第198話「停戦調停」
見渡すかぎりに、ぬかるんだ地面が続いていた。浮島の様にところどころ草の生えた土地が見える。
粘りがある泥は、簡単に足を飲み込み、一度喰らいついたらなかなか離さない。
グシオラ泥原地帯。
それは聖王都グラスバウルと南部連合の首都ザルンブックから、ちょうど中間地点に位置していた。
聖王都を流れる豊富な水源の水。鉱石の含有量が増えた地質により、表面に浮き出てくる。よって、水が混ざり合った泥の地帯と化しているのだ。
いま、そのグシオラ泥原地帯の一画に、陣が築かれていた。
青を基調とした天幕を中心とした大きな陣は、聖王都のもの。
赤を基調とした華やかな色調の布を使用した陣は、南部連合のもの。
戦争状態にあるはずのこの二つの陣は、かなり近いところで構築されていた。
それぞれの陣地を多くの兵が守りを固め、せわしなく動いていた。料理を出すための炊事の煙がそこかしこで立つ。
停戦のための調印が行われるのだ。
「この泥、なんとかならぬのか……」
多くの騎士が整然と並ぶ中、銀騎士マースは小声でぼやいた。まだ調印の式までは時間がある。とはいえ、それまでずっとここで整列し、待たされるのだ。ぼやく気持ちも出て来るというもの。
隣で岩のように微動だにしないクロンツェンが閉じていた目を開けた。
「この泥のおかげで両軍とも兵を連れてこれないのさね。これほど安全な場所もないだろう?」
「確かにな」
クロンツェンの言葉に、マースは同意する。
この泥原地帯では、歩兵は役に立たない。前に進めないのだ。同時に騎馬も意味を為さない。
やりあうなら遠距離攻撃に頼らざるを得なくなる。魔術騎士団が今回の護衛として、全て連れてこられている意味もわかるというものだ。
(もちろん、相手も何か隠し玉を用意しているだろうがな)
マースは南部連合の陣にある、不自然に大きな天幕を半目で見ながら心の中で呟いた。
「しかし、さすがテレキアン殿さね。ここまで早く状況を整えるなんてね」
「かねてより準備をなさっていたのだろう」
マースがマコトと別れ、王城へと戻ってきてから三日。どんな提言をしたのかはわからないが、ウルガルトがテレキアンの説得を受け、停戦を決めたのだ。できるだけ早い方がいいとのことで、マース達は鉱山地区から騎士団が戻るより前に出発をしたのだ。
連絡を受けていたのか、停戦に合意を示している有力貴族たちの一部もここに集まってきていた。サンデリヨン候やニョール候など反王派と呼ばれる貴族が多いのがなんとなく気になった。
調印式を告げるラッパがあたりに響き渡った。
マースは口を閉じると、不動の姿勢を取った。気を引き締める。これが一番の山場だ。
中央に設置された大きなテーブルに向かって、両陣営からカーペットが敷かれていく。
王国は青。高級な染料で染められたカーペットの上を、ウルガルト王が歩いていく。その後ろを金騎士であるテレキアンが続く。
南部連合は赤。金と緑に染められた刺繍糸で複雑な美しい模様が刺繍されたカーペットは、マースからすると華美すぎて目がちかちかする気がする。
そのカーペットの上を、肌の浅黒い偉丈夫と、その護衛である竜の獣人が続く。髭を整えたあの男が、南部連合の心臓の一人、アル・シャガだ。
護衛として控える竜の獣人も、その顔の形から、黒塵竜に連なる竜人なのだとわかる。
両名が机を挟んで向かいあった。その両目から火花が散ったように見えたのは、見間違いではあるまい。ウルガルト王も不服なのだ。だが、その顔は青い。
「ふむ。お待たせしましたな」
その声は、よく通った。深い、渋みのある声。
思わず聞かずにはいられない、カリスマ性のある声だ。
王都とも、南部連合とも違う方向から現れたのは、白い法衣を纏う老人だった。
悠々とテーブルへと歩みよると、ちょうど二者の真ん中へと立ち止まる。
テレキアンが頭を軽く下げた。法衣の老人は鷹揚に片手を挙げて応える。
「教主様、ご足労感謝いたします」
「かまわぬよ。聖王都は兄弟都市のようなものではないか」
(パルスト教教主――――!?)
マースは驚愕に目を剥いた。
痩せこけた骸骨のように見える、背の低い禿頭の老人。だが、そのオーラは尋常ならざるものがある。
戦争状態にある二国が停戦するのは容易ではない。そこには間を仲介する何者かの存在が必要だ。
テレキアンには伝手があると言っていた。これがその伝手だと言うのか。
「さて、それでは停戦調印式を始めようではないか。人の神の名のもとに、偽りなく、な」
にやりと笑った顔に、マースは一瞬怖気を感じた。
嫌な予感が、する。
従者が運んできた巻物が、テーブルの上に広げられる。
今回の停戦における要綱が記されたものだ。これにウルガルト王、アル・シャガ、そして見届け人としてパルスト教教主の名前を記名することで、停戦調停が為される。
「さて、それでは停戦にあたり、必要な条件を確認していこうかのう」
ざらり、とパルスト教教主が巻物を持ちあげると、その内容を読み上げる。
王都の南の一部の割譲、南部連合からの交易再開。
「――――そして、聖王都グラスバウルの執政顧問として、パルスト教教主を据える。以上の条件において、停戦とする。これでよろしいかな」
(なんだその条件は――――ッ! いいわけがあるまい!!)
マースは、かろうじて叫ぶのはこらえた。だが、ありえない条件に握りしめた拳が震える。血の気が引き、視界がふらついたが、倒れるのはこらえた。
隣のクロンツェンが疑問顔のまま、小声でマースに問う。
「つまり、どういうことさね?」
「パルスト教の言いなりになれということだ。その代わりに、停戦だ」
「そんな……」
王都の表向きは、変わったところはないだろう。だが、その裏では、どれほど蝕まれていくか。
見えぬところを食べていく白アリが、頭の中に浮かんできた。
こんな条件を飲むはずがない。だが、マースの思いとは裏腹に、ウルガルト王は調印を進めていく。
愕然とした気持ちで、その様子を見る。どうして。
「調印するしかあるまいよ。鉱山区の出兵を失敗、全滅だそうだ」
「騎士団を失った状態では、停戦をしなければ国が亡んでしまうからのう」
(なんだと!? そんなはずはッ!!)
周りに並ぶ貴族から、漏れ聞こえる声。
その内容に、マースは二度目のショックを受けた。鉱山区での戦いは無かったはずだ。
激突で兵を失うことを防ぐために、黒塵竜とも戦ったのだ。
騎士団の指揮官は、テレキアンが説得を行い、無事に王都へ引き返したのではなかったのか。
(まさか――――!!)
遠くから見ていても気付く。
調印式に集っているうち、教主とアル・シャガ、テレキアンには似たような雰囲気を、つながっているとも思えるような雰囲気を感じる。
どうして王は、あの怪我でパルスト教に回復法術を求めなかったのか。
反王派の貴族が多いこの場。
テレキアンからの停戦からすでに。
(謀られたか……ッ!!)
マースの心の中に見えぬ爪が突き立ち、血が噴き出す。張り裂けて心臓が飛び出たなら、迷わずあの男にぶつけてやろうものなのに。
王が幽鬼の如き顔で、調印を終えた。だが、その顔はまだ死んではいない。
アル・シャガが残りの行程を、粛々と進めていく。その様子を怨霊じみた視線で凝視している。
その理由にマースは気付いた。
うつむきかけた顔を、はっとあげる。
不自然に行方がわからなくなった、聖剣を持たぬ剣聖と、王女。まだ王は何か手を打っているのだ。
その全体像は見えない。
(自分にできることなら……この身を惜しみませぬ。それに……)
マースは誰にも知られぬようにその身に力を入れ直した。
王のために、力を集めねばならない。あの有力な若い魔術師の姿を、脳裏に思い描いた。




