06話 黒い部屋
リクは目的の駅で下車すると、階段を昇って地上へと出る。家を出発した時よりも太陽が傾いたせいか、建物の影はやや伸び始めていた。
(初めてここの駅で降りたけど……なんか静かな街だな)
どこか閑散とした、繁華街から少し外れた街並み。リクは辺りをキョロキョロと見回しつつ、名刺に記載された住所をスマホのナビで確認する。ここから歩いて五分の位置に、エイトの事務所はあるようだ。迷わないよう、液晶を凝視しながら住宅街の中路を抜け、とうとう辿り着く。
(……ここ、かな)
着いたのは、二階建てのアパート。外観は古すぎず、新しくもなさそうな、至って普通の集合住宅。リクが勝手に想像していた『事務所』とは、かけ離れた様相だ。
(本当に……ここなの?)
疑念を募らせつつも、リクはアパートの入り口を抜け、ロビーに並べられたポストに目を配る。名刺にはこの建物の所在地までしか記されてなく、彼の事務所がある号室までは確認できなかった。
「蒼井……あった」
『203』と書かれた金属製のポストの上部には、彼の名字が無機質なフォントで記されていた。
(とりあえず……行くしかないか)
すでに若干の後悔が心に芽生え始めてきたが、ここまで足を運んだからには収穫もなしに帰るわけにはいかない。そう腹を括ったリクは、二階に繋がる階段を昇り、部屋が並ぶ廊下の途中にある『203号室』の前にまで辿り着く。
(普通の、部屋だな……)
看板もなければ、表札すら無い部屋。心療士が公に拠を構えているようには到底見えない。ドアのポストにガムテープを何重にも重ねて塞いでいるのと、ロビーにあったポストがチラシで溢れ返っていたのが、ますます怪しさを増長させていた。
(よし、10分前だ……)
リクはスマホの時計をみて『14:50』を確認したのち、意を決してドア横に設置されたインターホンのボタンを押す。
「…………?」
10秒ほど待ってみたが、反応はない。
「あれ……?」
もう一度押す。しかし、反応は返ってこない。念の為にとドアに耳を当ててみるが、中から物音は一切聞こえてこない。どうやら本当に留守なようだ。
「嘘、でしょ……」
迷惑など顧みずにリクはボタンを連打してみる。甲高いチャイムの音のみが耳の中を反響し続けているだけで、やはり応答はない。まるで部屋そのものが、深い眠りに落ちてしまっているかのようだ。
(もしかして、あの人、僕との約束忘れてる……?)
しばらくの間、リクはその場に立ち尽くしてしまう。
「そうだ、電話番号……!」
ふと思い出すと、慌ててポケットに入れたままの名刺を取り出し、記載された携帯電話の番号を速やかにタップして入力をする。コールも無しに通話が繋がると、無機質な自動音声がリクの耳に届く――
『――おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
「…………」
手繰り寄せたはずの希望の糸が、断たれた瞬間。焦りと不安から、全身の血の気が引いていく感覚に襲われる。リクはその場でしゃがみ込み、滅入るように大きく溜め息をつく。
(くそっ、なんでだよ……! せっかくここまで来たっていうのに……)
数分、また数分と時間は過ぎていく。その間にもインターホンを何度か押し、通話も試みるも、結果は変わらずだ。
(今日はもう、帰るしかないのか……)
時刻はすでに15時20分を過ぎた頃。待つのにも疲れ諦め果てたリクは、しゃがみ込んでいた腰を上げ、大人しく帰ろうと立ち上がる。しかし、その時――
「おー、リク。待たせたなー」
――階段の方から、聞き覚えのある声が自分の名を呼ぶ。
「……え?」
反射的に振り向いた先には、スウェット地のグレーのセットアップという、やけにラフな格好をしたエイトがいた。
「いやー、悪い悪い。クッソ負け越してたんだけど思いのほか粘れちまった上に、交換所が混んでてよ〜」
口ではそう謝ってはいるものの、レジ袋を片手に提げて悠々と歩いてくる彼の表情は、どこか上機嫌そうですらある。客人を待たせておきながら、微塵も悪気のなさそうな彼の無神経さに、リクは少しだけイラッとしてしまった。
「しかも携帯の充電もいつの間にか切れちゃうし――」
「本当に悪いと思ってます?」
言い訳ばかりを並べるエイトに対し、リクは呆れと怒りが混ざったような表情でちくりと刺す。
「怒んなって! まぁとりあえず入った入った!」
エイトはリクの肩に手をまわして宥めつつ、部屋の鍵を開けると――
「ようこそ、オレの城へ」
わざとらしい口調で、リクを家に迎え入れた。
半ば強引に案内されたリクは、渋々とエイトの後に中へ踏み入る。入った途端に出迎えたのは、オレンジの照明が付いた玄関に、芳香剤とインクの香りが混ざったような独特の生活臭だった。
(うわぁ……生活感がすごいなあ)
リビングへと伝う短い廊下には、明日以降に出すであろうゴミの入った袋や、読み捨てた後の雑誌類が乱雑に積まれている。他にも洗面所には、衣類が山のように積んである洗濯カゴがあったりと、玄関付近だけでも彼の人間性が充分すぎるほどに滲み出ていた。
(というか、一応この家が事務所になるんだよね? こんな場所にお客さんを呼んで本当に大丈夫なの……?)
仮に自分がエイトとの関係が無いまま、利用者として初めてこの家に案内をされでもしたら、この玄関を目にしただけで帰ってしまうだろう。と、リクは率直に思うと同時に、エイトの今後を心配してしまった。一方でエイトはそんな杞憂などいざ知らずといったように、意気揚々とリビングのドアを開く。
「え……?」
玄関先であれほど散らかっているなら、部屋の中は一体どれだけ――と嫌な想像を膨らませていたリク。だが、そんな懸念すらも軽々と吹き飛ばしてしまうほどに、リビングの内装は異様さに包まれていた。
(なんだ、この部屋……)
まず部屋の広さは20帖くらいだろうか、思ったよりもかなり広い。そして真っ先に目についたのは、部屋の色。壁から天井、床のカーペットに至るまで、部屋の面すべてが黒一色で統一されているのだ。
「びっくりしただろ? この部屋入ってくるヤツはみんな最初そんな顔するんだよな」
「あ……えっ、はい」
リクは遊泳していた視線と、ぽかんと半開きになっていた口を元に戻す。
「なんで、こんなに……」
「悪趣味だと思うか? 確かにオレも最初は落ち着かなかったけど、慣れちまえば案外過ごしやすいんだぜ?」
エイトはそう言うものの、カーテンやソファーといったほとんどのインテリアまでもが黒に統一されているのは、さすがに落ち着かないだろう。こんな部屋で一晩でも過ごせば、悪い何かにでも取り憑かれてしまいそうだ。
「まぁ、部屋を黒くしてるのには理由があんだけどよ……説明すると長くなりそうだし、それも後で追々話すわ。とりあえず今はちょっとだけ休ませてくれよ。開店からずっと打ってたから背中痛てぇんだわ」
どことなく後ろめたそうな表情でエイトはそう言うと、ソファーへ気怠そうに腰を下ろした。
(理由があるの? なんだろう……って、なんだコレ? スピーカー……だよね?)
一方でリクの視線を次に惹いたのが、部屋の四隅に配置されている、天井にまで高さが届きそうなほどの巨大なスピーカーだった。こだわりの強いオーディオマニアですら、ここまで大きなスピーカーを自分の部屋に置きたいとは思わないだろう。体育館やライブハウスなどでも使えそうな代物だ。
「やっぱソレ、気になるか?」
「こんな大きなスピーカーで音出して大丈夫なんですか?」
「当然、防音加工済みだよ。しかもただの防音とはワケがちげえぞ? 地下鉄の音すら遮断できるレベルの最上級設備だ」
ふふん、と鼻を鳴らして自慢げにエイトは語る。スピーカーもそうだが、これだけの設備を揃えるのにどれだけの金額をつぎ込んだのか、想像するだけで恐ろしくなってくる。
「お金、たくさん持ってるんですね」
「持ってねえよ。ほとんどは借金して揃えてる」
「えぇぇ……」
「本業の稼ぎだけじゃ返済するので精一杯だからバイトしてんだよ」
さらりと伝えられた衝撃的な事情に、リクは思わず心配を寄せてしまう。しかし、当の本人からは悲壮感が一切漂ってこない。
(僕なんかを無償でカウンセリングしてる場合じゃ無いだろ……って言いたいけど、この人は多分、そういう生き方しかしてこなかったんだろうなぁ)
自分とは全く異なる価値観に触れたリクは、尊敬とはまた違う、好奇にも似た感情をエイトに寄せつつあった。一方でエイトは、ソファーに座ったままスマホを少しだけいじると、思い出したかのように口を開く。
「てか俺、シャワー浴びてきていいか? パチ屋の空調壊れてたのか妙に暑くてよ、汗ダラダラになりながら打ってたんだよ」
「あ、はい」
「まぁ、適当に座って待っててくれ。そこの袋に景品のお菓子とかエナドリとか入ってっから、好きなの選んでいいぞ」
ソファーの上に置かれたレジ袋を指差してそれだけを言い残すと、エイトはリビングを去っていった。
「…………」
部屋にぽつんと一人、取り残されたリクは少しだけ緊張を緩ませる。
「ふぅ……」
なにはともあれ、無事にここまで辿り着けた安堵から一息をつく。
しかしここから約一時間後。この家の中で、自身の運命が大きく揺らぐことになるのを、この時リクはまだ頭の片隅にすら想像していなかった――




