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六章

 六、騎士は姫君に臣従を誓う。


 三日後、ついにやってきた騎馬槍試合の朝。名前を呼ばれて振り向くと、リディが小さく手を振っていた。出場者用の天幕に、試合前の応援に来てくれたのだ。

「まあ、とってもよく似合っていますわ! やはり衣装を身につけると気が引き締まりますわね」

 ちょうど着替えを終えた姿を褒められ、エーヴは苦笑いする。

「そ、そうかな? 確かにいよいよかって気にはなるけど……でもこの格好ちょっと派手すぎない?」

「いいえ、地味すぎるくらいですわ。普通の騎士団ならば別かもしれませんが、なんといってもここは『華麗なる騎士劇団』! 美しく、麗しく、いくら試合といってもそこだけは譲れません。皆さんもっと派手ですわよ、ほら!」

 リディに言われ、エーヴは周囲を見渡す。実に、彼女の言う通りの光景が広がっていた。

 黒を基調にした騎士服と乗馬靴はいいのだが、その上に着ける胸当てや膝当てなどの防具、更には試合に必須な槍と盾まで全てが金ぴかなのだ。正確に言えば銀に金のつるくさ模様が渦巻いている。支給された通りのその状態でも目がちかちかするのに、皆そこにレースやリボンで飾りを付けている。中には宝石が輝いている者もいた。もちろん模造品だろうが、試合という性格上全く無駄な――もしかすると邪魔な――代物である。あっけにとられているエーヴに、リディは残念そうに付け加えた。

「あの飾りは試合に出ない『淑女』のお友達や後輩が贈るならわしになっているそうですわよ。先に知っていればわたくしがエーヴの分を用意しておいたのに、ごめんなさいね」

「いや、いいよ……」

(冗談じゃねーぜ。あんな馬鹿みたいな格好で人前に出られるかっての)

 人知れず胸を撫で下ろすが、天幕に運ばれてきた大量の薔薇(造花)を見てまたげっそりした。

「さあさあ、お手伝いの皆さんは手早く出場者さんの槍と盾に付けてあげてくださいね~! あ、そこの方! 大量に独り占めしない! 一人二十まででお願いしますよ~」

 運営役に回っている団員たちが手を叩いて注意している。

「まあ、あれが噂の『薔薇の嵐』用のお花なんですね! 麗しき騎士同士の一騎打ちで飛び散る汗、槍に突かれて散る花の嵐……素敵!」

 うっとりしていたリディは、我に返るなり急いで薔薇の造花を取りに行った。

「エーヴは西側ですから赤だそうですわ。しっかり付けておきますわね」

 糸を通してつなげられた赤い花をぐるぐると、真剣に巻いてくれる。そんな友人に感謝しつつも、エーヴは頭を抱えたくなった。

(できれば、普通の槍試合に出たかったぜ)

 しかしここはリディの言うように、『騎士劇団』だ。普通の試合なら落馬させるほど突きを繰り出すものだが、あくまでも『美しく』戦えるように色々と工夫がされている。この薔薇もその一つで、どちらが多く相手の花を落とせるかも勝敗の判断材料になるとされていた。

 もう一つは武器である槍だ。殺傷を厭わなかった昔ならばともかく、近年試合では槍の穂先を鈍くし、危険がないようにする。しかしこの穂先は鈍いどころか、完全な球体状の飾り物だった。要するにこの試合は、突かれた衝撃で槍を取り落とすか、馬上で試合続行不可能なほどバランスを崩すか、そのどちらかを持って『負け』と判断されるもの。後は、誰がより勇猛に攻撃を繰り出していたかで決められるらしい。

「さ、できましたわ。頑張ってくださいね、エーヴ!」

 にこにこと渡された金ぴか、かつ、まぶしいほどに華々しい槍を手に、エーヴはなんとか頷いたのだった。


 エーヴ含む出場者全員の準備が整い、皆が試合場となる砂地に出た。城内北端に位置するこの場所は、団員の乗馬場だ。普段は静かだが、今日は熱気と興奮で賑わっている。

 総出場者二十名とその馬、そして運営役に観客。全団員三十五名が待ち構える中、例によって印象の薄い騎士団長が壇上に上がった。

「このようにすがすがしく晴れ渡った朝、特別騎馬槍試合を開催できることを嬉しく思います。急遽決定したにもかかわらず出場者は例年以上となり、より期待が高まるものとなりました」

(そりゃ、『淑女』にも出場許可が出たんだからな)

 団長の言葉を聞きながら、エーヴは叔父の笑顔を思い出していた。

『君のために書いた本ではあるが、君の希望通り、役は自力で得るんだぞ? 誰にも文句を言わせないよう、思いきり暴れておいで』

 そう言って肩に置かれた手の温もりは、紛れもない『家族』のものだった。

 こんなややこしい病気を抱え、突然脅迫めいたやり方で押しかけた自分を受け止めてくれたことには、本当に感謝している。

「通常の騎馬槍試合には、団体戦であるトゥルネイと、個人戦であるジョストがあります。ですが皆さんご存知の通り、我が劇団においては後者のジョストを行うのが決まりです。模擬とはいえ『戦闘』が目的ではなく、あくまでも『健闘』を重視しているからですね。そういうわけですから、皆さん怪我のないよう安全に、麗しく、美しく、そして楽しく戦ってください!」

 団長の宣言に皆が拍手をし、楽団が優雅な演奏を始めた。

 それを合図にエーヴは馬にまたがる。首を撫で、誘導するのは試合場の西側に設けられた赤い薔薇の陣営だ。先ほどリディが言った通り、西は赤、東は白とし、半々に分けられた十名ずつの出場者が両陣営で同時に試合を行っていく。そして勝ち抜いた赤と白の二名が、最終戦に進むことになっていた。

 ここからは、出場者以外は観客席で見守らなければならない。遠くで手を振るリディに笑顔を返していたエーヴは、ふと視線を感じて振り返る。ちょうど、白の陣営で戦うモニクが東側へ移動していくところだった。冷静でありながらも、確かな熱意がこもった目。モニクのそれは、宣戦布告に見えた。

(後で思う存分やろうぜ。お前が負けなきゃ、だけどな)

 不敵な笑みを返し、エーヴも深呼吸する。

 さあ、これからは真剣勝負だ。自分も、絶対に負けるつもりはない。いくらお遊びみたいな試合でも、自分はこれに賭けたのだから。

『紳士』を目指して挫折して、目標を見失っていたエーヴに与えられた好機だ。男勝りで自由奔放な『コリーヌ』こそ、今の自分に一番合った役なのかもしれないと、そう思えたから参加を決めた。何より、壁を突破するきっかけになる気がしたのだ。そしてその想いはもう、自分だけのためではない。

 人ごみの奥に、きらりと輝く銀髪を見つける。顔も判別できないくらいに遠いのに、なぜか目が合った気がした。

「待ってろよ、ジルベルト・ド・ブラン」

 アダンとして交わした約束と誓いを胸に思い起こし、エーヴは槍を突き上げた。静かに、決意を伝えるかのように。

 その動作だけ残し、エーヴは馬を進めた。自分が自分であるための、戦いに挑むために前を向く。

(絶対、負けねえ――!)

 豪華な槍の金の穂先が、日差しに美しく輝いた。


        ***


 どうしてだろう。

 あの動作が――槍を自分に向けて突き出した時のエーヴが、今まで見てきた彼女ではないように見えたのは。

 片側のえくぼが同じだけじゃない。一瞬、本当にあいつが笑ったのかと思うほどに似ていた。

 そんな動揺に気を取られていたジルは、周りの『淑女』たちがエーヴの動作にざわついていることを知らなかった。

「気分が優れないんじゃなかったのか」

 いつのまにか側に来ていたセレストに訊ねられ、やっと我に返る。

「あ、ああ……平気だ。少し外の空気を吸うついでに、どうせなら皆の健闘を見物しようかと思って」

「皆の、か。エーヴ嬢の、ではないのか?」

「何だ、その言い方は」

 セレストの表情は渋く、すぐに目を逸らしてしまう。

「妙な噂を耳にした。お前がエーヴ嬢の部屋に通っているというものだ。早朝彼女の部屋を出るところを誰かが見た、とか」

 三日前の夜を思い出し、一瞬どきりとした。わずかな表情の変化に気づいたセレストが、困ったように嘆息する。

「まさかとは思っていたが……お前、本気なのか?」

「本気って?」

「とぼけるな。エーヴ嬢のことを、本気で想って構っているのかと聞いているんだ。今も皆が騒いでいたぞ。彼女がお前に勝利を誓っていたと……下世話な言い伝えだが、試合前に騎士が勝利を誓うのは、愛しい相手と相場は決まっている」

「あれは、そんなんじゃない」

「どうかな」

「なんで絡むんだ! お前まで……下世話だと言うなら、無視すればいいだろう!」

「彼女を下世話な噂に巻き込むべきではないと思うからだ。いや、彼女まで、と言ったほうがわかりやすいか?」

 心に残る傷跡を、またぐいと開かれた気がした。あえて踏み込むことにしたらしく、セレストは真剣に続ける。

「最近のお前は、以前に増して『お遊び』がひどい。いや、余計に不安定になったように見える。フラヴィを傷つけたことが辛いなら、なぜ自分を変えようとしない?」

 言葉が出ず、硬直しているジルの肩に、セレストが片手を置いた。

「きついことを言ったな、悪かった。だが、言わずにはいられなかったんだ。お前の、友人モナミとして」

「セレスト……」

「お前が苦しんでいるのはわかっているつもりだ。でも、時には苦しみを乗り越えて、傷に向き合ってでも前へ進まなければいけないこともある。変わらなければいけない時が……違うか?」

 微笑むセレストのほうが、辛そうな顔をしている。

 その問いにも、先の問いにも、自然と答えを探していた。いや、本当は気づいていたのだ。

(本気で想っているのか、か)

 セレストの問いかけは、皮肉にも自分が発したものと同じだった。わざわざ律儀に訂正してまで、正直に、まっすぐに告げられた言葉を思い出す。

「ジル?」

 怪訝そうに見られ、微笑んで答えた。

「僕だって、変わろうとしている。変わりたかったんだ。ずっと昔からね」

 隣でこうして気遣ってくれるセレストはもちろん、もう誰も傷つけたりしたくない。消えない傷に苦しむのは、自分一人でたくさんだ。苦しむだけの自分も、もう嫌だとつくづく思った。同時に、似た決意を秘めた低い声が耳に蘇る。『罪の林檎』なんてぶっつぶしてやると、そう言ったアダンの声だ。

 あの晩、散々酒を飲んで酔っ払ってはいたけれど、目覚めても全て覚えていた。遠い意識の中で、優しく『おやすみ』のキスをされたことも――。

 どきん、と胸が鳴る。まだ熱と感触が残る額を押さえ、ジルは我知らず頬を染めた。

「ジル? 大丈夫か、やはりどこか具合でも悪いんじゃないのか」

 何も知らず心配してくれるセレスト。不意に嬉しくなって、ジルは笑った。

「ああ、やっぱり君が大好きだよ。僕のモナミ!」

 強烈な抱擁に、セレストは暴れる。

「こ、これのどこが変わろうとしているんだ、不埒者め!」

「友達として好きなんだよ。可愛いセレスト!」

 恐怖や不安、迷いの中からまだ抜け出せないでいた。そんな自分の背中を押し、踏み出してみようと思わせてくれた親友の存在が、心から有り難かった。

「離せっ、変態ジルベルト!」

 引き剥がされながらも、ジルは笑い続ける。久しぶりの、明るい笑顔だった。

 


 試合場では、早速双方で『薔薇の嵐』が巻き起こっていた。西側の観客席に向かうと、出場しなかった『紳士』仲間がジルたちを待っていた。

「こっちこっち! ちゃんと場所取っといたよ」と最前列に押しやり、皆がにやにやと笑いあう。

「やっぱ一押しはあの子でしょう! あんたもお気に入りの、エーヴ・スペリエ!」

「別に僕は……」

「いいからいいから! あ、出てきたんじゃない? ほら、兜から見えてるあの茶褐色の髪、あの子でしょ」

「髪とか見なくても、一人だけ地味なんだからすぐわかるって。ねえ? ジル」

 皆が同意し見つめるのは、『淑女』役にしてはすらりと背の高い少女。自身の馬にまたがり、今登場した彼女は、銀の兜や胸当て、それに槍にも皆のような装飾は付けていない。その簡素さが逆に目を引いた。

(いや、あの子のまとう空気が違うんだ)

 容姿だけを見れば普通に愛らしい彼女だが、どこか筋の通った凛々しさのようなものがある。そういえば、とジルは思い返した。なぜアダンは、妹の勝利を確信していたのだろう、と。

 まるで自分が勝負に挑むかのような言い方で、それに懸けて求愛すると告げたのだ。

 小さな疑念は、エーヴの試合が開始されたと同時に脳裏の隅へ追いやられた。

 審判役が、合図の旗を振り下ろす。離れて待機していた両者の馬が地を蹴った。

 エーヴ操る馬は双方の中間点を目指し、かなりの速度で突っ込んでいく。

「おい、あんな速度で大丈夫なのか!?」

 騒然とする皆の横で、ジルも息を呑んだ。が、そんな周囲の心配をよそに、エーヴは見事に障壁前で急停止した。両者の直接衝突を防止するための柵だ。少し遅れて、相手の馬が止まる。

「覚悟――!」

 遅れを気にした相手が、慌てて槍を繰り出した、その瞬間。

「ハッ!」と短い気合と共に突き出されたエーヴの槍が、相手の槍を打ち払った。からん、とあっけない音を立てて砂地に落ちる派手な槍。一瞬の沈黙の後、審判が『勝負あり』の旗を上げた。

 なんと『薔薇の嵐』が巻き起こる前に、あっさりと試合は終わってしまった。

「勝者、エーヴ・スペリエ!」

 湧き上がるどよめきと歓声の中、ジルはあっけにとられたままだった。自分でも驚いたのか、困惑気味のエーヴが馬上で一礼し、待機場へ戻っていく。その後ろ姿を見つめるジルの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。

「これは、本当に応援しがいがありそうだ」

 呟いたジルの瞳が複雑に揺れていたことは、誰も知らなかった。


       ***


「勝負あり! これで赤の陣営から決勝に臨むのは、エーヴ・スペリエに決定です!」

 歓声の中、エーヴは兜を外した。初戦から合計三度の個人戦ジョストを終え、さすがに少し汗ばんでいる。といっても体力的な問題ではなく、二度も不毛な『健闘』を繰り広げてやったからだ。

(なにせ、騎士団長直々の『労い』の言葉をいただいたんだ。期待に応えないとしょうがないしな)

 初戦に一瞬で勝利した後、さすがに自分でもやばいと思った。気合が入りすぎて、相手との実力差を考慮し忘れたのだ。そうしたら案の定、団長本人がにこにこと天幕に現れた。

『お見事でした。次もどれほど美しく戦ってくれるのか、私も楽しみにしていますよ』

 純粋な労いに聞こえる言葉だが、『美しく』のところがやたらと強調されていたからその意図は理解できた。

 できるだけ長く試合を続け、観客ご期待の『薔薇の嵐』とやらも起こして頑張ったのだが、

「ま、しょうがねーよな」

 だって男だし、と脳内で補完する。本来の体とは筋力や体格の点で劣るとはいえ、南部の草原地帯で乗馬と狩りに長年勤しんできた身には簡単すぎる勝負だった。

「やっぱり彼女が勝ったわね。あの勝利宣言はただの無謀なものじゃなかったのよ。皆の前で槍を突き上げて誓うなんて、公然のお付き合いなのだわ……!」

「ジル様も熱心にご覧になっていたって言うし、ああ、もう絶望だわ~フラヴィ様になら負けてもあきらめがつくけれど、どうしてあんな野蛮な子に!?」

「あ~ん、私たちの『麗しの君』が~!」

 天幕に戻る途中、嘆く声が聞こえて、エーヴはひそかに耳を済ませた。やはり『麗愛会』だ。真実を知らない彼女らがどう噂しようと構いはしないが、ジルの様子は気になった。

「ねえ、それでジル様は? いつのまにかお姿が見えなくなったけど」

「それが、さっきセレスト様とご一緒にどこかへ行かれてしまったのよ。もうすぐ白の陣営側の勝者と、最終決戦が始まるのに」

 がくり、と思わず肩が落ちる。人ごみの影になり、お喋りに夢中の彼女たちは当のエーヴがここにいることに気づいていない。その隙に天幕へ戻ることにした。

 団長のように労いの声をかけに来るとまでは思っていなかったが、姿もないとは。

(くそ、少しは応援してくれると思ってたのに……薄情者め)

 内心悪態をつくが、ジルは自分の正体を知らないのだから仕方がない。『エーヴ』の勝利に懸けてしか約束もできない、中途半端な自分が腹立たしかった。

 そうこうするうちに最終決戦の準備が整い、エーヴの名と、もう一人、対戦相手の名前が呼ばれる。

「白の陣営から、勝者モニク・ド・ビュケ! 双方、所定の位置についてください」

 進行役から指示があり、試合場へ進み出たモニクが、こちらをまっすぐ見つめた。

(無事勝ち進んだってわけか。上等だぜ)

 ロラとレアが手を振り、最後の応援を送っている。かなり興奮状態の彼女たちと異なり、モニクはいつも通り平静だ。それでも立ち上る闘志が感じられた。

 エーヴも馬にまたがろうとした、その時。色々と世話をしてくれていたリディが、遠慮がちに呼び止めた。

「あの……これ、よかったら」

 いかにも乙女らしい白いレースのハンカチを差し出され、エーヴは笑う。

「ああ、いいよ大丈夫。汚したら悪いし」

 汗を拭けと渡してくれたのかと思ったら、リディは悲しげに俯く。

「おーおー、エーヴ、あんたももてる子だねー! あのジルだけじゃ飽きたらず、そのかわいこちゃんまで落としちゃったわけ?」

「あ、本当だー。それって勝利祈願のおまじないじゃん。愛しい人に勝ってもらうために、自分の使ってる品を贈るんだよ。受け取ってあげないとー」

 試合を終えて防具を取った二人の『紳士』――ちなみに、エーヴと同じ赤の陣営だった先輩方だ――に囲まれる。元々面白いからと参加しただけで本気で役を狙っていなかったらしく、先ほども親しげに勝利を祝ってくれていたのだ。が、それよりも。

「えっ!? おまじない? そうなの?」

 しかも何か、『愛しい人』とか聞こえたような。驚愕の問いにリディは真っ赤になり、ぶんぶんと首を横に振った。

「ちっ、違うんです! わたくしは、ただお友達として。でも、おまじないなのは本当です。やっぱり、迷惑でした……?」

 瞳まで潤ませて見つめられては、受け取らないわけにはいかなかった。

「あ、ありがとうリディ! 友達としてなら、遠慮なくもらっておくからさ。うん、じゃあ頑張ってくるね!」

 なんとなく後ろめたい気分になりつつも、ハンカチを懐に入れる。

「ええ、頑張って……エーヴ」

 にっこりと手を振ったリディと別れてもなお、彼女のまとうやわらかなトワレの香りがハンカチから漂っていた。



 さすがに最終決戦とあって、モニクは今までの相手とは違っていた。技術面でというよりも、強い意思と凄まじい気迫が攻撃から伝わってくるのだ。

 何度目かで交わし、自身も槍を突き出しながら、エーヴは息が上がってくるのを感じていた。

(なんでだ、普段ならこの程度で疲れないのに)

 太陽はいつのまにか中天に達し、頭上から照り付けてくる。試合用の軽量のものとはいえ、兜や防具一式を着用しているからだけではない暑さ――いや、熱さまで感じ、更に呼吸は乱れる。

 目前に迫った槍の穂先に気づくのが遅れ、避けたはいいが危うく体勢を崩しかけた。

「きゃあっモニク! その調子ですわ!」とロラとレアが手を叩いているのが見える。一方のモニクは目もくれず、この機を逃すまいとばかりに次なる攻撃に出た。

 自分の意思とは異なる体の重さと熱さに動揺していたエーヴは、続く攻撃を盾で受けた。赤い薔薇が、立て続けに地に舞い落ちていく。

「くそっ……冗談じゃねえ!」

 舌打ちと本来の口調は、兜に遮られて周囲には漏れない。だから遠慮なく叫んで、エーヴは手加減をやめた。

「俺は――勝つって、誓ってきたんだ、よっと!」

 いきなり速くなったエーヴの攻撃に、今度はモニクが盾を構えた。応戦する隙も与えず連続で突くと、白い薔薇がエーヴの倍は散った。

 一旦距離を取り、モニクがまた槍を構え直す。彼女も息が上がってきたらしく、肩が上下していた。が、エーヴのほうがひどかった。

(なんなんだ、一体! 大事な時にどうして)

 息を吸い込むたびに、体は熱く、重くなってくる。同時に少しずつ立ち上ってくるほのかな、甘い香り。

 ああ、リディのトワレだ。おまじないにくれたハンカチを胸元に入れたのが、まだ香っているらしい。彼女もあんなに応援してくれたのに。そう思ってから、気づいた。香りが先ほどより濃厚になっていることに。

 今では重いほどの甘さを発するそのトワレが、兜の中に充満して、余計に苦しいのだと。

「エーヴ・スペリエ! あなたの本気、見せてもらいましょう!」

 モニクの叫びが試合場に響いた。気合の声と共に馬を走らせ、突進してくる。決着をつけるつもりらしい。

「そうだ……俺は、こんなとこで負けてられないんだ……っ!」

 倒れそうなほど甘く重いトワレの香りから逃れるべく、エーヴは兜に手をかけた。このせいで苦しいなら、取ってしまえばいいのだ――!

 一気に騒ぎ出す観客のことなど気にならなかった。脱いだ兜を砂地に捨て、エーヴはにやりと笑む。

「これでやっとまともに戦えるな」

 ふう、と息を吐いたエーヴも、モニク同様槍を構えた。

(悪いな、モニク。お言葉に甘えて、本気で行かせてもらうぜ……!)

 自分が今『エーヴ』であることも、相手が女だということも脳裏から消し、繰り出した最後の攻撃は、白い『薔薇の嵐』を巻き起こしたのだった。


「私の完敗でした。おめでとうございます」

 差し出されたモニクの手を、エーヴが握り返す。握手を交わした二人を、観客たちの惜しみない拍手が包み込んだ。

「ごめんね、落馬までさせるつもりなかったんだけど……大丈夫だった?」

 激しく突き出されたエーヴの槍は、咄嗟に構えられたモニクの盾を弾き飛ばした。勢いで体勢を崩し、落馬したモニクだったが、幸い怪我はなかったようだ。

『美しく』戦えと忠告までした団長から何か言われるかと思ったが、故意ではなかったとされなんとか試合に勝てた。

「平気です。あなたほどではないですが、私も乗馬の特訓は積んできましたから」

 全く動揺を見せず、モニクは頷く。

「悔しい思いはもちろんあります。でも、あなたの本気の程度はよくわかりましたし……私が間違っていたこともこれではっきりしました」

「え?」

「あなたは周囲で噂されているほど、愚かでもいいかげんでもない。劇団のことをよく知らずに入ったのは確かでも、今のあなたは、誰にも負けない熱意を持っている。きっと素晴らしい『コリーヌ』を演じられることと信じています」

「モニク……あ、ありがとう!」

「喜ばれるのはまだ早いですよ。今日の負けは認めますが、私も夢を持って入団した身。必ずあなたを追い抜いて、次の公演では役を得てみせますから」

 穏やかに、瞳には強い闘志を秘めて、モニクは笑った。初めて見せた笑顔に、エーヴも笑い返す。

「うん、お互い頑張ろうね。これからもよろしく――モニク!」

 再度しっかりと握手をし、ついでにロラとレアからも今までの偏見と誤解を謝られた。

「ごめんなさい……あの手紙も、本当は私たちが出したんです。ちょっとした意地悪のつもりで」

 二人の告白は初日の掃除の一件についてだ。モニクも知らなかったことらしく、反省する二人に驚いていた。

「もういいよ。過ぎたことだし」

 笑うエーヴに、ロラもレアもほっとした顔になる。

「これからは心を入れ替えてあなたを応援しますわ。それに、私たちだって負けません!」

 思いがけぬ和解にいい気分になりながらも、エーヴは内心首を傾げる。

(しかし、あのトワレの香りは何だったんだ?)

 兜を脱ぎ捨てたら香りが拡散し、消えたのか、ハンカチを嗅いでもかすかな残り香があるだけだ。甘く爽やかな香りは、どこかで嗅いだような気がしたものの、はっきり思い出せない。

「おめでとうございます、エーヴ! よかったですわ……素敵なコリーヌを演じてくださいね!」

 駆け寄ってきたリディは、いつも通りの可憐で無垢な微笑みを向けてくれる。

(なんかの気のせいだよな、きっと)

 そう結論付けるしかなく、わずかな違和感は頭の奥に追いやった。無意識に、自分にもかなり疲労がたまっていたのかもしれない、と。

 そして始まったのは閉会の儀。壇上から団長が皆への労いをし、エーヴに祝いの言葉を述べる。楽団の演奏が始まり、いつものようにお祭り騒ぎになるのかと思ったら、予想外の儀式が待ち受けていた。

「ではここで、勝者エーヴ・スペリエに、『花冠授与』の儀を行います。これは過去、我が劇団でも行われていましたが、最近は省略されていた儀式です。今回は特別試合でもあり、他でもない騎士長からたっての願いが出されたので、行うことになりました」

 騎馬槍試合の勝者に、勝利を称える花の冠を贈呈する。そんな古風な儀式を望んだ、考えてみれば初めて目にする『騎士長』という人物。彼女が現れてようやく、エーヴは瞳を見開いた。壇上に立ち、自分を見つめて微笑んだのは、美しき銀髪の騎士――ジルだったのだ。

 それだけならまだしも、彼女はまるで舞台衣装のようなきらびやかな騎士の正装を身にまとい、輝く長剣まで帯びていた。

 壇上から降りてきたジルの手には、白い鈴蘭ミュゲで編まれた冠がある。エーヴの視線を、ジルはまっすぐに受け止めた。

「エーヴ・スペリエの勝利を祝し、この花冠を贈ります。あなたに、神の祝福のあらんことを」

 優しい微笑を湛え、言ったジルの手からエーヴの頭上に花冠が載せられる。儀式は、それで終わりではなかった。

「騎士長として、また、今回相手役を演じる栄誉を得た『紳士』として、あなたと臣従オマージュの誓いを交わしたいのですが……よろしいでしょうか?」

 いつもと違う台詞めいた口調は、どこかいたずらっぽい響きを含んだものだ。が、薄紫の瞳に揺れる真摯な光に、エーヴは気づいた。

「我が騎士劇団では、女性を愛し、幸せにする騎士道精神シュヴァルリィにのっとって、『紳士』は相手役の『淑女』に臣従を誓います。これはそれほどに深い愛を示すという意味を持っていて、事実上の『共演契約』となるのですよ」

 団長の説明があり、二人はまた向かい合った。

「この花冠に誓って、僕は君を大切にしよう。鈴蘭の花言葉を知る者なら、僕の心がわかるはずだ」

 まっすぐに向けられたジルの瞳が複雑な色を宿す。その一瞬を、エーヴは見逃さなかった。ゆっくりと頷き、微笑み返す。

「では、誓いを」

 再び芝居めいた動きで、ジルは剣を抜き、エーヴに渡した。まるで主君に対するように、目の前に跪かれる。横にした切っ先をそっと肩にのせると、ジルは瞳を閉じた。

「病める時も健やかなる時も共にあることを誓い、あなたを私の騎士と任じます。神がこの『臣従』を認め、愛し合う二人を一つとしてくださいますように」

 団長に教えられた言葉をエーヴが厳粛な顔で繰り返し、剣を返すと、捧げ持ったジルが剣先に口づける。何やら非常に恥ずかしい儀式は、それで無事に終了した。

 二人の誓いに喜ぶ者あり、悲しむ者あり――その内にひそかに燃え立つ憎しみの炎があることを、見つめ合うジルとエーヴはまだ知らなかった。


       ***


 その夜、静かな聖堂で一人佇んでいたジルは、扉の開く気配に振り返った。予想していた、むしろ待っていた人物が入ってきたのに、急に帰りたくなってしまう。それでも毅然と微笑んでみせたのは、途端に速まった鼓動と熱くなる頬に気づかれないようにだ。が、返された微笑を直視することはできなかった。

「なんだよ、『おめでとう』も言ってくれねえのか? 勝利の抱擁ぐらいは期待してたのにな」

 目の前に立ち、いたずらっぽく言う待ち人――アダンの言葉に、ジルは顔を上げる。

「何を偉そうに……大体勝ったのはエーヴ嬢で、お前じゃないだろう」

「そうだったな」

 はは、と軽快に笑う。アダンはいつも通りに見えるのに、なぜ自分だけこんなに緊張しているのか。悔しくなって、あえて平気なふりを装った。

「エーヴ嬢の戦いぶりは素晴らしかったな。まるで戦の女神のようだった。凛々しくて、皆をひきつける気迫があって……とにかく、お前のようなふざけた男が彼女の兄だなんて、信じられないくらいだ」

「それはどうも」

「だっ、だからお前を褒めてるんじゃないと言ってる!」

「わかってるよ」

 そう言いながら、なぜかアダンはにやにやと嬉しそうに笑い続ける。悔しさが倍増して、ジルはそっぽを向いた。

「それで、エーヴ嬢に結果を聞いて来たのか?」

「いや、見てたんだ」

 予想外の返答につい目線を合わせる。アダンは「秘密だぞ」と小声で続けた。

「観客は相当盛り上がってたし、俺一人が隠れて見てても誰も気づかなかった。おかげで、あんたのメッセージもすぐわかった」

「な、何のことだ」

「今更とぼけて焦らすなよな。それともはっきり言ってやろうか? 鈴蘭ミュゲの花言葉」

 耳元で囁かれ、ジルは慌てて離れる。じりじりと後ずさろうとするが、祭壇に背中が当たり、それ以上逃げられない。

「あの『臣従オマージュ』ってやつ、俺とも交わしてくれよ」

 大胆にも祭壇に手をつき、自身の両腕の中にジルを閉じ込めるアダン。

「何を言って……」

「俺は本気だぞ」

 湛えていた微笑みを消し、アダンは真剣に見つめてきた。あまりに距離が近く、どきどきと心臓がうるさくて、ジルは一気に混乱状態になる。逃げたいのに、瞳を逸らしたいのに、なぜか囚われたように動けない。

「正直、ちょっと妬けたんだ」

 ふっと表情を緩め、目線を落としたアダンが、ジルの銀の髪を一束すくい上げる。

「あの時、一緒に誓ったのが俺ならよかったのに、と思った。この唇が触れたのが、剣じゃなく俺の唇なら、どんなにいいかと」

 心臓がまた大きく跳ねた。切なげに呟いたアダンが、髪の束に口づけたのだ。

「なんて、こんな台詞なら合格か?」

 言葉を失っていたジルは、苦笑されて真っ赤になった。恥じらいではなく、怒りのためだ。

「この僕を、からかいにここまで来たのか!? お前は、その程度の気持ちで……っ!」

 強くはらいのけ、燃えたぎる瞳で睨みつける。怒りが治まらず、思わず剣の柄にやった手を、アダンが慌てて押さえた。

「違うって! そういう意味じゃ……こらっ、暴れんな――ジル!」

 聞けよ、と強く手首を握られ、振りほどこうとしても無理だった。

「悪いけど、俺は舞台の騎士と違って気取った言葉なんて言えねえんだよ。でも女ってそういうのが好きなのかと思って……あ、あれでも俺なりに頑張ってみたんだ。別にからかっても嘘でもなく……ああでももうやらねえ! くそ、赤っ恥じゃねえか」

 今度はアダンが、耳まで赤くなっている。あっけにとられているジルを軽く睨み、アダンは膨れたまま続けた。

「どうせ疑われるなら、俺らしく単刀直入に行かせてもらうぜ。おい、ジルベルト・ド・ブラン!」

 いきなり偉そうに名を呼ばれ、両肩に手を置かれる。何が始まるのかと身構えたジルを真正面から見つめ、アダンはゆっくり顔を近づけた。深呼吸をした彼が、口を開く。

「俺は、お前を――」

「僕、を……?」

 瞳を見開き、これ以上はないほどに騒ぐ心臓と戦いながらジルも繰り返す。アダンが言葉を継ごうとした、その瞬間だった。

「ジル様? ここにおられますの~?」

 大勢の声が外から聞こえ、すぐに扉が開かれる。咄嗟に二人が逃げ込んだのは祭壇の裏側――いつ見つかるとも知れぬ場所。

「だ、だからなぜ僕まで!」

「いや、だって流れ上、だな……」

 押し殺した声でやり合う二人をよそに、ついにどやどやとなだれこむ足音と声がした。またしてもあの『麗愛会』だとすぐにわかる。

「ジル様あ~? おかしいわねえ、本当にこちらに向かわれたの? あなた見たんでしょう?」

「確かに見たと思ったんだけど、違ったかしら……ああんもう、最近ジル様ったらつれなさすぎると思わなくて?」

「そうよね、以前ならもう少し私たちとも戯れて下さったのに……やっぱりあのエーヴ・スペリエのせい? あんな子のどこがいいのよ~悔しいっ!」

 そんな会話を交わしながらも、どんどん近づいてくる彼女たち。見つかるのも時間の問題だと覚悟を決めた、その刹那。アダンがジルの頭に手をのせ、囁きかける。

「むかつくけど続きはまた今度だ。気をつけて帰れよ」

「……おい! でも今出たら、お前が」

「大丈夫、なんとかするさ」

 ふっと笑んで、アダンが立ち上がる。驚愕に息を呑んだジルだったが、なんとそこにまたも予想外の、第三者が登場したのである。

「あらあら、こんな時間に皆さん何をやってるの? 消灯時間はとっくに過ぎていますよ」

 それは明るいマダム・ソレイユの声だった。ちょうど扉を開けた彼女のほうを向いたのか、『淑女』たちはアダンに気づいた様子もなかった。再びしゃがみこんだアダンが、しっと指で合図を送ってくる。

「でも、ジル様がこちらに……」

「ジルなら確かにさっき、夜の祈りに来てはいたけれど、もう帰りましたよ? おかしな子たちねえ。さあさ、早くあなたたちもお戻りなさい。あんまり夜更かししてると明日の稽古に遅刻してしまうじゃないの」

「なーんだ、夜の祈りにいらしてたのね」

「よかった、逢引じゃなかったんだわ」

「じゃあ戻りましょ! おやすみなさい、マダム!」

 安心したように帰っていく気配があり、ジルはほっと息を吐いた。

「もう大丈夫だ。マダムには僕が適当に話をしておくから、お前は少し待ってから戻れ」

「でも、隠れてたのがわかれば怪しまれるんじゃないのか」

「平気さ。僕がよくあの子たちから逃げ回っているのはマダムも知っているし、それに……彼女なんだ。以前話した、僕の乳母。今は『元』だけれどね」

 ジルが親戚の家へ送られたと同時に暇をもらい、付いてきてくれた。そしてそのまま入団を決めたジルに付いて、この騎士劇団の事務係にまでなってくれた経緯を話す。

「じゃあ」と立ち上がろうとしたところを引き戻され、間近で見つめられる。

「……答え、ちゃんと考えとけよ?」

 照れたような、無愛想な言葉の中に、真摯な響きがあった。どきりとして伏せた瞳に、アダンの首と喉仏が映る。目の前の相手が異性である、確たる証拠だ。また緊張しかけたところで見つけたのは、アダンの首元に光る銀の鎖だった。

(そういえば、この前の夜はなかった。肌身離さず着けていると言ったのに)

 あの酔っ払った夜、いや、思い出してみればその前にも。告解室であらわな上半身を見た時、確かにネックレスを着けていなかった気がする。

 小さな疑問は、すぐに掻き消えた。

「こら、聞いてんのかよ」と、アダンに覗き込まれたのだ。

「わかった、考えておく。だから、お前も忘れるなよ」

 ふと口を突いて出た一言に後悔しても、もう遅かった。仕方なく、見つめ返すアダンにそっけなく告げる。

「例の、お前の約束のことだ。それを果たすと誓うなら、む、結んでやってもいい」

 瞬く黒い瞳に、自分が映っている。蝋燭の光のせいか、茶褐色に近い色彩の中に。

「『臣従』だよ、お前が言ったんだろう!」

 怪訝そうな視線が気恥ずかしく、半ば怒鳴るように――もちろんそれでも小声だったが――言い捨て、立ち上がった。

了解ダコール、姫君」

「僕は姫じゃない!」

「じゃあ、ジルベルト『騎士長』でいいか」

「もっと嫌だ! あんな役職、形だけなんだから」

 人気投票とやらで勝手に決められただけの呼び名を使ったのは、ただあの花冠を捧げたかったからだ。そんな本音は隠したが、アダンは楽しげに笑う。やはり、エーヴによく似た笑顔だった。

 憮然と背を向けたジルは、足早に扉へ向かう。まだ赤い顔をどう説明したものか悩みながら、おそらく扉の外で待ってくれているマダム・ソレイユの元へ歩いていくのだった。

 

「まだお休みにならないんですか? お嬢様」

 一瞬本当に錯覚しかけて、ジルは苦笑した。実家にいた時と同じ呼びかけに、ここが城内の事務員用居室であることを忘れそうになったのだ。アダンと別れてから、結局今夜も『避難』させてもらっていた。

「その呼び方はやめてくれって言っただろ? それとも僕も『ばあや』と呼ぼうか」

 本を閉じ、寝転んでいた長椅子から起き上がると、マダム・ソレイユはにこにこしながらテーブルに温かい香草茶ティザンヌを置いた。メリエールで就寝前のお茶としてよく飲まれるものだ。

「私は別に構いやしませんよ、『私の可愛いキャベツちゃん』にそう呼ばれるのならね」

 モン・プティ・シュー、と小さな子への呼びかけをされ、ジルは声を立てて笑った。大きくなってもまだそう呼んでくる『ばあや』に、昔は腹を立てていたものだった。

「ねえ、ばあや。寝る前のお話をしてよ」

 香草茶に半分ほど口をつけ、ジルは隣に腰掛けたマダムにせがんだ。

「まあま、今夜のジル様は本当に昔に戻られたみたいですねえ。それで、どんなお話がお好みです?」

「あれがいいな。ばあやと『王子様プランス』のお話」

「いやだ、随分と昔の話だこと。でもお望みとあらば、またお話しましょうか」

 微笑んで、マダムが話してくれるのは彼女の亡くなった夫との馴れ初めだ。メリエールの片田舎、森と湖の美しい一地方で育ったマダムがある時、親とけんかをして一大決心の末、田舎を飛び出した。親に勝手に決められた結婚話から逃げるために。

「当時は顔も見ないで結婚するなんて普通だったんですけれどねえ。私は夢見がちな上に、大層頑固な娘でしたし……何せ、人知れぬ『病気』を抱えていましたから」

 もちろんジルも知っている、マダムの過去。それは今のマダムしか知らぬ者には到底信じがたい話だ。

「厄介な病でしたよ。殿方ならいざ知らず、若い年頃の娘が一切笑うことができない、ってんですからねえ」

「それでよく誤解されたんでしょう? 愛想のない、けしからん娘だって」

 口調まで昔に戻り、ジルは相槌を打つ。マダムは頷き、もたれかかってきたジルの肩をしっかりと抱いた。

「そんな娘にこれだけの良縁を用意してやったんだ、何の文句がある――そう叱られて泣いて泣いてねえ……本当の自分を誰にもわかってもらえず、無理に結婚させられるぐらいなら修道院に入るってその前まで行ったんですが、どうしても足が竦んでただ黙って、どれぐらいそこに立っていたか」

「その時現れたんだよね、ばあやの『王子様』が」

「そうですよ。といっても随分と無口で、それこそ無愛想な『王子様』でしたけどね」

 ふふっと笑いあい、マダムがジルの髪を撫でる。まるで本当の祖母のようで、ジルはその胸に頬を寄せた。

「まさかそれが親の決めた許婚本人で、しかも私の『呪い』を解いてくれる相手だなんて、あの時は夢にも思わなかったけれど……静かに差し伸べてくれたあの手をとった時から三十年、連れ添えたことは本当に幸せでしたよ」

 戦場で患っていた肺の病が悪化して、先立たれてしまったものの、マダムは『王子様』と愛し合い、また笑えるようになった。『泣くことができない』病を持っていた彼は、息を引き取る前に涙を流して口づけをし、マダムに言ったそうだ。

「愛しているよ(ジュテーム)、君と出会えてよかった――か。そんな風に愛してくれる人が、僕にもいるのかな」

 しみじみと呟いてから、ふと浮かんだ面影に戸惑い、ジルは香草茶を飲み干した。

「……私には、もうどなたかいらっしゃるようなお顔に見えますけれどねえ」

 何も答えないジルに、マダムはそれ以上聞こうとはしなかった。

「フラヴィはどうだった? 送って行ってくれたんだろう」

 知らずいつもの口調に戻り、ジルは訊ねた。今まで、なんとなく怖くて口にできなかった質問だった。

「ええ、ちゃんと送り届けてきましたよ。しばらく休まれて、今回の公演終了後に一度ご挨拶に来られると仰っていました。幼馴染の婚約者様もとってもお優しそうな方で、きっとお幸せになられますよ」

「……そうか。じゃあ、あのひとは? ばあやのことだから、様子を見て来たんでしょう」

 少しほっとしても、複雑な思いは消えない。フラヴィの実家近くに住む人物を思い出していたからだ。

「お姉様ならお元気でいらっしゃいます。お住まいにされている別荘で育てられているお花も、今じゃお庭からあふれそうだとか。ジル様のことを気にかけておられましたよ」

 自分のことは心配せず、貴女が進む道を行くように。いつも、姉がそう手紙をくれるたびにジルは安堵し、同時に胸を痛めずにはいられない。かつて自分に乱暴を働こうとした男は、自分だけでなく姉をも傷つけた。そのせいで結婚は破談になり、姉は今まで未婚でいる。

「もう、ご自分を責めることはおやめなさいな。あなたには何の非もないと、お姉様はもちろん、誰もがわかっているのですからね」

 誰も――? 姉はそう言ってくれる。けれど、ただ一人そう思わない人間もいる。それが自分の母親だということが、ジルをいつまでも苦しめるのだ。

『なぜそんなに美しいの!?』

『私より綺麗になるなんて、許せない!』

 自身の容貌を受け継ぎ、成長と共に更なる輝きを見せ始めた娘を、母は詰った。姉とジルに起こった悲劇でさえ、ジルの美のせいにして罵ったのだ。

 ぎゅう、と胸元のメダイを握るジルを悲しげに見つめ、マダムは続けた。

「ねえお嬢様、私は近頃思うんですよ。私たちに与えられた『罪の林檎』は、本当は神様からの祝福なんじゃないかって」

 ジルの訝しげな視線を受け止め、マダムは優しく微笑んだ。

「随分とそのせいで苦しんで、辛い思いもたくさんしましたけれどね……おかげで人の優しさと温かさも、他の人より余計に知ることができた。人の醜さも知った分、それがどれだけ貴重なものかわかったんですよ。一瞬一瞬の奇跡みたいなものだからこそ、美しく輝くんだとね」

「マダム……」

「少なくとも私は、『罪の林檎』がなければその輝きにも、美しさにも気づけなかった。苦労して苦労して手にした宝というのは、本当にすばらしいものです。その宝が、私にとっての『王子様』でもあり、あなたでもあるんですよ。私の愛するお嬢様」

 また髪を撫で、慈しみに満ちた瞳でマダムはそう締めくくる。頬に、そっと落とされたおやすみのキス――実の母からは決して与えられなかった温かな触れ合いに、瞳の奥が熱くなる。壁に向き、こぼれたものが見えないように隠した。そんなジルの体に布団をかけてくれたマダムは、眠るまでずっとそばに付いていてくれた。


       ***


 騎馬槍試合の翌日、早朝からエーヴは西の城館にやってきた。ひと月後の新たな『マ・ベル・コリーヌ』公演に備え、今日からここで稽古を行う予定になっている。

「おや、早いね。集合にはまだ一時間あるだろう」

 稽古部屋に入ってきたセレストに驚かれ、エーヴは「おはようございます」と頭を下げる。

「あの、まだ台本を全部読めていなくて……先輩方が来られるまでに読んでおこうと思ったんですけど」

「なるほど、では同じだな。といっても私のほうは最終確認だが」

 セレストは椅子に腰掛け、エーヴにも向かい側を勧めた。遠慮せずに読むよう指示され、しばらく二人で静かに台本を読んでいた、その時。ふと顔を上げると、セレストがじっと見つめていた。

「君は……ジルのことをどう思っている?」

 いきなりの問いに目を瞠る。セレストはふっと苦笑し、台本に目を落とした。

「突然すまない。だが、やはり一つだけ確認しておきたいんだ」

 きょとんとするエーヴに、少し考えてからセレストは言った。

「昨日の槍試合で、君の活躍は素晴らしかった。正直言って感動さえ覚えたよ。でも、その熱意が純粋に公演のためだけのものには見えなかった」

 内心どきりとした。けれどセレストは真剣そのもので、責めるでも問い詰めるでもなく、淡々と事実を確認するように続ける。

「君がジルに好意を持つことは自由だし、相手役としては互いに良い影響も与えるだろう。けれど……それが同時に諸刃の剣ともなり得ることを、君には自覚しておいてもらいたい」

「フラヴィ先輩のように、ですね?」

「知っていたのか」

 気負いが少し取れたように、セレストの表情が緩む。それでもまだ苦しそうな色は残っていた。あえて、エーヴは気取りのない微笑みを返す。

「ジル先輩のことは好きです。でもあたしは、同性への友愛と異性に向ける愛情とは、区別しているつもりです。エーヴ・スペリエとして、あたしはこの役を精一杯演じる。そう決めています」

 後のことは、『アダン』としての問題だから。そんな本心を知らないセレストは、ほっとしたように微笑を浮かべた。

「そうか……ならいい。君ならばきっと、良いコリーヌが演じられるだろう」

「ありがとうございます。セレスト副騎士長も、きっと素敵な『オーギュスト』を演じられると思いますよ」

「そういえば、私は君に恋焦がれる隣国の王子役だったな。お手柔らかに頼むよ」

 オーギュストはコリーヌに結婚を申し込む数多の求婚者の筆頭として登場する役だ。お転婆なコリーヌに言い寄ってはふられ続ける哀れな道化役。そんなコミカルな人物像を真面目なセレストが演じることも予想外だったが、全てが初めてづくしのエーヴにとって頼もしい『指導役』になってくれそうだ。

「……随分楽しそうだな。何の話?」

 どこかふてくされたような声がして、顔を上げる。なんと扉を開けて入ってきたのは、ジルだった。笑いあっていたセレストが顔を引き締め、咳払いをする。

「別に、ただ台本を読んでいただけだ。そう言うお前も、こんなに早く来るなんて珍しいな」

「たまには僕だって早起きもするさ」

 まだ不機嫌そうなジルは、そう言いつつ小さくあくびをする。あの後ちゃんと眠れたのだろうか、などと考えてしまって昨夜のことを思い出す。

 間近で見つめ合った、少し潤んだジルの瞳。恥じらいに染まった頬も、掴んだ手首の細さも髪の滑らかさも、自分が言った恥ずかしい言葉の数々まで。

(う……さっき自分で言ったばかりだろうが、集中集中!)

 そうこうするうちに出演者は勢揃いし、稽古は始まった。滑り出しは順調――と行くはずがなく、初っ端からエーヴは苦戦することになる。それもそのはず、他の出演者が全員舞台慣れしている中、ただ一人だけまるきり初めてなのだ。

 しかも台本の台詞を暗記するのが精一杯なのに、そこに感情を込め、『本物』にしていく作業など程遠いものだった。

 作品の冒頭、エーヴ演じる『コリーヌ』は城内を逃げ回っている。今日も押し寄せる求婚者を避けようと画策しているのだ。そんな場面の稽古中、

「きゃあっ」と隣の侍女役の『淑女』が悲鳴を上げ、エーヴは慌てて頭を下げる。稽古着のスカートを踏んでしまったらしい。

「ごめんなさい……っと、わあっ」

 慌てすぎて自分のスカートの裾まで踏んで転んでしまう。ただでさえ長い裾は動きづらいのに、それで様々な動きをしなくてはならないことも大変だった。

「すみません! も、もう一度お願いします」

 失笑を買う中、また頭を下げて再開してもらう。そんなことの連続で、情けないやら悔しいやらで、ひそかに唇を噛んだ。

 さすがに周囲の空気も冷たくなりかけた時、また転んだエーヴに差し伸べられた手があった。優しく微笑む、ジルだ。

「大丈夫。落ち着いて、ゆっくり深呼吸してごらん」

 そっと起こし、両肩を支えてくれる。

「誰もが最初は緊張する。僕だってそうだったんだよ。初めての稽古の日、覚えたはずの台詞は全部頭から抜けて、何も言えなくなった。そうだったな? セレスト」

「ああ、そんな時もあったな。私が横から全部囁いて教えてやった。そう考えると、今のお前があるのも私のおかげ、ということになる」

「ああ、君にはとても感謝しているよセレスト。もちろんこの場にいる全員――素敵な出演者一同が、そうやって互いに助け合ってやってきた。僕が舞台に立てるのは、みんなのおかげだ」

 ジルはおどけたふうにお辞儀をしてみせ、硬かった空気も和らいだ。

「だからエーヴ、君も安心して自分にできることを全力でやっておくれ。どんな時でも信頼できる仲間たちが、そして君に『臣従』を誓ったこの僕が、そばにいるから」

 手を取り、甲に口づけを落とされ、エーヴは頷いた。気障な仕草も言葉も、ただ今は有り難かった。同時に、『アダン』としても奮起する。

(くそ、守るって誓った俺が守られてどうすんだ)

 絶対、やり遂げてみせる。ふつふつと燃える炎のままに、エーヴはまた稽古に戻ったのだった。


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