04話 特殊音楽療法
――曲が変わる。
ジャンルはうってかわって、クラシックだ。荘厳で壮大な音のフルコース。多種多彩な楽器がスピーカー越しに絡み合い、美しいハーモニーを奏でている。主旋律となるバイオリンの叙情的なメロディーは、力強くもどこか物悲しげで、作曲者の心の内側を反映でもしているかのように聴こえた。
「〝生きてくのがつらい〟……か。どうしてだ?」
打ち明けられた率直な思いを噛み砕くように復唱し、エイトが尋ねた。リクは、言葉を探り探りで選ぶように紡いでいく。
「父さんは事故で死んで、母さんは……自殺した。もう、この世にはいない……僕は独りなんだ。その現実を受け入れて、これから生きていけるほど……僕は強くないんです」
言い切ったあと、タイミング良くオーケストラにも数拍の休符が入る。そして、リクが再び声を発すると同時に曲が転調を迎えた。
「昨日、夢を見たんです……父さんと母さんの夢。まだ僕が小学生だった頃の家族の思い出が……断片的に流れてきて、とても楽しかった。けど、夢の最後は……母さんが……首を吊った場面で終わったんです」
その声は、感情の底を隠すように色が無かったが、言葉の節々にわずかな震えが滲み出ていた。エイトは何も言わずに黙って聞き入り、ただ四拍子のリズムに合わせ、音を立てずに指先をトントンと机に打ちつけている。
「夢の中では普通に笑えてた……家族三人で。幸せそうだった……ずっと目が覚めなきゃよかったのに、って思ってた」
一転して、怒りにも似た強い悲しみが声に宿る。リクが手に持つコーラの入った紙カップは、少しだけ形を歪めた。
「もう明日なんて来なくていいと思っても……いつだって朝は襲ってくるんだ。今までも……そしてこれからも」
吐き捨てるようにそう言うと、テーブルの上に置き続けていた視線をようやくエイトの両眼へと合わせ、リクは訊く。
「僕は……どうすれば良いんでしょうか」
――同時に、二曲目が静かに終わる。
「……ああ」
口を挟まずに、リクの感情の吐露を聞き入っていただけのエイトが、浅く相槌を打つ。すると、ハイハットのカウントが流れ、三曲目が再生される――
ウッドベースの踊るようなグルーブに、跳ねるようにリズムを刻むドラム。そして、規則性も無くただ自由にメロディーを奏でるピアノ――ジャンルは、ジャズだ。
「〝どうすれば良い〟っていうのはな、リク。オレが決めることじゃねえんだ、わかるか?」
突き放すようではあるが、優しく導くような声色だ。しかし、そんな機微も今のリクには汲み取れず、語気を荒げて反論をする。
「なんで……! エイトさんは心療士なんですよね? 僕の力になってくれるんじゃないんですか!?」
怒りと戸惑いに満ちた声と表情で、リクは問い詰めた。対してエイトは一切の動揺も見せず、テーブルに頬杖をついてリクの顔をじっと見たままだ。お互いの視線が火花を散らす中、小気味の良いスウィング・リズムが張り詰めた緊張感を騒がしく彩る。
「仮に、だ――」
エイトがそう切り出すと、軽快なピアノソロが鳴り響く。鍵盤の上を転がっているかのような、独創的な独奏だ。
「オレが今ここでオマエになにか優しい言葉をかけたりしたところで、それはオマエのタメになるのか? 気休めにしかならねえだろ? 根本的な解決にはならねえんだ」
まるで打鍵数に比例しているかのように、エイトの口から言葉が連ねられていく。
「ツラいのは理解できる。けどな、〝どれだけツラい〟のかはオマエ本人にしかわからねえんだよ。この先どうするか、ってのもオマエが自分で選んでいくしかねえんだ。冷てえ言い方になっちまうけどよ……それが現実なんだ」
「…………」
リクが押し黙る。エイトの口調や雰囲気からくる圧力に屈したのもそうだが、何より彼の話した内容が腑に落ちてしまったのだ。確かに今、どれだけ慰められ励まされようとも、現実は何も変わらない。
(そうだよ……今まで叔母さんや他の親戚の人達からもたくさん気を遣わせて優しくしてもらった……けど、なにも変わらなかった――いや、変われなかったんだ……!)
察すると同時に、意図せず瞳から雫がぽろぽろとこぼれ落ちる。起床してからすぐに散々と泣き晴らし、今日の分は出し尽くしたと思っていた涙が、頬を伝い次々と流れ出ていく。
エイトに相談をして、何を期待したのだろうか。
話を聞いてもらい、悲しみを共有してもらうため?
それとも、生きる希望を見出すため?
いや、違う――
(僕はもう……)
いつからだったか。
おそらく、母が死んだ直後からだったろうか。
〝それ〟は、常に意識と隣り合わせに存在していた。
いつも思っていた。いつも感じていた。
それでも、口には出さないでいた。
口にしてしまったが最後。
本当に〝最期〟になる気がしたからだ。
全てに諦めがついた今なら、言える――
「……死にたい」
ぽろん、とピアノの音色で締められたアウトロと共に、口から零れ出た心の底からの声。それは決意でも、ましてや希望でもない。ただ、限界まで疲れ果てた精神から漏れ出した本音だった。
――そしてプレイリストが終わったのか、スピーカーから曲はもう流れてはこなかった。
(……言っちゃった)
部屋が静かになった途端、リクはふと現実に引き戻されたような錯覚をおぼえる。それと同時に妙な感覚が胸を浸す。
(なんか、よくわからないけど……自分が自分じゃなくなってたような……)
例えるなら――修学旅行で泊まったホテルなどで仲の良いクラスメートと、いわゆる〝深夜のテンション〟で深く語り合って朝を迎えた後に訪れる、若干の後悔と自己羞恥が混ざったようなあの感覚だ。
(というか、なんで僕はあんなにも感情的に……?)
心療士とはいえ、なぜ昨日今日知り合った人物に対し、怒りや悲しみといった人前ではしまっておくべき感情や本音を曝け出せたのか。もちろんエイトの人柄を信頼してというのもあるだろうが、普段のリクはとても内気な少年だ。特に思春期を迎えてからだと、親にすらあそこまで感情を露わにした覚えがない。
(流れてた音楽がなにか関係しているのかな……)
「…………ふぅ」
様々な考えがリクの頭の中をよぎる一方で、エイトが小さく息をつき沈黙を破る。それまで険しかった彼の顔つきは、心なしか安堵しているように見えた。
「どうやら、オマエは大丈夫だったようだな」
「えっ……?」
違和感のあるエイトの言い回しに、リクが訝しむ。
(オマエは、ってなんだ? 僕は〝死にたい〟って言ったんだ……大丈夫なわけがないだろ。この人は何を言って――)
「ちゃんと死にたいんだろ?」
脳内で発していた文句を見透かされるようなタイミングで、エイトから念を押されるリク。
「えっと………」
はっきりと本音を告げたはずなのに、なぜか後ろめたくなってしまう。
「……できれば、死にたい……かも」
「早速と揺らいでんじゃねえよ」
目を泳がせて答えるリクに、エイトがキレの良いツッコミを見舞う。張り詰めていた緊張の糸が切れ、二人の表情が少しだけ綻んだ。
「あの……蒼井さん」
「〝エイト〟でいいよ」
「エイト、さん……その、もしですよ? もし僕が今ここで死のうとしたら、止めるんですか?」
恐る恐るとリクは尋ねる。あくまで仮定の話で、本気でそうするつもりは無いという前提だが、彼がどう反応するのか興味本位で質問をしたのだ。
「目の前で死なれるのだけは勘弁してもらいてぇけど、本気で死にたいと思ってるヤツをオレは止めねえよ」
「セラピストなのに……ですか?」
「セラピストだから、だよ。オレは可能な限り本人の意思を尊重するつもりだ。死のうとするのは、ソイツがソイツの人生で選んだ結論だろ? なのにオレみたいな家族や恋人でもない他人が勝手に〝死ぬな〟なんてのは、かなり無責任だと思わねえか?」
「…………」
リクは、息を呑むようにして言葉を詰まらせた。
確かに彼の弁は筋が通っている。しかし、果たしてそれが正論だと首を縦に振って良いのだろうか。ただ、これはあくまで彼のセラピストとしてのスタンスであって、否定をする権利は誰にも無いというのもリクは理解していた。
「どうやって死のうが、ちゃんと〝自分で選んだ〟って思えることが……人の最期には必要なんじゃねぇかなってオレは思ってるだけだ」
どこか含みのある表情でそう話す彼の声は、諦めとも達観ともつかない調子だった。
(エイトさんも、過去に色々とあったのかな……)
窓の外を眺めて思いに耽るエイトに合わせるよう、リクもベランダ越しの景観に視線を移す。
空は、輪郭の無い雲で覆われていて、今にも雨が降り出しそうだった――
「……なぁ、リク」
「はい?」
しばしの静寂に身も心も委ねていたリクの名を、不意にエイトが呼ぶ。
「今日、死ぬつもりなのか?」
「えっ? いや、まだなんとも……死にたいって気持ちはもちろんあるんですけど……どうやって死ぬかも決めてないし……えっと……」
なにか意を決したような芯の通った声で問われたリクは、しどろもどろに返答してしまう。そんな煮え切らない様子の少年を見かねたエイトは、ある一つの提案をする。
「……まぁいい。とりあえず、一日だけ死ぬの待ってくんねえか?」




