神殿では
晴天の下、無事に屋敷を抜け出したシルフィアは広場を抜けて神殿の前まで歩いてきていた。噴水の水が高々と上がり、穏やかな空気が流れる。
昨日と変わらぬ雰囲気だが、石段の前に一台の馬車が停まっていた。
「馬車で参拝に来る人もいるのですね」
少し離れたところで何気なく様子を見ていると神官長が神殿から出て来た。
それから、シルフィアと視線があった灰色の瞳が丸くなり、僥倖とばかりに微笑んだ。
「まさか、貴女から足を運んでいただけるとは」
自分のこととは思わないシルフィアが後ろを振り返る。
だが、背後にも近くにも人はいない。
声をかけられた理由が分からず首を傾げていると、神官長が身につけている法衣に風を孕ませながらゆったりと石段を下りてきた。地上へ降臨しようとしている神の御使いのような神々しさをまとった姿にシルフィアの脳内で妄想が爆発する。
(この美しさは神官方だけではなく、参拝をする方も魅了してしまいますわ! そういえば、本の中で迷える貴族の令息の方が神官長に悩みを相談する場面がありましたが……この美しさと包容力に魅せられてもおかしくありません! そうですわ! 悩みを相談するという形で何度も逢瀬を重ねる若き令息と、その心の内を知りながらも職務のため断ることができず話を聞く神官長! そのうち、神官長の美しさの噂を聞いた令息たちがこぞって神殿を訪れるように……こうして始まる三角関係や四角関係! そのことで己の美しさに悩み、表に姿を現さなくなる神官長! そんな神官長を甲斐甲斐しく世話をする若き神官! 誰でも訪れることができるからこそ始まる愛憎劇! どうして、もっと早く気づかなかったのでしょう!)
これだけ長い妄想を一切表情には出さず、亜麻色の髪をくねらせながら悔やむ。
そんなシルフィアへ笑みを浮かべた神官長がおっとりと声をかけた。
「お迎えにあがろうと馬車を準備しましたが、必要ありませんでしたね」
「どなたのお迎えですか?」
当然の疑問に対して、灰色の瞳が嬉しそうに微笑み、片膝をついて白い手を差し出した。
「貴女の、です」
思わぬ言葉に翡翠の瞳が丸くなる。
「どうして私を?」
「それについては中で語りましょう。ここは人目があります」
通りすがりの人や参拝に訪れた人が遠巻きにチラチラと二人の様子を伺う。
だが、周囲の様相など目に入っていないシルフィアは脳内で腐の妄想を展開していた。
(まるで、夢幻へと誘うような低くも安らぐ声音……この声で幾人の迷える子羊たちを救ってきたのでしょうが、その中には神官や貴族の令息も……あぁ、神に仕える身でありながら、なんて罪深い声と容姿! これは、ぜひとも同士たちと共有せねば! そして、神殿の壁になって秘められた神官方の生活を見守らねば!)
目的を達成するため、シルフィアは心の中で拳を握ったが、表面には一切出さずに軽く膝を折った。
「よろしくお願いいたします」
差し出された手を取らず、あえて一歩引いた距離を保つ。
それは、シルフィアの中にある、腐は触れずに見守るもの、という信念によるもの。
だが、普通は差し出された手を取らないことは礼儀違反で相手に不快な思いをさせる行為。それでも、神官長は気にした様子もなくゆっくりと立ち上がった。
「では、こちらへどうぞ」
こうして神官長に案内されるままシルフィアは神殿へと入っていった。
高い位置にある窓から眩しいほどの差し込む朝日。等間隔に並ぶ白い円柱の柱へ、光のカーテンが降り注ぐ。
その中心を緩い三つ編みにまとめた白銀の髪を揺らしながら綺麗な姿勢で歩く神官長。その幻想的な雰囲気から、後ろ姿に祈りを捧げる参拝者もいるほど。
だが、シルフィアはそれよりも別のことに気を取られていた。
「……旗が、ありませんね」
神殿の奥にある祭壇の上。
昨日、ルーカスが激怒する原因となった救国の聖女の旗。
あれだけ目立っていたのに、今は何もない。
シルフィアが不思議そうに見上げていると神官長が疑問に答えるように説明した。
「あの旗は昨日だけですから」
「どうしてですか?」
その質問に灰色の瞳が意味あり気にフッと細くなる。
「その話をするためにも、こちらへどうぞ」
神官長が神殿の左側へと歩いて行く。その先には薄暗い壁と隠れるようにあるドア。
(これは、この広い神殿で壁を調べるチャンスですわ!)
本来の目的を達成するため神官長を追いかけるように歩いていく。
徐々に近づく壁に翡翠の瞳を凝らして素早く調べた。
(……魔力を感じられませんが、まさか守りも何もないただの壁? 王都の神殿なのに? そのようなことが?)
戸惑うシルフィアの前で神官長が隠れるようにあったドアを開ける。
「っ!?」
眩しい光に反射的に目を閉じると、柔らかな草の匂いが鼻をくすぐった。どこか懐かしい匂いと、頬を撫でる穏やかな風に誘われて目を開ける。
すると、その先には整然と墓石が並ぶ広い庭園があった。
「ここは?」
「聖女と呼ばれた方々の墓がある庭です。こちらへどうぞ」
神官長が綺麗に整えられた庭園の道を歩き出す。
しかし、シルフィアは足を踏み出さずにその場にとどまった。そのことに白銀の髪がゆったりと振り返る。
「いかがされました?」
昨日、ルーカスが言っていた言葉を思い出したシルフィアは淡々と訊ねた。
「神官長以外は入れないのではありませんか?」
「正確には神官長と聖女以外は、です」
その答えに翡翠の瞳が無言のまま庭を見つめる。霞がかかったように思い出せそうで思い出せない。この体にはない記憶。
シルフィアがぼんやりと考えていると神官長が手で行く先を示した。
「私の許可があれば大丈夫ですから。どうぞ」
その言葉に背中を押されて庭へ足を踏み出す。
適度に切り揃えられた庭木に季節の花が咲き誇る。絵本の中に出てくるような可愛らしい庭。神殿の裏にあるとは思えないほど広い。
少しだけ歩くと、奥に小さいながらも立派な石造りの家が見えた。
「ここは……」
「その昔、聖女が魔法を学ぶ場として作られました」
神官長が振り返り、シルフィアへ手を差し出す。
「おかえりなさい、救国の聖女よ」
その言葉に同意するように庭の木々が一斉に葉を揺らし、音を奏でた。




