ、その『裏の顔』を知ってるのは俺だけっていうのが、興奮するんだけどな」
二人は唇を重ねる。俺の部屋で。俺のソファで。俺の酒を飲みながら。怒りで手が震えるかと思ったが、不思議と俺の指先は冷え切ったまま動かなかった。心臓の鼓動だけが、早鐘のようにうるさい。
「そういえばさ、これ」
リョウがテーブルの上に置かれていた分厚い封筒を手に取った。それは、俺がミオの誕生日に渡すつもりで書き上げていた、新作映画のプロットと初稿だ。彼女を主演に想定し、彼女の魅力を最大限に引き出すために書いた、渾身のラブストーリー。『硝子の靴を脱ぎ捨てて』という仮タイトルがつけられている。
「蓮司がね、私のために書いたんだって。今度プロデューサーに見せるらしいよ」
「へえ……どれどれ」
リョウはパラパラとページをめくると、鼻で笑った。
「うわ、寒っ。なんだよこれ、『真実の愛は言葉よりも行動で示される』だとか……いつの時代のドラマだよ。蓮司の書く本ってさ、理屈っぽいんだよな。説教臭いっていうか」
「そうなの! 私もそう思ってた。もっとこう、リョウくんが出てるドラマみたいに、キュンキュンしてドキドキするやつがいいのに。蓮司の世界観って、なんか地味で暗いのよね」
ミオの言葉が、物理的な衝撃となって胸を抉る。才能を信じてくれていると思っていた。俺の書く言葉が好きだと言ってくれていた。それらはすべて、俺という「便利なコネクション」と「住処」を確保するための演技だったのか。
「こんな古臭い脚本、どうせ売れねえよ。ミオには相応しくない」
「だよねー。あーあ、読むだけで肩凝っちゃった」
次の瞬間、リョウは俺の原稿を無造作に放り投げた。白い紙の束が宙を舞い、床に散らばる。その上から、ミオがわざとらしくワインを少しこぼした。赤い液体が、俺の紡いだ言葉たちを汚していく。
「あ、こぼしちゃった。ま、いっか。どうせゴミだし」
「ハハッ、傑作だな。それが一番面白い演出だよ」
二人は笑い合い、再び抱き合った。カメラの向こう側で繰り広げられるその光景は、あまりにも陳腐で、あまりにも三流のメロドラマのようだった。
俺は静かにスマートフォンの画面を伏せた。
怒鳴り散らして今すぐ家に帰り、二人を叩き出すことは簡単だ。だが、それでは気が済まない。あの二人にとって、それはただの「修羅場」というイベントに過ぎないだろう。リョウは武勇伝として語り、ミオは悲劇のヒロインぶって同情を引くかもしれない。
(……三流だ。こんな結末、俺は認めない)
脚本家としての職業病だろうか。激しい憎悪の奥底で、冷徹な理性が鎌首をもたげていた。この物語には、もっと相応しいカタルシスが必要だ。観客全員が息を呑み、主役たちが二度と立ち上がれないほどの、圧倒的なバッドエンドが。
俺は再びキーボードに向き合った。先ほどまで書いていたドラマの修正稿ではない。新しいドキュメントを開き、タイトルを打ち込む。
『企画書:リアル・ラブ・ストーリー ~嘘と真実の境界線~』
俺の頭の中で、復讐のシナリオが組み上がっていく。かつてないほど鮮明に、かつてないほど残酷に。
◇
翌日の午後。俺はテレビ局近くのカフェの個室に、リョウとミオを呼び出していた。
「急に呼び出してごめんね、蓮司。どうしたの?」
ミオは完璧なメイクと清楚なワンピースに身を包み、いつもの「理想の婚約者」の顔で現れた。その隣には、サングラスを胸元にかけたリョウがいる。二人の距離感は不自然なほど近いが、俺は気づかないフリをしてコーヒーを啜った。
「よう蓮司。忙しい売れっ子先生が、俺みたいな暇人に何の用だ?」
リョウが皮肉っぽく笑う。昨夜、俺の原稿を「ゴミ」と呼んだ男と同じ顔だとは思えないほど、爽やかな笑顔だ。
俺は鞄から、昨夜一晩で書き上げた企画書を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
「実はな、ビッグプロジェクトが決まったんだ。局の上層部が、社運を賭けた特番を作りたいと言っていてね。その脚本と構成を、俺が一任された」
「へえ、すごいじゃん。で、それが俺たちと何の関係があるの?」
リョウが興味なさそうに企画書をめくる。だが、その目が次第に見開かれていくのを俺は見逃さなかった。
「タイトルは『リアル・ラブ・ストーリー』。全国生放送で行う、ドラマとリアリティショーを融合させた実験的な番組だ。……主役のカップルを探していたんだが、俺はどうしても、お前たち二人に演じてほしいんだ」
「えっ、私たちに?」
ミオが身を乗り出した。彼女の目は野心に輝いている。売り出し中の彼女にとって、ゴールデンの特番主演、しかも蓮司脚本となれば、一気にスターダムへの階段を駆け上がるチャンスだ。
「ああ。内容は単純なラブコメじゃない。生放送中にサプライズやハプニングを仕掛けて、二人の『素のリアクション』を撮る。視聴者は作られた演技よりも、真実の愛の姿を見たがっているからな」
俺は二人の目を交互に見つめ、穏やかに、しかし心の中では毒蛇のような笑みを浮かべて告げた。
「リョウ、お前にはミオを口説き落とす『理想の王子様』を演じてもらう。そしてミオ、君は世界で一番幸せな『シンデレラ』になるんだ。……この脚本は、君たちの人生を変えることになるよ」
「人生を変える、か……。面白そうじゃん、それ」
リョウがニヤリと笑った。彼はきっと、この生放送を利用して、俺からミオを公然と奪い取る計画でも思いついたのだろう。「蓮司の脚本を利用して、蓮司の女を奪う」――彼のようなナルシストが好みそうなシチュエーションだ。
「私もやりたい! 蓮司の脚本なら、絶対に素敵な作品になるもの!」
ミオが俺の手を握りしめる。その手の温もりに、かつては癒やされていた。だが今は、ただの粘着質な不快感しか感じない。
「ありがとう。二人ならそう言ってくれると信じていたよ」
俺は微笑み、契約書を取り出した。
「ただ、生放送という性質上、情報の漏洩は厳禁だ。それと、どんなハプニングが起きても演出として受け入れること。これにサインを頼めるか? かなり高額なギャラと、万が一の場合の違約金についても書かれている」
二人は内容をろくに確認もせず、高揚した様子でペンを走らせた。彼らは知らない。その契約書が、自分たちの芸能生命、いや、社会的な生命を断つための「処刑台への同意書」であることを。
サインが記された紙を受け取り、俺は丁寧にファイルに収めた。これで準備は整った。キャスティング完了、舞台装置の設営開始。
「それじゃあ、最高のリハーサルを始めようか」
俺の言葉に、二人は無邪気な笑顔で頷いた。その笑顔が、恐怖と絶望に歪む瞬間を想像しながら、俺は冷めたコーヒーを飲み干した。
こうして、俺の人生最大の、そして彼らにとって最後の「脚本」が動き出した。視聴率100%の復讐劇、その幕が上がる。




