七章
七、祝福の林檎と幸福を呼ぶ花
辺境伯の末娘コリーヌは十六歳。四人の姉たちのようにふさわしい相手に嫁ぐべき年頃を迎え、連日求婚者と引き合わされる日々を送っている。可憐で愛らしく、ただでさえ引く手数多なか彼女にはしかし、姉たちのように大人しく嫁ぐ気など毛頭なかったのである。
『冗談ではないわ、お父様! 私はあんな人との結婚なんて絶対に嫌です!』
登場するなり怒って叫ぶコリーヌの第一声に、父役の『紳士』は困り顔をする。
『あの人もだめ、この人もだめ。じゃあお前は一体どんな男となら結婚すると言うんだね?』
コリーヌはたちまち笑顔になって、言うのだ。
『それはもちろん私より強く、かしこく、頼り甲斐のある立派な方に決まっていますわ! ああでも強いだけではだめ。同時に、美しくなくては!』と。
そして騎士よろしく、長剣を振り回し、愛馬にまたがって今日も領地の森へ狩りに出かけることを宣言した。父親は頭を抱えてこう答える。
『ああコリーヌ、お前は本当に困った娘だ。そんな男が一体どこにいると言うんだい。末娘だと奔放に、自由に育てすぎたこのわたしがいけなかった。頼むから、姉さんたちのように結婚しておくれ』
『今更ですわ、お父様。自由で奔放。それをなくしてしまえば、コリーヌは消えてしまいます。この私のままで愛してくれる男性がいないなら、結婚など一生いたしません』
強気な笑顔で断言し、コリーヌは馬を走らせる。まさかその森で運命の騎士に――その身分を隠した若き王エールと出会うことになるなど、露知らず……。
物語の冒頭部分の稽古を終えたところで、小休憩が入った。今日で稽古が始まって二週間。当初よりはかなり台詞も動きも良くなったと褒められ、エーヴはほっとする。だがあくまで当初に比べて、であり、エーヴ自身も出来にはまだまだ満足していない。
(もっとこう、実感を込めて台詞を言えたらいいんだよな。頑張ってはいるつもりでもまだ『台詞』で、『コリーヌ』自身の言葉になってないんだ)
稽古部屋の隅で台本を捲りながら、どうすればもっとうまくできるのか頭の中で模索していた、そんな時だった。
戸口のところに『従騎士』の制服姿のリディが立っていた。近づいてみると、モニクにロラとレアもいる。
「教官に見学を許可されたので来たんです。頑張っていますわね、エーヴ」
にっこり微笑まれ、エーヴは苦笑いをした。
「まだまだだよ。選んでもらったからには、ちゃんとやろうと思ってはいるんだけど」
「エーヴならきっとできますわ。わたくしも応援していますから」
「うん……ありがとうリディ」
手を握られ、笑顔を返しはしたものの、心から笑えなかったのは槍試合での一件が頭に残っているせいだ。ふわりと香ったトワレで、またあの奇妙な息苦しさを思い出す。
(あれは一体何だったんだろう。それに、どこかで嗅いだことのある香りだった)
ひそかに考えた、その瞬間。セレストと談笑していたジルがこちらに気づき、近づいてきた。そしてわかったのだ。この甘く、爽やかな彼女の香り――鈴蘭のような独特の芳香と、よく似ているのだと。
「どう、僕のエーヴはよく頑張っているだろう?」
微笑みを湛えたジルが肩を抱いてくる。香りが近くなると、リディのそれとは違う清涼な甘さがよくわかって、エーヴは思わず赤くなった。
「え、ええ……とても」
リディは遠慮がちに頷き、会話は終わる。休憩が終わり、稽古の再開が告げられたからだ。ジルに呼ばれてエーヴは戻り、皆が稽古に集中する。暗い瞳でその様子を見つめるリディに注意を払う者は、誰もいなかった。
「ジルのトワレ? どうしたんだいきなり」
訝しげに振り向いたセレストの一言で、稽古を終えた『紳士』仲間たちが寄ってくる。「なになに? ジルのトワレだって」「そうか、同じ香りを身につけたいって乙女心だ!」「なんだかんだ言ってエーヴちゃんも『淑女』だってことかあ」などと囲まれて笑われ、エーヴは慌てて否定する。
「違いますって! ただ珍しい香りみたいだから、どこのかなあって思っただけで」
「ふむ。確か、どこかで特別に調合してもらったものだとか言っていたかな。気になるなら直接聞いたらどうだ」
セレストの言うことは最もだし、「聞けない乙女心なんだってば」とにやにや突きあう『紳士』たちから逃れるためにも、エーヴはぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。じゃあお先に失礼しますっ!」
そそくさと逃げ帰っていくエーヴの後ろ姿を見送り、『紳士』たちは「愛だね~」と笑う。
「しかしあの声のでかさと一種の度胸の良さは、あの子の強みだと思わない?」
「だよね~見かけは可愛らしいのに、なんか急にかっこいい時もあるし」
「そうそう! 騎馬槍試合の時でしょ? あれはやばかったよね」
「あたしも結構きゅんと来たな~失敗しても一生懸命だから憎めないんだよね」
「かっこかわいいってやつ? 新しい魅力じゃん!」
全員一致で盛り上がると、誰かがぽつりと言った。
「意外と、我が騎士劇団の次代の星になっちゃったりとか……」
皆が表情を引き締め、窓の外を見やる。ちょうど下を走っていくエーヴが、盛大にすっ転んだところだった。
「ないか」
また笑いあう声は、もちろんエーヴには届かなかった。
『エーヴ』で稽古に明け暮れた一日が終わってもまだ、アダンは台本を手に悩んでいた。今日で稽古が始まって二十日目。頭だけ抱えていても何も生まれないし、事態は変わってくれない。
(だめだ。あれこれ唸ってんのは柄じゃねえ)
目立たぬよう濃い色の衣服で、アダンが向かったのは聖堂だった。予想通り今夜もジルが一人、稽古をしている姿があった。
「よう」
声をかけて入ると、ジルがばつの悪そうな顔をする。その頬がわずかに赤くなるのも、本当に迷惑そうには見えないことも確認して、アダンは笑う。
「ちょっと話さないか」
礼拝用の椅子に腰掛けたら、ジルはためらいつつも横に座った。
「……エーヴ嬢は?」
「あ? ああ、大丈夫だ」
そのまま少し沈黙が流れ、見やった先で、ジルは膝の上で両手を握っている。
「そんな緊張しなくても、こんなとこで何もしやしないって」
「し、したじゃないか、この前……!」
一気に真っ赤になって、ジルが祭壇に視線をやる。ついでに告解室での出来事も思い出し、アダンは苦笑した。
「まあ、不可抗力ってやつだって。今日はしない」
まだ何か言いたげなジルを覗き込み、「してほしいってんなら、別だけど」と囁く。瞳を見開いたジルが腰の剣に手をかけようとするのを止め、冗談だと両手を上げてみせた。
「それで、話って? 僕は暇じゃないんだ、さっさとしてくれ」
色々聞きたいことはあった。リディのトワレのこと、演技のコツ、上達法。なのに、凛と清らかなジルの表情を見ているうちに何も言えなくなった。
「いや、もういい」
「は? 何しに来たんだお前は」
「あんたの顔見に」
「ばっ……馬鹿か!」
「なんでそれが馬鹿なんだ?」
「……からかうなら真面目な顔をするな、紛らわしい!」
「本当に真面目なんだけど」
「ああもう、うるさい! 稽古の邪魔だから帰れ!」
「なら黙っておくから、稽古を続けてくれ。俺のことなら、その辺のかぼちゃぐらいに思ってくれていいからさ」
「……っ、勝手にしろ!」
赤い顔で立ち上がり、ジルは本当に稽古を再開した。
エール五世と正妃コリーヌは非常に仲睦まじく、生涯他の妃は持たなかったという。その史実通りではあるが、今回の物語の『コリーヌ』は、男勝りのお転婆娘として描かれている。そんなコリーヌと森で出会い、エールは気まぐれから自分をただの騎士だと嘘をつく。紆余曲折はあるものの、恋に落ちた二人は幸福な結末を迎える。まさに乙女の夢見る幸せな恋物語であることが、切ない悲恋の『罪の林檎』公演とは異なるところだ。
魅力に満ちたエールに恋をするコリーヌの気持ちは理解できるものの、どうすればより真実味を持たせて演じられるのか。アダンの関心と悩みはそこにあった。
(俺はどうしたって『男』だから、完全にはコリーヌになりきれないんだよな)
「なあ、ちょっと聞いていいか?」
「……物言わぬかぼちゃじゃなかったのか?」
きりのいいところを見計らって声をかけたアダンに、ジルは無愛想に振り返る。
「あのさ、そもそもなんで『紳士』になったのかなって」
訝しげな目をしつつも話を聞いてくれるつもりになったらしく、また隣に腰掛けてくれた。
「身長とか抜きにしてさ、その……やっぱ昔のことがあったから、かなーなんて」
「確かに、まるで関係がないとは言わない。最初は世の男という男を見返してやりたい気持ちもあったな。そいつらより自分のほうがよっぽどましだ、いや、全ての女性が喜び、好んでくれる『男』を演じて、本当の男どもに勝ってやるとも思っていた。でも、今は違う」
ジルは自嘲ぎみに歪めていた口元を、本当の微笑に変えた。
「舞台の上で、誰か別の人間として生きる。それがどれほど素晴らしく、贅沢なことかわかるか?」
「贅沢……?」
「そうだ。一人につき一度きりの人生、しかも生き方を自分で自由に選ぶこともできない。そんな世間一般の人々には許されていない贅沢だ。例え幕が下りるまでだけでも、今の自分とまるで別の生き方ができるのだからな」
生き生きと語る、ジルの瞳。心の底から、演じるのが楽しいという顔だった。アダンも自然と笑顔になる。
「そうだな、そうかもしれないな……」
ジルの言う通り、それは最高の贅沢なのかもしれない。舞台上で生き、笑い、泣き、愛し合う。どれもを完全に『本物』のように演じられさえするのなら。
まるでアダンの苦悩を知るかのように、ジルは続けた。
「僕にとっての演技は、今の自分からの『解放』だ。そうやって生きている間だけは、ジルベルト・ド・ブランとしての悩みも苦しみも、あの病さえも忘れられる。でも、そうなれるまでにはやはり相当の葛藤があったし、苦労もあったんだぞ?」
「最初はうまく演じられなかった、とか?」
「当たり前だ。何事も、数をこなしてこそ上達する。もちろんそれ相応の努力と訓練を積んだ者が、の話だということも言っておこう」
いたずらっぽく言い添えた後、ジルは笑い、立ち上がった。
「何しに来たのかと思ったら、お前もたまには兄らしいことをするのだな。エーヴ嬢が悩んでいるのだろう?」
「あはは……ま、まあな」
「彼女はよくやっていると思うよ。あえて一言贈るなら、『演じる』という意識を捨てること、とでも言っておこうか。自分の意識から役を見ている限り、本当にその人物にはなれない。意識ではなく、感じることだ。コリーヌの心をね」
それができないから苦労しているんだと、もう少しで口に出しそうになるのを堪える。無言でいたアダンに、ジルは自身の台本を投げてよこした。
「僕はもう覚えたから、よければエーヴ嬢に渡してやってくれ。少しは参考になるだろう」
「あ、ありがとう!」
「何を感激してる? お前にあげたんじゃないぞ」
「わかってるよ。でも感謝する! あんたは本当にいいやつだよ!」
じゃあな、と手を振り、アダンは急いで聖堂を出た。開いた台本には、意外と几帳面な文字でたくさん書き込みがされている。またジルの人知れぬ努力を垣間見て、アダンはもう一度振り返り、手を振った。
「……騒がしいかぼちゃだ」
苦笑し、もう一度稽古に戻るジル。その横顔が嬉しそうに緩んでいたことは、残念ながら帰途を急ぐアダンには見えなかったのだった。
***
更に一週間が過ぎ、ついに公演が行われる『薔薇祭』の前日となった。
今回は祭りという特色上、そして演出上の効果も高い、野外舞台での公演が決まっている。今日は朝から祭りの開催地――城近くの小高い丘にやってきて、実際の舞台を使って最終の打ち合わせと通し稽古を続けていた。午後も暮れた今、最後の場面を残すのみというところだ。
『お父様! それであの方は……私の騎士様はどこへ行かれたのです!?』
円形の舞台上では、『コリーヌ』が父親に詰め寄っている。旅の騎士が王その人だと聞かされている父は言葉を濁すが、勘違いした彼女は愛しい相手を自ら取り戻すため、後を追うことを決意した。
なんと実際の馬にまたがり、舞台上から飛び降りる驚愕の演出で、既に二人の恋の行方に夢中の観客たちを喜ばせること間違いなしだ。そこにちょうど戻ってきたエールと従者たちと出くわし、国王だと名乗った彼がコリーヌに求婚するという見せ場だった。
「ジル様、出番です」
裏方係に声をかけられてようやく、ジルははっと我に返った。どうやら、舞台上の『コリーヌ』に――エーヴに見惚れていたらしい。それもそのはず、彼女は今、紛れもない『コリーヌ』自身。『エール』を演じるジルが、今から妻に迎えようとする愛しい女性なのだから。
役になりきっているからだけではない。彼女は、本当に輝いていた。明らかに演技にも真実味が増したから? いや、そんなものを超えた、見る者の目を釘付けにする、強い光を感じるようで、
「……負けてられないな」
苦笑し、ジルもまた『エール』になる。どんな努力をしたのか、自分がアダンを通して伝えたことが役立ったのかはわからない。けれどこの舞台を成功させたい心なら、自分だって誰にも負けないのだ。
ひらりと白馬にまたがり、観客席の背後に回る。間に設けられた通路から、颯爽と現れるために。
「はっ!」
鞭を当て、馬を走らせたジルが舞台前に到着した。全てが順調に行っていたはずの、その瞬間のことだった。速度を緩めようとした刹那、突然ジルの馬が暴れ出したのだ。
必死で制御しようとするも、馬は激しく抵抗し、ジルの手が手綱から離れる。
体が投げ出され、地面に叩きつけられるのを覚悟した。が、衝撃は訪れなかった。いや、地には転がったものの、誰かの腕にしっかりと抱かれ、かばわれていたのだと知った。目を開けたジルが見たものは、苦痛にゆがめられたエーヴの顔だったのだ。
「おい、大丈夫か! しっかりしろ……!」
慌てふためき、一気に皆が駆け寄ってくる。全員を退けたジルがエーヴを抱き上げ、馬車に乗せ、城に引き返すこととなった。他者の同乗を拒み、二人きりで移動しながら、ジルは必死に無事を祈っていた。
「もう大丈夫でしょう。おそらく頭を打ったことによる軽い昏睡かと……大きな怪我もないようですし、睡眠不足もあったのかもしれない。朝までぐっすり寝かせてあげてください」
医者の言葉に、エーヴの寝台を囲んでいた面々が安堵の息を吐いた。セレストを始め、『紳士』たちや団長の姿もあったが、今はジルだけが付き添っている。せめて目を覚ますまでは、と願い出たジルに異存を唱える者はなく、静かに夕刻を迎えようとしている。それにしても、アダンはまだ来ないのだろうか。
(何をやってるんだ、こんな時に……!)
残ったのは彼に事情を説明し、後を頼むためでもあったというのに、一向に姿を見せない。怪我がなかったのは何よりだが、万が一を考えるとまだ帰る気にはなれなかった。
どうか、元気に目を覚ましてくれるように。祈る思いでエーヴの手を握った、その時。
「う、ん……」
眉を寄せ、エーヴは苦しげに息を吐く。汗を掻いているのに気づき、布で拭ってやるが、苦しそうな様子は変わらない。それどころか、段々とひどくなっていくではないか。
「どうした? 大丈夫か、エーヴ!」
声をかけても反応はない。眠りは深いようなのにうなされていて、汗も額に首筋に、ますます流れるばかり。仕方なく衣服を緩め、首に流れる汗を拭いたジルは、ふと手を止めた。そこにきらりと輝く、メダイのネックレスを見つけたからだった。
アダンが身に着けていたものと、今目にするエーヴのもの。どちらもよく似ている。同じ親からもらったのだから当然ではある。が、刻まれた家名のかすれ具合、色合い、鎖の長さに至るまで、よく見ればまるで同一のもののようだった。
女性物にしては長いと、貸してもらった時にも感じていた。それに、思い出すのはあの違和感。アダンがネックレスを身につけていなかった時の記憶だ。その期間は、ジルが借りていた間と一致する。
「これは元々アダンのものだったのか……?」
呟いたそばで、エーヴが大きく呻いた。窓の外はもうほぼ日が落ち、暗くなり始めていて、ジルは急いで蝋燭に火を灯した。
今はエーヴの看病が先だ。妙なことを考えている場合ではない、と思い直した時、エーヴの机に置かれた台本が目に入った。あの日、アダンに渡したジルの台本。その下のエーヴ自身の台本を手に取る。捲って見つけたたくさんの書き付けに笑みが浮かんだ。『コリーヌ』になるために彼女がしてきた努力がわかり、嬉しくなったのだ。少しは自分も役に立てたのかと。
だが、そんな思いに浸っている場合ではなかった。
「ああ……っ!」
一際苦しげに、ほぼ叫びのような声を発したエーヴに焦り、駆け寄る。
「くそ、あの馬鹿はどこだ!?」
医者を呼ぼうか。迷い、踵を返しかけたジルの手から、エーヴの台本が落ちる。ちょうど開いた裏表紙にあった書き付けを、ジルは食い入るように見つめた。
――最高の騎士、ジルベルト・ド・ブランに捧ぐ。
「この、言葉は……」
忘れられない言葉と、そして筆跡。ゆっくりと台本を捲り直すジルの指が、小さく震える。今見てわかった。癖のある強い文字は全て、驚くほど類似している。
(そうだ、あの『反省文』とも同じ……)
それ以上、考えられなかった。その必要すらなかった。体を折り曲げ、ひどく苦しがっていたエーヴが――エーヴの姿が、少しずつ彼女ではない者の姿へと、変貌を始めたからだ。
長い茶褐色の髪は、黒へ。自分同様鍛えてはいても、女性らしかった体の線は硬く、その大きさまでも変わっていく。苦しげに喘ぎ、敷布を握り締める手までも、骨ばった、男のものへ。完全に変貌を遂げてしまった姿は――、
「そ……んな、そんな……!」
まだ瞼を閉じたままのその人物は、確かにエーヴの兄。いや、そう聞かされていたはずの男、アダンだった。
「う……」
荒かった息遣いが少しずつ治まり、顔色もよくなって、今にも瞼が開きそうになる。硬直していたジルの視線は、彼の首元にかかったままのメダイのネックレスを捉えた。
(似ている、なんて……本当に、あいつ自身だったんだ……!)
ああ、あの時アダンは言った。『同志』とジルを呼び、二人の『罪の林檎』だと。あれは紛れもなく、彼自身とジルを指した言葉だったというのか――!
ぴくり、とアダンの手が動いた刹那、呪縛が解かれたかのように、ジルは部屋から飛び出していた。
***
「あ、エーヴ! あの後大丈夫だった?」
今朝何度目かの質問に、エーヴは笑顔でお辞儀をする。
「ありがとうございます! もうすっかり平気です!」
「代役立てなきゃいけないかと思ったよ。よかった、今日は頑張ってね!」
別の一人にも肩を叩かれ、エーヴはまた礼を言った。
実を言うと記憶が曖昧ではあるのだが、ジルをかばったところまでは覚えている。どうやらその後昏倒したまま眠り、朝を迎えたらしい。
(やばかったなー。誰にも気づかれなくてよかったぜ)
部屋にまで皆来てくれていたらしいと聞き、一番に心配したことだ。幸い皆の様子は変わらず、恐れは消えた。にしても、朝から当のジル本人を見ていない。
「あの、ジル先輩は? まだお見かけしてないんですけど」
「ジルならセレストと団長と先に舞台に行ったよ。主演だし、今日の祝祭の担当者に挨拶とかもあるんでしょ」
本来ならエーヴにも参加が義務付けられていたらしいが、体調を完全にするほうを優先してもらえたのだと教えられる。
「あの子も心配して付き添ってたんだよ~後でその笑顔見せてやって」
ジルとも親しい『紳士』役に笑いかけられ、エーヴは頷いた。
そして舞台へ移動し、騎馬槍試合とは異なる華やかさに圧倒される。
「綺麗ですわね……! さすがはここエルワールを代表する祝祭なだけありますわ」
隣でリディも注目したのは、舞台を飾る色とりどりの薔薇の装飾だ。赤、白、黄色、淡い紅色などなど、咲き誇るそれらは全て、あの時と違って本物の生花である。
「本当、『薔薇祭』って言うだけあるよね」
爽やかな芳香まで漂ってくるようで、エーヴは息を吸い込む。そこで浮かびかけていた笑みがわずかにひきつったことに、リディは気づいていないようだった。
昨日、ジルの馬が暴れ出す直前にも、あの香りがした。おそらく自分以外の誰も知らないことだろうが、確かにトワレが香ってから馬は暴走し、自分もまた具合が悪くなった。いくら頭を打って、睡眠不足が重なっていたにしろ、突然ひどい倦怠感に襲われて眠り込んでしまうなんてあり得るだろうか?
(まさか……だよな。それに、なぜ?)
ひそかに見やった先で、リディは無邪気に薔薇の香りを嗅いでいる。可憐で愛らしく、優しい友人がこの一件に絡んでいるなんて、思いたくはない。でも。
「ジルは守るって、決めてるんだ」
低く口の中で呟くと、覚悟はまた強くなった。この公演も、絶対に成功させてみせる。
握り締めた拳は、今は小さくても。エーヴの瞳は強く輝いていた。
薔薇で飾られた舞台上には、簡易の階段まで付いたバルコニーのセットがある。組み方や置き方を少しずつ工夫し、エールの王城やコリーヌが暮らす伯爵の城として、そして最後にはエールがコリーヌに贈った城――そう、かの『マ・ベル・コリーヌ』城のセットとしても使われることとなっていた。
『何よ何よ、お転婆なじゃじゃ馬娘は願い下げですって? それはこちらの台詞よ!』
初対面でなじられたコリーヌは、自室のバルコニーでご立腹だ。けれど言葉とは裏腹に、今まで見たことがないほど美しく、しかも強い――まさに自分の理想通りの――謎の騎士に惹かれていく自分がいることにも気づいている。怒りの独白に使われていたバルコニーは徐々に、彼への想いを苦しく吐き出す場所へと変わっていくのだ。
『ああ、どうしてこんなに忘れられないのかしら。あの強く麗しい方が、いつの間にか私の心を捕らえて離さないの。そう、悔しいほどに……!』
今夜も眠れずにバルコニーへ出てきたコリーヌは、恨み言を呟く。が、次の瞬間に驚き、突然の訪問者に呼びかけた。
『騎士様……! なぜ、お国に帰ってしまわれたのでは』
『あなたを想うと夜も眠れず、どうしても帰ることができなかったのです。ああコリーヌ……あなたは一体どんな魔法をわたしにかけたのですか? わたしの心は、あなたの面影でいっぱいになってしまった』
階段を上がり、手すり越しに向き合う二人。今にも口づけが交わせそうな距離での恋人たちの語り合いは、作中の見せ場の一つだった。あれから『コリーヌ』になりきるよう頑張ってきたエーヴは、『エール』に手を伸ばし、見つめる。
『魔法をかけられたのは私のほうですわ。愛しい私の騎士様……!』
コリーヌが伸ばした手を取り、握り締めたエールは甲に口づけを落とす。が、その仕草にほんのわずかなためらいと、染まった頬に恥じらいがあったことにエーヴは気づいた。おそらく、至近距離でいた自分しか気づく者もいなかっただろう小さな違和感。
(ジル?)
気にしつつ、演技に戻ったエーヴに、ジルもすぐさま台詞を言う。一度帰国して必ず戻ってくると誓う言葉を話すジルは、もう『エール』の顔をしていた。
そのまま舞台は最終幕へと移り行く。危惧していた馬に乗る場面も無事こなし、観客は拍手に沸いた。安心して最後の場面へ――いよいよエールの身分を知り、求愛を受け入れたコリーヌが城に迎えられる山場。
奇しくも、今ここエルワールで始まった『薔薇祭』が舞台上でも始まっている。咲き誇る花と同じ、薔薇色のドレスを着たコリーヌが、バルコニーで待つエールの元へ階段を上っていく。振り向いたエールはコリーヌに、持っていた薔薇の花束を差し出す。中から一本を抜き出し、コリーヌの髪に挿して愛の言葉を囁き、二人は抱擁する、という場面だ。
が、ジルが差し出した花束から香ったトワレに、エーヴの顔色が変わった。今までで一番強い香りに、ジルは気づいていない。薔薇の香りに紛れているのだろうか。予定通り抜き出した一本を髪に挿され、途端にきつい芳香が鼻腔に直接届く。再び襲ってきた熱と倦怠感の中、エーヴは見た。舞台袖で見守るリディの顔に、確かに暗い微笑みが浮かぶのを――。
二人が抱擁した後、連れ立って階段を下りる、その時をこそ彼女は待っていたのだとわかった。エーヴの髪から薔薇が――リディのトワレが強く香り、ジルがわずかにふらつく。それはバルコニーの柵に阻まれ、観客にはわからない動作だった。ジルが怪訝そうに眉を寄せ、かすかに頭を振るのに気が付いたエーヴは、階段を先に下りようとするジルの腕を引いた。今まさにまた足元を崩し、一段を踏み外しそうになった彼女を支え、引き戻すために。
『お待ち下さい、騎士様……いいえ、私のエール様!』
咄嗟の台詞は即興のもので、もちろんジルは驚愕の目で振り返る。それ以前に引き戻した強い力と、ひそかにかばう腕に驚いたのかもしれない。それでも気にしている余裕などなかった。マントで隠れたジルの腰を強く抱えるようにして、バルコニーで身を寄せた。
『わ、私の心を、まだきちんとお伝えしていなかったものですから!』
『心……?』
急に考えても、それらしい台詞なんて思い浮かばない。ああもう知るか。そんな思いで、エーヴは本心を口にしていた。
『あなたを、心から愛しています。メリエールの聖母と、神に誓って――永遠に!』
ジルの強張っていた体から、ふっと力が抜けた。まさかトワレのせいで気を失ったりするのでは、と案じたのも束の間、ジルは幸いにも無事だった。すぐに『エール』として答えを返してくれる。
『わたしもです。愛しいコリーヌ』
即興の台詞を言い、自分がしたより強い抱擁で応えてくれたことにほっとして、見上げたところでエーヴは目を瞠った。ジルの美しい銀の髪――午後の日差しにきらめく流れに隠れた頬も、耳も、赤く染まっていたのだ。
『聖母と神と聖霊の御名によって、この愛し合う二人を夫婦と認めます』
ついに舞台は最後の結婚式の場面になる。舞台袖に入る暇もなく、つまりジルと会話をする時間もなく迎えた一番の見せ場で、二人は向き合った。
拍手と歓声でその都度盛り上がってくれた観客も、微笑ましく見つめてくれている。舞台の成功を確信できたエーヴは、ひそかに息を吐いた。実はまだ昨日の倦怠感と、全身の打ち身の痛みが残っていて、体も限界に近かったのである。なんとか誰にも気づかれず、台詞はあと一つを残すのみ。
『陛下、あなたにずっと付いて行きます。ええ、きっと……! ああ、でも一つだけ。コリーヌはやはり自由でお転婆なじゃじゃ馬娘。あなたを困らせてしまうこともあるでしょう。それでも、妻として愛してくださいますか?』
これでやっと長かった芝居が終わる。コリーヌを演じきれたことに安堵し、エーヴはジルを見つめた。
『もちろんです。そのままのあなたで、そばにいてください。生涯、ずっと……』
すぐ近くで視線を受け止めたジルが微笑み、エーヴの頬に手を伸ばす。そっと、優しく両頬を手で支え、その手に隠すようにして顔を近づけ、口づけするふりをする。あたかもそう見える、という演じる側も観客側にも暗黙の了解の愛の場面。これで幕が閉じる、と瞼を閉じて待ったエーヴは、思わず身じろぎをした。けれど、ジルがその動作さえも封じ込めるように両手に力を込め、エーヴの頬を離さない。そしてそのまま続けたのだ――優しく静かな、『本物』の口づけを。
(どどど、どうなってんだ一体!?)
何度も瞬きをして動悸と動揺と戦っていたエーヴから唇を離し、微笑んだジルが耳元で囁いた。
「僕も愛しているよ、『エーヴ』」
ジュテーム、という言葉の意味をもう一度熟考してしまうほどに、それはエーヴの――アダンの心を深くかき乱したのだった。
「初日成功、おめでとうー!」
「お疲れ様―!!」
皆に取り囲まれたエーヴは、同じように祝杯を掲げてみせる。すぐそばに立つジルに先ほどの行為の真意を問いたいのに、それすらもできないほどの多忙ぶりだった。
新『マ・ベル・コリーヌ』公演の初日は無事成功、観客は全員総立ちの大熱狂のうちに幕を閉じた。まだ三日間ある『薔薇祭』の間舞台も続くとはいえ、初日成功の安堵は皆大きいようだった。コリーヌ城に戻ってから祝宴は始まり、明日の舞台に響かない程度に騒いでいいことになっている。
エーヴも喜びたいところだが、ジルのこととは別の、大事な問題に向き合う必要があった。しかしモニクたち同期生の中に、肝心のリディの姿がない。
探し回って見つけた彼女はなんと、祝宴会場である大広間から出て行くところだった。着飾った他の団員とは異なり、質素な私服を身に着けている。
「リディ」
そんな後ろ姿に声をかけ、振り返った彼女にどうやって問いただすか迷った。その一瞬に、すっと横から歩み出た人影があった。
「思い出したよ。君のこと」
訝しげに振り返ったエーヴにも微笑み、彼女は続けた。
「僕の『麗愛会』の熱心な会員だった子だね? いつも素敵な香りのトワレを贈ってくれた香料商人のご令嬢、コリーヌ。そうだろう?」
そう呼ばれたリディは驚愕に目を見開き、顔色まで青くなる。だがジルはそんなリディの髪を優しく撫で、決して責めることなく言ったのだ。
「あまりに見違えたから、気が付かなかった。ああ、もちろん以前の君も優しく、とても素敵なご令嬢だったけれどね。どうしてあれから手紙をくれなかったんだい? 君がくれたこの鈴蘭のトワレ、とっても気に入っているとお礼を言いたかったのに」
「ジル様……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
泣き崩れてしまったリディを、ジルが優しく抱きしめる。ただひたすらに謝り続けていたリディが語った真実は、彼女の行為がひとえに深すぎる信奉心理ゆえだと示すものだった。
名前を変え、虚偽の情報で入団したリディに処分は下らなかった。その前に彼女自身が皆の前で謝罪をし、退団の決意を告げたからだ。
だが、それはあくまでも虚偽の申告の結果とされ、父親の作る香料に怪しげな薬を混ぜ、エーヴやジルに嗅がせていたという事実は伏せられた。かなり体重を落とし、化粧を研究し、別人のように綺麗になってまでリディが入団したのは、ただジルのそばに来るためだけではなかったからだ。
「ごめんなさい、エーヴ……わたくし、勝手にあなたを恨んでいましたの。最初はジル様をお慕いするあまりだったのですけれど、その心の奥に、あなた自身への嫉妬があったのですわ」
うなだれるリディ――本名コリーヌは、自分と同じ名の、大きな役を射止めた自分が妬ましかったのだと告白した。ジルを愛するのと同じくらい、舞台を愛しているのだと。彼女の『華麗なる騎士劇団』に対する愛情がわかるからこそ、エーヴは責めなかった。一歩間違えばジルが怪我をするところだったことはまだ許しがたい。でも、リディが本当に反省していることが伝わってきて、胸が痛んだのだ。
「でも、エーヴが本当に頑張っていることがわかって、自分が恥ずかしくなったのです。ジル様にも、あなたにも申し訳なくて……それなのに、どうしても自分を抑えることができず、ここまで来てしまいました。ごめんなさい……エーヴ」
また瞳を潤ませるリディの肩を、マダム・ソレイユがそっと支える。これから彼女に付き添われ、実家に戻ることが決まっていた。見送るジルとエーヴのそばに、いつのまにやってきたのか騎士団長が立った。例によって淡白なお顔に、今は威厳が満ちている。
「これはあくまでも、劇団側の処分ではありません。あなたが自分の犯した罪を心から悔い、今度こそ本気で我々と舞台に立ちたいと願うのなら――いつでも、入団試験の扉は開いているのですよ」
「ありがとう、ございます……団長様」
リディの大きな瞳から、次々と涙があふれる。泣き崩れて言葉も出ないその姿に、彼女の復帰を願う。そっと見やった先で、ジルも同じ瞳をしていた。
やってきた、『薔薇祭』最後の日。無事四日間の公演を終え、またも祝宴の舞踏会は始まった。
今日も夕刻前から宴は盛り上がり、既に踊りの輪がそこかしこで生まれている。それこそ息つく間もなく過ぎ去った祝祭と、そして舞台。リディのことでまだ複雑な思いは残るが、彼女のためにも自分は常に、前を向いて進んで行こうと決めていた。
「踊っていただけますか? 姫君」
差し出された手を、わずかな躊躇の後に取る。もちろん相手はジルで、今日も麗しい、黒の燕尾服姿の『相手役』だ。対するエーヴの衣装は薄紅色。たくさんの薔薇で襟元も裾も飾られた華やかなローブ・デコルテは、どこからどう見ても淑女らしい装いだろう。だが内心では、まるでその外見にそぐわぬことを考えていた。
(今日こそ、絶対問い詰めてやる)
あれから忙しすぎて昼も夜も二人きりで話すらできず、あの行為の本意が聞けていない。それに残りの舞台では口づけのふりで終わっていたから、余計聞けず、ずっともやもやしていたのだ。
「今日も仲いいよねーあんたら本当に付き合ってんの?」
「そうそう、舞台でも相性は最高だし……あの最後のキスなんて、実際にやってるようにしか見えないって話題だよー。特に初日! あれはあたしらにもそう見えたね」
酒も回ったのかご機嫌で話しかけてくる『紳士』たち。ぎくりとしたエーヴだが、ジルは平然と微笑んでいる。
なんとなく悔しくなって、エーヴは踊る足を止めた。向き合ったジルを挑戦的に見上げ、何を言ってやろうかと思案を凝らすも、ふと見やった窓の外が薄暗いことに気づいた。
「ご、ごめんなさい。あたし、ちょっと具合が……」
渋々宴を抜ける旨を伝えようとしたエーヴの手を、ジルが掴んだ。
「奇遇だな、僕もあまり具合が良くない。宴は二人で、別の場所で行うとしよう。ではみんな、ごきげんよう」
嫣然とした微笑で、ジルは優雅にお辞儀をする。そのまま手を引かれ、慌てるエーヴなどお構いなしだ。
「ちょっ……待ってください! どこに行くんですか? あたしは、その……」
「いいから。特等席があるんだ」
なんとか言い訳して離れようとするのに、ジルは強引に進んで行く。結局付いてきてしまった場所は、聖堂――の上、狭い階段を上った先の、塔の屋根裏だった。古びてはいるが埃もなく、綺麗に片付けられている。
「公演後、たまに一人で来るんだ。ここからだとすごく綺麗に見える」
何がだと聞くまでもなく、肩を支えるように小さな窓際へ押しやられ、エーヴは言葉は失った。森を背景に、大きな赤い太陽が沈んでいく壮大な光景が広がっていた。
「うわ……すげー絶景」
思わず呟いてしまい、くすっと笑われたことに気づく。
「そういう独り言には気をつけたほうがいいぞ? マドモワゼル・エーヴ」
いたずらっぽい言い方に慌てて取り繕おうとして、時間がないことを思い出す。けれど、エーヴを見つめるジルの瞳はやけに妖しく、まるで誘うような視線を向けられた。
「……あれを求愛だと思っていいんだろう?」
ジルは更に顔を近づける。紛れもない彼女自身の甘いトワレが香り、胸が鳴った。
「求、愛……?」
「そう。言ったじゃないか、僕を永遠に愛すると。だから僕も答えを返した。あれが僕の返事だ、『エーヴ』……いや、アダン」
本名を呼んだジルが、エーヴの首元からネックレスを取り出す。メダイに触れて、彼女はしっかりと強い瞳を向けてきた。
――愛している。
舞台上で聞いた言葉と抱擁が、そして重ねられた唇の熱さが蘇る。
「お、前……知って……?」
ノンノン、とジルはおどけて人差し指を振ってみせた。目前に迫ったままの白い頬が、林檎のように赤く染まる。
「姫君が求愛の了承をしたら、紳士はどうすべきか。それぐらいはもうわかっているだろう?」
夕焼けの光の中で恥ずかしそうに、それでもどこか艶めいた瞳で、ジルが見ている。ここで引いたら、男とは言えない。否、『華麗なる騎士劇団』の団員とは言えないだろう。エーヴは、『エーヴ』の仮面を脱いだ。まだ女の体のまま、アダンとしてジルを見つめる。真剣な視線を受け止めたジルの双眸に、複雑な色が揺れた。
「最初は、とても驚いたし混乱もした。正直、騙されていたことに腹を立てもしたんだ。でも、落ち着いてみたら全てのつじつまがあって……そして、わかった。お前が、ずっと僕を見ていてくれたことも、どんな姿をしていても、僕を守ってくれたことも」
「ジル……!」
それ以上を言わせるなとばかりに、ジルは瞼を閉じた。かすかに震えるジルに近づき、硬く閉じられた唇にまず、指で触れる。高鳴る鼓動とあふれる想い、込み上げる情熱の任せるままに、今度は唇で触れようとした――その瞬間。
「う……っ、ああ……くそっ」
まさに触れる寸前にくずおれ、苦しみ始めるエーヴ。ジルは少しだけ残念そうに、そして少しほっとしたように、自分のマントを貸してくれたのだった。
*
近頃、メリエール王国で流行りのもの。それはこの『華麗なる騎士劇団』の舞台観劇である。主役のジルベルト・ド・ブランの人気はもちろん、最近変わった相手役との相性も抜群で、ますます好評を博していた。
しかもその相手役というのが、まだ入団したての新人であるというのだから、話題にならないはずがない。『従騎士』と呼ばれる見習いの身分からこの程卒業し、『騎士』になったばかりであるという。古参の観客たちは異例だと騒ぎ立てたが、舞台の出来栄えの素晴らしさに結局黙るしかなかったと専らの噂だった。
件の少女――エーヴ・スペリエとジルは、公演を終えて挨拶中。舞台上でお辞儀をしながら、次なる公演予定を告げている。天下のメリエール王妃の後援の下、今までより回数が増え、ふた月に一度となったことに観客が沸いた。
しかし喜ぶ彼女らの誰もが知りはしない。今、手の甲に口づけを落とされ頬を染める相手役の『淑女』と、男装の麗人ジルのひそやかな関係を。そしてそこに結ばれた、約束と誓いがあることを。
「くそ、舞台上でべたべたくっつくなっつってんだろ? お前、後で覚えとけよ」
笑顔の裏でエーヴが低く囁くと、ジルは艶やかに笑みを返す。
「口が悪いぞ、『エーヴ』。そんな風に脅すなら、今日もまたマダムのところへ行くか、セレストを呼んで三人で夜遊びでもしようか?」
観客に気づかれないように交わす会話は、人知れずにやりと笑んだエーヴに軍配が上がる。
「あんまりおいたが過ぎると、今すぐ『罪の林檎』から解放してやってもいいんだぜ」
そう囁き返された言葉に顔を赤らめたジルの負けだ。どうすれば病が完全に癒されるのかを今は知るエーヴとジル、二人だけの合言葉だった。なぜなら病を癒すには、『身も心も』愛し合う必要があるから――。
そして終演後、夜の帳が下りた頃、ジルは悔しげにむくれていた。場所は聖堂の尖塔、今は二人の秘密の場所となった小さな部屋の中だ。
小窓から吹き込む夜風にも肌寒さが薄れ、初夏の訪れを感じさせる。闇に包まれた森を月明かりが照らし、点々と瞬く星のきらめきが川の水面に映って揺らめいている。だがそんな幻想的な光景も、今夜のジルの機嫌を治してはくれなかった。肩を抱こうとしたアダンの腕を、彼女はぐいと押しのける。
「舞台上であれはないだろう。あんまり反応に困ることを言うなと前から……」
「なんで困るんだ? ん?」
にやにやとアダンが迫ると、ジルは更に不機嫌になる。赤面しながらも勝ち気に言い返すのが、彼女が彼女である所以だ。
「だっ、大体お前だって、今すぐ『罪の林檎』から解放されたら困るんじゃないのか? 完全に男に戻ったら、この騎士劇団にはいられなくなるんだから」
「それなんだよな、問題は。まあ元々、本来の姿を取り戻すために入ったんだから、もうやめたっていいはずなんだけど……」
「やめるのか?」
急に不安げに覗き込むジルの頭を、アダンはぐしゃりと掻き乱した。こういう素直な顔を見ると、それこそ反応に困るのだ。
「やめないよ、しばらくは。やってみると演技ってわりと面白いっていうかさ、やりがいもあるし」
ほっとしたように小さく息を吐く。そんなジルが可愛くて、アダンは続けた。
「『紳士』役にも挑戦したいなーなんて野望もあったりするんだけど……どうだ? お前が『淑女』をやるってのは」
「ごめんだね。絶対ドレスなんか着るものか。言っただろう? 僕は姫じゃない」
途端に顔をしかめ、憮然とするジル。ドレスを着てめかしこめばどれほど美しいかと思わなくはないが、それがアダンの望みではなかった。
苦笑して、小窓から星を見上げる。瞬く星の一つ一つが優しく見えるのは、隣にジルがいるからだろうか――なんて気障な台詞、素に戻ったら言えやしないのだが。
「『あなたの美しさ以上に、あなたを飾れるものはありません』」
思いついた言葉を口にすると、ジルが訝しげに見つめ返してくる。
「鈴蘭の花言葉の一つ、だろ? あれから『淑女』仲間に聞いたよ。……お前は、ただお前であることで綺麗なんだ。そのどこまでも高潔で、気高い心と魂があってこその、ジルベルト・ド・ブランだってこと。見た目なんて関係ない。だから、ドレスを着るか着ないか、そんなことでお前の価値は変わらないってことさ」
それは男と女という、まるで正反対の性別を体験してきた者の本音だった。けれど気障以外のなにものでもない出来栄えで。赤面しつつ後悔したら、もっと赤くなったのはジルだった。すぐに顔を背け、そっぽを向いてしまう。
「気難しい子猫に引っかかれたら困るから、当分は『淑女』生活続行だな」
冗談めかして答えた後、アダンは表情を引き締めた。
「本当はさ、俺なんかよりもっと主演にふさわしい『淑女』はいっぱいいると思ってる。元々不純な動機で入った俺が、この座にいていいのかって気になる時もある。でもやるって決めた以上、自分にできる精一杯で食らいついて頑張るつもりだ。そうじゃなきゃ、余計みんなに失礼だろ」
脳裏に浮かぶのは、リディの泣き顔を始め、共に戦った真剣なモニクの姿や、真面目に講義を受けるロラやレア――その他、全員の『淑女』や『紳士』たちだ。この騎士劇団を愛する全ての人の想いの上に、自分が立っていることを忘れないように。
「叔父さん夫婦も応援してくれてるし、療養中の親父も嬉しそうに報告の手紙読んでたって。それに……『エーヴ』が生きてたら、きっと入団したいって言ってたと思うんだ。あいつは、綺麗なものが大好きだったから」
小さく、きらりとまた星が光った。本当の『エーヴ』がやりたがったかもしれないこと。それがどんなことでも、せめてこの姿で叶えてやりたい。違う意味で表情を曇らせたジルの髪を、そっと撫でる。
「ばあやは……マダム・ソレイユは、僕らの『罪の林檎』は実は祝福なんじゃないかって言ってた。そんなことがあるものかと内心腹を立てたんだけど……今、ようやくその意味が少しわかった気がするんだ」
ジルが差し出したのは、マダムからの手紙。そこには、ジルの姉の結婚が決まったことと、二人で公演を観に来る旨が書かれていた。ジルの頬を、涙が伝う。
「フラヴィも、今度公演後の祝宴に来てくれるって。幼馴染の婚約者はすごく優しくて、今は彼との結婚を心待ちにしているんだって、マダムが教えてくれたんだ。だから、最初のダンスはフラヴィと踊りたいと――」
ずっと堪えてきたものが嗚咽になったのだろう。それをも必死に抑えようとするジルに、アダンは頷く。
「最高の舞台にしようぜ」
肩を抱いた腕は、もう拒絶されなかった。
二人の『罪の林檎』は、一つになることで祝福に変わる。お互いを想いあい、相手の心の傷を――苦しみを癒したいと心から願う時、奇跡が起きるのかもしれないと。 実は聖堂の告解部屋で、エーヴの破れたドレスを発見していたことも含め、マダムの手紙に書かれていた言葉だ。それでも黙って見守り、応援してくれていた彼女の優しさに感動すると共に、アダンも考えた。 自分たちのような『罪の林檎』を持つ者が、もしかしたら近くにもいるのかもしれない。人には不可解に見える性格、奇妙な言動で、誰かを傷つけてしまうような人間も、本当はひそかに苦しんでいる可能性だってあるのだ。
「例えば、僕の母親、とか? 彼女もそうだったりするのかな」
美しさに異様にこだわり、娘の美貌にまで嫉妬し続けたという、ジルの母。未だ複雑なままの関係に苦しむジルは、そう言って自身のネックレスを取り出した。
メリエールの聖母の騎士に、娘の病が癒えるよう祈った――そんな彼女の願いが本物であってほしいと、ひそかに望むジルの気持ちは、痛いほどにわかる。
「俺の母だって、そうだったのかもしれない。年より幼く、いつまでも少女のようで、辛すぎる現実を受け入れることができなかった……そう思っていたが、本当のところがどうだったのか、もう聞けないからな」
アダンも取り出したネックレスは、母が亡くなる少し前に作らせたものだ。既に『エーヴ』としてしか母のそばには行かなかったあの時、どうして鎖の長いものを注文したのか。本当は、何もかも知っていたのではないか。それでも自分を変えられないと、苦しんでいたのではないだろうか。
今になって、ようやくそんな考えが浮かんだ。だから余計、父も言えなかったのだろうか、と。
「それに、もしかしたら我が劇団の団長だって、『罪の林檎』を持ってるのかもしれないぞ」
あの印象の薄さと正式な場での威厳の違いは、不可解なほどだから。真面目ぶって言うと、ジルの顔にも笑みが戻る。
「こうして『祝福の林檎』を手にできる俺たちは……幸せなんだろうな、きっと」
恨みつらみはまだ、積み重ねた歳月と苦しみの深さの分だけ残っている。けれど今、同じ想いを分け合え、共に過ごせる相手がいることに、素直に感謝したいと思えた。
「なあ、知ってるか? 俺の故郷では、鈴蘭の花は幸福を呼ぶって言うんだぜ」
そう、一度失くした幸福も、また戻ってくる日は必ず来るのだ。希望を捨てず、前を向いて歩み続けてさえいれば、きっと。
アダンの言葉で、ジルの瞳からまた透明な滴があふれた。優しく拭い、頬に手を添えると、ジルは体を硬くした。その不安と怯えを包むように、そっと抱きしめる。
重なった二人の影が離れる時間は日毎に短く、代わりに抱擁は長くなって。
「祝福はいいけど……これ、一種の拷問だぜ」
やるせない吐息と共にアダンがぼやくと、ジルは嫣然と笑む。
「臣従を誓ったんだ。僕を守るのがお前の役目だろう?」
「姫君じゃないって言わなかったか?」
「そう、守られてばかりは願い下げだ。でも、今だけは、姫になってやってもいい」
この、夜の間だけは――秘められた言葉の続きを瞳から読み取って、ジルの手を取る。甲に落としたキスにジルは満足げに微笑み、瞼を閉じた。まるで花に吸い寄せられる蜜蜂のように、身も心もあっという間に捕えられてしまう。
そして夜の騎士は、清く、美しく、誇り高い姫君にそっと口づける。再び重なった影は、しばらく離れることはなかった。
(了)
読んでくださった全ての皆様、ありがとうございます! 簡単でも感想いただけたら嬉しいです(⌒▽⌒)




