6月12日 裏参道
教会の裏から続く参道を、一人で歩く。
参道の両脇には季節の花が植えられ、奥には小さな庭園がある。
今の時期は真っ白な木香薔薇のフェンスとアーチが見頃で、、既に甘い香りが周囲に漂っていた。
――ここ、リュシエンヌが好きなんだよな。
そうだ。十八日のデートはワルドの別荘にしよう。
別荘の薔薇園は、今頃満開になっているはずだ。
リュシエンヌは薔薇が大好きだからきっと喜ぶだろう。
たくさんの花束を嬉しそうに抱えるリュシエンヌの姿が、自然と目に浮かぶ。
こぼれんばかりに咲く木香薔薇のアーチに、午後の穏やかな日差しが差し込む。
アーチをくぐり、小さな庭園へ入った。
あまり人が来ない庭だが、薬草園も兼ねているため珍しい草花が多く、いつ来ても目を楽しませてくれる。
美しい花に囲まれても、今一つ気が晴れない。
案内状の件は片づいたが、それ以上に気にかかることが多すぎる。
胸の中に重たい石でも入っている気分だ……。
息苦しさを解消するように、わざと大きなため息をついた。
「ルドウィク……さん?」
庭園の中程で、不意に誰かに呼び止められた。
この声、まさか?
ゆっくりと声の方向に視線を向けると、噴水の横のテーブルから、アレシアが立ち上がった。
戸惑うような笑顔をこちらに向け、小さく手を振っている。
……なぜこんなところに?
「やっぱりそうでしたのね。先程はどうもありがとうございます」
アレシアは笑顔のまま、こちらに近づいてきた。
「いえ、特に何もしていません……。でも、どうしてこんな場所に?」
「最近ここを知ったんです。時間があるときはここで読書をしています。この真っ白な木香薔薇の香りがたまらなくて。私の国では黄色い品種しかなくて、しかもこんないい香りはしないんですよ」
「そうなんですか」
「そうなんです! それに、こんなにお天気のいい日が続くことも少ないので、この国が羨ましいです」
アレシアは、近くにある薔薇の花を手に取り、目を閉じて香りを楽しんでいる。
そして、大きな碧色の瞳を開くと、またこちらに向かって微笑んだ。
その表情は、あまりに子供のようにくったくがなく、先程の雰囲気とはまったく別人のように感じる。
穏やかな印象と、リュシエンヌに見せる感情のない顔。
いったい彼女は何を考えているのだろうか……。
「先程は案内状をありがとうございました。わたくし、貴重書架でお話を聞いてから、すごくお茶会楽しみにしているんです」
アレシアはそこまで言うと、急に周りをきょろきょろと見渡すような素振りを見せた。
「どうかされましたか?」
「あ、ごめんなさい。ルドウィクさんお一人なのかなと思って……」
「私がですか?」
「ええ。リュシエンヌさんがご一緒ではないのかと……」
心臓がどくんと音を立てた。
また、アレシアがリュシエンヌの名前を口にしている。
毎回話題に出すように感じるのは、俺の思い違いではない……。
「リュシならセレーネと買い物に行くと言っていました」
「そうなんですね、てっきりご一緒なのかと思ってました。仲は……良いんですのよね?」
「ええ、婚約者ですからね」
「でも、とても……気を遣っていらっしゃるように見えましたけど……」
そう言ったアレシアの顔には、笑顔がなくなっていた。
リュシエンヌを見るときのように、無表情に近い顔で俺を見つめている。
聞き方にも、悪意のようなものを感じる。
気を遣っているだと? そんなの目の前にいる君と話をさせないためだ。
やはり、これは気のせいではない。
アレシアはリュシエンヌに対して、何か思うところがあるようだ。
言いようのない気持ち悪さが全身を襲い、うまく返す言葉も浮かばない。
そんな俺の気持ちをわかっているかのように、アレシアはじっとこちらを見つめ、にっこりと微笑んだ。
「ルルさんやセレーネさんとお話ししてる時と違うように感じてしまって……でも、婚約者ですから当然ですわよね。ごめんなさい」
「いや、別に……」
ここで憤っても、何の得にもならない。一刻も早く会話を終わらせるんだ。
そして今までどおり、リュシエンヌを彼女に近づけない。
アレシアが何を考えているかはわからないが、彼女は他国の王女だ。ずっとこの国にいるわけではない。
だから、今すぐこの場を離れよう。
彼女のペースに乗ってはいけない……。
「では、アレ……」
「あっ! 待ってください、これは持って帰っても良いのかしら?」
俺の言葉を遮るように、アレシアは声を上げ、足元に落ちていた木香薔薇の枝を指さした。
風で折れてしまったのか、枝にはたくさんの蕾がついている。
しゃがみこもうとするアレシアを制止し、俺は木の枝を拾い上げた。
「これは自然に折れたようですね。持って帰っても構いませんが、ご希望であれば教会の者に行って何本か切らせますよ」
「いえ、それが欲しいんです」
アレシアは俺の目を見つめ、真っ白な細い腕をこちらに伸ばしてきた。
その手は指先まで白く、わずかに薔薇色をしている。
あまり見慣れない緑の瞳が、瞬き一つせず、視線をそらさない。
その視線が妙に近く感じて、胸の奥がざわついた。
「ルドウィクさんの瞳も、緑なんですね」
アレシアは、少し色の薄い睫毛をゆっくりと瞬かせた。
「はい。先祖にスナッグ地方出身の者がおりますので、多分そこからだと……」
そう答えながら、目を伏せる。
気が付くと息を止めていた。
差し出された手に木香薔薇の枝を渡すと、彼女は両手で受け取っだ。
「スナッグ地方は私の国のお隣ですわ。なんだか嬉しい」
アレシアは笑顔絵を見せ、薔薇に顔を寄せて香りを確かめている。
その仕草がリュシエンヌと重なった。
リュシエンヌも、ここを通るたびにアーチに顔を埋めるほど近づける。
この季節は、噴水の近くで読書をすることも多い。
やはり二人の趣味はよく似ている……。
しかし、アレシアとリュシエンヌは全く違う!
「ではアレシアさん、私はこれで失礼いたします」
「ちょっと待ってください」
頭を下る俺を引き留めるかのように、アレシアが声を上げた。
……またか、今度は何だ。
「なんでしょうか?」
わざと丁寧に礼を返し、顔を上げる。
「貴重書架を、27日に開館してほしいのですが、かまわないでしょうか?」
「はい。調べなくてはいけませんので、また後日連絡いたします」
「ありがとうございます……あと、私のことも皆さんと同じように『アレシア』と呼んでいただけませんか?」
ほんの一瞬、彼女の瞳が揺れた。
「……それは、難しいです」
「リュシエンヌさんが……」
アレシアがまたリュシエンヌの名前を出し、言葉を濁した。
またリュシエンヌのことだ。
わかっている、ここで苛立ったところで仕方がない。
しかし、胸の奥の不快感が限界に近づいていた。
「私の婚約者が、なんでしょうか?」
「リュシエンヌさんが、怖いのですか?」
「は?」
つい、自然と声が出てしまった。
相手は王女だというのに怒りが抑えられなかった。
さっきから何が言いたいんだ?
リュシエンヌが打ち明けてくれた前回の酷い人生。
そこで、アレシアと恋に落ちてしまったということが、いま不愉快でたまらない。
「ごめんなさい、忘れてください」
取り繕うように早口で言ったかと思うと、アレシアは頭を下げた。
どう返答するのが良いのかわからない、もう話すのも面倒だ。
「では、27日の開架は改めて連絡いたします。失礼いたします」
アレシアがが顔を上げる前に、こちらも深く頭を下げて背を向ける。
何を聞かれても、もう絶対に振り返らない。
甘い香りの満ちる庭園を、いつもより早足で歩き出す。
後ろにいるアレシアが、どんな表情をしているかはわからなかった。




