第283話「潜入任務」
獣王国の森が黙り込んだ。
太陽光が降り注ぎ、昼間に活発に動き回る動物や魔物がうろうろと動き回っていたはずだ。
先ほどまではのぞかな深き森の風景が広がっていた。そう、先ほどまでは。
始めに消えたのは野鳥の声。騒がしいまでに自己主張をしていたその鳴き声が、ぴたりと止んだ。ついで、木々がざわめく音すら掻き消えた。誰も彼も動きを止めたのは、その野生の勘が為せる技だったのだろう。
異変を感じ取った森が、息を止めていた。
見た目に異変は無かった。だが、頭の内側を捻じ曲げられるような気持悪さが周囲一帯を襲う。
何もない宙空に、白く光る筋が走る。始めは糸ほどの筋だったその光は、やがて大きく広がっていく。誰かがそれを見れば、〝裂け目”だと思ったことだろう。
やがて人が通れるサイズにまで空間の裂け目が拡がっていく。
その裂け目から、フードを目深にかぶった数人が吐き出された。全員が特徴のない灰緑色をしたマントフードで顔を隠している。それが、総勢八名。抜き身の剣を提げ、油断なく辺りを見渡す。全員が無駄なく、お互いの死角を補う動きは戦闘の訓練を受けたプロのものだ。
敵性存在がないことを確認した八名は、その剣を納めた。一斉にリーダー格の前に整列する。
「クリアです。マース様」
部下の呼びかけを聞いて、銀騎士マースは苦い顔をした。マースの部隊は今や存在していない。本人とその元部下たちが王都から距離を隔てた獣王国の森の中に立っているのだ。
「……すまんな。こんな死地に突き合わせてしまって」
「いいえ。お気になさらず。我らマース様の部下、あのまま騎士団に残されるより、マース様のもとで働けるほうが幸せでございます」
「お前達……」
「そもそも、あの者さえ来なければ、このような形での騎士団再編など……!」
部下の一人、ベルンが力拳を握りながら言う。押し殺した声には、誰かに向けた怒りが乗っている。
マースは落ち着くようにベルンの肩を叩いた。
マコトが王都を離れてすぐ、騎士団は再編を行っていた。既存の考え方から大きく変わった再編成の仕方は、来たる獣王国との戦争を視野に入れてのものだった。その実質的な舵を執ったのは金騎士であるテレキアン。
あまりにも目に余るやり方に、マースは異議を申し立てた。その結果、ここに居るのだ。
光を放つ空間の裂け目から、その身をくねらせるようにして魚が出てきた。一瞥すると姿勢を正した。空を泳ぐ魚の正体は魔術ゴーレムであることをマースは知っている。そして、滑稽なことにこの魚はマースより階級が上なことも知っていた。
ゴーレム魚は、嬉しそうに一回りすると、マースの眼前へと泳ぎ出る。
「重畳、重畳。見事に成功である」
ゴーレム魚から、声が発せられた。どこから出ているかわからないが、マースにはしわがれた老人の声で聞こえた。歓喜が滲む声に、マースは不審感と嫌悪感を隠すこともせずに問いかける。
「ここは本当に獣王国なのでしょうな?」
「確実である。獣王国北の港町よりやや南である。しばらく西へゆけば目的地へと着くであろう」
「……こんな昼間で大丈夫なのですかな?」
「潜入だから余闇に紛れればよいと思うのは浅はかである。獣人には夜行性の者も多いのである。夜目が効かぬお前たちだ。せいぜい明るい道を行けば良いであろう」
ギョロリと目玉がマースを睨む。背筋を冷たい物が走った。だが、マースは努めて平静な振りをしてみせた。この魚に弱いところは見せたくない。だが、ゴーレム魚は気にするふりもなく、ぶつぶつと呟きだした。
「善哉、善哉。実験の第一段階は成功である。空間転移装置としての機能は、ほぼ確実と言えるのである。あとは目的の物を奪取すれば問題ないのである」
「……任務、了解した」
「回収は四日後の昼。同じ場所である。間に合わない場合は、予定通りに行動されたし」
ゴーレム魚はそれだけ言うと、身をひるがえして空間の裂け目へと戻っていく。吞み込まれた身体が消え、次いで裂け目が閉じていく。
「……行くぞ」
マースは部下を伴って進み始めた。歩みながら懐から羅針盤を取り出すと方向をチェックする。目的地までを指し示すこの複雑な魔術器も、あのゴーレム魚が用意してマースに持たせたものだ。
部下に気付かれないように、内心でため息を吐いた。
テレキアンがどこかから連れてきたあのゴーレム魚は〝研究者”だ。魔術ゴーレムに詳しく、その技術がもたらした衝撃は、王国が獣王国との戦争に踏み切るのに十分なものだった。
王国は主戦力として魔術ゴーレムが採用することになった。そのための騎士団再編だ。魔術を使えるものは砲台として後衛に組み込まれるが、前線でこれまで前線で戦っていた兵士たちは、魔術ゴーレムを運用するための雑用係へと変わってしまったのだ。
深い森と言っても、魔術的な身体能力強化を行っているマース達にはさほど難しい道ではない。気配を遮断する魔術も併用しながら先を急ぐ。時間はかなりシビアに切られている。進みながらマースは物思いにふける。
国というのは生き物だ。王国ほど巨大になれば、安定する代わりに変化は起きにくい。ただ、停滞し滅びに向かわないために、少しずつの変化が起き、豊かになっていくものなのだ。農業的な技術革命であったり、政治的な変革があって、少しずつ良くなっていく。
だが、今回の変化は急激に過ぎる。マースが危険を覚えるほどだ。
ここ最近、王国には色んな事件が重なった。灰竜による王都襲撃。王国の巨大戦力である剣聖が消え、姫が行方不明。裏の仕事に従事していた奉剣部隊も壊滅。
大きな要因は、ベルランテの独立だ。北における交易拠点であるベルランテが独立したことで、揺れた所領も多い。いくつかの領地については、自給自足での独立を画策しているところもあるという。
この災害のような嵐の中で、テレキアンが連れてきたかの研究者は一種の希望の光に見えた。誘蛾灯のような光だとしても、王国の重鎮たちは寄らずにはいられなかった。不満を言う民をねじ伏せ、再び従わせるための結果を必要としていたのだ。
空気が濃い。マナが濃密と言うべきか。やはりここは王国ではないことを改めて感じる。
マースは強く目をつぶると、迷いを振り切った。
今は、任務を果たすしかない。ここで死にたいわけではない。潜入任務だ。うまくやれば現地民と会わずに目的を達することもできるはずだ。
獣人の感覚は鋭い。それを知らないマースではない。
後ろを一糸乱れぬ挙動でついて来る部下たちを思う。ひよっこの時代から精魂込めて鍛え上げた自慢の部下達だ。もしもの時は自分の身と引き換えでも彼らを逃がすことを決意する。
マースは強い意思を湛えた目で、行く道をまっすぐに睨んだ。




