3-2
「千代子さん、最近なんだか挙動不審だね」
にっこり笑って鉄治は言った。
「なんでそんなふうに思うの?」
私も堂々と微笑む。あせもができても猫の皮は脱がない。
「最近忙しそうじゃないか。結構寮からも出かけているって聞いたよ」
「あら、そんなことはないけれど。いつもと同じよ?」
そんなカマかけにひっかかるかい、今更。
うふふおほほとやっていても、私と鉄治の間では、いつも水面下で探りあいなのだ。湖に浮かぶ白鳥は、人知れず水をかくが、我々はぶつかったふりして水かきでド突き合いだ
今日は鉄治と楽しくおデートである。さっき映画を見て今は、イタリアンでランチを食べているわけだ。今日は完璧だぞ、私。
家を出る前にたらふく食べてきたし、映画館を出るとき水も飲んだ。スカートも今日は少々きつめのものだ。
「もう食べないの、千代子さん」
「そんなに食べられないわ」
好きな相手の前で、コースけろりと完食は、乙女としていかがなものか、というわけだ。人並み以上の見栄っ張りが憎い。絶品デザート盛り合わせを途中でやめるなんて、血の涙がでそうだが。ここのアンチョビバターで、パン一斤だって食えるものを。
にこりと笑って私はスプーンを置いた。
「来週はもう夏休みなんだね」
「ええ」
私は鉄治のその言葉に一瞬戸惑う。急に話をそらされてなんだか薄気味悪い。なんか変なフラグが立ったような気がする。『俺、この戦いが終わったら結婚するんだ』って私言っちゃった?
「あのね、夏休みの間、僕のうちにおいでよ」
「謹んでお断り申し上げます」
何寝言ほざいてんだ。
「いいじゃない、芽依だって帰ってくるんだから、家族水入らず、素敵な兄妹愛を深めなさい」
それが都合悪いんだよね、鉄治は苦笑いなんて浮かべる。あっ、お前、デザートのソルべが溶け始めているじゃないか!早く食べろ、もったいない!
自分が食べられない悔しさから、なんだか機嫌悪く私は鉄治に言う。
「私がいる必要なんてないでしょう?」
「つれないなあ、千代子さん」
鉄治はスプーンを置いてしまう。ああああああ!
わかった、話はちゃんと聞く。だから今は、お前はその巨峰のソルべを食べることに全力をつくせ。私の分まで戦えよ。
「実は、母親がまたニュヨークに出張になった」
「それがどうしたっていうの」
うちの父親だって、今九州で単身赴任だ。母親羽伸ばしまくり。
「夏休み中、芽依と二人きりは正直きつい」
こともなげな言葉。
あいかわらずの薄笑い。
でも鉄治の弱音に私はとっても弱いのだ。
「……」
私は無言でうつむいた。私の目の前には、数センチ角の小さなチョコレートケーキが残った皿がある。
「……鉄治が家をでたらいいんじゃないの?」
「それはもう考えた。でも、そうしたら芽依はあの家で一人だ。そんな怖いことはできない」
「……まあ常識的には確かにお手伝いさんがいようとも、高校生女子が一人暮らしなんてありえないわね」
「母親は僕がいるから芽依を置いて出かけられる。多分僕がいなければ出張はやめるだろう、でもその代わり、僕がなんで家にいたくないのかを蛇のような洞察力で見抜く。あの人に知られたくないんだよなあ」
確かに、兄が妹に近親相姦願望持ってますなんて、息子のベッドの下からAVが出てきたときのオカンの気持ちの数倍シャレにならない。そっと整理整頓して戻すくらいではすまないだろう。
「頑張りなさいよ」
「そうだね、うまく丸め込めるように頑張ってみようかな」
「頑張る方向が違うでしょうが」
「もうちょっと僕を正しい方向に頑張らせてよ、千代子さん」
「甘えないで」
私のそんな返事を予想していたみたいに、鉄治は笑った。
「でもさ、僕のこの気持ちというのはいつになったら終わるんだろうね。恋愛感情はいつか薄まるって言うじゃないか。でもそれは首尾よく付き合って結婚までこぎつけたり、逆に、完全に失恋した場合だよね」
「鉄治」
「失恋もできない、告白もできない、距離をとることもできない。そんな状態で、何が終わりなんだろう」
私はしれっとした顔で店員にコーヒーを持ってくるように言っている彼を見つめた。
そんなもの、出口は一つしかないではないか。
「……芽依に彼氏ができればいいのとか、思っているの?」
「願っているよ」
店員が去るやいなや、私は尋ねた。彼の返答は早い、でも迷っている。
「……芽依は憎めないけど、その男なら憎めそうな気がする」
「ねえ、私は山奥に埋めに行く作業に加わるのは嫌よ?」
「ばらばらにするから重たくないよ」
「重さが問題ではないの」
「距離?」
「違う!」
私は途中で冗談にすりかえた鉄治に少しいらいらした。いつまでたっても彼の本心は見えない。私にも、プラタナスにも。
「とにかく」
私は小さく息を吐き出す。
「とにかく悪いんだけど、私が夏休み中あなたのうちに住むなんてのは無理よ」
「無理かな。だって一応彼氏だよ、僕は」
「だからこそ、なの!大体エスカレーターで上の女子大に進むことはほぼ確定だけど、私だって一応受験生なのよ。そんな娘が彼氏の家に入りびたりなんて、喜ぶ親なんていないわよ」
「彼氏、かあ……彼氏の立場なんて脆いものだなあ」
珍しく鉄治は渋い顔をする。そんなこと一般常識だ。なんでいまさら噛み締める。
「じゃあ仕方ない」
食後のコーヒーが来るまで鉄治は何事かを考えていた。ああ、結局こいつデザート盛り合わせのソルべを食べなかった、もったいない。と、鉄治が何事か話しかけてきた。
無駄にしてしまったソルべのことばかり考えていた私は、最初鉄治の言うことが理解できなかった。聞き逃してから、その意味の欠片に引っかかる。
「何?」
「じゃあ、仕方ないって」
「いやそのあと」
「千代子さんの指輪のサイズは?」
「それは今、初めて話したことでしょう!」
鉄治はいつもどーりの笑顔を向けたのだった。
「じゃあ、婚約でもしようか……って言った」
「一言言わせて貰うけど」
私は鉄治を睨んだ。
「いくらなんでも、そこまでは私も付き合いきれないわよ?」
「大丈夫。無理やり付き合わせるから」
ひゃくぱー鉄治の都合の解決じゃないか。
「それは解決とは言わない」
「でも、彼氏じゃだめでも、婚約者ならいろいろ融通効く気がするんだ」
それは『無理が通れば道理がひっこむ』という昔の人のナイス格言だ!
「鉄治、冷静に!」
「冷静だよ。婚約でなんて終わらせない。結婚まで絶対こぎつけるから」
「ちょっとまって。芽依といるために私と結婚って、その時点で前提条件がどうかしているんだけど」
とりあえず、私の人権についての議論から始めようか。
「だからさ、千代子さんは、結婚しても自由恋愛でいいから」
「偽装婚は下手すれば、犯罪よ?」
「偽装婚なんてピンポンダッシュくらいの罪だと思うんだ」
「資源ごみを分別しないくらいの罪にはなると思うけど!」
我ながら軽いなー、私の人権。
剣呑な会話だ。よかった、ここが一番すみの席で。
「じゃあ、そうと決まったら、指輪を買いに行こうか」
「何も決まっていないわ」
「千代子さん、人の話を聞きなよね」
私の話も聞け!
ちゃっちゃと会計を済ませた鉄治は、私の手首を握った。ラブはこもっていないが力はこもっている。万力の力だ。
「じゃ、行こうか。そうしたら、君のご両親にも挨拶しなきゃいけないし、忙しいよね」
「いいかげんに」
しろ、バカ!といおうと思った私の目を鉄治は急にまっすぐに見つめた。
「……千代子さんにしか、頼れないんだ、ごめん」
お前本当は、私があんたを好きなこと知っているんじゃないか、と聞きたくなるようなタイミングだった。
私は、本当に、鉄治の弱音に弱いのだ。




