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三章

 三、彼女と彼の、罪の林檎

 

 翌朝、磨き上げられた床を見たセレストは満足げに頷いた。今、エーヴを含む『従騎士』たちがいるのは今日の清掃場所、南城館の玄関ホールである。

「ふむ。昨日の一件でどうやら気を引き締めてくれたようだな。これからも自己修練の一環として、清掃にも気を抜かず取り組むように」

 セレストの言葉に全員が返事をする。目が合ったところで、セレストは怪訝そうな表情になった。

「エーヴ・スペリエ、その頬はどうかしたのか」

 ぎくり、とエーヴは肩を縮める。髪を下ろして隠し、ひっそり隅のほうを掃除してばれずに済んだと思っていたのに。

 今も頬に残る赤い跡――無論、昨夜ジルに平手打ちされた時のものだ――をあわてて手で隠し、苦笑いする。

「いや、あの……ちょっと寝ぼけて寝台から落ちまして」

「寝台から? どう見ても手形のようだったが」

「いえっ、だから……そう、自分で! 自分で寝ぼけて平手打ちを」

 かなり苦しい言い訳に、セレストは珍妙なものでも見るような目つきをする。モニクの取り巻き二人は、またひそかに笑った。

「今はまだいいとしても、これから舞台に立てば顔は命とも言える。十分気をつけることだ」

「はいっ、了解しました副騎士長様!」

「『様』はいらん」

 ふっと苦笑し、出て行くセレスト。颯爽とした後ろ姿を見送りつつ、エーヴはため息をついた。

(その、命とも言える顔を思いきり叩いたのはあんたの相棒だぞ、なんて言えたらどれだけすっきりするかな)

 ほんの悪戯心の呼びかけだったのに、と思い起こしてまた腹を立てる。まったく、とんだ『子猫』もあったものだ、と。

「くっそ、あの女……恩を仇で返しやがって」

 あの後、途中の道につないであったらしい馬に乗ってジルは消え、アダンとしてのエーヴは徒歩で城に戻った。眠るまで冷やしてみたりしたのだが、朝になっても手形はしっかり残っていた。

 ムカムカしながら掃除道具を片付け、最後に玄関ホールを出たエーヴは呟く。

「まさか本当に別人、なんてことはないよな?」

 いや、彼女自身も自分がジルだと認めていた。ということはやはり、自分の推測は当たっていたのか。

(なんで男が怖いんだろう……あいつ)

 そのくせ単身で酒場に乗り込むなんて、無謀で矛盾した行動も不可解だ。何か事情でもあるのだろうか。

 考え込みつつ中庭への階段を下りたエーヴは、遠慮がちに会釈してくれる人影――リディアーヌを見つけ、駆け寄った。

「あれ、待っててくれたの? ありがとう」

「いいえそんな。わたくしこそ先ほどは掃除が先と、きちんと挨拶もできなくて……」

 少し恥ずかしそうに笑いかけてくれたリディアーヌは、笑顔は曇らせた。

「まあ、本当に痛そうですわね」

「ああこれ? はは、大したことないよ」

 彼女にまでまじまじと見られ、複雑な思いで笑い返した。その頬に、リディアーヌの細い指が触れる。思わずどきりとしたのも束の間、リディアーヌはすぐに手をどけ、小さな布袋から化粧道具を取り出した。少し待つよう言われてじっとするうち、巧みにあれこれと塗られ、最後に粉をはたかれる。

 手鏡を見たエーヴは、感嘆の声を上げた。

「うわ、すごい。手形が消えてる!」

「よかった。わたくし、お化粧なら得意ですの。仮にも騎士劇団の『淑女』としては、当然の心得ですけれど」

 頬を綻ばせたリディアーヌは文句なしに可愛い。可愛い、のだが――そこで思い出した非情な現実に、エーヴの心はずーんと重くなる。

 そうだった、リディアーヌと違って自分は希望と裏腹に女役に決められてしまったのだ。さて、これをどうするべきか。

「エーヴさん? 大丈夫ですか?」

 心配そうなリディアーヌに、「平気平気!」と笑顔を見せる。

 落ち込んだところで何も事態は変わらない。とにかく打開策を見つけなくては。

「いよいよ今日から本格的な修練ですわね。ああ、早く『従騎士エスクワイエ』を卒業して、立派な『騎士シュヴァリエ』になりたいですわ。そう思いませんこと? エーヴさん」

『従騎士』の修練、という名の訓練生活は昨日から始まっている。が、初日の昨日は説明会を兼ねて、今後の予定を聞かせてもらっただけだった。

「そうだね。ああそれよりさ、同い年なんだし呼び捨てでいいよ」

 頭を掻き、そうだ、とエーヴは発案する。

「ねえ、『リディ』って呼んでいいかな? そのほうが呼びやすいんだけど」

 一瞬だけ驚きに見開かれたリディアーヌ――リディの瞳は、嬉しそうに細められた。

「ええ、もちろんですわ……改めまして、よろしくお願いします。エーヴさ……エーヴ」

 予定は崩れ、他の同期生にまで嫌われる。まさに前途多難なこの状況で、リディの優しい微笑みだけが救いだった。


 争いが終わった平和な時代。聖戦参加などの役目がなくなった騎士たちの居場所は、必然的に宮廷や貴族の屋敷へ移った。貴婦人方の警護から舞踏会の踊りの相手までが騎士の役目となり、武よりも美が尊ばれるようになったのだ。武を誇る騎士団は王立の一団のみを残し、他は解散を余儀なくされたが、そこで注目を集めたのは女性騎士たちだった。まさに美の時代にふさわしい彼女たちを貴婦人方が放っておくわけはなく、ついには国が動いた。今を遡ること、十年前の話だ。

 女性騎士だけを集めた『メリエール女性騎士団』はこうして誕生し、メリエール王室公認の二つ目の騎士団となったのである。


 大きな石板に綴られていた文字は、そこで止まった。こちらに向き直るのは教官だ。

「この女性騎士団こそ、我らが『華麗なる騎士劇団』の前身。五年前、『メリエール女性騎士劇団』と正式に名称を変更し、演劇上演を目的とした団体に生まれ変わる前の流れなわけですね。聞いていますか? エーヴ・スペリエ!」

「はっ、はいっ!?」

 本格的な修練初日――最終となる五時間目、演劇論の時間。机に頬杖をついてぼんやりしていたエーヴは、突然の指名に直立した。

「では、我が騎士劇団が最初に上演した演目名を述べなさい」

「え、ええっと……」

 受験では必死に暗記した項目だが、度忘れして出てこない。教官は呆れ、例の二人からは押し殺した笑いが聞こえてくる。モニクは相変わらず冷たく知らぬふりで、唯一の味方は隣のリディだった。ひそかに教えてくれた演目名を、急いで口に出す。

「そうだ『マ・ベル・コリーヌ』! この古城に捧げられた名と同じ、コリーヌ妃のエール五世との愛の物語ですっ!」

「結構。けれどこれは団員どころか、『華麗なる騎士劇団』を愛する者なら誰もが即答できるはずの質問ですよ? 気を引き締めて講義に臨むように」

「……はい」

 結局叱られてしまい、エーヴは苦い顔で席に着いた。

「この『マ・ベル・コリーヌ』は初演から評判を呼び、現在まで何度も再演される定番演目ともなっていますね。同様の定番演目として、他に有名なものは何でしょう? モニク」

「はい、『罪の林檎ラ・ポム・ノワール』です。メリエール聖典の『善悪の知識の実』の話から生まれた悲恋物語で、二人の男女が運命のいたずらに苦しめられ、死してやっと結ばれる――という切ないお話が人気を博し、毎年春と秋の二回公演が行われています」

「大変結構、さすが首席入団者ね」

 拍手され、腰を下ろすモニクに、例の二人が賛辞を送っている。

(くっそ、俺だってそれならわかるのに)

 当然だ。その『罪の林檎』公演を去年の春に偶然王都で観て、エーヴは入団を決めたのだから。

 遠巻きにしか見えなかったが、いかにも女が好みそうな、歯の浮くような台詞と過剰な愛情表現は覚えている。大げさに嘆いて死を選ぶ恋人たちの場面では、観客たちはすすり泣いていた。そんな芝居自体より、女の身で男を演じる、という部分にエーヴは魅力を感じたのだが。

「では、本日はこの『罪の林檎』の一場面を研究し、演じてみることにします。『淑女』たちは二人一組で、『紳士』はモニク、今年はあなたしかいないから私が付いて稽古をしていきます」

 呼ばれたモニクは少し誇らしげに教官の元へ行き、自然にモニクの取り巻き二人と、リディとエーヴの組ができた。

「どちらが先に読み始めます? エーヴ」

「あー……あたしは後で。っていうかリディが全部読んでくれてもいいんだけど」

『淑女』の台詞などやる気も起こらない。エーヴが投げやりに譲ると、リディは意外にも憤慨した。

「そんな、いけませんわ。きちんとお稽古しなくては!」

 真剣な眼差しで訴えられ、エーヴは焦る。そして、いいことを思いついた。

「あ、じゃあさ、今だけ『淑女』の台詞はリディがやって、あたしは『紳士』のほう読むってのはどう? 練習なんだしいいでしょう。えーと、あたしも後で替わるからさ」

 もちろん替わる気などないが、真面目なリディは納得した。

 内心喜んだはいいが、開いた台本の場面は例の『歯の浮くような台詞』の『過剰な愛情表現』の連続だった。

 時は百年前、先のエール五世が生きたのと同じ時代。代々王家に仕えてきた騎士の家柄に生まれたリオネルは、戦から逃れてきた敵国の王女マリー=アンジュをその人と知らず助け、恋に落ちる。後に彼女の身分を知り、結ばれぬ運命に苦しむこととなるのだが――まだそれと知らぬ、初めての出会いの場面だった。

『危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました……!』

 最初の台詞を読む瞬間から、リディは『マリー=アンジュ』になりきっていた。

『なんという美しき瞳……どんな宝石さえも、夜空に輝く星でさえも、この澄んだきらめきにはかなわないでしょう』

 エーヴも台詞を返すが、照れが入り、感情をこめることができない。とても自分では言わない言葉だからだ。

『あなたの名を教えてはいただけませんか? 奇跡の女神』

 やばい。頬までひきつってきた。一方のリディは違和感がないのか、演技に没頭している。

『奇跡はあなたのほうですわ……夢見てきたわたくしだけの騎士様。名前などという無粋なものは、二人の間に必要ではありません』

『で、では……お互いを夢の恋人と呼びましょう……この夢が覚めないうちに、あなたの可憐な唇に触れることを、あ、じゃない、触れるお許しをいた、いただきたく』

 そこまでが笑いを堪える限界だった。ついに吹き出してしまったエーヴに、リディは目を丸くする。

「ごめ……だ、だってあんまりにも気障で、つい……」

「エーヴ、もしかしてあなた……この台詞を笑っていらっしゃるの?」

「この台詞っていうか、むしろ全部?」

「まあ……!」

 リディは驚きのあまり言葉を失ってしまったらしい。強い反感のこもった瞳に、エーヴは気づいていなかった。

「台詞回しも仕草も表情も、全部がいちいち気障なんだよね。実際の男でこんなこと言う奴いないって」

「いないからこそ演じるのですわ!」

「リディ……?」

「実際にはいない、けれども世の女性が憧れてやまない素敵な男性――そのような殿方との夢の恋を、『華麗なる騎士劇団』が可能にしてくれるのです。美しく、優しく、ひたすらに自分だけを愛してくれる男性。気障な台詞にも真実を込めれば、それは決して薄っぺらい言葉にはならない……あなたには、本物の表現者になる決意も覚悟もないのだわ……!」

 リディは本気で怒っていた。そして、怒っていたのは彼女だけではなかった。離れたところで稽古していたもう一組もモニクも、更に教官までも冷たくエーヴを見ていたのだ。

「その通りだわ。エーヴ・スペリエ、あなたはそもそも、我が劇団の存在価値というものが何か、わかっているのかしら?」

「教官……!」

 何か言おうとするが、何を言えばいいかわからなかった。講義時刻の終了を告げる鐘が鳴る。悲しそうに口をつぐんだリディは、いち早く出て行ってしまった。

(この劇団の、存在価値……?)

「あなた、一体ここに何しに来たの? あの舞台を笑う人に、演じる権利なんてないわ。しかもこの『罪の林檎』は、一週間後の春の定期公演でジル様たちが演じられるのよ」

「そうよ。いつか自分たちも役を得られるよう、真剣に学ぶのが当然だわ。その気がないならさっさと荷物をまとめて出ていくべきよ。こんな人が合格して、そのせいで落ちた人たちが哀れでならないわね」

 二人組の辛らつな言葉が、胸に刺さる。

 皆が出て行った講義室で、エーヴは一人立ち尽くすしかできなかった。


         *


 そして迎えた夜も更けた頃、部屋を抜け出したアダンは、庭園を一人歩いていた。憂さ晴らしにまた飲みに行くことも考えたが、なぜかそんな気分になれなかったのだ。

「あーあ、俺、何やってんだろ」

 ため息をついて、大きく伸びをする。

 月のない夜空はどんよりと曇っていて、まるでアダン自身の心のようだ。

 ただ本来の姿に、少しでも近く有りたかった。自分にとっては切実な理由も、この劇団を心底愛する人間には不純で許しがたいものなのかもしれない。でも、やるからには真面目にやるつもりでいた。そう、それなりには。

「その程度なら出てけってことか。そうだよな……」

 苦笑し、アダンは庭園の隅、等間隔に置かれた庭石の一つに腰掛けた。気づけば随分歩いていたらしく、聖堂の尖塔が見えるところまで来ていた。正面には美しい彫像の刻まれた噴水があり、静かに水が流れ落ちている。

 こんな時刻に起きているのは、自分と、城の護衛兵たちぐらいに違いない。そう思っていたのに、ふと顔を上げた先に予想外の人影が見えた。

「ジル……? 何やってんだ、こんな時間に」

 慣れた足取りで、ジルは聖堂へ向かっている。夜の祈りのために開放されていると、そういえばマダムが言っていたか。

(祈りに来たってわけでもなさそうだけど)

 不審に思う間にもジルは扉を開け、薄明かりの灯された聖堂内にその姿を滑り込ませてしまう。遅れて付いていったアダンは、前方の祭壇横の扉からそっと入り込んだ。聖母子像の陰に身を潜めたところで、ジルの靴音が前方まで響いてくる。

 覗いているアダンのことなど知らず、ジルは真剣な表情で祭壇前に立ち、聖堂内を見渡すように顔を上げた。

『では、お互いを夢の恋人と呼びましょう。この夢が覚めないうちに、あなたの可憐な唇に触れるお許しをいただきたい。よろしいでしょうか……? 私の女神』

 彼女が口にしたのは、昼間聞いたあの台詞。だが、込められた感情の重みがまるで自分のものとは違っていた。確かに一週間後に公演があると言っていたが、まさかこんな場所で一人で稽古をしていたとは。

 セレストの前で見せていた不真面目な様子も、同性に絡む時のふざけた雰囲気も、まるで感じられない。ひたすらに真摯な表情で、ジルは役になりきっていた。恋に落ちた喜びと情熱から、敵国の王女と知っての絶望。それに打ち勝つ悲劇的な熱い想いまでも、台詞と仕草で表現していく。

『ああ……神よ! なぜ私を、あの美しいひとに巡り逢わせたもうたのか……いいや、これほどの狂おしい想いを胸に抱いてもまだ、私は神に感謝せずにはおれない。彼女なしの人生など、生きる価値もないのだから。苦しいほどに、切ないほどに、私はあなたをより強く求めるのだ――私の愛しい女神、マリー=アンジュ……!』

 両腕をいっぱいに広げ、叫んだかと思うと、床に膝を付き、天を見上げる。過剰で気障で、おかしいはずの振る舞いなのに、そこに込められた『本物』の響きはアダンの胸を打った。

(こんな風に、演技をしていたのか)

 一年前に見た時の曖昧な記憶にはない、真摯な表情と動きの全て。あれがこのジルだったことに、今更ながら妙な感慨を覚えた。

 ジルの声はますます力強く聖堂内に響き渡り、その迫力に圧される。苦しく切ない『リオネル』の独白に聞き入っていたアダンは、完全に油断していた。少しだけ開いていた窓から吹き込む夜風に身震いし、大きなくしゃみをしてしまったのだ。

「誰だ!?」

 台詞を中断し、ジルが叫んだ。明らかに女子のくしゃみではなかったことに気づいたのか、緊張した硬い声だった。

「あーえっと、悪い。盗み聞くつもりじゃなかったんだけどさ……」

 彫像の影から姿を見せると、ジルは瞳を見開いた。

「お前――昨日の」

「ああそうだ。俺は……」

「近寄るな!」

 名前を明かす暇も与えず、ジルは腰の剣に手をやって威嚇する。

「そんなに警戒しなくても何もしねえって」

「うるさい! お前は立派な侵入者だ。それ以上近づいたら容赦はしない!」

 アダンが一歩踏み出そうとした途端、ジルは剣を抜いた。ちょうど雲が晴れ、天窓から月の光が差し込む。

 どうせ偽物だと平気で近寄りかけたアダンは、きらめく刃を見て息を呑んだ。

「それ、本物……? 騎士劇団員は本物の剣の携帯は禁止されてるはずじゃ」

「詳しいな」とジルは眉を上げ、すぐにふっと不敵な笑みを浮かべた。

「だが心配はいらん。お前のような不届き者を撃退するという正当な目的さえあれば、例外は認められるからな」

「ちょっ、待てって!」

「問答無用!」

 ジルは冷たく叫び、本気で剣を振り下ろしてきた。

「わっ、あっぶね!」

 ただの散歩のつもりだったから、護身用の短剣も何も持ってこなかった。しかし運動神経と敏捷さなら、アダンだって負けはしない。ジルの素早い剣を器用にかわし、聖堂内を逃げ回る。

「逃げるとは男子の風上にもおけん奴め! 正々堂々と勝負しろ!」

「勝負ったって、こっちは丸腰だっつうの!」

「待て、この……腑抜け野郎!」

 さすがに剣を振り回し続け疲れてきたのか、ジルは悔しげに叫んだ。ちょうど壁際でアダンは足を止め、振り返る。

「『腑抜け』だと……?」

「そうだ腑抜けだ! 女の僕に向き合えず、勝負もできない最低野郎だ!」

 ぷちり、とアダンの中の何かが切れる。この呼び名は、昨夜に続き二回目だ。

「……そんなにやりたきゃ勝負してやる。その代わり後悔しても知らねえぞ? 口の悪い『子猫』ちゃん」

 先ほどジルが浮かべたものに負けず劣らず不敵な笑みで、アダンは告げた。本心からの忠告に、ジルは気づいていない。昨夜のように怒りに頬を染め、剣を構えて走ってきたのだ。

「覚悟――!」

 わずかな身長差を利用し、下から突きの形で繰り出された剣を、アダンは身をずらして避けた。反動で重心を崩したジルの足を払い、床に倒す。剣さえ手放せばこちらのものだった。後は力技で、倒れたジルの体に馬乗りになるだけ。

 顔色を変えたジルの上で、アダンは得意げに笑った。

「どうだ、お転婆女め。俺が本気出しゃこんなもん……」

 ただ勝ち誇ろうと、勢いで両手首を掴んで床に押し付けた。その瞬間、ジルが全身を強張らせた。

「ひっ……いやだ、離せっ……やめろ!」

 見開かれた双眸には、明らかな恐怖が宿っていた。美しい顔を歪め、必死に抵抗しようとする。

「おっ、おい。冗談だって」

 手を離しても、ジルは緊張を解かない。むしろ震えて、動けないようだった。慌てて離れたのに、まだ床の上で自分の体を守るように抱きしめ、震えている。

「ジル、ジルベルト、悪かった。何もしやしない。大丈夫、大丈夫だ」

 言い聞かせるように何度もそう言って、アダンはゆっくりとジルを起こしてやる。

 それでもジルは焦点の定まらない瞳で空を見つめ、何度もかすれた声で繰り返す。

「いやだ……いやだ、やめてくれ」と。

 彼女の身に何があったのか、聞かずともわかった気がした。

(それで、男嫌いになったのか……)

 ジルの恐怖を呼び覚ましてしまったらしいとわかり、アダンは唇を噛んだ。

「ごめん。もうこんなことはしない。約束だ。だから、怯えないでくれ……」

 できる限り優しく、心を込めて。震えるジルの肩に手を添え、アダンが幾度めかにそう言った時だった。ようやくジルが小さく声を発した。

「……気安く触るな、不埒者め」

 変わらず毒づかれ、逆にほっとする。

「本当に悪かったよ。怖がらせるつもりじゃなかった」

「じゃあ、どういうつもりでこんなところまで忍び込んだ? 兵以外、男子禁制であることぐらい知っているはずだ。司祭様でさえ、儀式と礼拝の時以外は来られないというのに」

「えっと、それは……」

 忍び込んだというか元々いたというか。答えに困るアダンを訝しげに見て、ジルは遠くに落ちたままの剣に視線を移した。まだ警戒は続いているらしい。

「お前は何者だ? 答えによっては……」

「わかった、話すよ。俺はアダン。アダン・スペリエだ」

「スペリエ……?」

「そう、先日ここに入団したエーヴ・スペリエの兄だ」

「あの子の兄だって? 本当なのか」

『エーヴ』も自分であることを除けば、一応の事実である。アダンは頷いたが、ジルは瞳を細めて続けた。

「それを証明するものは?」

「疑い深いな」

「当然だ。第一『エーヴ』と『アダン』だなんて、兄と妹に付ける名か? 偽名にしてももう少しましなものを考えるんだな。発想が貧困だぞ」

「悪かったな、貧困な名前で」

 ふて腐れると、ジルの瞳が少し和らぐ。

「本当に、本名なのか?」

「ああ。かの夫婦のように、仲睦まじい兄妹であるように――と母が付けたらしい。苦情ならそっちに言ってくれ。といっても、四年前に他界したが」

 浮かべた苦笑を収め、首元から引き出したのは自身の銀のネックレス。

「その母の形見だ。同じ物を妹も持ってる。端に家名が刻まれていて、俺も妹も肌身離さず身に着けてる。まだ信じられなければ今度見せてもらってくれ」

 本当に『同じ』物であること以外、これも真実だ。メダイの部分を数秒食い入るように見つめていたジルは、ふいと目を逸らした。

「……それで? なぜ忍び込んだ」

「信じてくれるのか?」

「嘘ならいずれわかることだ。その時はどうなるか、言う必要もないだろう」

 剣を向けた時と同じ、鋭い眼差し。逸らさずに受け止めていると、ジルがあきらめたように瞳を伏せる。

「とにかく理由を教えろ。まさかとは思うが、ただ妹のことが心配で、なんて言うんじゃないだろうな」

「まあ、そんなとこだ」

 肩を竦めて認めると、ジルは目を剥いた。

「過保護にもほどがある……休暇には帰省できるのだし、どうしても心配ならば家族の面会日に来ればいいだろう。月に一度は面会が許されているじゃないか」

「それはその……心配が普通の心配じゃないっていうか」

「何?」

「妹はさ、夜になると持病の発作が起きる可能性があるんだ」

 考えた挙句の言い訳だが、当たらずとも遠からずだろう。眉をひそめるジルに、アダンは神妙な顔で続けた。

「ちょっと厄介な持病でさ……特製の薬を飲んでしばらくすれば治るんだが、その間は一人じゃ耐えられないほど苦しむもんだから、看護人が必要なんだ」

「それは大変だな。だが看護なら他の人間を呼んでも……」

「それが他人には絶対見せられない症状なんだ。だから肉親でずっと世話をしてきた俺ぐらいにしか頼めないと妹も言ってる」

「そんなに重病ならここでの生活は厳しいんじゃないのか?」

「ああ、それほど重病ってわけじゃないんだ。発作自体起きないこともあれば一晩に多発することもある。ただ夜だけ側で見守っていてやれば落ち着くって話でさ。病気のことがあっても妹はどうしても入団したいって聞かなくて……ここは男子禁制だから、俺はこうして隠れて忍び込むしかないってわけなんだ」

「一体どういう病気なんだ? あ、いや、エーヴ嬢が他人に知られたくないというのなら聞かないほうがいいのか」

「いや、さっきの侘びも兼ねて、あんたには真実を話すよ。聞いてくれ」

「でも……」

「いいから」と押し切り、アダンは声音を落とす。

「屁が止まらなくなるんだ」

「――は?」

「だから、屁が止まらなくなる。それが妹の発作だ」

 アダンはあくまでも真剣に言い切った。瞳をいっぱいに見開いて唖然としていたジルは、しばらくして頬を震わせ始めた。といっても今度は恐怖のためではない。我慢していたらしい笑いが弾けたのは、次の瞬間だった。

「それは……それは、確かに淑女にとっては深刻な発作ではあるな……いや、笑ってはエーヴ嬢に悪いが……」

 腹を抱えて笑いながら、ジルは言う。実に可笑しそうな笑い方も、自然な態度も、初めて見た気がした。男性の前での強張った状態でも、女性の前での気取った状態でもない、普段の彼女のような。

「結局、ちゃんと信じてくれるんだな」

 気づけば、笑みが浮かんでいた。ジルははっとしたように口元を引き締める。気まずそうに目を逸らしても、もう遅かった。

「ありがとう」

「別に、礼を言われるほどのことじゃない。お前じゃなく、エーヴ嬢を信じているだけだ」

 ジルはあくまで無愛想に答える。でも、もう腹は立たなかった。

「とにかく感謝するよ。その、エーヴの顔を立てて、秘密を守ってくれることにさ」

「秘密?」

「ああ。俺の存在も、エーヴの困った発作のことも黙っててくれるんだろう? 何せ、淑女には深刻な問題だから」

「……そんな風に言われれば、承諾せざるを得ないじゃないか」

「交渉成立だな。俺もあんたの事情を誰にも言わない。それからさっきの約束も有効だ」

「約束?」

「もう怖がらせるようなことはしない。昨夜も言っただろう? 俺が守ってやるって」

 ニッと笑って自分の胸を叩いた。そんなアダンをまじまじと見ていたジルは、一拍置いて小さく呟いた。

「……変な奴」

 文句を言おうとして、次の刹那に言葉を奪われた。いや、目を奪われたのだ――ジルのはにかんだような表情に。すぐに仏頂面の奥に隠されてしまったけれど。

「とにかく、僕は守られるだけの令嬢でも姫君でもない。自分の身は自分で守る」

「だから、過信するなと言って……」

 男と女の力の差を、きっと知らぬはずはない。現につい先ほどアダンに思い知らされただろうジルは、それでも強い瞳で睨みつけてくる。降参、と両手を上げてやった。

「はいはい、わかったよ。でも無理はすんなよな。一人で男だらけの酒場に乗り込むとかそういう無茶も」

「あれは……ただ、負けたくなかったんだ、『罪の林檎』に」

「ん? 『罪の林檎』って、今度の公演のことか?」

 ジルは無言で祭壇の上を見やる。掲げられている聖十字クロワ・ド・メリエールを複雑そうに瞳に映して。

「最初の男女が神に罪を犯した。その罪は、後の人間全てに受け継がれていくことになる……」

「有名な聖典の始まりの箇所だろ?」

 全国民が知る話が今更どうしたというのか。表情でアダンの考えがわかったのだろう、ジルは苦笑する。

「そう、有名すぎて今更誰も考えようともしない話だ。けれど、その罪を形あるもの――『罪の林檎』として背負った人々が現実に存在することは、ほとんど知られていない……」

「形ある、罪だって? どういうことだよ」

 物言いたげにアダンを見つめていたジルは、首を振った。

「いや、何でもない。もうすぐ初日だ。しばらくは無茶してる時間も暇もないさ。これでも真面目な舞台人なんだ僕は」

「そっか、そうだよな」

 笑って、立ち上がりざまジルの肩に手を置く。

「舞台、がんばれよ。さっきは純粋にすげーと思った。かっこよかったよ、あんた」

 ジルはまた瞳を見開き、かすかに肩を強張らせた。アダンも慌てて手を離す。

 そろそろ潮時かと別れの挨拶を口にしようとした、その時。ジルがわずかな躊躇の後に呼び止めた。

「お前、昼間はどうしてるんだ」

「えーっと……近くの宿場町にいるけど」

 もしかして何か疑われたかと思ったのは気のせいだったらしい。ジルは衣装の内側から一枚の券を取り出した。

「これ、公演の特等席じゃないか」

「別に、どうしてもと言うわけじゃない。来たければ来てもいいというだけだ」

 目を逸らし、ついでのように言うジル。アダンは笑顔で受け取った。

「ありがとう。ぜひ見せてもらうよ」

 今度こそ帰ろうと向けた背に、ジルのかすかな声が届いた。

「僕も……ありがとう、昨夜のこと」

 振り向いた瞬間には、ジルは横の扉から出て行くところだった。夜風に銀の髪がなびき、頬と、耳までも赤くなっているのがかろうじて見えて――アダンは胸を押さえた。

(まずい。今、俺、きゅんとしなかったか?)

 いやいや、と首を振り、早足で歩き出す。冷たい夜風が自分の頬の火照りまで感じさせ、アダンは混乱状態のまま帰途を急がなくてはならなかった。


        ***


 同じ頃、アダンと別れたジルも、早足で庭園を進んでいた。なぜだかいつもとは違う自分を、誰にも見られたくなかった。

 月が再び姿を隠したことを有り難く思うくらいに、まだ頬が熱い。これは単なる動揺だ。そう、それだけだ。

 言い聞かせながらやっと辿り着いた自室で、ジルは寝台に腰掛けた。夜着に着替える間にまた思考は舞い戻る。なぜあんなよく知りもしない奴に、公演の券なんて渡してしまったんだろう。いつも持ち歩いては、使わずに捨てる。そんな、特別な一枚を。

 いや、それ以前に、普通に話ができたことも今のジルにとって奇跡にも近い出来事だった。

(変な奴……本当に、おかしな男だ)

 明るくて自然体で、何も考えていないようで変に鋭い。不躾で無遠慮なのかと思えば、とても優しい。

 確かに、あのエーヴの印象にどこか通じるところがある。初めて会った時からなぜか親しみやすく、それもあってさりげなくかばったりもした。『女の園』ならではの厄介事に困っているのが、気の毒に思えて。

 けれど、それが男相手となると話は変わる。特に、自分が今まで見てきたような、下衆な人間たちのことだ。

 どれほど見かけと態度を飾っても、その内に秘めているモノは同じ。身勝手で自己中心的で、こちらの気持ちなど考えもせずに無理強いするだけのケダモノ。それが男という生き物だと、小さな頃から――十二になったあの時から、ずっと思ってきたのに。

 そこまで考えて、ジルは身震いした。あの時の驚愕と恐怖。裏切られた絶望と憎しみが蘇り、全身が冷たくなっていく。縮めた肩に、ふと優しい手の感触を思い出した。

(不思議と震えが止まった。あいつなら、大丈夫かもしれないと思えたんだ)

 何を考えている、と自分で苦笑する。会ったばかりでそんな風に思うほうがどうかしている。どうせあの男だって同じなはず。無駄な期待などするな、と。

 でも、もしかしたら?

『俺があんたを守ってやるよ』

 脳裏に、勝手な約束と笑顔が蘇る。

 気づけば震えも治まり、冷たかった手に体温も戻っていた。

(あの男なら、僕の『罪の林檎』を――病気を癒してくれるだろうか)

 ジルは立ち上がり、鏡台に移動する。長い銀の髪を梳かしながら、強張った自分の顔を睨みつけた。

「美しくなんて、生まれなければよかったんだ……僕は、ただ平凡に生きていたかったのに」

 非凡であったからこそ、自分はこの奇妙な病にかかってしまった。呪われた病から救われる方法は、ただ一つ。

 自分のように『罪の林檎』を持つ人間、しかも異性と、愛し合うことだけ――。

 苦笑は、悲しいそれに変わっていた。

「無理だ。男に触れられるだけで震えが止まらなくなって、ひどい時には呼吸まで苦しくなる。そんな状態で、どんな男だって好きになれるはずないじゃないか」

 その反動とでも言うべきか、逆に同性に対しては過剰なほど絡んでしまう。周囲の女性たちにかりそめの愛の言葉を囁き、軽い触れ合いまで求めるようになったのだ。自分でも自分の言動を抑えられない。まさに奇病以外のなにものでもない症状だった。幸か不幸か、既に自分の性格として認知されてはいるが、誰もこのひそかな苦しみを知りはしない。

 目線を落とし、睨みつけるのは、首にかけた銀のメダイ。表側には聖母子像、裏側には聖十字が掘り込まれたもの。

 メリエールでは多くの人間が似たようなメダイや十字架クロワの付いたネックレスを持っている。だから決して珍しくはないが、あの男――アダンも自分のように、肌身離さず身につけているのだと言っていた。

 彼が持つメダイは、ジルの持つものとよく似ていた。ただしジルのメダイには家名ではなく、下部に小さく、ほとんど消えかけた文字でこう刻まれていた。

 ――主は与え、主は奪う。主の御名は褒め称えられよ。

 聖典に出てくる聖句の一文だ。裏面にはまた別の文が刻まれている。

「Chevaliers de Notre-Dame de Meriere……メリエールの聖母の騎士、か」

 読み上げるジルの声は硬い。かつての騎士団の栄光も、希少なる聖母の女騎士も、自分には関係ない。聖句も聖なる騎士も、自分の病を治してはくれない。

「全能なる神とやらは、奪ってばかりじゃないか……あなたはとても意地悪だ」

 顔をゆがめ、ジルは毒づく。それでもこんなものを手放せないでいる自分は、まだ心のどこかで神の憐れみを求めているのだろうか。

 暗い部屋の中で、ジルはいつまでもメダイを睨みつけていた。


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