10-4
「千代子さん。朝だよ」
熊井邸にいた時、鉄治が起こしてくれることは結構あった。なのでいつもどおりの朝、なんて思って私はもそもそと身を起す。そして自分が豪快に全裸なことに気が付いて悲鳴を上げた。慌てて薄いタオルケットにまたもぐりこむ。
窓から差し込む光の下、自分の体を見たら、変な赤い点々たくさんあって驚いた。泣きそうだ。
「涼しいうちに散歩に行こうと思ったんだけどな」
鉄治がベッドの脇に座った。スプリングが少しだけ沈む。声、めちゃめちゃ笑っているじゃんか。
「涼しいうちになんて起きられない!」
「そう?浜辺は気持ちよさそうだよ」
私は首だけ出して鉄治を睨んだ。てめぇどの面下げてそこに居やがる。
「寝たの何時だと思ってんだこのやろう」
「千代子さん、そこまで乱暴な言葉遣いはちょっといただけないなあ」
鉄治は笑っていた。昨日の夜更かしなんてどこ吹く風のすっきりした綺麗な顔。
くそう、くそう。金輪際鉄治がどんなに弱っても、ほだされたりなんてするものか。
ええと、なんだ。
昨日、一通りいちゃついて(お察し下さい)、本日の営業は全て終了しました、状態になったのは十一時だ。芽依と圭之進が出かけて行ったと私が報告したのは七時だったんだよ。途中に風呂とかうたたねとかありましたけど、四時間もなにやっていたのか。
もうほんと、なんていうか、鉄治のやることって、とにかく し つ こ い んだよ!
知らないけど世の恋人達はみんなこうなの?みんな夜ヒマなの?
「どこか痛いの?」
「痛い、ことはないけど……」
「そうだよね、僕も遠慮したし」
えんりょ?……『ああ僕のことは気にしないで千代子さんは寝ていて』って、あんなところ触られて寝てられるかバカ!
「まあ目的も達したし、昨日は幸せだったなあ」
「も、目的って」
だってこの成行きは鉄治だって予想していなかったはずじゃ。まさかおまえやっぱり、私を陥れたのか……!?
私がみるみる顔色を変えるのを見て、鉄治は珍しく慌てて言葉を付け足した。
「ああ、違う違う。昨日の夜そのものについては、僕も予想外の展開だった。目的は『まあいつか叶えよう』って考えていたこと」
「なにそれ」
鉄治はにっこり笑って私の髪の毛をすいた。
「絶対千代子さん泣かす」
……は?
「停電の日からずっと考えていた。僕ばかりが泣いたなんて、屈辱の極み。だからどんな手を使っても千代子さん泣かそうと思っていたんだ」
「それはかなり変態だと思うよ?」
「半べその千代子さん……可愛かった……最高」
「もう間違いなく変態だよね?」
鉄治はなんかものすごく愛でたいものを見る目で私を眺めているけど、正直……かなり、迷惑……です……。
とりあえず怖いから話をそらそう。
「……おなか減ったんだけど」
夕飯食べてない。しかし眠気との戦いという部分はある。もうちょっと寝坊したいような。
「洗濯もしたし、朝ごはんも作ったよ」
手際いいなあ。
「怒っているの?今一生懸命僕は君の機嫌とっているんだけど」
いーまーさーらー!
「……加減をしれ」
鉄治のやにさがった顔なんてレアなもの、初めて見ることになった。
「だって千代子さんにあんな可愛い声だせるとか知らなかったなー新鮮ー」
そんなノロけかたがあるかー!
「うるさい、死ね。死なないなら今すぐ私が殺してやる」
「ほら、普段がそれだもん。どうあってもさらに可愛いこと言わせたくなるじゃん」
「私のせいみたいにいうなあ!」
どれもこれもお前の性質の問題だ。
今まで、変態とか、サドとかいろいろあったけど、今又一つお前に称号をたたきつけてやらあ!受け取れ罵倒!
「このムッツリ!」
あ、そう、じゃあ期待に応えないとね、と己のいらん一言でまた鉄治を焚きつけてしまった私が結局ベッドから這い出したのは十時だった。反省はしていないが後悔はした。
やっと目が開いた。
鉄治が庭でシーツを干しているのを見ながら私は朝ごはんを食べていた。朝ごはんでいいのかこれ。昨日カレーくいっぱぐれた分だけおいしい。
「果物食べるよね」
ダイニングに戻ってきた鉄治は、指の長い大きな手で小さなナイフを器用に使ってオレンジをむいた。
「鉄治って、なんでも器用なんだ」
「そうでもないよ」
鉄治は食べやすい形にしたそれを見目良く皿に乗せた。これこそ夏の朝、見たいな爽やかな香りだ。
「好きな人を傷つけるのは、器用とは違う」
紙に淡く染みるような鉄治の悔恨。
「もし私が圭之進を選んでいたらどうするつもりだったの?」
「タイミングによるかな。でもあの時姫宮が僕に喧嘩を売って、千代子さんとの偽装婚の話を蒸し返さなかったらこんなことにはならなかったかもしれない。僕は君への気持ちに気がつかないままだっただろうな」
「圭之進が言ったからわかったの?」
「そうだね、自力では無理だったかな」
「じゃあ、今のこの気持ちも思い込みなんじゃない?まだ芽依を一番好きなのかもよ?」
「いじわる言うなあ千代子さん」
鉄治は本当に困ったような顔をする。
いいか、ほだされないぞ。全力を持って鉄治の「弱音」に立ち向かえ、私。
「どうやって信じてもらおうかな」
うっ、目が透き通るような美しさだ。中身まっくろくろすけのくせに……。
「ああ、そういえば」
私は話をそらしてみた。
「そういえば、圭之進の家で、芽依といったい何を話したの?」
「何って……芽依は僕に嫌われていると思っていたみたいだから、そんなことはないよって言う話」
「それだけ?」
「あとは」
鉄治は目をそらした。何か後ろめたいらしい。
「何?」
「……でもこれからは、お互い好きな人を優先させようね、っていうことを」
「ふうん」
鉄治がむいてくれるそばから、私は果物をかじっていった。それから驚いて顔を上げた。
「それって間接的に、芽依が圭之進を好きだってことを認めるってこと?」
「まあ仕方ないよね。僕も千代子さんを選ぶんだから、芽依だって誰かを好きになる権利はあるだろうし」
「圭之進でいいの?」
「姫宮はいい奴だと思うよ?」
「そ、そうなんだ」
「自分が見えていて、人を嫌わないで、物事に余裕がある。やっぱり年上ってのは凄いなと思うよ」
「芽依をとられちゃうのに褒めるんだ」
「それは姫宮を蔑む理由にはならないよ。芽依のことはともかく、姫宮が千代子さんに未練がなければ相談に乗ってほしいくらいだ」
「……欲張り」
「そうかな?」
鉄治は果物をむく手を止めた。真正面から私を見つめてくる。
「僕は一番必要だと思うものしか欲しがらないよ。ただ、掴んだものは手放さないだけ」
謙虚質素なものですよ、と鉄治は満足そうだ。
「だから千代子さん、僕から逃げないでね」
鉄治の言葉。
また弱音か、やばい、可愛い!とか思った私だけど。
「逃げたらいろいろスレスレな手を使って取り戻さないといけないから、面倒くさい」
ちょっとまて?
鉄治の言葉は弱音どころか究極の強気発言だ。どこもかしこも突っ込みどころですけど。
「いくら泣かせたいと言っても、僕は千代子さんを痛い目とか辛い目にはあわせたくないんだよ。僕と千代子さんの幸せのために、逃げないでね?」
鉄治は微笑んだ。
「これ芽依にぽろっと言っちゃったんだよね。『僕は千代子さんを手放したくない』ってうっかり」
あれか!
芽依の微妙な反応はこの言葉だったのか。そりゃ、鉄治の本性知らない芽依にしてみれば「あーもーお兄ちゃんのろけてバカみたい、さむーい」としか反応できないよね。でもでもでも。
鉄治の執着っぷりを知っている私からしてみれば、手段は選ばない、っていう実に高らかな宣誓にしか聞こえない……っ。
いままで。
鉄治は気がつかれないように、芽依にストーカーだったわけだ。でもそれ、もしかして私にこれから全て向けられる、の、だ、ろうか?しかもオープンで。
どこかで聞いた言葉が頭に浮かぶ。
ストーカー、両思いならバカップル。
まて、両思いであっても、限度はあるはずだ。




