第五四話 奈々逃げる その一
▽一五七〇年六月、澄隆(十五歳)鳥羽城 禁秘ノ部屋
奈々も十五歳になって、ますます女らしくなってきた。
なだらかな撫で肩、均整の取れた手足、俺と同じ格好で、髪を束ねているが、奈々の心の綺麗さや性格の良さも滲み出ているのか、凛とした美しさが目立つ。
奈々の艶のある黒髪に処女雪のような白い肌。
その美しい雰囲気を言葉にするなら、清楚で可憐、純潔。
奈々を見ていると、周囲の空気まで、綺麗で澄んだものに変わったような気がする。
俺はいつも奈々を目で追ってしまう。
そんなある日。
光俊が神妙な顔で相談にきた。
「澄隆様、折り入ってご相談がございます……。奈々も体型が女らしくなり、澄隆様の影武者が難しくなりました。ここは、新しい影武者を探しても良いかと……」
うん、そうだね……。
俺の今の身長は、この時代の平均身長より頭一つ分は大きくなっている。
俺は、『筋肉は裏切らない』と考えて、鍛え続けているのにも関わらず、残念ながら筋肉は絶望的につかない。
だが、いつの間にか、奈々よりずいぶん背が高くなっている。
影武者も卒業か……。
奈々が影武者を卒業するとなると、寂しくなるな。
「それで、奈々はどうするんだ? 一族の村に戻るのか?」
「いえ、幸い、奈々に縁談が入っておりまして、結婚させようかと考えております」
ホワァァァァァァァァァァァァァァァァト!?
俺は思わず、仰け反って、目を見開いた。
いや、待て待て。奈々が結婚?
俺は、奈々とは五歳の頃から一緒にいた。
ずっと一緒にいるもんだと思っていた。
俺は、澄隆に憑依してから、一番、動揺している。
奈々が結婚…………。
理解が追いつかない言葉。
もちろん、結婚という単語は分かる。
ただ、俺の心が、奈々が結婚するという言葉を拒んでいる……。
俺は、陸に上がった金魚のように口をパクパクとさせて、声が出ない。
俺は、その後、光俊の話が耳に入らなかった。
俺は、光俊と話した後、気がつけば、奈々と話すために、部屋を出ていた。
奈々を見つけ、声をかける。
「奈々!」
俺は、奈々を呼んだだけで、何も言い出せなくなる。
そんな俺を見て、奈々が話してきた。
「澄隆様、私が影武者を辞めることを父上からお聞きしたのですか?」
奈々は、腕を組んで、自分の肩を擦りながら話す。
「体つきも澄隆様とだいぶ変わってしまいましたし、申し訳ございませんが、影武者はこれ以上務まらないかと……。これまで、本当にありがとうございました」
奈々は、俺に深々と頭を下げる。
俺は、前世では、彼女のかの字もなかった男である。
色恋話には無縁な俺。
こういう時、どう声をかければ良いのかまったく全然分からない。
奈々は、俺の顔を見ながら、少し目線を上にあげると、気付いたように、恥ずかしそうな少し高い声を出す。
「もしかして、私に縁談が届いていることも聞いたのですか? もう、父上ったら……。父上からは、結婚を考えてみたらどうかと言われました」
奈々は、こんな恥じらいのある顔もできるのだな……。
どうしてこんなに心が痛むのか。
よくわからない。
俺は、奈々の話を聞いても、頷くしかできなかった。
………………
俺は、奈々に縁談が届いていることが分かってから、全く集中することができず、ずっと奈々のことを考えている。
……俺は奈々と、どうなりたいのだろう。
影武者として、一緒にいて欲しいのか。
いやいや、ここまで動揺するのは、俺は、奈々が好きなのか。
このまま、何もしなかったら、奈々は、誰かの妻になり、俺の前からいなくなってしまう。
それで、良いのか……?
口にせずとも相手の心に寄り添え、さり気なく誰にでも優しくて気遣いができる奈々。
人に誠実に接し、大らかに受け入れてくれる器の大きい奈々。
俺は、ずっと奈々を見てきた。
奈々がいつも側にいるのが普通になっていた。
ずっと一緒にいると思っていた。
俺は、気がついた。
……ああ、認めよう。
そうだ。
俺は、奈々が好きだ。
奈々に側にいて欲しい。
ただ、そうなると、どうする?
奈々に妻になって欲しいと言うのか。
澄隆に憑依している立場の俺が、奈々にプロポーズしてもいいものだろうか。
それと、女の子の扱いは良くわからない……。
女の子に付き合ってと言ったこともない俺は、女心というものが今ひとつ理解できていない。
恋愛偏差値が低すぎるというか、経験値ゼロの俺が、奈々に妻になってくれと言うのは、ハードルが高過ぎる。
俺は、深々と溜め息を吐く。
前世を含め、女の子と恋愛的な関わりが全くなかった俺に、一体全体、何ができるというのか。
俺は、ぐるぐると思考が回り、眠れないまま、朝を迎えることになった。
…………………
一睡もできなかった……。
目にクマを作りながら、俺は、覚悟を決めた。
俺は、奈々が好きだ。
前世の俺は、誰も好きにならずに、孤独の人生だった。
この時代で、澄隆に憑依して奈々に出会った。
五歳の頃から、奈々と一緒に過ごした十年間、俺にとっては前世では得られなかった、かけがえのない時間だった。
もちろん、近郷や宗政、光俊、小太郎など、支えてくれる皆がいることも感謝している。
ただ、その中で、奈々がいることが、俺の心の支えだった。
奈々がいなかったら、正直、この時代で生き残れなかったと思う。
いつ憑依が解けるか、分からない俺。
そんな俺が、奈々にプロポーズして良いものか、正直迷う。
ただ、俺には奈々が必要だ。
憑依が解ける最後の日まで、俺が消えて死ぬまで、奈々と一緒にいたい。
プロポーズしよう。
俺は、護衛兼侍女の風魔の霖に頼んで、禁秘ノ部屋に、奈々を呼ぶことにした。
奈々をこの部屋に呼ぶ……。
光俊、小太郎、理右衛門に次いで、部屋の中に入れるのは四人目だな。
俺が、禁秘ノ部屋に着いて、待つこと小半刻ほど。
禁秘ノ部屋に、奈々が現れた!
初陣の時以上の緊張を感じる。
俺は、奈々に笑いかけようとするが、思いっきり顔の筋肉が硬直していて、上手くいかない。
お、俺は、奈々にプロポーズできるのか……。
情けなくも逃げたくなるが、どんなにハードルが高くても、ここまできたら、ラスボスに会った勇者みたいに逃げられない!
俺は、己を鼓舞しながら意を決して、奈々に話しかけた。
「な、奈々。俺が初陣の時のことを覚えているか? あ、あの時、俺は奈々と最後まで一緒に戦うと約束した――」
しどろもどろになりながら、何とか声を発する。
「は、はい」
奈々は、少し首を傾げながら、俺の言葉に頷く。
俺は、奈々に話しながら、ずっと心臓が飛び跳ねている。
「俺はこれからも戦い続ける。俺は……奈々と最後まで、俺が死ぬまで一緒にいたい。そうだ! 俺は奈々が好きだ! 俺の正室になってくれ!」
奈々は、俺が驚くぐらいビクリと肩を跳ねさせて固まった。
そして、色白の顔をほんのりと赤く染めながら、目は泳ぎ、まわりをきょろきょろと見渡す。
奈々の動揺が俺にまで伝わってくる。
「む……」
「む?」
「無理です! 澄隆様は二十万石をこえる大名になりました。私は多羅尾一族、下賤の出です。身分が違い過ぎます!」
奈々の言葉を遮るように、俺は、自分の気持ちを吐き出した。
「関係ない! 俺は奈々が好きなんだ!」
「か……」
「か?」
「家中が混乱すると思います!」
俺は、ぶわっと全身の血が駆け巡り、声が高ぶる。
「俺は、奈々を正室にしたい! 家中がどんなに混乱しても、必ず納得させてやる!」
奈々は、苺のように真っ赤に顔を染めながら、胸に手を当てている。
しばしの沈黙の後、奈々は深呼吸すると、意を決したように顔を上げた。
その顔には、少し影があった。
「澄隆様……。澄隆様には、これまで伝えていませんでしたが、私には兄が三人おりました……。そのうち二人は、忍者働きで既に亡くなっています……。私も、影武者として、いつか死ぬんだろうと思っていました」
奈々は、目を閉じて何度も息を吐きながら、話し出す。
「忍者は、雇われた当主のために、死ぬのもお役目の一つだと思っています。私は、澄隆様の影武者として、ずっと側で仕えておりました。影武者が澄隆様の正室になるなんて、考えられません――」
奈々は、さらに、大きく息を吸うと、俺から視線を外し、掠れた声を出した。
「し……」
「し?」
「失礼します!」
奈々は顔を背けると、走ってどこかへ行ってしまった。
▽▽▽▽▽
朝。日差しが眩しい。
私、多羅尾奈々は、急に澄隆様に呼ばれた。
「澄隆様がお呼びです」
澄隆様の侍女になった風魔一族の霖に連れられて、澄隆様が禁秘ノ部屋と呼んでいる部屋に入った。
部屋の前に着くと、霖は人形のような顔に優しい笑みを浮かべて、音もなく、下がっていく。
初めて、禁秘ノ部屋に呼ばれた。
私は、部屋の中を見渡すと、澄隆様が書いた紙が乱雑に置かれている。
ここで、澄隆様は、新しいことを次々に考え出し、九鬼家をここまで大きくしたのだろう。
すごいな……。
それに、鳥羽城で籠城している時に見た澄隆様の剣術の冴えは、これまで以上に凄まじかった。
振るわれた刀は、見惚れるほど煌めいていた。
あの時は思わず『すごい』と言ってしまった。
澄隆様とはこれほどのお人だったのか。
思わず、震えた。
戦場での澄隆様の立ち姿は、いつも見る穏やかな雰囲気とは別のもの。
あの死闘の中での落ち着きよう。
まさに、鬼の神様と言われても不思議ではない厳かな気配を放っていた。
本当に私と同い年とは思えない。
そして今日。
私は、部屋に入ってすぐ、澄隆様の様子がおかしいのに気が付いた。
目にクマができている。
根を詰めて寝不足なのかしら。
澄隆様のお身体が心配だ。
澄隆様は、なぜだか、モジモジしている。
澄隆様が話すまで待っていると、急に、驚くことを言われた。
なんと、私を澄隆様の正室にしたいそうだ。
私は、顔が沸騰しそうなほどに熱くなると、頭が真っ白になって、その後、何を言ったのか、よく覚えていない。
気が付くと、自分の部屋に戻っていた。
そして、なぜだか、足が痛い。
落ち着いて、部屋で一人で考えると、澄隆様から求められて、嬉しくなった気持ちはある。
だけど、身分の差は?
私は澄隆様の申し込みを素直に受け止めることができない。
私は、下賤の出。
常識的に考えて、澄隆様の正室になれる訳がない。
澄隆様の急な求婚に、私の気持ちが追いつかない。
とりとめのない考えがぐるぐると頭の中を回る。
「んんっ! もう……」
私は、声を上げて、頭を左右にふる。
ふと、自分の右手に目が移る。
思考は過去に戻る。
……五歳の時、影武者になって、澄隆様と握手した右手。
あの時の感触は、まだ、私の記憶に鮮明に残っている。
温かい気持ちになった。
ふぅ……。
私は、どうすればいい?
自分の右手をぎゅっと強く握りながら、そっと目を閉じた――。
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励みになります。
奈々は、どういう結論をするのか……?
次回、『奈々逃げるその二』です。
お楽しみに!




