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五章

 五、メリエールの聖母の騎士



 仮面舞踏会も終わり、コリーヌ城は普段の平穏な姿を取り戻した。しかしエーヴの『平穏』な日々はまだやってこないらしい。

「あーらおはようございます、エーヴさん」

「ジル様のお気に入りさんのご登場よ。いいわよねえ~ダンスにまで誘われちゃって」

 今日の掃除場所――南の城館、前庭を掃いていたエーヴに笑いかけるのは二人の同期団員。モニクの取り巻き、ロラとレアである。ちなみに彼女たちの名もようやく覚えたばかりだ。

 金髪の巻き毛を二つに結わえているのがロラ、後ろで一つにまとめているのがレア。だがどちらにしろ、二人ともがエーヴを嫌っていることは変わりがない。しかもそのやり方は、舞踏会の夜以降陰険さを増した。

「お、おはよう。あれはたまたまだって言ったじゃない。ほら、ジル先輩って気まぐれだし」

「まあ~なんだかとっても親しげな言い方!」

「本当にね~私たちなんて遠すぎて、お話さえろくにできないって言うのに」

 二人で頷きあい、ちくちくと嫌味の連続。腹に据えかねて反撃しようとすると、さっと逃げられる。ここ数日、こんな状態が続いているのだ。

「だから、別に親しいわけじゃないってば。そもそも女同士で何があるって言うわけ?」

「まっ、こわーい!」

 と同時に声を上げ、ロラとレアは離れていく。かと思えばすぐにくっついて、またひそひそと話し出した。

「女同士でも十分に素敵な関係を結べると思わなくて? ロラ」

「そうよね。ジル様とお相手役のフラヴィ様みたいに、美しい友愛と信頼の結びつき……憧れるわ。ねえレア」

 モニクは我関せずのていだが、ちゃっかりその後ろに隠れているあたりが嫌らしい。

「それを何か下品なものと勘違いしているのはあの人のほうよねえ~」

「本当、いやだわねえ~」

(あーもう我慢できねえ!)

 勢いのまま踏み出そうとした足は、袖をそっと引かれて止められた。振り返ったエーヴに、リディが小さく首を振る。

「あの方たちはジル様の熱心な信奉者ファンなのです。言い返してもきっと、火に油を注ぐだけですわ。ご存知ありません? ジル様を応援する会の……」

「ああ、確か『麗愛会』とかいう。あの二人も会員ってこと?」

「そうらしいですわ。入団した時点で表立った活動は控えていらっしゃいますけれど、簡単に気持ちが変わるわけではないでしょうし」

「ふう~ん、あのジルをそこまで、ねえ」

 リディの驚いた顔を見て、あわてて「ジル先輩をねえ」と言い直した。皮肉めいた言い方になったのは、『麗愛会』の熱心さのとばっちりを受けているせいだ。

 確かに、同性同士でも慕う気持ちはわかる。憧れの感情は擬似恋愛のようなもので、よく言う、恋に恋する、というやつだろう。――でも、じゃあ自分は?

「エーヴ? 何を赤くなっていますの?」

「えっ? 別に何も! なんか暑いよね今日! もう初夏も近いのかなあ~なんて」

 わざとらしく手で扇いで庭園を見渡すと、「変なエーヴ」とくすくす笑われ、講義室への移動を促された。

 前を進むリディのふわふわした亜麻色の髪が、陽光を優しく反射している。華奢な肩に細い腰。小柄でいかにも可憐な、女らしい女の子だと改めて思った。

(そう、『可愛い』ってのは普通こういう子のことだよな……なのになんで俺、気づけばあいつのことばっか考えてんだ?)

 あの夜、ジルを送り届けた時――いや、その前からずっと、彼女のトワレの香りが鼻腔に残って消えない。爽やかで涼しげなのに少し甘い、そう、鈴蘭ミュゲのような香り。どこかで嗅いだこともある気がするのに、その凛とした残り香は彼女だけのものだ。まるで彼女自身の、どこまでも高潔な心の象徴のようでもあった。

 そんなジルが、抵抗をやめてからはずっと大人しく黙っていた。本当に歩けなかったのだろうし、屈辱に耐えていたのかもしれない。けれど月光の下で見る表情にあの棘はなく、少しでも信頼してくれたことは伝わってきた。だからこそ静けさが妙に気恥ずかしく、ひたすらくだらないことを一人で話していた。

 部屋に着き、約束通り帰ろうとしたアダンに、ジルは小さく一言だけ訊ねたのだ。

『お前、あの花は本気なのか?』と。

 例の、一輪の鈴蘭のことだ。本気も何も、自分がジルの舞台を褒めた気持ちに偽りはなく、そうだと答えた。ジルは瞳を見開き、頬を染めて俯いた。

(あれは、どういう意味だったんだろう)

「あのさ、リディ。女の子って普通、鈴蘭の花好きだよね?」

「ええ、それはもちろんですわ」

「そうだよね。あたしの故郷のサン・ロワンでも幸福をもたらしてくれるってすごく好まれてて……」

「そういう花言葉もありますわね。でも鈴蘭といえば普通は告白だと思いますけれど」

「こ、告白!?」

「あら、ご存知ありませんの? 白い鈴蘭の、特に一輪だけの花を男性が女性に贈れば、『あなたを愛しています』という愛の告白。かけられたリボンの色によっても細かく意味があるんですけれど、赤の場合は一番熱烈で、『今すぐ恋人になって下さい』という求愛になるのですわ」

 うっとりと両手を組み、話し続けるリディ。けれどエーヴにはもう続きは聞こえなかった。

(告白……今すぐ恋人になれだと!?)

 ジルの質問はそういう意味だったのか。しかも自分は肯定してしまった。

「わーっ、どうする俺!!」

 いきなり頭を抱えてしゃがみこんだエーヴを、リディはもちろん離れて歩いていたロラやレア、モニクさえ驚いて振り返る。

「お、『俺』……?」

 何とも言えない顔でリディに繰り返され、エーヴは慌てて手を振り、否定した。

「いや、『俺』じゃなくって『これ』って言ったの。ちょっと講義のこととか色々悩んでてさ、気にしないで、あははは」

「そうでしたの。驚きましたわ」

 ほっとしたようにリディは答え、モニクたちもまた歩き出す。例のごとくひそひそやりながらも呆れ顔で、もはや『気に入らない』を通り越して『変な奴』認定されてしまったかもしれない。が、それどころではなかった。

(もしかしてあいつ、それでずっと話しかけても来なかったのか?)

 帰り際、扉を閉める直前、ジルは言った。『考えておく』と――。

 エーヴがまたしゃがみこみたくなった、その瞬間、突然辺りが騒然とし始めた。

「たっ、大変大変! すごい報せなのよちょっと! みんな聞いて!」

 走ってきた一人の『淑女』が、中庭にいた数人に息せき切って飛びつく。

「あのフラヴィが、退団するんですって!」

「ええっ!? なんでいきなり? どういうこと!?」

「それが、結婚するっていうのよ! 前から求婚されてた幼馴染とですって!」

「じゃあ秋の定期公演はどうなるの!? ううん、その前に夏の『マ・ベル・コリーヌ』公演だってあるし……それまでにフラヴィに勝る『淑女』なんて選べないじゃない!」

「いいえ、秋でも夏でもないのよ! 団長が決めた新規公演、なんとひと月後ですって!」

 皆の驚愕と混乱から一人外れていたエーヴは、まさかその渦中に自分が巻き込まれ――いや、飛び込んでいくことになるとは、まだこの時は知る由もなかった。


 噂の朝からそう時を待たず、午後には劇団側からの公式発表が貼り出された。

 ここエルワール地方で来月開催される薔薇祭――春を祝う盛大な祝祭で、『華麗なる騎士劇団』が公演を行うことが決定されたというのだ。

 これは他でもないメリエール国王妃からのたっての要請であり、劇団にとっても初の栄誉であるらしい。今までにない芝居をという王妃の希望に応え、劇団外に脚本・演出を頼んだ。というのがエーヴたち『従騎士』にも知らされた内容だ。が、まさかその栄誉に貢献し、なおかつ参加する側の張本人が自分を訪ねてくるとは思わず、エーヴは驚きを隠せなかった。というより、面倒極まりないと言ったほうが本音に近かった。

 東の城館内にある面会室。教えられた小部屋の一つに入って扉を閉め、外に誰もいないことを確認すると、エーヴは訪問客に振り向く。

「で? 一体何の用だよ叔父さん」

 ぞんざいに過ぎる話し方にも所作にも、彼――エーヴの叔父、オノレ・ド・バレーヌ伯爵は驚く様子もない。

 上品な焦げ茶色の衣服に身を包み、肩までの黒髪は後ろで一つに束ね、未だ若々しい体格と美貌を保った彼は、いかにも宮廷貴族らしい優雅な微笑みを浮かべる。しかしその気品と風格は、瞬時にして崩れた。

「ア~ダ~ン~会いたかったよう~!」

 微笑を満面の笑顔に変え、がばっとかき抱いてきた叔父の腹部に、エーヴは即座に拳を繰り出した。まともに一発を食らい、よろめいたバレーヌ伯は、応接用の長椅子に座り込む。その向かい側に腰を下ろし、エーヴは構わず足を組んだ。ついでに言えば、修道服めいた制服姿のままだ。

「外でその名を呼ぶなっつってんだろ? ってか何の用だよまったく。いきなり訪ねてくんなよな」

 腕組みまでして冷たく言われても、バレーヌ伯はめげなかった。むしろ、嬉しそうに笑いながら答える。

「いや、手紙を書こうとしたんだよ? そしたらロザリーが書くなって止めるんだもの。そのほうが楽しいからって。驚かそうと思って差し入れも色々持ってきたのに、そんな怖い顔しないでおくれよ」

「差し入れえ? 何の」

 眉を寄せるエーヴの前で、彼はテーブルに重そうな鞄を二つ載せてみせる。

「そりゃもう、君が喜ぶ詰め合わせ色々だよ~ほら!」

 まるで手品でも見せるかのようにはりきって開けるバレーヌ伯。ぎゅうぎゅうに詰められたそれは、華やかなレースの下着や夜着、リボンやアクセサリー等の可愛らしい小物など、どれも悪趣味な女物ばかり。エーヴが拳を握り締めると、彼は慌てて笑った。

「ってこれはロザリーからで~、こっちがわたしからだよ!」

 もう一つの鞄には男物の着替え、そして酒の瓶各種。ここでやっとエーヴのしかめ面が和らいだ。

「ふふん、まあぎりぎり合格ってとこだな」

「そりゃもう、可愛い可愛い甥、兼、姪のためだからね。一人で二倍楽しませてくれるなんて全く君はお得だよ、わたしたちの可愛いアダン。あ、じゃなくってエーヴ」

「――けんか売ってんのか?」

 また怖い顔になったエーヴの手を握り、バレーヌ伯は首を横に振る。

「ううん、可愛がっているんだよ~だって会えない間わたしたちは寂しくて寂しくてもう、死んじゃうかと思ったんだから」

「あいかわらず全力で大げさだな」

「だって、君は子供のいなかったわたしたち夫婦の希望だもの! そりゃあ可愛くて可愛くて仕方がないってものだよ。一年前に君がわたしたちを訪ねてきてくれて、どれほど感激したことか! もっと早くに君の存在を――いいや、君のこの病気を知っていたなら、せめて少しは助けになれていたかもしれないのに……!」

 熱っぽく悔いてくれるバレーヌ伯に呆れ顔をしつつ、エーヴは態度を和らげた。この言葉が彼の、そして彼の妻ロザリーの紛れもない本心だと知っているからだ。

 一年前、長年の苦労がたたって病に倒れた父。田舎の領地を守りながら、父が少しずつ弱っていったのは四年前、妻――つまりエーヴの母が流行り熱であっけなく亡くなってしまってからだった。エーヴが『エーヴ』のふりを始めて二年、母の死を境にこの暮らしに終止符を打てるかと思った。病が治らなくても、せめて嘘は吐かなくて済むかと。

 そもそも、精神を病んでいた母はともかく、父は最初から気づいていたのだから。

『すまなかったな、今まで』

 そう言って泣いた父は、妻のために見てみぬふりをしていただけだった。その背中が随分と小さく、弱々しく感じられた時、気づいたのだ。今更この生活をやめてどうなるのか。本来跡取りとなるべく育ってきた自分は奇病を患い、父を支えることもできないではないか、と。

 結局それ以降も、事情を知る父と共に昼間は『エーヴ』として暮らし、夜だけ元に戻る生活を送るしかなかった。ひそかに募り続けた焦燥感は、父が倒れたのをきっかけに爆発した。存在だけ聞いていた父の異母弟を訪ねることを突然思い立ち、王都へ来た去年の春、『華麗なる騎士劇団』の公演を偶然目にした。それが転機だった。

 自分の居場所を見つけた気がして、その足でいきなり叔父の屋敷を訪ね、勢いのままに自身の奇病を暴露した。血のつながりだけを理由に、半ば脅迫まがいのやり方で協力を求めたエーヴを、バレーヌ伯と妻ロザリーは今のように笑顔で歓迎してくれたのだった。

「それでねエーヴ、今日君に面会に来たのは他でもない、いい案があるからなんだよ」

「案?」

 あの時と全く変わらぬ優しい笑みで、バレーヌ伯は言う。鞄の中から彼が取り出したのは、一冊の台本だった。

「ああ、今度の公演のだろ? 今朝は驚いたぜ」

 公演の脚本家としてこの叔父の名が書かれていたから、皆に遅れて衝撃を受けていたのだ。張り紙と同じ、新『マ・ベル・コリーヌ』という題名が台本にも記されている。

「かねてからわたしの小説を気に入ってくださっている王妃様がご希望され、劇団事務所からも正式に依頼されてね。全くの新作でもよかったんだけれど、あえて旧作に新風を吹かせるのも面白いかと大幅に書き換えてみたものだ」

「へえ、大幅改変ねえ」

 この劇団の定番演目のうち一つ、エール五世とコリーヌ妃の愛の物語。それを新しい視点で綴った恋物語が、そこには繰り広げられている。

「この役、君にどうかと思って書いたんだよ。何ならわたしのほうから口添えしてもいい」

「は? 口添えってまさか」

「もちろん、君を役に選ばせるという意味だよ? だって手紙に書いていたじゃないか。身長だけを理由に『紳士』役にもなれず落ち込んでいると。だからここは、このわたしが一肌脱いであげようと思って」

「……っふざけんな! 俺がそういうせこい手段使うと思ってんのかよ!?」

 思わず立ち上がり、驚くバレーヌ伯に――今や心から家族と思うからこそ、叫ぶ。

「やるなら自分で、正々堂々とやる! 俺じゃなきゃだめだって皆に認めさせて選ばれてやるから、余計なことすんな!」

 気づけばテーブルに足を載せ、啖呵を切っていた。

(って、あれ? なんでやることになってんだ)

 でもあの言い方では、そう答えるしかないではないか。若干釈然としないものの、引っ込みがつかずにまっすぐ見つめ返す。

 バレーヌ伯はふっと微笑んだ。さも、満足げに。

「君ならそう言うと思ってたよ。それでこそわたしたちの希望の姪だ。さて、そこでもう一つ提案なんだけどね……」

 手招きをし、声を落として囁かれた案に、エーヴは目を見開く。進むべき道が定められず、暗澹としていた心の中。希望の扉が、ほんの少し開いた気がした。


       ***


「フラヴィ! フラヴィ、どこだ!?」

 北の城館――公演の主要な役柄を務める騎士たちにだけ出入りを許された特別談話室。飛び込んできたジルに皆が注目する。

「誰かフラヴィを見なかったか!? 朝からずっと捜しているのに、まるで姿が見えないんだ」

「その顔を見ると、やっぱりあんたも退団の話聞いてなかったんだね。あたしらも皆寝耳に水で驚いてるんだけど」

「やはりそうか。いきなり退団だなんて、納得できるものか。しかも皆に……そう、この僕にまで一言の相談もなくそんな大事な決定を下してしまうなんて、驚くどころの話じゃないよ」

「そうなんだよね。でもフラヴィなら来てないよ。マダムには聞いた?」

 城内の情報通マダム・ソレイユの名を出す『紳士』仲間に、ジルは憤慨したまま首を振る。

「それが、マダムも朝からどこにもいないと来てる。一体どうなってるんだ。もしかして、その幼馴染とやらが強引に結婚話を進めたのか? それともフラヴィのご両親が……もしそうなら、この僕がただでは置かな――」

 興奮状態のジルの腕を取ったのは、黙っていたセレストだった。

「ジル、ちょっと来てくれないか」

 真面目な顔で外に連れ出されたものの、いざ向き直った後もセレストは黙っている。

「何なんだ、話があるなら早くしてくれ。おい、セレスト!」

「そう興奮するな。フラヴィの居場所なら、私が知っている」

「何だって? じゃあなぜ……!」

「君に話すべきか、迷っていたからだ」

 ジルの強い視線に、セレストはあきらめたように嘆息した。

「フラヴィの退団は、ずっと以前から彼女が決めていたことだ。決めかねて先延ばしにしてきた、とでもいうべきか……」

 衝撃は大きく、すぐには言葉が出ない。

「そんな……どうして」

 ようやく搾り出した呟きに、セレストが静かに答える。

「まずこれだけは言っておく。フラヴィの結婚は、誰の無理強いでもなく、彼女が自分の意思で決めたことだ。私が知っているのは、偶然見てしまったから。もしそうじゃなければ、フラヴィはおそらく誰にも心を打ち明けはしなかっただろう」

「心……? 見た、って何を」

 付いてくるよう、また促される。

 午後も遅く、のどかな春の日差しが降り注ぐ庭園を横切りながら、二人の表情は冴えなかった。

 何も知らないジルの胸には、焦燥と不安だけが募っていく。入団以来、ずっと親しくそばにいたフラヴィ。相手役として、今隣にいるセレストよりも長い時間を共に過ごしてきた。控えめで優しい彼女はジルを理解し、支えてくれた。いつも相手役を務めてきたからだけではない、確かな信頼と友愛が二人の間にあると信じていたのに。

 辿り着いたのは、東城館。劇団の事務室があり、他にも大事な備品の保管などに使われている建物の地下だった。

「ここは倉庫じゃないのか? こんなところに一体何が……」

 地下の部屋の一つに足を踏み入れたジルは、瞳を見開いた。薄暗い部屋の奥、ひっそり置かれていた箱の、思いもしなかった中身を見たからだ。

 そこに入れられていたのはいくつものキャンバスで、どれにもたった一人の肖像が描かれていた。銀の長い髪、薄紫の双眸を持つ、背の高い騎士の姿が。

「これは、僕……?」

「そう、君だ。そして、この全てを描いたのはフラヴィだ。彼女が君にも知られぬようひそかに描き溜め、ここに封印してきたものなんだ」

「封、印?」

 なぜ、と問おうとしてやめた。一枚一枚、本当に今ここで動き、微笑み、演じ、語りかけてくるような鮮やかな絵こそが、答えを教えてくれていたのだ。

「僕は……フラヴィが絵を描くなんてことも、何も……」

 違う、そんなことが言いたいんじゃない。言わなければいけないことは他にある。

 わかっていても口に出せないでいるジルを、痛ましげにセレストが見つめた。

「君が知らないのも、気づかなかったのも当然だ。フラヴィ自身が懸命に隠してきた想いなのだから」

 想い、と表現されてしまえば、もうごまかせなくなった。絵からあふれ、伝わる彼女の心が、痛いほど突き刺さる。そう、ずっと見つめ、想っていなければ、ここまでの絵は描けない。

「君が彼女を相手役として、いやそれ以上に友人として大切にしてきたことは彼女も知っている。だからこそ彼女は一人でこの絵も想いも封印したんだ。どうしても捨てられなかったらしいけれど、今彼女は前を向いている。幸せになるんだと、そう言っていたよ」

 セレストの言葉が一つ一つの絵に重なり、ジルから言葉を奪っていた。唇を噛み、俯いて両手を握り締める。

「フラヴィは休暇を申請して今朝早く実家に戻った。マダム・ソレイユが付き添ってね。君の顔を見たらくじけてしまいそうだからと、この絵のことも黙っていてほしいと頼まれていたんだが……」

「わかった。もうわかったから……頼む」

 一人にしてくれ、と告げると、セレストが無言で頷く。立ち去り際、そっと肩に手を置かれた。

「先に戻っている。あまり気に病むな」

 扉が閉められてもなお、ジルはその場に立ち尽くしていた。


 ジルが北城館に戻ったのは、それからしばらく後だった。すぐ自室に向かおうとしたところを、談話室の前で人だかりに止められる。

「どうした? 何かあったのか」

「ああジル! ちょっと大変大変! 今度の新しい公演の話、聞いた?」

 またか、とすぐに興味を失いかけたジルの腕を引くのは、『紳士』仲間たちだ。

「待ちなって! あんたの主役は決まってるけど、その相手役が問題なんだよ」

「相手役? 誰か『淑女』の中から選び直すんじゃないのか」

「いや『淑女』は『淑女』なんだけど、普通の役じゃないわけ! だから公開選考をやるっていうんだよ!」

「しかもその選考方法が面白いの。特別に、『騎馬槍試合』をやるんだって!」

 そこでやっと、無気力に聞いていたジルが顔を上げる。

『騎馬槍試合』とは、呼んで字のごとく騎馬上で槍を持ち、戦うこと。この『華麗なる騎士劇団』が元来騎士の集団だということを忘れないためにと、年に一度行われてきた伝統だ。無論、本物の槍ではなく模した物を使用するが、結構な迫力で毎年盛り上がる。劇団で秋の恒例行事としている試合だった。

「しかし、槍試合は普通『紳士』たちだけが参加するものだろう? なぜ『淑女』役の選考にそんなものを」

「あんた、全く台本に目通してないでしょ~主役が聞いて呆れるよ」

 ほら、と一人が差し出した台本を開き、読み進めてからようやく事態を理解した。新『マ・ベル・コリーヌ』という今回の物語では、コリーヌ妃がなんと男顔負けの馬術と剣術を誇り、エール五世を驚かせることになっていたのだ。

「その男勝りなコリーヌを演じるためには、『騎馬槍試合』で勝つくらいの技量がないとだめだってことらしいね。もっと面白いのは参加者は『淑女』役に限定してないってこと。今回に限り、あまり背が高すぎるとか不似合いだとかでないなら『紳士』たちも選考に加えられるらしいよ。しかも入団年数も問わず、新規団員も参加可能にしたらしい」

「何だって? じゃあ皆参加するのか?」

「さあ~どうしようかな。別にコリーヌ役がほしいわけじゃないけど、面白いから参加してもいいかもね」

「あっ、あたしもそう思ってた」

「いっそ皆で出てやるか!」

 笑って盛り上がる皆に唖然としていたジルは、ちょうど廊下の向こうから歩いてきたセレストに気づく。一瞬漂った気まずさを打ち消し、セレストが先に口を開いた。

「例の『騎馬槍試合』だが、開催は三日後に決まったそうだ。その試合で一番適任と見なされた者をコリーヌに決定し、稽古は翌日から始められる。試合に参加したい者は、今日中に事務所に申請しろとの事だ」

「へえ、すごい急じゃん。ああ、もしかしてその関係でマダム・ソレイユも朝から不在なわけ?」

「……そうだ」

 肯定してみせたセレストと目が合い、ジルは皆の噂話から離れることにした。

「ジル」

 放っておけなかったらしいセレストが追ってきて、また向かい合う。重い空気に耐え切れず、気づけば口走っていた。

「君も試合に出るのか? セレスト」

「私は……」

「もし出るなら全力で応援するよ。フラヴィがいない今、君は僕が唯一心許せる恋人モナミなのだから」

「ジル!」

 咎める目をあえて無視して、頬にキスを送る。押しのけられても抱きつき、きつく力を込めると、頬を叩かれた。

「……やはり君は、僕の心を受け止めてはくれないんだな」

 頬を押さえ、笑みを浮かべる。それがひどくゆがんだ表情であろうことも、頬より心が痛む原因さえも、全てわかってジルは背を向けた。

「なになに? けんか?」などと遠巻きに気にする仲間の言葉に、セレストが何でもないと笑っている。

「ジルの、いつもの気まぐれだ」

 答えるセレストの声を遠く聞きながら、ジルは今度こそその場を立ち去った。


      ***


 薄闇が辺りを包み始める時刻になって、ようやくエーヴは部屋に戻った。三日後に迫った騎馬槍試合の申し込みを済ませ、出場者のための説明会に出ていたのだ。

「はー……疲れた」

 当日に使用する馬を割り当てられ、ついでに試乗と世話までしてきた。領地では好んで乗馬もしていたから苦ではないが、時間がなくなり夕食抜きだったのがきつかった。近くの酒場まで久しぶりに出向いてみるべきか否か、迷っていた時のこと。部屋の扉が叩かれ、初めての訪問者にぎょっとする。いかに最短時間で追い払うかを考えながら誰か訊ねた。が、返答はない。

「ん? 確かに音がしたよな」

 つい扉を開けて確認してしまったのが運の尽き。待っていた人物が、いきなり部屋に入ってきたのである。

「やあやあエーヴくん、しばらくぶりだが、元気だったかい?」

「ジ――ジル先輩!? 一体どうしてこんなところに」

 確かに『エーヴ』として向かい合うのは久しぶりだ。が、問題はそこではない。

「野暮なことを聞くね。君に会いに来たに決まっているじゃないか、僕の可愛い子猫ちゃん。さあこの胸にとびこんでおいで!」

 満面の笑みで両腕を開き、自分から抱きしめようと近寄ってくる。いや、よろめき倒れこんでくるジル。

「うわっ……って酒くさっ! ちょっと先輩! 酔っ払ってるんですか!?」

 逆にエーヴに受け止められ、顔をしかめられても、ジルは楽しげに笑うだけ。

「酒? 飲んでないさそんなもの、ぜーんぜんね!」などと言いながら押し切られ、二人で奥へなだれこむ。白い頬は赤く染まり、既に瞼はとろんと落ちかけているくせに、ジルは喜び勇んで壁際の棚に駆け寄った。まさか人が来るとは思わず、差し入れの酒瓶を並べておいたことを後悔する。

「これはこれは……随分とおいしそうなワインじゃないか、それに僕の好物の林檎酒シードルまで! ねえ君、一緒に飲んで楽しもうよ」

「ちょっ、こらっ! いや、だめですってそれは!」

 大声を出しかけて後ろを見、仕方なく扉を閉める。幸い廊下は無人だったが、この状態のジルと酒を一緒に見つけられてしまったら最悪だ。しかも今の時間に――!

 夕闇の色に染まっていく窓の外をちらちら確認しつつ、エーヴは焦る。仮面舞踏会で一難去ったかと思ったら、また一難だ。

 なんとかジルからシードルの瓶を取り上げたはいいが、不服そうな顔で彼女は寝台に――当然、エーヴの、である――腰掛けた。そのまま唇を尖らせ、恨めしそうに見上げてくる。

「少しぐらいいいじゃないか、ケチだな君は」

「ケチとかそういう問題じゃなくって、先輩もう真っ赤だしべろべろだし、それ以上飲まないほうがいいですって」

「べろべろ……あははは、『麗しの君』ともあろうこの僕に対して、べろべろか……これはいい」

 変なツボを刺激したのか、ジルは寝台に仰向けに倒れこんで、笑いこける始末。エーヴは本格的に頭を抱えたくなった。

(いや、そんな暇もねーって! どうする!?)

「と、とにかく! 送りますから早く帰って……ってわああ、もう日が落ちるじゃねーか!」

 混乱状態で窓の外と寝台に転がったままのジルを見比べる。しかし、運はエーヴに味方した。笑い続けていたジルが、ふああ、とあくびをして瞼を閉じてしまったのだ。

「あれ、ジル先輩……? もう寝てる」

 ジルが規則正しい寝息を立て始めてやっと、エーヴは安堵と共に床に座り込む。変化は、すぐさま訪れた。

「ぐっ……うう……!」

 唇を噛んで、痛みに耐えること数分。エーヴは再び『アダン』の姿に戻った。いつものゆったりした夜着に着替えておいてよかった、と息を吐き、ゆっくり身を起こした。その瞬間だった。

「ん……エーヴ……?」

 眠っているとばかり思っていたジルが、ぱちりと瞼を持ち上げたのだ。あまりのことに、アダンはそのままの体勢で硬直した。ちょうどジルの真横で、彼女を覗き込んでいる。そんなアダンを目にしたジルはしかし、数回訝しげに瞬きをし、首を傾げただけだった。

「お前……アダン? エーヴ嬢は……今までここにいたのに」

「ああ、えっとその、俺がなんとかするからって言って、違う部屋で休ませたよ。こんな時のためにもう一部屋確保してあるんだ」

 ジルが酔っ払っていてくれてよかった。胸を撫で下ろしたい気分でアダンが取り繕うのを、ジルはぼんやり聞いている。

「ふうん。せっかく返そうとしたのに、なんだか彼女とはきちんと話をする暇がないな」

 ほら、とジルが外して取り出したのは『エーヴ』として貸してやったメダイのネックレス。まだほんのり温かいことを思うと、ずっと身に着けてくれていたらしい。

「仕方ない。お前が代わりに返しておいてくれ。もうこれで、僕たちが知り合いなことは隠さなくていいんだろう?」

「ああ、そうだな」

 頷いたアダンの姿をじっと見ていたジルが、突然指を指して笑った。

「しかし何だその格好は。女物のシュミーズなど着て」

「こっこれはだな、あれだ。せ、洗濯する時間がなかったんだよ」

 慌ててごまかし、壁際で男物のブラウスに着替える。やはり酔っているからかジルはぼうっと見ているだけで、内心の動揺には気づかれずに済んだようだった。

「おい、それでお前はここで休むんだな?」

「そのつもりだが」

 いつのまにか『お前』呼ばわりのジルは、寝台から起き上がるとシードルの瓶に手を伸ばした。

「じゃあこれ、一緒に飲むぞ。さっさと開けろ!」と偉そうに命令までされ、アダンは額を押さえる。

「まあ一応年上だし、百歩譲って『お前』でもいいけどさ……なんでそんなに飲んだんだよ? 無理すると明日きついぞ」

「うるさいうるさい! 僕が飲むと言ったら飲むんだ! 男のくせに、僕に口答えするのか!?」

「笑い上戸かと思ったら絡み酒かよ、まったく」

 意味不明な暴言に苦笑しつつ、言われた通り栓を抜いてやる。一つしかないグラスはジルに譲って少しだけ注ぎ、後は瓶から直接自分で飲んだ。

「あっ、そんな飲み方したら僕の分がないじゃないか! ケチな男だなまったく」

「どっちみちケチ呼ばわりなんだろ、お好きにどうぞ。ま、口移しでいいなら飲ませてやってもいいけど? なんてな」

 笑うアダンを睨みつけ、ジルはすぐにグラスを空けてしまう。

「おい、そんな一気に……」

「口移しならいいんだろう? 飲ませろ」

 ぐいと襟元を引かれた上、予期せぬ発言に絶句する羽目になった。

「ほら、早く」

 挑戦的に近づけられたジルの顔は、頬も目元も真っ赤で、完全に泥酔しきった表情だ。それでも彼女は美しかった。突き出された唇がやたらと赤く、魅惑的に過ぎて、アダンは無意識に目を逸らしてしまう。途端、ジルはまた笑い声を上げた。

「なんだ、意気地のない奴め。ああ傑作だ……先にけしかけておいて、間抜けもいいところだな。せっかくこの僕が、珍しくも誘いに応えてやったのに」

「応えた、だと?」

「そうだ。貴重な機会を無駄にしたな」

 さも可笑しそうに笑い、また寝台に転がる。そんなジルを前に、逆に冷静になった。

「お前、何があった?」

 うつ伏せになっていたジルの肩が、ぴくりと震える。体も縮めた彼女の横に、アダンは静かに腰を下ろした。

「もしかして、フラヴィとかいう相手役がやめることと関係があるのか? けんかでもしたとか」

 尋常ではないジルの様子から見当をつけたが、意外にも図星だったらしい。ジルの瞳が辛そうに潤んだ。

「けんかなんかしてないさ。いいや、むしろ仲は良かった。最高にね。問題は、その仲が良すぎたことにある……」

 言葉の続きを待っていたら、また起き上がったジルにシードルの瓶を奪われた。止める間もなく煽る顔は、苦しそうに歪んでいる。

「おい、いいかげんにしろって。飲みすぎだぞ」

 こんなに投げやりなジルは初めて見た。初対面から驚かされてばかりだったにしろ、アダンの前では常に警戒を怠らず、毛を逆立てた猫のようだったというのに。

 嘆息し、わざとその肩を抱いて囁いた。

「辛いなら俺に言えよ。守ってやるって約束しただろ? 子猫ちゃん」

 あえて挑発したのだが、そっと持ち上げられたジルの顔はあまりに頼りなく、不安げで――完全に予想外の『女』のものだった。そのまま頭を肩に預けられ、硬直したのもの束の間、ジルはすぐ離れてしまう。それでも肩に彼女の温もりと香りが残った。

「……セレストに殴られたよ」

 返事など求めていないのか、アダンの反応を見ずにジルは続ける。

「きっと、愛想も尽かされただろうな。こんな僕を唯一叱って、本気で心配してくれる貴重な友人モナミだったのに」

 恋人という意味もある呼び名だが、ジルが『友』と表現したことはわかった。

「フラヴィがやめるのも僕のせいみたいなものなのに、まだふざけて絡んで、どうしようもない奴だって思われたかもしれない。ああ、でも僕は……知らなかったんだ。僕の言葉や態度が、フラヴィを苦しめているなんて。彼女の想いは、友人として愛した僕とは違っていて……僕は、どうしたらいいんだろう」

(なんとなく、事情が飲み込めたな)

「それで、幼馴染と結婚か」

 噂話を聞きかじったと説明するが、今のジルにはどうでもよかったようだ。ただ辛そうに、何度目かのシードルを煽るだけ。

「とにかく、結婚するってんだからいいじゃねえか。後はその、ずっと想ってたっていう幼馴染とやらが大事にしてくれるさ。お前はこれを教訓にして、女に必要以上に絡むのはやめておけば」

「それができれば苦労はしない!」

 突然強くはねつけたかと思うと、ジルは乾いた笑い声を立てた。絞り出すような、苦しげなものだった。

「……できないんだ。自分では、どうしても止められない。僕の意思でやってるんじゃないんだから」

「何だよそれ、どういうことだ?」

 眉を寄せて問うと、ジルがようやくこちらを向く。投げやりなようで、その実ひどく真剣な瞳をしていた。

「僕は、十二の時に義兄に――そうなるはずだった相手に、乱暴されかけた。真夜中、姉が階下で眠っている隙に、あの外道は僕の部屋に忍び込んだのさ」

 目を剥くアダンから顔を背け、ジルはシードルの瓶を抱え込む。

「幸いというか、相手にとっては不幸なことに、未遂だったけれどね。僕は近衛将軍だった父から剣術を仕込まれていたから、必死で逃げて、廊下の甲冑から拝借した剣で身を守った。無法者の喉を斬ってやったんだ。殺しはしなかった。そうしたくても、手が震えていつもの力が出せなかったんだけれど……とにかく、あの恥知らずは牢獄にぶちこんでやった。でも、それからだ。男というもの全てが怖くなったのは」

 また飲もうとしたシードルの瓶を、そっと取り上げる。ジルは抵抗しなかった。

「男に触れられるだけで、時には近寄られるだけでも吐き気がした。憎くて恐ろしくて、震えが走る。父親さえ例外ではなかった。医者にもどうしようもない症状で、一種の病気のようなものだ」

 自身の体を守るように両腕で抱き、ジルは暗い声音で語り続ける。

「この病は、それだけで終わりはしなかった。男を憎む反動のように、同性と心を通わせ、軽い触れ合いまで求めてしまうようになったんだ。体や心が疲れていると、よりその症状も悪化する。大抵の相手は僕の『お遊び』だと思って付き合ってくれて……僕は、それに甘えすぎていたのかもしれない。自分の勝手でフラヴィを傷つけてしまったんだ」 

 それはあまりに重く辛い彼女の過去と事情だった。自身も腹立ちを覚えて聞きながらも、耳に残って消えないのは『病気』という単語だ。アダンの疑念が伝わったかのように、黙り込んでいたジルが口を開いた。

「前に言っただろう? 人間の原罪から世に広がった、全ての罪――それを形としてその身に受け継いだ者がいるって。僕は、自分もそうだと思っている。医者にもその人間にもどうしようもできない、まるで神そのひとが与えたような不可解な病……それを、『罪の林檎』と言うんだ。あの罪の果実を、未だその手に持つという意味で」

「罪の、林檎……」

「そうだ。といっても、元々は僕の乳母からの受け売りだけれどね。僕がこの病を発症してから、教えてくれた話だ。彼女もその『罪の林檎』を持つ人だから確かだよ。そして彼女は、この理不尽な病から解放される唯一の方法も教えてくれた。彼女自身の体験からね」

「何だって! そんな方法があるのか、本当に!?」

「ある。簡単には行かない方法だが……でもどうしてお前が必死になる?」

 不審そうに聞かれ、今度はアダンがシードルの残りを煽った。

「もしかして、エーヴ嬢の病も『罪の林檎』だと? そう思ってのことか?」

 ぎくりとするアダンの内心を知らぬジルは、そう結論付けたようだった。

「兄としてお前が心配するのも無理はない。だから、ついでに教えてやる」

 ジルはそう言うと、首元に手をやった。彼女が外してみせたのは、アダンのものとよく似たメダイのネックレスだったのだ。

「メリエールの、聖母の騎士……?」

 自分のものにはない、刻まれた文字を読み上げる。ジルは複雑な顔で頷いた。

「お前も聞いたことくらいあるだろう? 初代の女性騎士たちは、皆そう呼ばれた。聖母メリエールに仕える存在とされたからだ。でも、古くはもう一つの意味があった」

 これも乳母から聞いた話だと前置いて、ジルは続けた。

 聖母メリエールは、その慈愛をもって、人々の祈りを神に届けてくれる存在とされている。また、特に幼子や女性の病を深く悼まれ、癒しの祈りを代弁して下さるのだと古くから信じられてきた。彼女にはそのための御遣いたちがおり、女性の姿をしているというその存在を指して、『メリエールの聖母の騎士』と言うのだと。

「その言い伝えから、癒しを強く願う相手に聖母メリエールの姿が描かれた、しかも御遣いたちの名を刻んだメダイを贈るようになったそうだ。そうすれば祈りは届くと信じられてきた。医術の発展と共にすたれかけている習慣ではあるが、まだ地方によってこうして残っている。多くは、母から子への贈り物として」

「じゃあ、お前のメダイもそうなのか?」

「父が強く勧めてのことだけどね。母は元々僕を疎んでいたから。十二のその一件で、修道院へ入れるつもりだった母を説得し、同じ王都の親戚の家へやったのも父だ。このメダイは――母の精一杯の見得なのさ」

 それきり口をつぐんで、ジルは寝台に横たわる。既に酒が回り、限界が近いようだったが、まだしつこくワインを要求してくる。頑として拒むとあきらめたのか、子供のようにあくびをして、呟いた。

「とにかく、これで僕とエーヴ嬢が同志かもしれないとわかったわけだ。道理で、初めて会った時から親しみを感じると思った……僕は、元気で明るい彼女が好きなんだ」

 どきりとするも、自分のことではないと言い聞かせる。そうしなくては動揺が広がってしまうくらいに、鼓動が不安定だった。傷ついた、悲しげな顔に微笑が浮かんだことに、必要以上にほっとしてしまう。

「ああ、エーヴ嬢は騎馬槍試合に出るのかな?」

 頷くと、ジルはふんわりと嬉しげに笑う。

「そうか。では、僕は彼女を応援しよう」

「わかった。そう伝えておくから、今夜はもうここで寝ろ。俺はエーヴのところへ行くから」

「何だ、もう行ってしまうのか。つまらんな……もっと僕の相手をしろ。それが無理なら、せめて僕が寝るまでそばにいてくれ」

「な、何言ってんだお前は。大体、男が怖いのはどこのどいつだよ」

「不思議だな。酔ってるからか、相手がお前だからか、今は怖くない。それにお前は僕に手を出さないのだろう? 守ってくれるとも言ったじゃないか。ああ、それから……僕に求愛の花まで贈った」

 ふと笑いをおさめて、こちらを見上げるジル。綺麗な薄紫の瞳が細まり、妖しい美しさを増した。高まる鼓動を必死で抑え、アダンは大きな咳払いをした。抱きしめてしまいたくなる自分を制するためだ。

 いくら抑えようとしても込み上げてくる、そんな想いがどういう意味を持つのか。ジルを見つめながら、認めざるを得なくなる。

 守りたいと思う、その理由こそが自分の本心であることも。

 絡み合った視線を最初に外したのは、アダンだった。迷った末、正直に口を開く。

「言おうと思ってたんだが、あれは誤解だ」

「何?」

「あの鈴蘭の花は求愛のために贈ったんじゃない。人づてに頼んだら、花屋が勝手にリボンを赤にしたんだ。俺は、そんな意味があることなんて知らなかった」

「じゃあ、前に『本気だ』と言っていたのは……」

「あれはただ、純粋な舞台への賞賛の意味で、だな」

 ふん、と鼻を鳴らしたジルは、自分で寝台の掛け布を引き上げ、その中に潜り込む。

「ややこしいことをするな、阿呆」と小さく吐き捨てられ、アダンは再び咳払いをする。誤解を解いたのは、失望させるためではなかったからだ。

「でも、俺があんたに誓ったことは事実だ。守ってやるって言ったことも、ひどいことはしないと約束したことも。それから……俺は気持ちを花に代弁してもらうなんて回りくどいことはしないし、したくない。だから、今言っておく」

 まだ寝息は聞こえない。聞いていると信じて、アダンは息を吸い込んだ。

「俺は、あんたのことが好きだ。舞台人としても、それとたぶん……女としても」

 布団の中のジルの体が、わずかに強張った気がした。けれど、躊躇する余裕は持ち合わせていなかった。それぐらい、真剣だった。

「あんたがややこしい病を抱えていようがいまいが、そんなことは重要じゃない。ただ、俺はあんたに、もうそんな風に一人で苦しんでほしくない。辛い過去はわかったが、全ての男がそんな糞じゃないってことを、俺が見せてやる」

 小さく、嗚咽のような声がする。おそらくは必死で漏らさないようにしているのだろう。だから、気づかないふりをして続けた。

「エーヴはきっと、騎馬槍試合で勝つ。そしたらもう一度ちゃんと求愛する。だから、今度こそ返事を考えておいてくれ」

 嗚咽が止まるのを待って、立ち上がろうとし、阻むものがあって振り返る。アダンの服の裾を、布から腕だけ出したジルが掴んでいた。

「べ、別に変な意味はないぞ。ただ、本当に、眠るまで床の上でもいいからいてくれ。悪夢を見そうで嫌なんだ。酒を飲んだらいつもそうだから」

「だから飲むなって言っただろ? まったく、人使いの荒いお姫様だぜ」

 指示通り寝台の下に腰を下ろすと、いつもの文句が返ってきた。

「僕は姫じゃない!」

「はいはい、酔っ払いの騎士様」

「酔っ払いは余計だ!」

 しばらくそんなやりとりをした後、ジルは寝息を立て始めた。アダンの服を掴んだまま眠る白い頬に、涙の跡が見える。

「……まいったな」

 可愛らしく引き止め、こんなに無防備に眠っておいて、何もするなと要求するのだから。

 ――『罪の林檎』から開放される、唯一の方法がある。

 そんなジルの言葉が気にならないはずはない。けれど、今のアダンにとって大切なのは、このとんでもなく気が強いくせに弱い、美しすぎる騎士が悪夢を見ないように守ってやることだった。

「メリエールの聖母の騎士、か。まさかこんな近くに『同志』がいたとはな」

 主は与え、主は奪う。裏に刻まれた聖句を見つめ、アダンは瞳を厳しくした。

 自分からもジルからも、奪われたものはどれほどだろう。そうしておいて、本当に与えてくれる日が来るというのか。

 そんなことは誰にもわからない。けれど、絶望はしたくない。させたくない、とも眠るジルを見ながら思った。涙の跡を、そっと指で拭う。同時に自分の言葉と誓いを思い出して、気恥ずかしくなった。

 でも、自覚したからには覚悟は決める。約束したからには、守り通す。自身の想いと信念に正直でいること。それだけが、この理不尽で苦悩に満ちた人生で唯一自分にできる戦い方なのだから。

「『罪の林檎』なんてくそ食らえだ。二人分まとめて、俺がぶっつぶしてやるぜ」

 ふっと苦笑し、額に落ちた銀の髪を梳いてやる。

「ボンニュイ(お休み)」

 耳元に囁き、額にキスを落とすと、ジルはかすかに身じろぎした。


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