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四章

 四、二つの嘘と仮面舞踏会の夜


 それから一週間はあっという間に過ぎていった。

 各種の講義や稽古は大人しく――というよりもほとんど気が抜けたような状態で――受けていたが、自分がどうするべきなのか決めかねていたというのが正直なところだった。

 そんな状態のエーヴがやってきた場所は王都ヴィヨンの国立劇場。芸術好きのメリエール国民のために、普段から歌劇や通常の劇団が演じる演劇、その他様々な公演がほぼ毎日、昼夜を問わず開催されている。今日から三日間、ここで『華麗なる騎士劇団』も春の定期公演を行うのだ。が、この公演には夜の部はない。それは演者全員が聖教会に仕える騎士であることだけでなく、女性のみの劇団という特殊な事情による。(民の風紀を乱さぬための配慮、か。俺にはどうでもいいことだけどな)

 この自由で平和な時代にまだ窮屈なことを、と憤る人々もいるかもしれない。女性同士で恋人役を演じあう舞台で何を今更、と。けれどエーヴにとっては朗報であり、入団を望んだ最終的な理由にもなった。

 というわけで開演は午前十一時。その一時間前、最終舞台稽古が終わった頃合に、エーヴたち新人は楽屋前に集合させられた。

「あくまでも今日は先輩方の舞台見学、そして小道具の準備や片付けなど、お手伝いのためにやってきたのですからね。皆さん、気を引き締めて一日過ごすように」

 舞台の背景などの大道具は劇場側が引き受けてくれるが、裏方の細かい作業はエーヴたち『従騎士』とまだ役を得ていない新米騎士たちの仕事らしい。

 教官も演出家たちと共に出演者たちの指導や支援に回るようで、エーヴら五人を置き去りに行ってしまった。

 残された狭い通路でエーヴは、ふとリディと目を合わせる。モニクたちは三人でさっさと移動してしまったので、自然と二人が残ったのだ。

「……で、ではわたくし、先輩方に何をすればいいか聞いてまいりますので……」

 困ったように俯いて、その場から立ち去ろうとするリディを、エーヴは呼び止めた。

「――リディ、ごめん!」

 やっぱりぎくしゃくしているのは性に合わない。本当はもっと前に謝りたかったのだが、避けられて機会を逸していたのだ。

「もう劇団のことも、芝居の内容も、馬鹿にしたりしないから……この前のこと、許してほしいんだ」

 驚くリディに苦笑して、言葉を継ぐ。

「芝居を楽しみにする人の気持ちとか、演じてるほうの真剣さとか、色々考えたんだ。皆の言う通り、あたしにはどっちも馬鹿にする権利なんてないなって気づいた。本当に無神経なこと言って、悪かったなって」

 もう一度謝り、握手を求めると、リディはようやく笑顔になった。そっとエーヴの手を握り返してくれる。

「わたくしのほうこそ、ごめんなさい。大好きなこの劇団を笑われたような気がして……子供みたいに怒ってしまって。でも、わたくしもずっと謝りたかったのです。もう一度仲良くしてくださいますか?」

「もちろんだよ。ありがとう、リディ!」

 変わらぬ愛らしい微笑み、いや、以前より更に親しみのこもった笑顔を向けられ、ほっとする。

(やっぱ可愛いよなあ)

 またしても見惚れかけ、握ったままだった手を慌てて離す。くすり、と笑ったリディがなぜか少し小悪魔的に見えて、余計に動揺してしまった。そんな自分を責めるかのように浮かんできたのは、気高く強いのに繊細な、美しい薄紫の瞳。そしてあの一瞬の、はにかんだ微笑み。思い出せば動悸は悪化し、顔が熱くなった。この一週間、こんな状態は続いている。

 柄にもない約束をしたからだろうか。それとも、ジルの素顔を見た気がしたから?

 どちらにしろ、あの言葉は――彼女を守ると言った約束は、自分の本心だった。もう、あんな風に怯える姿を見たくなかった。また笑ってほしいと、穏やかな彼女の素顔が見たいと思った気持ちが一体どういう感情なのか、考えてしまえば『エーヴ』でいることができない。

(今は考えるな『エーヴ』! 集中集中!)

 なんとか気持ちを切り替えている間にも、リディは仕事を見つけていた。普段は大人しい彼女が意外にもよく動き、『淑女』たちの化粧直しを手伝っている。

 負けてはいられないと賑やかな楽屋をうろうろしていたら、どんと誰かの背中にぶつかった。

「すみま……え、セ、セレスト副騎士長!?」

 驚いたのは、普段とまるで違う印象のせいだ。中世の甲冑を模した舞台衣装を着て、化粧も施したセレストは、きらめく存在感を放っていた。

「わーっすごい副騎士長! かっこいいですね!」

「素直な賞賛は嬉しいが……こんなところで何をやってる? まだ仕事を見つけていないのか?」

 苦笑したセレストは最後の台詞合わせ中だったらしく、騎士役の数人と一緒だった。

 まだ名前も顔も覚えていないエーヴとは違い、彼女らのほうはよく知った風に笑いかけてくる。

「あ、この子例の」

「あのジルをぶん殴った『暴力新人』ちゃんだ~こんなとこで油売ってていいのかな?」

「『麗愛会れいあいかい』に見つかったらまた騒ぎになるよ~?」

 さすがに皆が『紳士』なだけあって長身揃い。どことなく中性的な雰囲気を持つ先輩たちに親しげに囲まれ、エーヴは恐縮した。

「すっ、すみませんもうあんなことは……ってあの、『麗愛会』って何ですか?」

「知らないの? 正式には『麗しの君を愛する会』。つまりジルの熱烈な信奉者ファンたちだよ。観客が作った会だけど、我が劇団内にもひそかな会員は多いんだから」

「そうそう、『淑女』たちはほとんど会員じゃないかな」

「君、結構反感買ってたよ~気をつけてね」

(気をつけろって言われても……)

「度を越して構っていたのはジルのほうなんだ。責められるべきはあいつだろう」

 セレストがさりげなく輪の中からエーヴを救い出してくれる。

「おっ、真面目な優等生がかばうなんて珍しい。意外に本気なのはあんたのほうだったりして」

「なっ、何を言ってる! ほらもうすぐ開幕だぞ!」

「はいはい、誰かジルを呼んできて~」

「えー? あたしはやだよ、公演前は別人みたいにぴりぴりしてんだから。セレスト、あんたが行きなよ」

「本当、ジルは舞台に立ってる時――ううん、役になりきってる時だけは百八十度人が変わっちゃうよね。もしかしたらあっちが本来のジルだったり……なーんて、あのジルに限ってないか、そんなこと」

 あはは、と笑いあう『紳士』仲間たちをよそに、エーヴはその言葉を考え直していた。

 人が変わる――本来の姿、か。

(そういえばあいつ、あの夜妙なこと言ってたな……『罪の林檎』、いや、形ある罪がどう、とか)

 一週間、妙な動悸に悩まされていただけではない。ジルの言ったことは胸に残り、毎晩、聖堂に行ってみようかと思ってはやめたりしていた。公演前に邪魔をしないように、という建前の他にも理由はあった。次の日からもいつもと変わりなく見えたジルだが、エーヴに構わなくなったから。

 あの夜、自分が彼女を傷つけたのではないか。彼女の傷を呼び覚ましたのではないか。そう思うと何か行動を起こすのもためらわれて、そのまま今日を迎えたのだ。

「でもさ、舞台前に異常なほど緊張してる時もあるよね。大丈夫かなって思うくらい」

「やはり私が迎えに……」

 行きかけたセレストの腕を引き、気づけば止めていた。

「あのっ、あたし行ってきます!」

 セレストや他の皆より、実は一番自分が驚いていたのだが、それ以上考えるのをやめた。気になるものは仕方がない。うじうじ考えるより行動。結局自分はいつも、そうやって進んできたのだから。

「えっと、先輩方は準備もあるでしょうし、ここは『従騎士』であるあたしにお任せくださいっ!」

 勢いよくお辞儀をし、駆け出しかけて、はたと立ち止まる。

「すみません、で、ジル――ジルベルト先輩はどこに……?」

 口を開けて固まっていたセレストが、たまらない、というように笑い出した。彼女にしては珍しい笑いでしばしお腹を抱えた後、セレストはジルの居場所を教えてくれたのだった。


 満員の観客が、今か今かと開演を待っている。国立劇場の最上階、バルコニー席の奥――裏方専用の通路にジルはいた。カーテンで区切られ、立ち入り禁止の札が立てられているとはいえ、すぐ向こうに客たちのざわめきと熱気が感じられる場所だ。まさか彼女たちの誰も、すぐそばに公演の主役が控えているとは夢にも思っていないだろう。

 セレストに聞いていなければ、エーヴでさえも見過ごしそうな暗い廊下。暗幕兼用の分厚いカーテンを少し開け、ジルは客席を見つめていた。セレスト同様、舞台用の衣装と化粧でいつもに増して華やかだ。なのに身にまとう雰囲気が硬く、表情はあまりにも真剣で、一種気圧されるものがある。蒼白に近い顔色と強い瞳は、声をかけるのもためらうほどだった。それでも役目のためと勇気を出し、エーヴはそっと近づいた。

「ジルベルト先輩」

 弾かれたように振り向いたジルが、意外そうに見つめてくる。

「君……どうして」

「あの、そう、セレスト副騎士長に先輩を呼んでくるよう言われまして」

 あれ以来、エーヴとしても話をしていない。あとをどう続ければいいのかわからず困っていると、ジルはふっと笑みを浮かべた。

「わかった。戻るよ」

 微笑は事務的だったものの、それだけでも先ほどまでの硬質な空気は和らいだ。少しほっとして、歩き出す背中を追いかける。順調に進んでいたジルが、舞台裏に入る扉の前で突然立ち止まった。

「先輩?」

 いつもと違う、ひどく頼りない表情で、ジルは振り向いた。

「どうしよう」

「はい?」

「台詞を忘れたらどうしよう……!」

「え……」

「突然頭が真っ白になって、何も出てこなくなって、舞台の上で素の自分に戻ってしまったら? 怖いんだ、僕は……!」

「先――」

「怖い……!!」

 まるで混乱した子供のように、ジルがしがみついてくる。一瞬の躊躇の後、エーヴはしっかりと抱き返した。震えるジルを前に、そうせずにはいられなかった。

「大丈夫……大丈夫だ」

 無意識の言葉に、ジルの肩がぴくりと反応する。慌ててもう一度言い直した。

「大丈夫です。ジル先輩はあれだけ練習したじゃないですか。きっとどんな俳優より……いえ、本物の男より完璧に『リオネル』を演じられます。だって、それだけの情熱があなたにはあるんですから」

 まだ震えながらも、ジルはゆっくりと顔を上げた。すぐ近くで見つめ合う形になったが、意識している状況ではなかった。

『アダン』の感情に流されないよう、『エーヴ』として微笑む。

「最初はあなたのこと、とんでもない人だって勘違いしてました。でも、人一倍熱心にお稽古されてる姿を見て、今のあなたが得ている名声には、ちゃんとそれだけの理由と努力があるんだってわかったんです」

「勘違い、か……無理もないな」

 やっとジルが苦笑した。落ち着きを取り戻したのを見て取って、わざと冗談めかして言い返す。

「そりゃそうですよ。だっていきなり口説くわ、押し倒すわ、はっきり言って滅茶苦茶です」

「ごめん。あの時はひどく疲れていて、余計に症状がきつかったんだ」

「え?」

「あ、いや、何でも……」

 言葉をにごしたジルは、それで思い出したのか、それともずっと考えていたのか、覚悟したかのように口を開いた。

「あの晩、何か聞いたか……?」

(来たか。やっぱり気にはしてたんだな)

「あの晩? 何のことです?」

 内心とは裏腹に首を傾げ、にっこり笑ってみせる。そんな芸当ができたのは、これが自分と彼女、双方のために最善だと決めていたからだった。

 ジルはほっと息を吐き、「何でもない」と首を振った。そのまま扉を開けようとしたジルを、エーヴは呼び止めた。横顔がまだ心細げで、思わずそうしていたのだ。

「これ、先輩にお貸しします」

 訝しげに見つめ返すジルに手渡したのは、今まで身につけていた例のネックレス。メダイのデザインと刻まれた家名を見て、ジルの表情は確かに変わった。今はエーヴの姿だから、これ以上他にできることはないけれど。

「母の形見で、兄とお揃いなんです。見てると負けないぞって気持ちになれる、あたしのお守りみたいなもので。だから……きっと、ジル先輩のことも守ってくれるはずです!」

「守る、か」

 小さく呟いて、ジルは片手をエーヴの頬に伸ばした。そっと触れられたのは、右にだけできるえくぼの部分。

 まさか気づきはしないだろうが、と一抹の不安が浮かぶ。幸いジルはすぐ手を離し、扉を開けた。安堵しかけたエーヴに、そのままの体勢でジルは聞いた。

「その、お兄さんの名前は?」と。

「アダンです。アダン・スペリエ」

 告げた名を口内で復唱し、ジルがゆっくり振り返る。どきり、と胸が鳴った。

「ありがとう」

 渡したネックレスを首に掛け、こちらを見たジルは、やわらかく微笑んでいた。なぜかまぶしくて直視できず、お辞儀して見送る。

 自分が『アダン』の姿なら――そう悔やみかけ、何を悔やんでいるんだと余計に動揺する。エーヴはまたも頭を振った。

 そうして戻る途中、行き来する団員たちや劇場の裏方係に混じって、出入りの業者たちの姿が見えた。少し考えてから一人を呼び止めると、見習いらしい少年はエーヴの頼みを快諾してくれた。

 なんとか時間前に舞台袖へ着き、皆の後ろに並ぶ。と同時に、開演の鐘が鳴った。

 ジルは既に『舞台人』の顔をして、幕が開くのを待っている。

「……ちゃんと、見てるからな」

 低く呟いたエーヴの言葉は、客の歓声と拍手にかき消され、誰にも聞こえはしなかった。


『罪の林檎ラ・ポム・ノワール』という演目名にもある通り、騎士リオネルと敵国の王女マリー=アンジュの物語には、いつも『林檎』が効果的に登場する。

 初めての出会いでは林檎の木の下で口づけをし、彼女が敵国の王女だと知り苦悩するリオネルは林檎の花を握り締める。そして永遠の別れが近づいた戦いの時、国も身分も捨てる決意をしたマリー=アンジュは、目印の赤く熟れた林檎の実を手に彼の元へ向かう。聖典に出てくる最初の男女さながら、例え罪を犯すことになろうとも運命を共にすべく。

 だがその運命は、すれ違いと誤解から悲劇的な末路を辿る。マリー=アンジュが国の許婚と結婚するものと思い込んだリオネルは死線に身を投じ、彼女が彼の元へ辿り着いた時には、息絶える直前だったのだ。しかし愛しいマリー=アンジュの腕の中、最期の時を迎えたリオネルは幸せそうに微笑み、彼女への永遠の愛を誓う。赤い林檎に触れながら、彼は言うのだ。

『あなたを愛することが罪だというなら、私は喜んでその罪を背負おう。あなたから受け取ったこの実――罪の林檎が永遠の苦しみだとしても、私は耐えてみせよう』

 舞台上、マリー=アンジュ役の『淑女』の腕の中で、ジルは微笑んだ。真摯で切ないその微笑に、マリー=アンジュは涙を流す。

『わたくしも、あなたへの愛の罪ならば喜んで共に負いましょう。さあ、非情なる神よ……この命、罪の代償として奪うがいい!』

 リオネルの手がだらりと力を失うと同時に、彼女は叫ぶ。その背に戦闘の矢が突き刺さり、重なるように倒れて。息絶えた二人はしかし、至福の時を迎えたかのように優しく微笑んでいた。

 二人の死を知った両国の君主は嘆き、戦いは終わりを告げる。皮肉なことに、恋人たちの愛の悲劇こそが、二つの国に和平をもたらした。二人が命を捧げ、選び取った『林檎』は、永遠の愛を象徴する印となった――そんな悲しくも美しい物語の結末が語られ、赤い林檎の実だけを舞台上に残し、幕は静かに閉じられた。

 既にあちこちから聞こえていたすすり泣きの声は、満場一致の拍手と大歓声となって劇場内にこだまする。

 隣のリディと拍手をしながら、エーヴが見つめていたのはジルの姿。

 舞台袖に戻ってくる彼女の顔は、もう『リオネル』ではなかった。

 水を手渡したり汗を拭いたりと、甲斐甲斐しく世話をする手伝いの者全員に、いつもの笑顔で応えている。

 遠目で視線がかち合った一瞬、ジルは少し照れくさそうに、それでも嬉しそうに口元を緩めた。すぐに世話係たちに囲まれて見えなくなったが、また鼓動は速まった。

(別に深い意味はないんだ。今俺は、『エーヴ』なんだから)

 言い聞かせつつその場に留まっていたのは、例の頼みごとの結果を見届けるためだ。

 エーヴの期待通り、ちょうどその時少年が忙しそうに通路を歩いてきた。出入りの花屋だと名乗り、彼が探すのはジルの楽屋だ。それもそのはず、先ほどエーヴ自身が注文し、届けてくれるよう依頼した花だった。

「えー、ジルベルト様! ジルベルト・ド・ブラン様にお花のお届けでーす!」

 普段ならば世話係が受け取るのだろうが、いい具合にジル本人がまだそばにいた。怪訝そうに受け取っているのが見える。既に楽屋に入りきらないほど届いている豪華な花束と異なり、ただ一輪の鈴蘭ミュゲ。地元でもよく、『幸福の再来』という花言葉で女性にも人気だった花だ。それに、凛とした清らかな美の奥に毒を秘めているところが、ジルによく似合う気がした。

 大げさなのは苦手だからと一輪だけ注文したら、花屋は赤いリボンをかけてくれていた。そのリボンに差し込まれているのは、ジルにもらったこの公演の券――入場したことを示す半券に、エーヴが一言書き付けておいたものだった。

(気づいた、よな? さすがに……)

 遠目で見つめていることなど知らず、ジルは楽屋へ戻っていく。長い銀髪の隙間から見えた耳は、かすかに赤く染まっていた。

「エーヴ? どうかしました?」

 いきなりリディに話しかけられ、知らぬ間に緩んでいた頬を両手で隠した。

「う、ううん! 何でも!」

「そうですか? すごく嬉しそうだったから、何かいいことでもあったのかと……誰を見てたんです? そういえば開演前にジル様を呼びに行ったって聞きましたけど、まだ何か、御用でも言いつけられたりとか……?」

 なぜだか不安げに訊ねられ、エーヴはぶんぶん首を横に振る。

「何も! 全然ないよ、そんなこと!」

「なら、別にいいんですけど……」

 呟くと、リディはあからさまにほっとした笑顔になる。まるで浮気を責められでもしたかのような、後ろめたい気持ちになるのはどうしてだろう。

(いやいやいや! ってか、それ以前にどっちとも何もないし!)

 正真正銘『女』の体で、それなのに落ち着かない心臓。やはり慣れないことをするんじゃなかった、と気恥ずかしくなる。

 嬉しそうに公演の感想を語るリディに相槌を打ちながら、疲れ切ったエーヴは思考を放棄したのだった。


 定期公演最終日、先の二日にもれず大喝采のうちに幕は下りた。

 ジルに関わったのは初日のあの短い間だけで、後は本当の雑用だけ手伝って終わった。公演そのものは文字通り観ていただけだったが、『リオネル』を演じきったジルを見て安堵したのは事実だった。

 それなのに今、エーヴは沈んでいる。理由は明白、その後ジルから何の音沙汰もないからだ。もちろん主役のジルは多忙で、公演前も後も常に人に囲まれている。二人になる機会自体ないのだから、音沙汰も何もあったものではない。それでも、どこか寂しく感じるのが本音だった。

(っていうか俺、もしかしてすげー勘違い野郎なんじゃ……)

 その可能性に気づいた途端、一気に羞恥と後悔が押し寄せる。

「くそ、あんなことまで書かなきゃよかった……!」

 一番はあの半券だ。似合わないことをするんじゃなかった、と誰もいない廊下の片隅で頭をがしがし掻き乱してから、ふと自分の行動の無意味さに空しくなった。

 結局沈んだまま皆のところに戻ったエーヴに、更なる不運――いや、試練が襲い掛かった。公演の成功を祝し、今夜団員全員参加の祝宴があるというのだ。

「当然行きますよね? エーヴ」

 笑顔のリディに聞かれ、頬が引きつる。

「あ、はははは……そうだね。行かないとだよね……」

「毎回色々趣向を凝らして盛大に開かれるそうですけれど、今夜は仮面舞踏会風にするんですって!」

「へ、へえ~そうなんだ……」

 盛大も何も正直どうでもいい。というよりどうやって欠席すればいいのか。エーヴが必死で言い訳を考えていることなど知らず、リディはうっとりと続ける。

「衣装も仮面も劇団側が用意して、選びたい放題! 今夜は無礼講で、どんな相手とも自由に話したり、踊っていいのですって。仮面越しの秘密の語らい……なんて素敵なんでしょう。夕食も豪華らしいですから、楽しみですわね」

 何が無礼講だ、それなら全員参加にするな。などなど脳内で毒づいていたエーヴは、そこでやっと顔を上げた。

「え、じゃあさ、宴って夕食前から始まるの?」

「え? ええ……皆さん夕刻前から集まると聞いていますけれど」

「よし! じゃあはりきって準備しよう! あたし、絶対一番に衣装を選ぶから!」

 そうと決まれば、と大急ぎで帰り支度をするエーヴ。突然の豹変にきょとんとしていたリディが、慌てて付いて来る。

 正直ぐちゃぐちゃな頭の中、自分の未来も取るべき行動もわからない。だからこそ、目前の障壁や危機を、一つ一つ乗り越えていくしかないじゃないか。

(まずはこの仮面舞踏会とやらを無事に乗り切る。今はそれだけだ)

 壁を越えればまたきっと、やるべきことがわかるような気がする。中途半端な自分から、少しはましになれるように思うのだ。

 頷き、自分を奮い立たせたエーヴは、まさにその仮面舞踏会に新たな危機が潜んでいることなど、露ほども知らなかった。


    ***


 公演後、他の主演人員たちと共にジルも『マ・ベル・コリーヌ』城内、聖堂に集合していた。『従騎士』と『騎士』たちが勢揃いし、共に頭を垂れて聞くのは司祭の説教。聖典を読み上げ、楽団の演奏に合わせて賛美歌を歌い、まずは公演の無事の終了を神に感謝する、というのが慣わしだ。

 次に前へ進み出るのは例によって影の薄い騎士団長。だが発言を始めた途端、彼女の印象はがらりと変わり、朗々と響き渡る発声で全員を労う。

 毎度ながらろくに休息も取れずに参加し、疲れているジルも、彼女の言葉には聞き入ってしまう。

 曰く、メリエール王国において古くから尊ばれてきた『騎士道精神シュヴァルリィ』とは。

「主君への忠誠は当然のこと、戦いに臨む勇気と信念を備えた、国民から尊敬される高潔な『騎士シュヴァリエ』であること。また、これらの心得を常に忘れず、民を守り、時には導きさえすることです。親愛なる騎士諸君! 演じることを主とした立場に変わってはいても、君たちにもこの精神を忘れずにいてほしいと私は思っているのです」

 真摯な眼差しで語ると、団長は聖堂内を見渡して続けた。

「今までお話した騎士の美徳は、我が『華麗なる騎士劇団』においてはまた別の意味を持っています。騎士とは全ての民を守る者。ならば我々は特に女性にこよなく愛される劇団の団員として、メリエールの全ての女性たちを守り、愛していく騎士となろうではありませんか! 我々ができ得る最高の舞台を見せ、演じ、女性を幸せにすること。それが我々にとっての『騎士道精神』なのですから……!」

 団長の演説に、聖堂に集う全員から拍手が巻き起こる。

 黒地に銀でメリエール十字の刺繍された騎士服は皆同じだが、祭壇から見た右側には白いマントの『白騎士ブランシュ』が、左には緋色のマントの『紅騎士ルージュ』が並んでいる。ちなみにこれは正式名称で、普段は男性役を演じる白騎士を『紳士ムッシュ』、女性役の紅騎士を『淑女マドモワゼル』と呼ぶことのほうが多い。

 ジル含むこの『騎士』たちの後方には『従騎士』が、灰色の修道服姿で控えていた。

(女性を守り、幸せにする、か)

 聞きなれた演説なのに、今日は特別な意味を持って響いた。つい後ろを向きかけ、ジルは寸でのところでやめた。未だ鮮やかな記憶が、また蘇ったのだ。

 探そうとした人物――エーヴ自身には、何の問題もない。むしろ、自分のお守りだとネックレスまで貸してくれた、優しい子だと思った。そんな彼女にまで醜態を晒してしまった自分が恥ずかしい。それもあって返しそびれているのだが、振り向けないのは別の相手と、彼の贈り物が思い浮かぶせいだ。

(あいつ……一体どういうつもりなんだ)

 自分が渡した特等席の半券。それはあの男が約束通り公演を観に来たということで、そこまではいい。『最高の騎士、ジルベルト・ド・ブランに捧ぐ』という走り書きも悪くはなかった。少し癖のある強い筆跡は彼らしく思えたし、簡潔で良い褒め言葉だとさえ思った。が、贈られたのが一輪だけの鈴蘭で、かけられたリボンが赤だということが、ジルを悩ませているのだった。

 ジルのため息に気づき、隣のセレストが怪訝そうな顔をする。

「おいジル、皆大広間に移動するぞ。どうかしたのか?」

「あ、ああ……何でもないよ。行こう」

 終演後の儀式は終わり、これから皆が待ちに待った祝宴だ。いつものように城内で一番の広さを持つ西の城館、大広間サロンで舞踏会が開かれるのだ。

(そういえばあの子、夜の祝宴で大丈夫なのだろうか)

 誰も知らないエーヴの病を思い出し、心配すると同時につい口元が緩む。笑っては悪いと顔を引き締めるジルを見て、セレストがいよいよ不審に思ったようだった。

「お前、本当に何もないのか? なんというか、いつもと違って逆に変だぞ」

「おやセレスト、僕の心配をしてくれるなんて、君のほうが変だな。でも嬉しいよ。ありがとう、僕の恋人モナミ

 覗きこんできたセレストの頬に口づけようとし、また息巻いた彼女に逃げられた。苦笑し、皆と一緒に西城館へ移動する。

 いくつか用意されたうち、白騎士用の部屋へ入ると、皆が既に今夜の衣装――ロココ調の古風な服装に身を包んでいた。華やかな刺繍入りの上着アビと、その下には白いブラウスとベスト(ジレ)、膝丈のキュロットに白の絹靴下と刺繍入りの細い靴、といういでたちだ。

 セレストは渋い茶色を、ジルは瞳と同じ薄い紫の布地を選び、この時代に好まれていたように上着の前を開け、中のジレを見せる形で着こなしている。仕上げに刺繍や宝石、レースで派手に飾られた同色の仮面をつけて完成だった。

 ジルとセレストが少し遅れて大広間に入ると、ちょうど祝宴が始まったところだった。まだ窓の外は明るいが、煌々とシャンデリアが輝いている。既に数多くの豪勢な料理が運ばれ、参加者たちが立食形式で談笑していた。

「あ、ジルだ! 来た来た」

 仮面を着けていても、髪色ですぐ見つけられてしまう。ジルの場合は無意味だが、背格好や髪色が似た者は一見して誰かわかりにくい。中にはかつらまで被って、無礼講をより楽しもうという者までいた。

「ジル~遅かったじゃない。あんたの嫁、もう来てるよ」

 また『紳士』仲間に声をかけられ、ジルは微笑む。テーブルのそばで小さく手を振った少女――淡い蜂蜜色の巻き毛が美しい『淑女』、常に女性役の主演を務めてきたフラヴィに向かって。

 ちゃんと自分の好きな料理を取り分けて、待っていてくれたらしい。いつものように、そんなフラヴィの頬に軽くキスを送る。

「メルシィ、モナムール」

 愛する人、という意味で呼びかけるのも日常だ。自分が主演するようになって、同期の彼女とずっと恋人役を演じてきたから、共にいることにも慣れている。

「いつも素敵だけれど、今夜の君はもっと輝いているね。綺麗だよ、お姫様」

 同じくロココ調の彼女のドレスは、レースをふんだんに使用した華やかな赤だ。ジルの賛辞にフラヴィは優しい微笑を返した。その表情が少しだけ影を帯びた気がした時、

「へえ、見違えたな」

 セレストの声でジルは振り返り、目を瞠った。大広間に今登場したのは、あのエーヴだ。天使の羽根を思わせる仮面を着けているが、茶褐色の髪と背格好でわかる。今夜は髪をまっすぐに下ろしていたが、それだけが皆の注目の理由ではなかった。

「あれは新古典調のドレスじゃないか。ロココよりは少し後の、いや、ロココ後期と言っていいのかな」

 首を傾げるセレストに、ジルは笑う。

「細かいことはいいさ。よく似合ってるじゃないか」

 今夜は無礼講だ。エーヴだけが直線状の裾のドレスで、膨らんだスカートでないことなど些細な違いではないか。皆がそんな結論で落ち着き、祝宴は少しずつ盛り上がりを見せていく。

「では音楽を! いよいよ仮面舞踏会の始まりです!」

 司会役が高らかに宣言し、皆が並んだ。

 薄紫の、蝶の形の仮面を着けたジルは、フラヴィを最初の踊りに誘う。けれど順調に踊り始めても、気づけばエーヴを目で追っていた。

 他の『淑女』たちのように派手さはないが、簡素な白のモスリンドレスは彼女の魅力を爽やかに引き立てている。何の宝石も着けない首元が、逆に健康的で新鮮でもある。そこにない銀のネックレスを思い出し、また胸がちくりと疼いた。

 ああ、早く返さなければ。そんなことを言い訳に思い浮かべる別の面影。大丈夫だと、似た言い方で自分を励ましたエーヴの笑顔に、あの夜の笑顔が重なる。疼いていた胸がどきりと鳴ったことにジルは動揺した。

 エーヴは踊らず、同期の少女と談笑している。けれど先ほどからずっと、困ったように窓の外をちらちら見ている。段々と暗くなっているのが気にかかるのだろう。それでも無理して笑うエーヴの右頬に、えくぼができている。

 ついにジルは踊りを止めた。逆らえない感情に従い、フラヴィに向き直る。

 そう、いつまでも避けていたって事態は変わらない。

(今度は、僕が彼女を守ってやらなければ)

「ごめん、フラヴィ。またあとで」

 彼女の手にキスを落とし、背を向ける。そのまま優雅に別の少女に歩み寄っていくジルを、フラヴィは静かに見つめていた。


        ***


「踊っていただけませんか? マドモワゼル」

 優しくかけられた声に振り返り、エーヴは息を呑んだ。窓の外ばかり気にしていたから、声をかけられるとは思っていなかったのだ。それが先ほどまで脳裏を占めていた相手だったことで、咄嗟に言葉が出ない。

「え、あの、えっと」

 仮面越しに苦笑したジルに強引に手を引かれ、気づけばエーヴは踊りの輪の中へ入れられていた。

 リディも遠巻きに見ていたモニクたちも、そして周囲で踊る他の団員たちも、全員が二人に注目している。楽団が演奏を続けているから踊っているものの、そうでなければ中断してしまいそうなほどの緊迫感。皆の強烈な視線とざわめきを感じつつも、今のエーヴにはそれに対処する余裕も時間もなかった。

 豪華なシャンデリアに照らされた大広間には、それぞれに着飾った総勢三十五名の騎士と従騎士たちがいる。今この場で夕暮れを迎えるわけには行かないのだ。

 だからわざと皆と違う衣装――控え室の片隅にあったいつかの舞台衣装らしいものを拝借した――を着て目立ち、自分の参加を印象付けたら隙を見て帰るつもりだったのだが。

(なんでこうなってんだよ……!?)

 全員に注目される中、よりによってジルと踊る自分。曲目は円舞ワルツ。エーヴが最も苦手とする、優雅な舞踏だ。所詮は付け焼き刃で拙くしか踊れない自分を、ジルは完璧なリードで導き、踊りを続けている。

「落ち着いて、目線はこっちへ」

 そっと囁かれ、再び目を合わせた。驚くほどすぐ近くに、澄んだ薄紫の双眸がある。シャンデリアの光できらきらと輝く銀の髪が、彼女の動きに合わせて揺れている。

「今夜の君は、とても綺麗だ」

 あいかわらずの気障な言葉に何も言えず目を背けたのは、ちょうど自分の気持ちを言い当てられた気がしたから。

 また苦笑して、俯いていた顔を上げさせられる。違う、綺麗なのは――。

「音楽をよく聞いて……アンドゥトロワ……そう、上手だ」

 導かれるままに踊りながら、目の前のジルから視線が外せなくなった。

 どんなに冷静になろうとしても、惹き込まれる。吸い寄せられる。何も考えられず、ただ見つめてしまう。

 皆が見惚れる麗人としてのジルではなく、素顔の彼女をまた見たい。あの笑顔を自分に向けてほしい。あんな風に後悔してもなお、懲りずに思ってしまうのはなぜなのか。

 考えかけて窓を見て、かなり暗くなっていることに気づいた。

「あ、あの……ジル先輩、あたし、その」

 何と言って踊りをやめるべきか頭を捻っていたら、ジルはふっと微笑んだ。エーヴと同様、窓の外を確認して、囁く。

「もっと踊っていたいけれど、今夜はここまでで我慢しよう。そろそろ時間切れだ」

 後半は独り言のように言うと、ジルは突然エーヴの足を踏んだ。

「あいでっ!」と本気で呻いたエーヴを、ジルが大げさに心配してみせる。

「なんてことだ! 君が将来舞台に立てなくなったら僕は……ああ、一体どうしたらいい!?」

 何事かとセレストが近寄ってくる。彼女が確認する前に、ジルはエーヴの体を両腕で抱え上げた。まるで本物の騎士が、かよわい姫君にするかのような仕草で。

 それぞれに目を剥くエーヴとセレストに構わず、ジルは真剣な顔で言った。

「急いで医務室へ行ってくる。単なる怪我と甘く見ては危険だからね。僕が付き添うから、皆は祝宴を続けていてくれたまえ。ああ、くれぐれも誰も付いてきたりしないように。今のエーヴ嬢には、安静が必要なのだから……!」

 唖然とする面々を置いて、ジルはそのままエーヴを抱いて大広間を出た。自分が――本来は男である自分が、女のジルに『お姫様抱っこ』をされるという由々しき事態に硬直していたエーヴは、直後に我に返る。

 もしかして、いや、もしかしなくてもきっと、ジルは自分を助けてくれたのだろう。あの偽の病を信じ、心配して。

(しかしこいつ、結構鍛えてんだなマジで)

 舞台上では剣戟も見せる。その上での主役の肩書きはだてではないらしい。

 玄関ホールでエーヴを下ろすと、ジルは何も聞かず部屋へ戻るよう勧めた。

「悪かったね。公演でかなり疲れていたようで、つい足がもつれてしまって」

 あくまで自分のせいにして例の約束も守ってくれたらしい。エーヴはほっとして、お辞儀をした。感謝の言葉の返事も聞かず、全速力で駆け出す。

(やべー、もう日が落ちる!)

 扉を開けて外へ飛び出し、東城館へ戻ろうとする。が、庭から戻って来る数人に出くわしかけ、あわてて低木の茂みに隠れた。どのみちもう一刻の猶予もない。こんな時のために隠しておいた袋を茂みの奥から取り出し、最短の避難場所へ向かう。

「くっそ、間に合ええ!」

 死にもの狂いで庭を突っ切り、なんとか辿り着いたのは聖堂。既に窓の外は真っ暗で、エーヴにも限界が訪れた。

「う、うう……っ!」

 激痛の走る体を抱きしめ、かすむ目で周囲を見渡す。最奥にひっそり設けられた告解部屋を見つけ、必死で飛び込んだ。扉を閉めた途端、椅子にも座れず狭い床にくずおれる。

「く……あああああ……っ!」

 誰もいない聖堂に、エーヴの――否、元の姿を取り戻していくアダンの叫びがこだました。脱ぐ暇もなかったドレスは無残に裂け、裸のアダンはゆっくりと身を起こす。

(せっかく脱ぎやすいドレスにしたのにな)

 まだ痛みの残る体で息を吐き、なんとか間に合ったことに安堵した。持参した袋から男物のズボンを取り出して穿き、同じ黒のブラウスをのろのろと肩にはおった、その時だった。

「どうした、エーヴ! ひどい悲鳴が聞こえたが……何かあったのか!?」

 いつのまに後を追ってきていたのか、それはジルの声だった。一足遅れで聖堂に入ったらしく、足音が近づいてくる。

 急いで隠れようとしてもそれ以上どうしようもなく、見当をつけたジルが扉を開けるほうが早かった。

「こんばんは(ボン・ソワール)、マドモワゼル」

 間近で顔を合わせ、開き直ったアダンが片手を上げる。目を剥き、叫ぼうとするジルの口をその手で塞ぎ、素早く耳打ちした。

「頼むから静かにしてくれ、でないと即刻追い出されちまう。エーヴのためにも、この通りだ」

 空いていた片手で拝む真似をすると、ジルは渋々という様子で頷いた。その間に、足元に落ちていた『エーヴ』のドレス――の残骸を足で蹴り、ひそかに椅子の下に隠すのも忘れない。

「彼女はどこへ行った? 確かに聖堂に入るのを見たんだが」

 手を離すなりジルはきつく問う。が、上半身があらわなアダンの状態に気づいたらしく、すぐに背を向けた。

「早く服を着ろ! そんな格好で……あ、怪しいにもほどがある!」

「いや、その……ちょっと噴水で服を濡らしちまって、乾かしてたんだ。座ってエーヴを待ってたんだが、居眠りした拍子に盛大に水がかかってさ。誰にも見つからなくてよかったよ」

 我ながら無理がある言い訳だと思ったが、ジルは信じてくれたようだ。ちょうど着替え終わったアダンに向き直り、呆れ顔で見下ろす。

「阿呆かお前は……それでエーヴ嬢は部屋に戻ったのか? 具合は」

「ああ、大丈夫だ。さっき俺が薬を渡したから、後は部屋で休めば治まるだろう。あんたのおかげだと言ってた。俺のことも黙っててくれたみたいだな」

「それはお前だって……話したってお互い気まずくなるだけだろう。自分の秘密など、知られないほうがいいに決まっている」

 ジルの表情が翳り、何と答えるべきか一瞬迷った、その時だった。

「ジル様~! ジル様? どこにいらっしゃるのですか~!?」

 熱心に呼ぶ声と足音が聞こえたかと思うと、聖堂の扉がぎいい、と音を立てて開かれていく。

 慌ててジルの手首を掴み、告解部屋の中へ引き込む。扉を閉めた直後、おそらく『淑女』の集団であろう数名が入ってきた。

 中が見えないよう小窓にはカーテンが付いているが、扉を開けられれば終わりだ。

「い、いきなり何を……離せ!」

 椅子に座ったアダンの膝にのせられ、抱き寄せられているも同然の体勢で、ジルは押し殺した叫びを上げた。暴れようとするのを、必死に抑えつける。

「静かにしろって、見つかったらやばいってわかってるだろ」

「だからと言ってなぜ僕まで!」

「あ、そうか」

 自分だけ隠れればよかったことに今更気づく。が、もうどうしようもない。

「悪いけど成り行きだ。ちょっとじっとしてろ」

「う……お、お前! 自分勝手に過ぎるぞ!」

 囁き声でのやりとりの間も、呼び声は続く。「おかしいわねえ、そう遠くまでは行かれてないはずなのに」「隠れられるとしたらここしかないわよねえ」などと言いながら執拗に捜し続けているようだ。声と共に危機が近づいてくるというのに、ジルはまだ離れようとじたばたしている。

「うわっ、ちょっ……じっとしてろって、言ってんだろーが!」

 最終手段だ、とその抵抗ごとジルの体をきつく抱きしめた。小さな驚愕の声も、動揺の息遣いまでも胸に閉じ込め、強く。

「ジル様あ~! まさか、この中にいらっしゃいますの~!?」 

 扉のすぐ前まで来た声が問う。取っ手に手をかける気配までして、硬直していたジルがかすかに身じろぎする。アダンは両腕に更に力を込めた。

 まさに絶体絶命。なのに――この刹那、アダンが感じていたのは危機感ではなく、全く別の感情だった。

 そんなつもりではなかったのに、抱きしめた体が思いのほかやわらかく、ジルの美しい銀の髪から漂うほのかなトワレが甘く鼻腔をくすぐり、理性を攻撃する。エーヴの姿でしがみつかれた時とは違いすぎて、思わず動揺した。

(うわ、これ、違う意味でやべーんだけど)

 自分だって一応、それなりの経験はある。しかも一日の半分は『女』として過ごしている。なのに何も知らない少年のように胸が疼き、鼓動が速まり、体の――心の奥からふつふつと熱い衝動が湧き出す。

 その欲求が何かを知る前に、腕に力を込めそうになって、寸でのところで体を離した。

「……っ!」

 顔を見た刹那、全身の熱が引いた。瞬時に強烈な自己嫌悪に襲われる。

 ジルは小刻みに震えながら、真っ青な顔をしていた。彼女の恐怖を知っていたはずなのに、また与える側に回ってしまった。それでもジルは、耐えてくれていたのだ。

「やっぱりこんなところにジル様がおられるわけありませんわよね」

「行きましょう。もっと他を捜すのよ」

 自分たちの行動に笑いあって、『淑女』たちは去っていく。危機が去っても、罪悪感は膨らむばかりだ。

「ごめん……悪かった、本当に」

 まだ告解部屋の中で動けず、震えているジル。語りかけても反応はなく、黙って外に腰掛け、待つしかなかった。

 どれくらいの間そうしていただろうか。青い顔のまま、ようやくジルは出てきた。無言で聖堂の扉を開け、誰もいない外を顎だけで指し示す。

「どうした、早く行けよ」

 射殺されそうなきつい瞳で睨まれているのに、アダンは動かなかった。ジルが倒れそうに蒼白な顔だったからだ。次の瞬間彼女は本当にふらつき、咄嗟に支えたアダンの手も強く振り払う。先に出て行こうとする足取りは危うく、見ていられなかった。

 少し遅れて、アダンはその肩を支えた。振り払われなかったのは、黒いマントを羽織らせてやったから。そのマントも、今アダンが着けた黒の仮面も、袋の中に用意しておいた変装用のものだった。

「これなら、触られても少しはましだろ」

 驚くジルの体をマントで包むようにして、アダンは軽く抱き上げた。

「お返しだ」

 低く呟き、内心でほくそ笑む。エーヴの姿でされた時の逆、ジルを『お姫様抱っこ』して先ほどの屈辱を晴らしたのだ。

「離せ! 自分で歩ける! この変態! 変質者! 自分勝手な最低野郎……っ!」

 暴れるジルに、仮面越しに笑いかける。

「今回は俺が全面的に悪い。いくらでも罵れ。何とでも言っていいぞ」

「なっ……」

 絶句するジルが意外で、悪戯心が芽生えた。

「言わないのか? じゃあもっと悪いことしてやろうかな……」

「わ、悪いことって――」

「例えば、キスとかさ」

 口にして初めて、先ほど込み上げた熱い衝動の正体に気づいた。自覚するなりまた衝動は蘇り、半ば本気で顔を近づける。

「何を言ってるんだお前は! 狂ったのか!?」

 目を剥いて叫ばれ、アダンは楽しげに笑う。

「そうだな。どうせ狂ったんだし、好きなようにするか」

「やっ、やめろ馬鹿! 狂人! 阿呆!」

 また迫ると、ジルは必死で距離を取る。だがそれはアダンの胸に密着する結果となって、大きな目は白黒し、蒼白だった顔は真っ赤に染まった。

 吹き出し、声を立てて笑いながらアダンは聖堂の外へ出た。

「わかったわかった。何もしないから、お前の部屋への一番近い行き方を教えろ。みんなにこんな格好を見せたければ別だけどな」

「……っ、き、北の城館だ! その庭園の奥、城壁沿いに進めばすぐ着く!」

「了解、お姫様プランセス

「僕は姫じゃない!」

「はいはい、怖がりの騎士殿」

「う……黙れ、この卑怯で卑劣なケダモノ男!」

「そうそう、それでこそジルベルト・ド・ブランだぜ。ケダモノも恐れをなして、紳士になれるって寸法さ」

 だから、とアダンは苦笑する。

「送り届けたら帰るから……また怖がらせちまった侘びぐらい、させてくれよな」

 本心から頼んだアダンに、ジルは複雑な顔で俯き、あきらめたように小さく頷いたのだった。


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