馬の骨
「どこの馬の骨とも知れない輩に娘はやらん」
エフ氏は興奮を隠そうともせずに、妻に言い放つと、飴色をした立派なテーブルを力任せに叩いた。
エフ氏は有名な企業の重役を務めていて、何ひとつ不満のない、豊かな生活を送っていたはずだった。豪奢な邸宅に住み、贅沢な食事に舌鼓を打つ日々。それが、エフ氏にとって当たり前の暮らしだった。
しかし、完璧な生活にも綻びが生じ始めた。目に入れても痛くないほどに可愛がっていた一人娘が、誰とも知れない男と婚約したと自慢気に告げたのである。
エフ氏は口に含んだ高級ワインを吹き出した後に、娘の機嫌を損ねないように、強いて優しい声音で訊ねた。
「それで、彼はいつ我が家を訪ねてくる予定なのかな。私も彼に挨拶をするために予定を開けておこう」
しかし、エフ氏の言葉を聞くと娘の顔色は険しいものになった。娘は手にしていた銀製のフォークとナイフをテーブルに投げ出すと、父親であるエフ氏に冷たい宣言をした。
「あら、彼は来ないわ。だって海外の大学でお勉強中ですもの。彼との顔合わせは挙式の直前になるでしょうね。何か問題があったかしら」
静かだが棘のある口振りに、思わずエフ氏の頬が引き攣った。彼の妻は、その様子をいち早く察して、まごつきながらも場をとりなそうと努めて言った。
「でも、それはあまりにも――」
エフ氏の娘は母親の言葉を遮るように席を立つと、小さく整った臀部を苛立たし気に振りながら、豪華絢爛な部屋を颯爽と後にした。
やがて、屋外から彼女の愛車であるスポーツ・カーのけたたましいエンジン音が食卓にまで鳴り響いてきた。エフ氏は堪えかねたようにテーブルを力任せに叩くと、おどおどする妻に向かって言い放った。
「どこの馬の骨とも知れない輩に娘はやらん」
翌日になって、エフ氏は肩を怒らせながら出社すると、信頼を寄せている秘書を呼び出して、娘の婚約者について徹底的に調査するように言いつけた。
「とにもかくにも、敵をしらねばならん。きっと、どこかに弱みがあるはずだ。どこで生まれて、どのように育ったのか、全てを調べてくれ」
慎み深い秘書は恭しく頭を下げると、さっそく、エフ氏の言いつけ通りに婚約者の男の身辺調査を始めた。
老齢の秘書はたっぷりと時間を掛けて、丹念に男の調査を行ったが、困ったことに上司の予想に反した結果ばかりが出てくる。娘の婚約者である男性は、実に素晴らしい人間だったのである。
数週間の綿密な調査を経て、思慮深い秘書はついに結論を導き出した。重厚な椅子に腰を下ろし、鼻息を荒くして待ち構える上司の前に立つと、彼は朗々(ろうろう)と響く声で、調査の結果と自身の所感を述べた。
「お嬢様の婚約者である男性は、実に素晴らしい方であることが判明しました。エフ専務にとっては口惜しいことかもしれませんが、馬の骨どころか、たいそう立派なご家庭に育った御曹司でありました。今年度中にはアメリカで医師の学位を修めることでしょう。
中華では、無用の物として、鶏の肋骨と馬の骨が主として挙げられますが、お嬢様の婚約者は、非常に逞しい、気骨のある、偉大な方になるでしょう。僭越な申し出だということは承知しているのでございますが、ここはどうか、お嬢様の意思を尊重なされた方が良いかと存じ上げます――」
エフ氏は秘書の賛美の辞を耳にすると、苦虫を噛み潰したような顔になった。年老いた秘書は、エフ氏のために様々(さまざま)な先例を述べて、婚約者である男性の身の上を褒め称えた。秘書の長々(ながなが)しい推薦を聴き遂げた後に、エフ氏はため息を交えながら言った。
「引き続けて男の調査をするように」
秘書はこの返答に少なからず驚愕した。これ以上の身辺調査は必要ないことが明らかだったからだ。温厚な秘書はゆったりとした声でエフ氏に訊ねた。
「調査の結果は変わらないと存じますが」
エフ氏は重厚な椅子の上で、もじもじと身を捩らせながら、頼りない声で呟いた。それは駄々(だだ)をこねる子どものような仕草だった。求めるものが手に入らず地団駄を踏む、大きな子どもがそこにはいた。
「彼の骨が大きいことは分かったが、次は密度が気になるのだ」
秘書はこの返事に深いため息をついてしまった。独り身である秘書はぼんやりと思う。
――人の親というものは、実に愚かな生き物である。これではどちらが大人で、どちらが子どもなのか、さっぱりわからない――
(了)




