第271話「ベハク村」
しばらく進むと森を抜けた。
強く吹いた風がミトナの髪を揺らす。森は高台の上に位置している。ここからでもミトナの目には道の先に存在する村が見えていた。熊の獣人が多く暮らす集落であるベハグだ。さらに西に行けば大きな街であるベアトレーンに辿り着く。
ミトナは思わず笑みをこぼす。三角錐型をした独特の家屋は故郷のものだ。干されている洗濯物がはためいているのが見えた。果物が満載の籠を頭に乗せた熊の獣人がゆっくり歩いている。
ミトナは幼い頃の思い出をふわりと思い出した。懐かしい思いを胸に抱きながら、前を行くイリに続いた。
(本当に戻ってきたんだ)
「ベハグ村……。懐かしい」
「ええ。戻られるのは久しぶりだと聞いています」
急なことに驚いたが、ミトナの胸にじわりと実感がこみあげてくる。
振り返ったイリは柔らかい笑みを浮かべた。すぐに生真面目な表情に戻るが、思うほどきつい人ではないのかもしれない。イリの尻尾が揺れる。
「ウルスス様は会合に出られております。しばらくは戻らないでしょう」
「会合?」
ミトナは首を傾げた。ウルススは一介の武器屋のはずだ。何の会合に出ると言うのか。
「最近、魔物が活性化しているのです。その対策のための会合ですね」
不思議そうな顔をしたミトナに、イリが説明する。
「ん。なんだかいやな感じだね」
「心配しなくても大丈夫だぜ。ミトナお嬢さんが戦えなくても、魔物が出たらオレがミトナお嬢さんを守るからな」
心配そうなミトナの声音を勘違いしたファンテルが言う。ミトナは苦笑した。
ミトナはふと似たようなことを聞いた覚えがあると考えた。マコトと共に戦った魔物は、普段とは違う様子を見せていた。活性化と言うのなら、聖王国にも同じ状況が起きている。
ミトナが目覚めてすぐにイリとファンテルが姿を現したのは、活性化した魔物が出てきたときのために護衛をしてくれていたのだろう。
ミトナは二人の顔を改めて見つめた。じわりと温かい気持ちが湧きあがる。
その声を聞く間に、三人は村の入り口に足を踏み入れた。
(ん……?)
ミトナは眉をしかめた。なんだか村の空気がひりついている。一見すると普段通りに見えるが、張りつめているものがうかがえる。
ミトナが違和感を感じたのを気付いたのだろう、ファンテルが得意げに髭を揺らしながら口を開いた。
「近頃聖王国のスパイがうろついていることが多くなってきてるんだ。本格的な戦争がはじまるかもしれねぇな。ぴりぴりした感じなのはそのせいだ。このあたりにも現れたんだぜ。オレが捕まえたんだ。森の中じゃオレにかなうはずがないってのによ」
「捕まえた……?」
「おお。そうでなくても最近は半獣人との対立が進んでるっていうのに――――」
「――――ファンテル」
イリの刺すように冷たい声に、ファンテルが縮み上がる。
「いや、悪い。聞かなかったことにしてくれ」
ミトナは聞きだそうと口を開いたが、質問は形にならなかった。それより先に、こちらに向かって走ってくるウルススの姿を見つけたからだった。
「ミトナ!!」
「ん。ちょっと痛いよ」
ウルススは感極まった声で叫ぶと、ミトナをぎゅうっと抱きしめた。熊の獣人の力だ、力を込められるとさすがに痛い。やがてゆっくりとウルススは身を離した。ここまで連れてきたイリとファンテルに顔を向ける。
「手間を取らせてすまんかったのう。助かった」
「いいってことですよ」
「いえ、かまいません」
ファンテルが自慢げに鼻をこする。イリが丁寧に頭を下げた。
「ここらの森に出る魔物程度なら、イリとファンテルの敵にはならん」
力強い声が響き渡った。ウルススが来た方向から、剽悍な顔付きの猫獣人が歩いてきた。大柄な体格は虎かと見間違うばかり。ウルススに匹敵するほどの背の高さだ。ハシバミ色の瞳は大きく、茶色の毛並はなめらかだ。その動きからは荒々しさが伝わってくる。武器も防具も身に付けていないが、気配で戦士だと知れた。
イリとファンテルが頭を下げると、掌に拳を合わせた礼をする。
近寄ってきた猫獣人は、鷹揚に手を挙げてそれに応えると、ウルススに並んだ。
「ヒュウマ。すまんかったのう。二人を貸し出してもらって」
「いや、かまわん。不肖の娘と息子だが、これくらいの手伝いはできるだろう」
(ん。イリとファンテルの、お父さんかな?)
ヒュウマの言葉にファンテルの髭が一瞬揺らぐのをミトナは感じていた。ファンテルは自分の力に自信があるのだろう。ヒュウマの言葉に反発心を抱いたのが見てとれた。イリは特に気にしていない様子だ。
(落ち着き具合から見ると、イリがお姉さんなのかな)
「この子も元気になったようで何よりだな」
急に話しかけられて、ミトナは一瞬息を詰まらせた。このヒュウマという人の声には、少し緊張する。
ヒュウマはその大きな瞳で、ミトナをじっと見つめた。宝石のような瞳の中に、様々な感情が浮かんでは消える。ミトナはその全てを読み取ることはできなかった。思った以上に複雑な感情がそこには込められている。
「ミトナ……か。大きくなったもんだな」
「どこかで、お会いしたことが?」
「君が覚えていない小さな頃に、な」
ミトナは思い出そうと試みた。ぐっと記憶を探ってみるが、この猫獣人の顔は覚えていない。だが幼い頃の事だ。全てを覚えているわけではない。
困った顔でウルススを見ると、頷きを返された。間違ってはいないらしい。
「まあ、立ち話もなんだ。我が家にでも行こうじゃないか」
ふっと力を抜いた気配があった。ヒュウマは村の中心を手振りで示すと、踵を返して歩き出す。ウルススが動きだしたので、ミトナは続くことにした。
ウルススに聞きたいことは多くあるのだが、ヒュウマやイリ、ファンテルらがいるここでなくてもよい。後で聞こうと胸の内にとどめておく。
だが、これだけは聞いておかなければならない。
「ね、パパ」
「なんじゃ、ミトナ」
「ベルランテにはいつ戻るの?」
ウルススの気配が硬くなった。ミトナは怪訝そうな顔になる。
しばし迷う気配と共に、ウルススは口を開いた。
「まあ。病み上がりじゃ。しばらくはベハクでゆっくりとするといい」
「ベルランテのみんなには……」
「みんな無事じゃ。……ちゃんと療養すると言っておるわい。身体に異常が出ないか見ておかんといかんじゃろうが」
「でも――――」
「この辺も結構変わったそうじゃぞ? イリとファンテルに案内してもらうと面白いじゃろ。西に行けばベアトレーン、北東に行けばシャラン港。そのあたりを見るのも面白いかもしれんの」
ミトナはそれ以上問いかけるのをやめた。確かに戻ったばかりの体調に不安を感じている面もある。
ウルススが何だか強く言葉を重ねるのは不思議に感じたが、ミトナを心配してのことだろう。
ベルランテのことも心配だが、ミトナ一人の力では獣王国からそう簡単に戻ることもできない。
(ん。今はゆっくりするしかないのかな……)
マコト、フェイ、マカゲ、サウロのことは心配だが。ウルススが大丈夫と言っているのだから、どうにかなったのだろう。ベルランテに戻った時に事件の顛末を聞くことにしよう。
ミトナは懐かしい空気を吸い込むと、足取り軽くウルススの後を追いかける。
ファンテルとイリが、そんなミトナをじっと見つめていたことには気付かなかった。




