第十八話-天魔-
白い丸机と、いくつかのクッションが転がる淡い桃色の絨毯。端に置かれたベッドには、きれいに畳まれた掛け布団があり、その上には眼鏡型のFMDが置かれている。
色を合わせた白い本棚には教科書と辞書、シリーズ毎に整頓された恋愛小説と少女マンガが並ぶ。小学生の頃から使っている勉強机の上には、すでにきっちり書き込まれた複数のプリントとノートが、鞄へしまわれるのを待っていた。
そんなきれいな部屋で、すべてを放り出し、床へ寝転がる慎太郎と、対照的に机に上半身を突っ伏せているひばり。そして、それを事も無げに、本を片手に紅茶をすするのが、この部屋の主の美咲だ。
GW最終日。朝九時から始まった大宿題大会は、ものの見事に失敗に終わった。内容としては、三人中二人がわずか二時間でその生気をすべて燃え尽くし、残る一人はそもそもすでに終了させていたために不戦勝、というところだろう。
ひばりも慎太郎も、勉強が本当に嫌いだ。苦手というのではない。ひばりは英語の成績だけなら美咲に匹敵し、慎太郎も頭が柔軟なのか、きっちり勉強すればクラスの中の上には割り込める実力がある。
しかし、問題なのがこの勉強嫌いだ。ひばりは英語以外の教科で赤点ギリギリかそのもの、慎太郎は赤点こそないがすべて平均以下と相成ってしまう。
一方で美咲は、宿題は当然こなし、毎日の予習復習も事欠かないので、常に成績はトップクラスだ。その分、体育では少し……大幅に、二人には後れをとる。
「……ふう」
二人が宿題にノックアウトされて十分は経っただろうか。美咲は手に持つ恋愛小説の最新刊を読み終えると、その余韻を味わいつつ、ぱんぱん、と両手を打ち鳴らした。
「はいはい、休憩終わり。あと少ししたらお昼ご飯だから、それまでは頑張って」
「俺はもう駄目だ……」
死に行く戦士のような台詞を、慎太郎が唸るように吐く。ただやり残した宿題をしているだけなのに、なぜここまで満身創痍なのか。
「もう。計画的にやった方がいいっていっつも言ってるのに」
慎太郎は夏休みの宿題を貯めに貯め込むタイプのため、終盤でいつも苦労している。それを反省すればいいのだが、なんだかんだで毎年そんな調子だ。このゴールデンウィークでも当然、毎日こつこつととは行かなかった。
「ゲームしてえよ~」
「ダメ。っていうか、『The Earth』は今日メンテナンスなんでしょ? したくてもできないんなら宿題しなきゃ」
『The Earth』のメンテナンスは、およそ二週間に一度、定期的に行われている。それに加え、今回は追加要素が新たにいくつかあるというので、通常半日で終わるメンテナンスが一日かかることになっていた。普段から入れ込みっぱなしの慎太郎も、ログインできなければプレイはできない。
「……はあ、仕方ねえな」
体を起こし、気だるげにノートを広げる。あとはひばりの方だ。
「ほらひばりちゃんも。あともう少しなんだから」
ひばりの方は、はじめの方は計画的にやろうとした意志があったらしく、複数ある宿題のうち、少しは手をつけてあった。それでも途中で挫折したため、結局は最終日に苦しむ羽目になっているのだが。
「眠い……」
「昨日も夜更かししてるからでしょ」
ひばりはゲームだけでなく、映画好きな一面がある。古いアクション映画から最近のSF、ホラー、コメディまで何でも見る。
このGW中は、『The Earth』をしているか映画を見ているかのどちらかといった生活をしていたようで、そのせいで毎日明るくなるまでベッドには入らなかったのだという。
「ほらほら。宿題終わってから思い切り寝ればいいんだから」
「……ああ、ちくしょう。数学なんて嫌いだ……」
ぶつくさ言いながらもペンを取り、プリントを進める。
毎度毎度、勉強嫌いの二人に宿題を半ば強制的にやらせるのが、連休の風物詩になってしまっている。なくなっていい恒例行事だとは思うのだが、恐らくそうはならないだろうと、美咲は諦めかけている。
二人が比較的まじめに宿題に取りかかるのを見て、美咲は部屋を出てキッチンへと向かった。あと少しで昼食の時間なので、今から作り始めるのだ。
美咲の母親は、結婚する前は調理師をやっていて、その腕前は美咲を産んだ後も存分に発揮されている。その味が昔から大好きだった美咲も、母に倣って料理を覚えるようにしていた。今日作るのも、子供の頃から大好きだったナポリタンだ。
テキパキと用意を始め、十二時を少し回ったところで出来上がる。部屋に戻って二人を呼び、ダイニングで頂くことにする。
「いただきます」
「はいどうぞ」
皿に盛りつけられたナポリタンをすすり上げ、慎太郎は歓喜の声をあげる。ちなみに、慎太郎は麺類ならばなんでも箸で食べる。パスタなんかをフォークでいちいち巻いて食べるのは面倒だという。
「やっぱ旨いなあ、美咲の料理は」
「本当。ああ、私が男だったら美咲を嫁にもらうのに」
「ありがとう。でも、私なんてまだまだだよ」
目指している母の味には今一歩届かない。教えてもらった作り方は間違っていないはずなのだが。
「やっぱりあれだ、ピーマン入れないのが悪い」
「……だって、苦手だから……」
人間誰しも好き嫌いはある。そして、美咲にとってそれはピーマンなのだ。小さい頃からあれだけはどうしても食べられない。母の作るナポリタンにも必ず入っていて、毎回残しては怒られていた。
「甘いナポリタンの中にあるピーマンの苦みが味を引き立てる的なアレだよ、きっと」
「……やっぱり、そうなのかなあ」
そうは言っても、それでもピーマンは苦手なのだ。
食べ終えると、美咲は食器を洗うために残り、二人は部屋に戻って宿題を再開していた。そんな中、ふとひばりがペンを走らせる手を止め、向かいにいる慎太郎へ声をかけた。
「なあ、美咲の奴……今日は元気だよな」
「……そうだな。最近ちょっと落ち込み気味だったけど、今日はそうじゃない気がする」
美咲は、自分が困っているという事を隠すタイプで、何か気に病むことがあってもそれを表情に出したりはしない。それでも、付き合いのある二人には、わずかな変化が何となく感じ取れる。
ここ一月ほど、美咲はどこか暗い、なんとなくだが悲しんでいるような雰囲気があったのだが、今日になってからそれがない。
「原因は……昨日の、あれだよね」
「……フィアレスか」
美咲の危機に颯爽と現れ、救出してくれたフィアレス。今まで会いたいと思っても会えなかった彼と、邂逅するだけでなく、わずかではあるが話もできた。そして、その真意はわからないままだが、彼が悪人になってしまったわけではないと言うことは理解できた。
「……わかんないんだよね。なんであいつ、PKなんか」
何か理由があるのだろう、ということはわかる。しかし、その理由は不明だ。騎士団に狙われるほどの危険なPK。フィアレスはそう呼ばれている。
だが、彼はPKを撃破し、そっけなくはあったが美咲に心配の言葉までかけた。
考えても何も浮かばない。ぽつり、とひばりが言う。
「……会って、話がしたいな」
「おいおい、お前までそんなこと言い出すかよ」
「わけわかんないのは嫌いなんだ。どうしてあんなことになったのか、知っておきたいじゃんか」
「それはそうだけどさ……」
慎太郎が口ごもり、何を言うかと思っていると、部屋の外から足音が聞こえた。美咲が戻ってきたのだ。この話はここでおしまいと、二人は宿題に意識を戻した。
謎は深まるばかり。これから、どうして行けばいいのか。それは、誰にもわからなかった。
天馬の騎士団。この『The Earth』を守護する誇り高き騎士たちの集まりで、正義の名の下に、悪たるPKを粛正する組織。プレイヤーからの信頼も篤く、人によっては信仰の対象にすらなっていた。だが、そういった組織に関しては、黒い噂も絶えないものだ。
騎士たちは正義ではない――そう吹聴して回る人間も少なくはない。
PKと騎士団を兼任している者がいる、一般のプレイヤーをPK認定し処断する、PKを一撃で倒すチート装備を使用している……その内容は多岐に渡る。
だが、そのどれも、掲示板の書き込みや少人の言葉だけであり、証拠はない。眉唾物だ。
PK目線から見れば、ルール上許可されている行為に対して、理不尽な指摘をされているという事になるが、そもそものPK行為が一般のプレイヤーにとって迷惑である以上、どちらも文句は言えないということになる。
騎士団が正義、PKは悪。『The Earth』のほとんどのプレイヤーが、その意識を持っていた。そして、誰もが思っていた。騎士団に逆らうことは危険だ、と。
一週間ほどが経過し、GWでなまった体もようやく暖まってきたある日。授業が終わり、自宅へ帰る道すがら、慎太郎がネット新聞の記事のようなものを美咲に見せた。
そのタイトルは、『正義の騎士団の悪行』とある。
「これって……」
「『The Earth』の中で発行されてる新聞の記事。さっき届いてさ、中身見たらこんなんだから気になって」
『The Earth』では日々様々な物が創り出されている。新聞などかわいい方で、『The Earth』内でのみ発刊された書籍が流行し、現実世界で売り出されたり、『The Earth』から服や家具デザイナーがデビューすることもある。
新聞の主な内容は、ある匿名希望者へのインタビューのようだ。要約すると、自分は天馬の騎士団に騙され、裏切られ、殺された。正義の名を騙る騎士団こそが『The Earth』最大の悪である――となる。
騎士団の黒い噂は多々あったが、それが新聞として発行されたのはこれが初めてだ。今までは掲示板への書き込みなどの、恨みに任せて書いたデマのようなものばかりだった。
「これ、大丈夫なの?」
美咲の問いに、慎太郎は首を横に振った。
「もうあちこち炎上してる。掲示板なんかだと新聞社に問い合わせしてやるみたいな書き込みも多い。たぶん、『The Earth』の中でも同じだろうな」
「この新聞、どこが作ってるの?」
「ここ。『SEVENTH LIER』ってとこ」
そのギルド名に、美咲は小首を傾げた。
「……ライアーって、嘘つき、だよね」
「そう。実はさ、ここの新聞、嘘をつく新聞なんだ。『七割嘘と三割真実。嘘と虚言の偽物新聞』ってキャッチコピーでさ。今まではブラックユーモアの面白おかしい記事ばっかり作ってたんだけど……今回はちょっと、触れちゃいけないとこ触れちゃった感じかな」
「これも嘘ってことなんじゃ……」
「にしたって、ちょっとやりすぎだろ。今までの面白い嘘じゃなくって、これじゃあ悪い風評流してるだけだ」
購読者を楽しませるためのゴシップならばいいが、この記事の内容は、そうと知らなければ嘘だとはわからない。ライターが変わったのか、方針が変わったのか。真偽は不明だが、とにかく双方に得がない。
「そうだね。……何にせよ、しばらくは荒れそうだね」
「だな。どうせ今日はひばりもいないし、別のゲームでもやろうかな」
今日の帰宅道、ひばりは二人と別行動をしていた。実は、昨夜、FMDにジュースをぶちまけ、物の見事に故障させたのだ。FMDはある程度の耐水性はあるのだが、糖分多めの液体をぶちまけられるとさすがに厳しい。ひばりは今、電気屋に走っている頃だろう。
「宿題は?」
「……やるよ、いずれ」
「……今度こそ手伝ってあげないよ」
それが何度目の今度なのか、美咲自身わからず、苦笑する。
もう一度記事へと目を通す。何か胸騒ぎがする。だが、きっと考えすぎだろうと、美咲はそれを心の奥底に隠した。




