第五五話 奈々逃げる その二
▽一五七〇年六月、澄隆(十五歳)鳥羽城 禁秘ノ部屋
奈々が逃げていった……。
俺は、奈々に逃げられ、思わずその場に崩れ落ちた。
そうして放心している間に、奈々の背中が遠ざかっていく。
あ、勢いよく転んだ。
だ、大丈夫か?
奈々は、すぐに起き上がると、そのまま足を痛そうに押さえながら、走っていく。
俺は、奈々に声をかけられず、その場で佇む。
頭の中がグルグル回る。
……この時代、戦国大名は、政略結婚が常識だった。
家臣の下克上、大名間の裏切りが当たり前の時代だからこそ、少しでもその可能性を減らすため、血でつながりを持とうとした。
なので、大名は、恋愛結婚なんてご法度で、俺が知っている限り、恋愛結婚した大名なんて、ほとんどいない。
今回、俺は奈々に、正室にしたいと伝えた。
正室ではなく、妾という選択肢もあるとは分かっているが、俺は奈々を正室にしたい。
非常識の恋愛結婚だ。
この時代の感覚だと、奈々が混乱して逃げるのも仕方がないのかもしれない。
俺は、禁秘ノ部屋で一人、余計なことばかりを考えてしまう。
奈々は、身分が違い過ぎると言っていた。
奈々にとって、俺と結婚するのは幸せではないのではないか?
大名の正室として、苦労するよりは、今、奈々に届いている縁談で結婚した方が奈々には幸せなのかも……。
俺は、奈々の幸せを願ってやりたい。
奈々が幸せになるなら、俺が諦める方が良いのではないか……。
ふと、そんなことが頭をよぎる。
………………
俺は、燃え尽きて、ずいぶんと時間が経った。
灰になっていると、急に、俺の名が呼ばれた。
「す、澄隆様……」
「ん!? 奈…………々?」
俺が、崩れ落ちているのに驚いているのか、奈々は目を丸くしていた。
そんな、何気ない仕草も綺麗だ。
俺は、いつも、奈々に癒されてきたな。
「き、急にいなくなって、申し訳ありませんでした……」
奈々は、胸に手を当てながら、深呼吸を繰り返している。
俺は、慌てて姿勢を戻し、奈々を見つめる。
奈々は、顔を少しうつむき気味にしながら、真っ赤になっている。
奈々は、俺のことをどう思っているのだろう。
当主としては、良い感情を持っている……はずだ。
いつも、尊敬の眼差しを向けてくれていたのは分かる。
ただ、男としては見られていないことが、プロポーズをして分かった。
俺は、奈々の顔を見ながら、考え続ける。
奈々は、俺と結婚するのは嫌なのか?
それとも、少しは嬉しいと思ってくれているのか?
俺は、奈々が幸せになるなら結婚を諦めようと考え始めていたが、奈々を見ていると気持ちが揺らぐ。
もしも、俺のプロポーズを断って違う男と結婚したら……。
俺は、怖くて仕方がない。
そうなのだ。
俺は、奈々を諦めることなんて無理なのだ。
「澄隆様、結婚のことですが……私は――」
「ば……」
「? ば?」
奈々は、首をコテンと少し傾げて俺の言葉を待つ。
「ばかなことを……戦国大名としては非常識なことを言っているのかもしれない。ただ、俺は、身分なんて関係ないんだ」
俺は、大きく深呼吸をする。
「な……」
「な?」
「何度でも言う。俺は、ずっと奈々に隣にいて欲しい」
俺は、奈々の目をしっかりと真正面から見る。
奈々も、俺を見つめている。
「し……」
「? し?」
「幸せにするっ! 逃げたのは、俺のことを男として見られないからかもしれないが――」
「す、澄隆様! 待ってくださいっ! 逃げたのは、私の気持ちが追い付かなかったからです……」
奈々は、俺の方を向き、『そ、その』と歯切れ悪そうに、何かを言おうとしている。
奈々は、うっすらと涙をため、目が少し赤くなっている。
そして、ゆっくりとした足取りで、俺に近づいてきた。
「す、澄隆様、私が影武者になった時のことを覚えていますか? あ、あの頃、私の右手を握ってくれました。もう一度、握ってくれますか?」
恥ずかしそうにそう言う奈々。
奈々に右手を差し出され、俺は、奈々の顔と右手を交互に見た。
俺は、そうっと奈々の柔らかい右手を握る。
あの日と同じように、奈々のステータスが空中に出る。
【ステータス機能】
[名前:多羅尾奈々】
[年齢:15]
[状態:良好]
[職種:影武者]
[称号:無し]
[戦巧者:31(38迄)]
[政巧者:35(66迄)]
[稀代者:陸]
[風雲氣:弐]
[天運氣:捌]
~武適正~
歩士術:肆
騎士術:弐
弓士術:漆
銃士術:壱
船士術:壱
築士術:参
策士術:陸
忍士術:肆
〜装備〜
主武器:無し
副武器:無し
頭:無し
顔:無し
胴:絹の小袖(参等級)
腕:無し
腰:絹の袴(参等級)
脚:絹の足袋(参等級)
騎乗:無し
其他:無し
「ありがとうございます。……あの時と一緒ですね……。澄隆様と手をつなぐと気持ちが温かくなる」
奈々は、手を握ったまま微笑んだ。
奈々の微笑みは、今まで見た中で一番綺麗だった。
「私は、初めて澄隆様に手を握って頂いた時、澄隆様のために、影武者として死ぬことを決めました……。その気持ちは今でも変わりません」
奈々は、不安そうな顔をして、俺に問いかける。
「身分の違う私が、澄隆様の結婚相手として相応しいとは思えませんが……。本当に私で良いのでしょうか……」
俺は奈々に力いっぱい頷く。
当たり前じゃないか。
奈々は恥ずかしそうに俯いて握手している手を見つめている……。
暫く待っていると、続きを話し始めた。
「澄隆様……………。私は五歳の時と同じように、澄隆様の想いに応えたいです……。まだ、気持ちの整理がつきませんが、私は澄隆様のお側で………………」
………………。
…………。
……。
「これからも生きたいと思います」
奈々は、艶を帯びた目で、はにかみながら、俺と繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
俺のことを真っ直ぐに見詰めている奈々の優しい微笑が眩しい。
俺は、思わず奈々の腕をぐいっと引き寄せ、『うわっ』と言う奈々を抱きしめる。
俺は、奈々の首筋に顔を埋め、心の内を全て絞り出すようにして、奈々に言葉を伝えた。
「奈々、これから時間をかけて、俺と新しい関係を築いていこう……。俺と結婚してくれ」
奈々は、顔だけでなく、耳まで真っ赤にしながら、コクンと頷いた――。
………………
ここからが、また、大変だった。
奈々と二人で、奈々の父である光俊に結婚することを伝えると、いつも冷静沈着な渋い光俊が、驚き過ぎて気絶した。
奈々も驚いて、光俊を看病すること四半刻後、光俊はやっと再起動した。
光俊は、信じられないようで、何度も本当ですか?と尋ねてきた。
光俊は、フラフラになりながらも、俺と奈々の結婚に頷いた。
動揺し過ぎて分かっていなそうだが、まずは光俊が認めた。
次に、近郷だ。
俺は、近郷が一番、反対すると思っていた。
俺は光俊を説得したその足で、奈々と一緒に近郷がいる部屋に乗り込んだ。
近郷に人払いをお願いし、恐る恐る奈々と結婚することを伝えると、近郷は頭を抱えながら、大きな溜め息をついた。
その後、近郷は、くわっと目を開くと、顔を俺に近づけて、珍しく小さな声でボソボソと話し出した。
「奈々が性根が良いのは承知していますし、澄隆様が、変わった当主というのはイヤというほど分かっております……。奈々を正妻にすること、反対はしませんぞ。ただし、条件がございます」
近郷は、俺を軽くディスりながら、珍しく神妙な顔で、俺を見据えた。
「その条件ですが……。妙を側室として、もらってくだされ」
これには、俺が驚いた。
妙を側室か。
妙のことは、俺は妹のように考えていた。
だが、近郷は俺と一緒にさせたいようだ。
奈々は笑顔で頷いている。
うん……。
妙なら、奈々とも仲が良いし、問題は起きないだろう。
ただ、いきなり、妻が二人か。
俺がクラクラする。
近郷は、俺の目をじっと見て、俺の返答をずっと待っている。
俺は、近郷と妙のことを考える。
妙を自分の子供のように大切に育てた近郷の頼みだ。
妙の意思を尊重しての提案だろう。
妹ではなく、結婚相手か……。
頭の整理に時間がかかりそうだが、妙のことも大事だしな……。
俺は近郷に、分かった、妙を側室にすると伝えた。
近郷は、ホッとした良い笑顔で頷いた。
今のところは、奈々と妙と婚約だけして、俺が元服してから、まずは奈々と結婚、その後、落ち着いたら妙と結婚することになった。
………………
俺は、奈々を部屋の前まで送り、頭の芯まで疲れきって、目をショボショボさせながら、一人、禁秘ノ部屋に戻ってきた。
禁秘ノ部屋の前には、風魔の霖が膝をついて、待っていた。
俺が近付くとしゃんと姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「澄隆様。おめでとうございます」
霖から、お祝いを言われた。
俺は、顔をひきつらせながら霖に確認すると、霖は気をきかせて、霖以外の護衛は遠くへ退かせていたとのこと。
ただ、霖には、俺のプロポーズの一部始終を聞かれ、俺が奈々に一度逃げられ崩れ落ちた所も見られたようだ。
……俺の黒歴史だ。
霖には念入りに、絶対に他言無用だぞ、絶対に絶対にだぞと、お願いした。
……ちなみに、後日。
妙には、近郷立会いのもと、俺から改めてプロポーズした。
ぱああっと満面の笑みを浮かべて、妙は何度も頷いた。
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澄隆は、無事に奈々と、そして妙とも結婚することになりました。
次回は、『鎧と火縄銃』です。
澄隆は、火縄銃対策のための鎧づくりに取り組みます。
お楽しみに!




