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死にたくなったら  作者: 狐目 ねつき
第一章 現実
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05話 落ちる

 ――その日の夜。


 窓の外は、昼間の曇天がそのまま落ちてきたかのように重く、沈んだ夜空が広がっていた。レースカーテン越しに差し込む街灯の光が、寝室の天井にうっすらとした影を映し出している。


「…………」


 リクはベッドの上で布団に入ったまま、じっと天井を眺めていた。


 眠たくはなかった。朝に泣き腫らした目はやや熱っぽく、頭は少し重たく感じるが、意識だけは妙にはっきりとしている。しかし、どこか落ち着かない。


 『――とりあえず、一日だけ死ぬの待ってくんねえか?』


 昼間、エイトにそう頼まれたリクは、一応の了承はした。確かに『死にたい』と口から零れてしまったが、手段も段取りも一切考えておらず、まだ行動に移すつもりは無かった。


 そしてなにより、声に出して誰かに本音を告げたのが幸いしたのか『死にたい』という衝動は、幾分か薄れていたのだ。それがエイトの意図していた通りだったかどうか、リクには解らない。しかし兎にも角にも今は、頭の中のネガティブな感情がほとんど消え失せているのは紛れもない事実だ。


(……まあ、収まっているのは一時的だとは思うけどね。というかそれよりも、あの後、エイトさんは――)


 エイトとの別れ際、告げられた内容をリクは思い返す。


『――明日の昼の3時、ウチの事務所に来てくれ。オマエに見せたいものがあるんだ』


 エイトは少し神妙そうな面持ちでそれだけを伝え、リクの家を後にしていった。彼が言っていた事務所とは、貰った名刺に小さく記載されている住所にあるらしく、用件の詳細についてはそれ以上特に伝えられていない。


(怪しい人じゃない、っていうのはもう分かったし、別に何も疑ってはいないんだけど……)


 ちなみに、彼の事務所がある住所はスマホのナビで調べてみたところ、地下鉄と徒歩を合わせても約30分弱で着く。そこまで足を運ぶこと自体は、それほど面倒ではない。


(……やっぱり、どうしても気になっちゃうよね。わざわざ事務所に呼び付けてまで、一体何を見せたいんだろう?)


 たった今眠れないのも、その疑問が頭の中をちらついて離れないのが大きな要因となってしまっていた。



(そういえば、エイトさんのカウンセリング……上手く言い表せないけど、なんかスゴかったな)


 このまま眠れないのも困るので、気分転換にとリクは目を閉じてエイトとの対話を思い返す。


(全然知らない曲ばかりなのに、いつのまにか耳にスッと入り込んで……)


 ヒップホップ、クラシック、ジャズ――


 約15分もの間、全く統一性のないジャンルの三曲をBGMとして順番に聴かされたリク。耳馴染みの無い曲が会話中に流れるなど、普通であれば煩わしく感じるはずだ。だが、あの時は違和感なく聴けた。


 そしてそれだけならまだしも、スマホのスピーカーから流れているとは思えないほどに、楽曲が〝フォアグラウンド〟に意識へと浸透していたのだ。その効果がリクの本音を引き出し、感情の発露へと繋がっていたのは、恐らく偶然ではなかったのだろう。


 ――それに、不可解な点はまだあった。


(そもそも、なんで曲と会話があんなに噛み合っていたんだろう……)


 そう――話題の転換や会話の間など、二人の対話に関するあらゆる事象に変化が起きるその度に、楽曲がリアルタイムで連動していた点についてだ。


(だって、エイトさんは僕をカウンセリングするのは初めてだから、話す内容なんてわからなかったハズだし、なにより話してる最中にあそこまで正確に切り替わったりするものなの……?)


 カウンセリング中こそ不思議に思わなかったが、後から冷静に考えてみればみるほど、オーバーテクノロジーが過ぎるという事実を思い知らされる。


(はぁ……全然わかんないや。次、会ったらエイトさんに聞いてみようかな……)


 脳内でそこまで呟いてから、リクはハッと我に返ったかのように自覚する。


 (()、本気で会うつもりなのか……僕は)


 エイトともう一度会うという前提を、当たり前に認識してしまっていた。既に自分はもう彼にとっての利用者で、自分にとってエイトは担当者となっている。そしてこの先まだ生きていくのか、それとも()()()()()かの選択はまだ済んでいない。


(エイトさんは良い人だし、信頼できる。仮に僕が自分で死ぬっていう選択をしても……きっと尊重してくれるだろう。でも、本当にそれでいいのかな? 見ず知らずの僕なんかのために、お金もとらずに話を聞いてくれたエイトさんの思いは……裏切りたくない)


 生きるか死ぬか、このままエイトとの仲を深めていって良いのかどうか――という紐付かれた二つの二択。特に誰からも決断を急かされてなどいないのだが、自ら呪縛のように課してしまい、良心の呵責からリクはジレンマへと陥る。


(明日……どうしよう。でも、僕に見せたいものがあるって言ってたし……けど、エイトさんとこれ以上関わっても、僕が死ぬ選択をしちゃったら……それなら明日だけでも……いや、やっぱり――)


 瞼裏の暗闇の中、困惑がぐるぐると渦巻く――



◇◆◇◆



 ――目が覚めた時、時計の針は1時を指していた。


「……え?」


 寝起きでまだぼんやりとしていた意識でリクは時間を確認し、すぐに目を見開く。時計を見直すと、やはり1時。既に外は太陽が真上に昇り、燦々と世界を照らしている。13時だ。


 (昨日、いつのまにか寝ちゃってたけど、最後に時計を確認した時は0時過ぎくらいだったはず……)


 普段は五、六時間も眠れば目が覚めてしまう自分が、ここまで長く熟睡できたことに驚きを隠せなかった。


(こんなに寝たのに……一回も起きてないどころか、夢のひとつも思い出せない)


『よく寝た』というより『意識を失っていた』と言った方が、感覚としてはまだしっくりくる。


(なんかすごい、悩んでた気がするけど……とりあえず今日エイトさんに会って、それからまた考えよう……!)


 そして、眠りの海へと沈みきる前にあれだけ決断しかねていた悩みも、思考が鮮明となった今ではシンプルな結論に至ることができた。


(というか、準備しなきゃ――)


 エイトとの約束の時間までにまだ二時間弱はあるが、リクは布団から跳ねるように飛び起き、準備を開始する。歯を磨きシャワーを浴びて、外出用の服に着替える。食欲はあまりなかったが、朝食用のシリアルだけはきちんと食べた。


 ここまでの準備に約一時間を費やしたリクは、枕元に置いていた名刺を、カーゴパンツのポケットにしまい込む。


(よし……少し早いけど、そろそろ行くか)


 そして、時間に余裕を持たせた上で家を出発した――



「うわっ、眩し……」


 マンションのエントランスを出てすぐ、昨日とはうってかわって晴れ上がった空がまず視界に広がる。遮る雲一つない太陽からの全力の日射を一身に浴び、リクは思わず目を細めてしまう。


(四月ってこんなに暑かったっけ……というか、こんな早い時間に出掛けるのも久しぶりだなあ)


 ここ最近は、夕方以降に散歩やコンビニに行く程度でしか外出をしていなかった。まだ高い位置にある太陽と、四月中旬とは思えないほどの暑さに新鮮さと違和感を覚えながら、リクは最寄りの地下鉄駅へと足を運ぶ。


(えっと……目的の駅はあそこだから……三百二十円か)


 買い間違えのないように、スマホのナビと料金表を交互に見て切符を購入する。交通インフラの利用は、高校の入学式以来だ。リクは少しの不安を胸に、改札を無事に通過し、定時通りに到着した車両の乗降ドアをくぐり抜ける。


(やっぱり平日のこの時間だと……まだ空いてるね)


 一番端の座席に腰を下ろしたリクは、車内に視線を一巡させる。昼下がりの地下鉄には、人がまばらにしか乗っていなかった。他の乗客は一人でスマホをいじる若者や老人、ウトウトと浅い眠りにつくサラリーマンなどがいた。


 そんな中、斜め向かいの席に目をやると、小さな子どもを抱えた母親が座っていた。母の膝上で楽しそうに笑う女の子と、子をあやす母親の柔らかい目元。親子ともに似たような色合いの服を着ていて、顔つきもうっすらと共通点があるように見えた。


 (……僕も昔は、周りから見ればああだったのかな)


 無意識に幼き日へ思いを馳せてしまい、胸の奥底がちくりと疼きだす。


 親子の何気ない光景。普通の家庭に生まれ落ちたならば、誰もが享受するであろう時間。それがもう、自分のもとには戻らないという事実が、目の前の親子の笑顔をより眩しく見せた。


(ダメだ。見るなよ、僕……くじけちゃうだろ)


 慌てて視線を外す。

 窓に映る自分の表情は、死人のように色がなかった――

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― 新着の感想 ―
読んでいます。読んでいるということは僕は、というか読者はすでにエイトのクライアントなんだなということを考えながら。
リクの心が少しずつ開いてきて、信頼関係が結ばれつつあって、そのエイトとの信頼関係が、リクをこの世にまだ繋ぎ止めていて、まだ彼が生きていられる理由ができたのかなという、まだまだホッとはできないけど、ほん…
主人公の心情と、セラピストの特異性がよく表現出来ていました。
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