08話 形平さつき
リクは、大きく息を呑む。
(なんで……どうして、ここに……)
白髪の混じった黒のひっつめ髪。ファストファッションブランドで揃えたと思われる、無個性な服装。薄いナチュラルメイクに少し痩けた頬が目立つ、薄幸さを帯びた表情。
カメラが離れているために少し不鮮明な画質だが、それでも数日置きには顔を合わせていた人物の姿を、リクが見間違えるはずも無い。たった今、相談に訪れてきた彼女は紛れもなく――
『形平さん、こちらへ。どうぞお掛けになって下さい』
――〝形平さつき〟。リクの叔母であった。
「……っっ」
息苦しい。鼓動が早まっていくのが自分でもわかる。混乱や驚き、焦燥といった感情が荒波のように理性へと押し寄せ、居ても立ってもいられない。
(叔母さんっ……!)
リクは勢いよく立ち上がり、リビングに続くドアのノブに手を伸ばしてしまう。しかし、あと数センチのところで――
(――〝中で何が起こっても絶対に入ってくるな〟)
エイトからの忠告が脳裏をよぎった。手は自然と止まり、代わりに拳を握りしめ、大きく息を吸って深く長く吐く。
(……ダメだ。今出て行ったら、エイトさんの邪魔になる)
踏みとどまったリクは、畳の上に座り直し、スマホの画面を見つめながら必死に呼吸を整えていった。
(……見なきゃ)
◇◆◇◆
「あの、えっと……」
リビングでは、叔母がぎこちのない表情でエイトと向かい合っていた。
「……私、こういう場に来るのは初めてなので……少し、不安で……」
チラチラと視線を泳がせながら、叔母は言い淀んでいる。つい先程にリクがリビングに訪れた際も、同様に落ち着きのない様子を見せていた。漆黒の壁紙に巨大なスピーカーと、明らかに異様さが際立つ内装に戸惑いが隠せないのだろう。
「あはは、そうなんですね。でも、すぐに慣れると思いますよ。自分の家だと思ってくつろいでくれて構いませんので」
対照的にエイトは、新進気鋭のセールスマンかのような爽やかな表情で、リラックスを促す。
「良かったらこれ、どうぞ」
そして、パチンコの景品で貰ってきた缶の緑茶を袋から取り出し、テーブルの上に差し出した。
「ありがとうございます……」
見た目とは裏腹な、エイトの落ち着いた雰囲気とささやかなもてなしに、強張っていた叔母の表情がわずかに綻ぶ。そうして空間の緊張が少しずつ解けていく様を、リクはカメラ越しに眺めていた。
(なんか、思ったよりちゃんとしてるんだな……エイトさん。景品のお茶渡すのは少しアレだけど)
自分がカウンセリングを受けた時との応対の違いに、リクは不自然さを覚える。だが、重要なのはそこじゃない。なぜ、よりにもよってカウンセリングの相手が叔母なのか――この点が引っ掛かって頭を離れなかった。
(エイトさんは、僕の叔母さんだと知った上で〝今回のカウンセリングを見てくれ〟って言ったのかな……だとしたら、一体何のために?)
考えれば考えるほど、疑問が深まっていくだけだった。とにかく今は、叔母がどんな事情でここに相談をしに来たのか、黙って聞き入るしかない。叔母への心配と、嫌な胸騒ぎを残しつつ、リクは食い入るように液晶を見続ける――
「――では形平さん、早速始めましょうか」
エイトは叔母が少し落ち着いたのを見計らってそう切り出すと、ソファーから立ち上がる。そしてスピーカーの上に置いてあったスマホを少し操作し、音楽アプリを起動させた。あくまで盗撮しているのを叔母に悟られないよう、わざとらしくスピーカーの調整をするエイトの仕草が、液晶越しのリクには筒抜けだった。
(……やっぱり、今回も音楽を使うんだ)
自分の時と同様『曲を流し、相談者の感情と本音を引き出す』といった手法は、エイト独自のカウンセリング技術なのだろう――と、リクは改めて再認識をする。
「……!」
やがて、静かに曲が流れ始める。ゆるやかな波の音と、ピアノの柔らかい旋律が耳に届く。どうやら最初はヒーリングミュージックなようだ。心療士らしい、実にシンプルな選曲。
ただ、普通のBGMと明らかに違うのは音響の質であった。部屋の四方から、多角的かつ立体的に聴こえてくる高品質な音の情報。耳を伝い、染み込むように脳へと浸透していく。目を閉じて聴き入ってしまえば、澄みきった静かな海辺をゆったりと散歩でもしているかのような――そんな錯覚すらおぼえてしまいそうになる。
「えぇっと……これが……その、名刺に書いてあった……」
「そうです、これが〝特殊音楽療法〟というものです。まあ、あくまで雰囲気作り程度のものなので、特に身構えなくても大丈夫ですよ」
あまりの耳心地の良さから、逆に動揺を隠せないでいる叔母に、エイトは明るい口調で説明をする。
「……では、どうぞ。どんな話題でも構いませんよ」
仕切り直すように、エイトは優しくカウンセリングを開始した。しかし叔母は、考え込むように首を傾げている。
「どうかしましたか?」
「その、なにから話せば良いのか……」
「そうでしたか。では私から質問する形式にしましょうか」
エイトがそう提案すると、叔母は『その方が助かる』と言わんばかりに微笑んで小さく頷いた。
「それでは形平さん、ご年齢はおいくつで?」
「来月で……42になります」
「ご趣味は?」
「特にこれといったものは無いんですが、学生の時は茶道を少々……」
街角で行われるアンケートのような、当たり障りのない内容の質疑応答がテンポよく繰り返されていく。そして――
「――そうでしたか。お仕事は何をされてるんですか?」
「週に五日は朝から夕方まで……お弁当の工場で働いていまして、それから週に三日は副業として、スーパーのレジ打ちのパートを夕方から閉店まで勤めています」
たった今発せられた仕事の内容に加え、彼女は家事もこなしているはず。同じく副業をしているはずのエイトが眉根をひそめてしまうほどに、彼女の過労ぶりは苛烈さを極めていた。
「そんなに働き詰めていたんですか……大変でしょう?」
「ええ……私の家、現在は離婚して母子家庭で……娘のはづきは高校三年の受験生なんです。だから今のうちに、大学の費用を少しでも多く貯めておかないと……」
「なるほど……養育費などは?」
「それが……離婚したあとの最初の数年間は払ってもらってはいたんですけど……どうやら夫は新しく立ち上げた会社の事業に失敗したらしくて、そのまま消息不明に……それからは入金もなく……という感じです」
彼女の生活事情が本人の口からすらすらと出てくる。エイトは相槌を打ち、何度も頷いて話を親身に聞き入っていた。
(叔母さん……)
一方でリクは、自分の知らなかった叔母の事情を盗み聞き、耳と胸が痛くなる。そこまで切り詰めた生活をしていながら、自分の面倒も見てくれていたという事実に対してだ。
(僕の前では……全然辛そうにしてなかったのに……)
あの雑な筆跡の書き置きも、少し煩わしさすら感じてしまっていた自分をいたわる言葉も、全て彼女の無償の優しさによるものだった。その事実に改めて気付かされたリクは、叔母にこの先どう顔向けすれば――と考えてしまっていた。
しかし――
「――それに面倒を見ているのは娘だけじゃないんです」
叔母のその一言でピアノの音色はピタッと止まり、波の音は徐々にフェードアウトしていった。無音の間が数秒続き、満を持したかのよう、エイトが問いかける。
「他にどなたか、いるんですか?」
「ええ、陸……死んだ姉の息子、甥です」
更なる事情が、彼女の口から打ち明けられた。
それを皮切りにしたかのよう、二曲目が再生される。
突き刺さる高速ギターリフ。
地の底から鳴り響くような重低音の連符。
そして、破壊的なシャウトを織り交ぜたボーカル。
一曲目が『癒し』ならば、次の曲は『痛み』――ジャンルはそう、メタルコアだ。爆発的な臨場感が一瞬にしてリビングを包み込んでいく。
(うわっ……激しい曲。声、聴けるのかな……)
音量こそ変わってはいないものの、凄まじいまでの音圧だ。対話の内容がしっかりと聞き取れるか、リクは不安をよぎらせたが――
「食べ物を買い出しして、届けるだけでも今は精一杯なのに……!」
曲の持つ狂気性に駆り立てられるよう、叔母の語気が少しずつ強靭さを増していく。スピーカー越しのリクの耳にも届くほどだ。そして既に曲が意識に浸透しきったのか、今の彼女は完全に入り込んでいた。
「それなのに……! 他の親戚の連中は〝あんたが引き取ればいい〟だの、無責任な事ばかり……!」
ソファーから立ち上がり、不満を吐き連ねる形平さつき。その声と絡み合うよう、獣の断末魔を重ね録りしたような音のシャウトが共鳴し、轟いていた。
「私のっ、暮らしのっ大変さなんてっ、誰も、知らないくせにっ……!」
片足をテーブルに、本音は怒りと変拍子に乗せ、思いのままに思いを叫ぶ。エイトは半狂乱に陥ったそんな叔母を、ただ座して見守っている。一言も口を挟まず、黙ったままだ。ライブ会場でバラードを聴き入っているオーディエンスかのように――
(…………)
その一方で、叔母の言葉は何よりもリクに刺さっていた。何度、目を背けたくなったか。幾度、耳を塞ぎたくなったか。叔母の口から本心が溢れ出るたびに、罪悪感で心臓が捩じ切れそうになる感覚すらおぼえていた。
(僕は……今まで何をしてたんだ)
リクは、母が亡くなってからの自分を省みる――
『世界で一番不幸なのは自分だ』とばかり思っていた。確かにまだ15歳で自立すらできていないのに、両親に先立たれるというのは、誰の目から見ても不幸だと思われるだろう。でも、自分は何も向き合わずに逃げているばかりだ。学校にも行かず、ひたすら家で悲嘆に暮れる毎日。いつまで経っても、現実を受け止めきれていない。
(……叔母さんは、しっかりと真正面から戦っている)
仕事に、生活に、環境に、周りの人間に――
そして、戦っているのは彼女だけじゃない。
(従姉妹のはづきちゃんも、エイトさんだってそうだ、みんないつも何かと戦って、向き合って、生きているんだ――)
――隣の部屋でリクが物思いに耽っている中、リビングではプレイリストが三曲目に突入を果たしていた。続いて流れ出したのはEDM。サイケデリックな音色の電子音に、複雑怪奇なリズムで刻まれるトラック。少しでもバランスが崩れてしまえば不協和音になりかねないほどに、紙一重なダンスミュージックが空間を『混沌』に陥れる。
「はぁっ……はぁっ……」
昂り、怒りの限りを声に乗せてひとしきり喚き散らした形平さつきは、額に汗を滲ませて息を切らしている。
「大丈夫ですか? 少し座って休みましょう」
心配の声を上げたエイトは立ち上がり、肩に触れ、なだめるように叔母をソファーへと座らせた。
「……私、もうわかんないんです」
弱々しくも、悲痛な訴え。部屋中から流れる音の渦が心の平衡を乱しているのか、彼女は怒りを吐き出した後の心境を曝け出し始めた。
「……娘にも、リクにも申し訳なくてっ……どう生きていけばいいのかもわからなくて……!」
彼女の精神は、とうに擦り切り果てていた。そして心の奥底に秘めていた『ある一つの選択肢』を、声にして喉元に装填する。
「もう、疲れました……全てから逃げたい……だから――」
俯いていた顔をゆっくりと上げ、虚空を眺めるように、天へと祈るように彼女ははっきりとソレを口にして解き放つ。
「――死にたい」
その瞬間だった。
あれほど騒がしく鳴り響いていた音楽が、ぴたりと止む。
そして、止まったのは音楽だけではない。
(叔母……さん?)
まるで時間が停止したかのように、天井を虚ろに眺めたまま、形平さつきの意識が失くなっていたのだった。だが、リクが叔母の異変に気を取られていたのも束の間――
(えっ……?)
目を疑うリク。
異様な物体が、部屋の中心に浮かび上がっていた。
(なに、アレ……?)
拳大ほどのサイズな、ソレ。
ぼんやりと、鈍く輝く。
〝黒い光〟。
矛盾している。
およそ、現実的な事象ではない。
しかし、在る。
ふよふよと、行き場を失くし、彷徨っているよう。
そしてソレは――
叔母の口元から放たれたように、そう見えていた。
その光とは呼べない光の傍らには、エイトが立っている。
『――リク、聞こえるか?』
「……っ、はい……!」
唐突に名を呼ばれたリクは、慌てて応答をした。
設置されたスマホの方に振り向くエイト。
カメラ越しに目が合った気がした。
彼は、静かに告げる――
『これが……〝自殺意〟だ』




