6-1
圭之進は強引に掴んだ私の手を離さない。乗り込んだエレベーターで私達は無言だ。時折、ちらりと圭之進がうかがうように私に視線を落とすだけ。
どうしたものかいな。
私を掴んでくる手の強さと熱さに少し戸惑う。
なんだろう、こういうのって慣れていないのかも私。
ありがたいことに、鉄治以外にははっきりいう性格のため、私はいろんな人から頼られる。部費の交渉、寮費の交渉、お小遣いの交渉…………金がらみばっかりか!
でもそうやって頼られるのは私も嫌いじゃない。私は私自身は鉄治みたいにもの凄く賢かったり、芽依みたいに問答無用な美しさを持っているわけじゃない。けっこうな努力を繰り返してここまでもちあげているだけの凡人だ。ねーちゃん達はみんな、変人だけど超人だし。
私は凡人だからこそ、誰かに頼ってもらえるのが嬉しいのだ。
だから頼られることの嬉しさには馴染みがある。でも今のこれはなんだ。ちょっと違うなあ。なんだろう。
最上階のフロアについても、圭之進はためらわずに手をつかんだまま歩き出した。
「圭之進、手、離して」
呟くみたいな私の言葉に、圭之進は短く答えた。
「手を離したら、千代子さんが逃げるでしょう。俺はそれは嫌です」
わかった。
今は頼られているんじゃない。
求められているのか。
圭之進は、私を掴んだままの左手で、けっこう器用に鍵を開けた。そのまま暗い玄関に二人してよろけるようにして入り込んだ。
「ち、千代子さん」
圭之進が私をドアに押し付けるようにして詰め寄った。周囲は薄暗く、彼の顔もはっきりしない。
そうかー、こんなに誰かに求められたことってないなあ。
なんかちょっと心音が派手じゃないですか、私。ヘッドホンから音漏れしてますよ。圭之進に聞こえるんじゃなかろうか。シャカシャカいってるよ、きっと。
「あの」
圭之進は困惑した顔で言った。
「あ、あの、とりあえず、連れ込んでみたものの、次にどうしたらいいか、わかりません……」
「そのくらい考えてから、連れ込めやー!」
平手を圭之進のぺしんと額にたたきつけた私は何か間違っているだろうか?
「ひぃー、ごめんなさい!」
「ごめんですんだら警察はいらねえ!大体どうして後先考えない!それに創意工夫が全然足りない!展開に困ったらとりあえず、強い敵をだせぃ。ジャンプはそうしている!」
「ああっ、俺は少女マンガが専門なので、そんなこと言われても困ります」
「ジャンルの垣根を超えてこそ名作!」
圭之進はとりあえず、私の手を離し、うつむいた。
「なんか、せっかく探し当てたのに、このまま別れてしまったら、きっともう二度と会えないと思ったんです。だって、聖モニカなんてデラックスお嬢様学校じゃないですか、本当は、千代子さん、全長二十五メートルくらいあるリムジンで登校しているんでしょう?たまたま今日は徒歩だったけど、きっと本当は姿さえ仰ぎ見ることができないお嬢様なんだって。きっと家ではむっくむくの犬とか飼っていて、紅茶くらいしか口にしないんでしょう?」
セバスチャンが出なかっただけましか。
「今日を逃したら、もう次はないって思ったら、つい後先考えずに、ここまでひっぱってきてしまいました」
「それならそれでしたいことがあるんでしょう。え、えっと押し倒すとか」
「だって、千代子さん、それは嫌でしょう」
「嫌だな……。じゃあキスするとか」
「この間、すごい勢いでつきとばしたじゃないですか」
「だって嫌だったんだもん」
「だからどうしていいのかよくわからないんですよ。人の嫌がることをするなんて最低です!」
「人がいろいろ意見を出せば、ああでもないこうでもないと贅沢ほざきやがって!」
「なんで逆ギレ!」
怒鳴りすぎてなんか息を切らせた私は一回深呼吸してみた。圭之進も同じことを考えたのか、一瞬の静寂が落ちる。そのおかげでちょっとだけ冷静になった。
「……あの、ちょっとお茶でも飲みませんか」
「冷たい奴ね。じゃぶじゃぶ飲むよ」
「お腹壊しますよ」
とりあえず、私達は玄関からもたもたとリビングに上がりこんだ。相変わらず雑然としたリビングのソファに居場所を見つけて座りこんでいると、圭之進が氷の入ったウーロン茶を持ってきた。
ローテーブルを間にして私達は向かい合う。
「ええと」
私が黙っていると、圭之進はようやく意を決したように口を開いた。
「とりあえず、さっき凄い力でひっぱってすみませんでした。手首、痛くないですか」
「平気」
しじゅうサーブ受けているから。
「そっちこそ、怪我」
「大丈夫です」
圭之進は笑った。
「あの、俺、ちょっと考えたんですけど、千代子さんにお願いしたいことがあります」
「……何」
「俺と話してください。気候とか、読んだ本とか見た映画とか、そんな話じゃなくて、千代子さんの話」
「話って……別に語るほどの人生じゃ」
「昨日なにがあったとか、どんな友達がいるのかとか、家族構成とか。そういう話。俺たち、そういう……自分の素性がばれるような話、していないですよね。千代子さんは俺を圭之進って呼んで、俺も千代子さんって呼んでいたけど、やっぱり今までって、『サツキ』と『バニラ』だったんじゃないかと思います」
私達が注意深く話題をえらんでいたことを圭之進はやはり気にしていたのか。身バレしないように、深いようでいて浅い会話をしていたことに。
「俺も、中卒とか、マンガ家とか、そういうことを黙って嘘をついていた。千代子さんだって、女子高校生だって知られたくなかったんでしょう?でもなんだかんだで、全部ばれてしまったから、別に『サツキ』と『バニラ』である必要はないじゃないでしょうか、もう」
そこで彼は少し照れた顔で笑った。
「なんて、なんだか偉そうですけど」
偉いよ、圭之進は。
圭之進が全て本当のことを言うわけでなく、明かしたはずではない。それでも自分はあなたと親しくなりたいと正直に言えるのは、直視できない素直さだ。
「私がまだまだ嘘付いていたとしても」
「ネットで知り合った良く知りもしない人に、全てさらすなんて、正気の沙汰じゃありません。だから仕方ないです」
「もしかしたら、まだ黙っているかもよ」
「まあ友人でも全部白状すればいいというものでもないでしょうし」
好きとか付き合うとか、そう言う面倒な先行きを考えなければ、圭之進とは友達みたいになれたらと思う。
でも圭之進はきっと私を好きだ。
だからさあ、引きこもっちゃうのは良くないんだよ。卵の殻に閉じこもっているから、うっかり生まれて最初に見たものをおかあさんだと思っちゃうんでしょうが。後をくっついてこられても困っちゃうよ。
この期に及んでも、私が『サツキ』ではないという事実を明かす言葉は出てこなかった。言うなら今だなと思っているけど、口に出せない。
私が、圭之進に嫌われたくないと思ってしまったからだ。芽依がどうこうって問題じゃない。困った。いろんな意味で困った。
だって私が好きな相手は鉄治なのだ。
私を好きな圭之進と能天気に友達になったり、嫌われたくないなんて思ってる場合じゃない。
って……あれ……ちょっとまて。
私が好きな相手は誰だ。
熊井鉄治であるという、はっきりとした言葉はいつだって呪いみたいに私の心にあった。でも今、それはなんだか曖昧になってきているような気がする。
私が好きなのは。
……とてもずるいのだが、もう圭之進でよくないか、と思ってしまった。
五年間、影に日向に好きだった相手は、ろくでもないことしか私にしでかしてこない。別の意味でなにもない事もストレスだし。好きでいることに楽しみなんてあるのだろうか。
まあ特殊な趣味をお持ちの方なら楽しいかもしれないけど、私は普通の誰かと付き合いたい。
大体あの野郎の今朝の態度ときたら!
私が鉄治を好きなことを知っていたから、適当にあしらっても私が離れていかないとか思っていたのだろうか。本気で、また腹が立ってきた。何様じゃ。
「圭之進」
私は顔を上げた。
「連れ込まれてあげたんだから、私の言うことを聞きなさい」
「なんか日本語おかしくないですか……?」
「しばらく私、ここに住むからよろしくね」
熊井の家に帰るのも嫌だし、実家に戻るのも嫌だ。そうだ、頭を冷やそう。
「手を出したら許さないから、覚悟していなさいよ」
「あ、あの、何がどうなってそうなったんでしょうか」
「連れ込んだ身で、ぐだぐだ言うな!」
「はい、すみません!」
とりあえず、夏休みなんだし。
違う相手を眺めてみよう、と私は思い立ったのだった。
もちろん芽依に対する後ろめたさはあった。
でもいいかげんささくれきっていた気持ちは、それを無視した




