騎士団長vs侍女
「お嬢様が治療魔法を……?」
治療魔法は高難易度の魔法であり、使える人は限られている。だから、最初に治療魔法をかけた、と言われても軍医か誰かが治療魔法をかけたのだと思っていた。
そもそも、シルフィアは魔力ゼロの無能と判定されており、水を出すような簡単な魔法は使えても、治療魔法のような高度な魔法は使えないはず。
疑問符を頭上に浮かべるサラの前でルーカスがシルフィアの隣に立った。
「師匠が魔法で治せない怪我はない」
「あら、さすがに死んだ人は無理ですよ?」
「逆に言うなら、生きていれば治せるということですよね?」
逞しい黒い腕が細い腰に絡み、グッと体を引き寄せる。
甘く見下ろす深紅の瞳に翡翠の瞳が少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「そうですが……意識を失った人は難しいですね。サラがなかなか目覚めないので、心配でした」
その言葉に黒い眉がピクリと動く。
「師匠が他人を気にかける珍しいですね」
顔は微笑んでいるが深紅の瞳は笑っておらず嫉妬混じりの不穏な殺気がサラに向かって溢れ出す。そこに、素早く空気が流れた。
スカッ。
ルーカスがさりげなく体を傾けたため、アンドレイの拳が空を切って終わった。
「おい、ここは大人しく頭に拳骨を受けるところだろ」
不服混じりに訴えるアンドレイに対して黒髪がフンッと揺れる。
「なぜ、わざわざ殴られなければならない?」
「目覚めたばかりの女性に殺気をむけたからだ。そもそも、女主人にとって身の回りの世話をする侍女が特別な存在であることは当然だろ」
「……そうなのか?」
納得がいかないと睨む深紅の瞳にアンドレイが説明を続ける。
「誰よりも女主人について把握し、夫には言えない悩みを相談されることもある存在だぞ。よい侍女がいることは、それだけで女主人の生活が豊かになる。婚約者を大事に想うなら侍女を雑に扱うな」
その内容の真偽を確認するようにルーカスがシルフィアへ視線を向けた。
「そうなのですか?」
「そうですね。サラがいなければ私は(溢れる腐の気持ちを)どうしたらいいのか分からなくなります」
シルフィアにとってサラは誰よりも深い腐の同士。腐の本を嗜み、お互いの解釈を語り合う時間は何よりも尊く貴重であり、それが居なくなるなど考えられない。
だが、言葉通りに受け取ったルーカスはクッと目を閉じた。
「わかりました。師匠の円滑な生活のために必要な存在と認識します」
一連のやり取りが終わったところでサラはホッと力を抜いた。
その様子にシルフィアが声をかける。
「やはり、まだ休んだようがよろしいのでは? それとも、もう一度、治療魔法をかけましょうか?」
「いえ、本当に大丈夫ですので」
両手を胸の前で横に振りながらサラはつい気になったことを訊ねた。
「あの、どうしてお嬢様は治療魔法が使えるのですか? 魔力判定の儀では魔力がないと判定されたとお聞きしていたのですが……」
「魔力がない?」
サラの言葉に反応したのは、シルフィアでもルーカスでもなくアンドレイだった。
「それはおかしいだろう。王城でもあれだけの高度な魔法を使っていたし、指南した者がいるはずだ」
その話をサラが即座に否定する。
「それこそおかしいです。お嬢様は実家ではメイド同然の扱いをされておりまして、魔法を習う機会などありませんでした」
「ならば、独学であれだけの魔法を学んだというのか? それこそ、不可能か天才の所業だ」
「でしたら、天才なのでしょう。お嬢様はご実家の屋敷におられた時から、何もないところより水を出しておりましたし」
どこか誇らしげな口調に対して、アンドレイがフッと軽く笑う。
「それぐらいなら、簡単な詠唱で使える初歩の魔法だ。どこかで魔法書を読めばできる」
シルフィアを軽く見ているような声音にそばかすの上にある大きな目が自分より大きな男を睨んだ。
「ですから、お嬢様はその魔法書を読む機会がありませんでした。お屋敷にある魔法書は旦那様の部屋にしかなく、鍵がかかる本棚で厳重に管理されており、お嬢様は読むどころか手にすることさえできませんでした」
「ならば、魔法書も読まずに魔法を使えるようになったというのか? それこそ不可能だ。あり得ない。詠唱を出鱈目に唱えても魔法は発動しない」
肩をすくめて頭を横へ振るアンドレイにサラがムッと口を尖らせた。
「そもそも、お嬢様は詠唱などされておりません。それでも、何もないところから水を出されておりました」
得意げに赤茶の髪を揺らす侍女に対して、琥珀の瞳が驚愕の色に染まる。
「なっ、詠唱なしに魔法と使うなど、それこそあり得ない! どんな天才であろうと無理だ!」
怒鳴るような大声に負けじとサラも声を大きくして返す。
「ですが、お嬢様は実際に何も言わずに水を出されておりました!」
「あり得ないことだ!」
「では、私が嘘を言っているというのですか!?」
立派な体躯の男と華奢な女が距離を詰め、睨み合う。
「そもそも、無詠唱で魔法を使うなど救国の聖女でもできなかったことだぞ!」
その発言に亜麻色の毛先がピクリと動き、翡翠の瞳が逃げるように窓を外を向く。
だが、そんなシルフィアの動きに気づいていないサラがますます語彙を強めて訴えた。
「なら、お嬢様は救国の聖女ができなかったこともできる天才です!」
「それなら、神殿が魔力測定の儀の時に見つけている!」
「そのようなことは知りません! とにかく、お嬢様は常識を超えた天才なのです! 存在自体が素晴らしいのです! そもそも、あなたはお嬢様の何をご存知なのですか!? どのような環境であろうとも絶望することなく立ち進む姿は、有象無象の雑草の中でも凛と咲き誇るアイリスのように美しく、逞しく、至高なのです! しかも、それだけではなく……」
これまで表に出すことを我慢して厳重に蓋をしていた感情が噴き出し、怒濤のごとく語るサラ。
その言動にシルフィアの頬が少しだけ朱に染まる。胸の奥がむずがゆいような、くすぐったいような、不思議な感覚に亜麻色の髪の毛先もウネウネと絡まるように動く。
どこか身の置き所がないようにモジモジするシルフィアにルーカスが軽く首を傾げた。
「師匠、どうかされましたか? もし、生理現象を我慢されているなら」
暗にトイレの心配をされたシルフィアは思わず言葉の途中で止めた。
「そうではなくて! その、サラの言葉を聞いているとムズムズしてしまいまして……」
その説明に深紅の瞳が大きくなり、それからすぐに細くなった。
そして、黒い手袋をした指が小さな顎を掴み、視線を合わすように上へあげる。ふわりと広がる甘い空気が、アンドレイとサラによるギスギスした気配を遮断し、まるで二人の世界のような雰囲気を作り出す。
深紅の瞳が翡翠の瞳を覗き込み、誰もが頬を染める眉目秀麗な顔で甘い声とともに微笑みかけた。
「師匠が天才なことは事実ですし、あのメイドが話していることもすべて事実ですから、恥ずかしがることは何もありませんよ。大魔導師である自分の自慢の師匠であり、大切な婚約者です」
その言葉にシルフィアがキョトンとした後、プッと吹きだすように笑った。
「もう、ルカってば。口も上手になりましたのね」
軽く振った手とともに甘い空気が霧散する。
まったく本気にされていない様子にルーカスが慌てた。
「口が上手とかではなく、本心ですから!」
「はい、はい。サラも大丈夫そうですし、屋敷へ戻りましょうか」
シルフィアがあっさりと逞しい腕から抜け、いつの間にかシルフィアがいかに素晴らしいかと話し続けているサラの元へ歩いて行く。
「全部、事実なんですけど! 師匠!?」
叫びながら亜麻色の髪を追いかける黒い手は何も掴むことはできなかった。




