17話 奥戸和弥
――ここ一ヶ月で起こった事実を全て、確かに伝えた。
父の事故死から母の自殺。身寄りが無くなり、叔母のサポートの下での自堕落的な生活。そして、絶望の淵に瀕した際に出会った心療士という存在。
ただ一つだけ『自殺意』という特殊怪奇な超常現象の存在のみを伏せ、リクはヒロに包み隠さず打ち明けた――
「…………」
苦虫を噛まずに舌でそっと味わうような、そんな複雑な表情をヒロは浮かべている。話しておいて、になってしまうが、やはり再会を果たした直後にする話題では無かったかもしれない。リクの心が、じわりと後悔で滲んでいく。
「ごめん、ヒロ……急にこんな話しちゃって」
「俺の方こそ……嫌な話題振っちゃって悪かったよ」
お互いに反省を口にするも、どこか気まずい空気が流れる。廊下では、他の生徒たちのガヤガヤとした喧騒があちこちで反響していた。
「……その、なんだ、キッツいな」
「キツいけど、もう乗り越えたよ。無事に学校も来れたし」
「だとしても……あんまり無理はすんなよ」
「うん、ありがとう。でも、本当に大丈夫だから……ヒロも無理に気を遣わなくていいよ」
「そうは言うけどよ、そんな事情知っちゃったら――」
ヒロは言いかけたが、ぐっと堪えるように呑み込んだ。寄り添うも添わないも、どちらにせよ『気を遣う』という行為になってしまうことに気付いたようだ。ここで肝心となってくるのは〝距離感〟だろう。
「そうだな……わかったよ。とりあえず今日は、久々に会えた事を素直に喜んどくか」
「うん。そっちを優先してくれた方が僕も助かるよ」
「おう、任せろ。それはそうと……なぁリク、昼休み一緒に食おうぜ。須和彩の学食マジでレベル高いぞ」
「へぇ、いいね。話聞いてもらったし……僕、おごるよ」
「いいよ、無理すんなって。逆におごらせろよ」
「今日くらい払わせてよ。一応お金は余裕あるし」
「は? なんで? どういうこと?」
「家、売っちゃったからさ」
「いや、重いって」
軽口を叩き合い、自然と二人にまた笑みが零れ始める。重い内容の話を聞かせたことで、関係がまた遠のいてしまうかもとリクは危惧していたが、どうやら杞憂に終わりそうだ。
(ありがとう、ヒロ)
そしてひっそりと、リクは胸の内で感謝をこぼした――
二人はそのまま談笑を続けながら、廊下を並んで歩く。角を曲がり、お互いの教室のクラス札が見えてきたところで、リクはある事を思い出す。
「あっ、そうだ。僕、職員室に行かなきゃ」
「そっか、しばらく学校に来てなかったしな」
「うん。担任の先生に挨拶しなきゃいけないんだけど……気まずいなぁ。怒られたりしないかな……」
〝学校に登校する〟、〝ヒロに事情を打ち明ける〟と続き、また一つ精神的に大きなハードルを越えなければいけない。そう思うと、胃がキリキリしてきた。
「怒られねえよ。学校側はリクの事情知ってんだろ? B組の担任誰だっけ?」
「奥戸先生、だったかな? 結構若い先生だよ」
「現文のか! いいなぁ、あの人の授業楽しいんだよな」
「そうなんだ……入学式の日に少し挨拶しただけだったから、どんな人なのかいまいち憶えてないんだよね」
「めちゃくちゃ良い先生だから安心しろって」
ヒロのポジティブさに背中を押してもらえた気がして、心が幾分か軽くなる。〝持つべきものは友〟といった都合の良い言い回しはしたくないが、リクにとって今はヒロの存在が、なによりも有り難かった。
「んじゃ、また昼休みな。教室まで迎えに行くわ」
「わかったよ、またね」
お互いに手を振り合い、ヒロが自分の教室へと向かっていく。その道すがらにて、ヒロがすれ違ったクラスメート達と朝の挨拶を気さくに交わし合っているのを、リクは遠巻きに眺めていた。
(ヒロ……もうあんなに友達いるんだ)
別に競っていたつもりはなかったが、焦燥がひしひしとざわめき立つ。自分はまだ旧知の仲であったヒロ以外、気軽に話せる同級生はいなかった。
(上手く、やっていけるのかな……)
そして比べる相手はヒロだけじゃない。他の生徒と比較しても、自分に課された『入学してからの二週間』というハンデは、あまりにも大きい。この出遅れをこれからどう取り戻していくかが、学校生活における当面の課題となってくるだろう――
(……頑張っていくしかないか。とりあえず今は、職員室に行かないと)
◇◆◇◆
二階に上がってすぐの位置にある職員室のドアを前にして、リクは立ち止まる。ヒロの後押しによって薄まっていた緊張の度合いが、再びじわじわと高まっていく。手がほんの少し震えたが、勇気を振り絞ってリクはドアを開いた。
「失礼します……」
白色灯の照明に照らされる広々とした空間には、教師個人の専用デスクが整然と並べられていた。ドアを開いた音で、そこに座っていた教師たちの視線が一斉にリクへと向けられる。
(うわっ……)
見知らぬ大人たちからの視線という、無数の見えない圧力が一瞬にして自分に集中したことで、リクは身をびくっと竦ませかけた。しかしすぐに注目は霧散していき、教師たちはそれぞれのデスクで、書類の整理や授業の準備に再び勤しんでいく。
(びっくりしたぁ――)
「あ、村崎くん。こっちこっち」
ホッと胸を撫で下ろしたところで、今度は奥の方にあるデスクから、耳触りの良い中低音ボイスでリクは名を呼ばれた。その声の持ち主となる教師がいるデスクにまで足を運んだリクは、おそるおそると挨拶をする。
「あの……先生、おはようございます」
「おはよう、村崎くん」
数倍の音量で挨拶を返してくれたこの教師こそが、リクの担任となる〝奥戸和弥〟だった。パリッとした純白のYシャツとスラックスを身に纏った、健康的な褐色の肌。髪は黒く短く整えられていて、涼しげな目元からは若さと清潔さが入り混じった印象を与えてくれる。教員というよりも、どこかインストラクターのような雰囲気がある容姿だ。
「いやぁ、良く登校してきてくれた。先生うれしいぞ」
奥戸は、歯磨き粉のコマーシャルに採用できそうなほどの白い歯を、にかっと見せて笑う。
「その、今日まで……登校できなくて、申し訳ありませんでした」
おぼつかない口調ではあるが、リクは早速とでも言わんばかりに頭を下げて謝罪する。もちろん自分に非がないのはわかりきっていたが、それでも一応の体裁を、という形だ。
「いや、村崎くんが謝ることなんて何一つないよ。むしろ、先生も先生でありながら一切のサポートが出来なくて申し訳ない。教員の規則上、生徒のご家庭の事情には立ち入れない決まりになっていてね……本当にもどかしい限りだよ」
リクの肩に優しく手を置き、奥戸は痛み入った表情で寄り添う姿勢を見せる。
「今日まで辛い思いをして生活を送ってきたということは、先生たち全員、ちゃんと理解してる。だから……今日こうして、ちゃんと制服を着て、勇気を出して学校に来てくれたこと。それだけで十分なんだよ。ありがとう」
トーンを落とした芯の通った声で奥戸はそう言うと、おもむろに立ち上がり、リクに向けて逆に頭を下げる。謙遜すら許してくれなさそうな、大の大人が本気で誠意が込めた〝感謝の念〟に、リクは思わず気圧された。
(えっと……)
何を発していいか分からず、リクはうろたえる。数秒ほど沈黙が流れ、他の教師たちが打ち合わせや作業などをしている音が、どこか遠く聴こえてくる――
「――よし、重たい雰囲気はここまでにしておこう。あまり気を遣われるのも、村崎くんとしては困るだろ?」
奥戸は面を上げ、換気をするかのように声と表情だけで空気をガラリと変えてみせた。リクは頷き、相槌を返す。
「久々の登校はどうだ? やっぱり緊張しちゃうか?」
「はい……周りはもうみんな仲良くしてますし、正直焦ってます」
「だよなあ。実はな、先生もこの春に学校に来たばっかりでな。まだ新任一年目なんだ。こう見えて緊張しまくってるし、職員室でも浮いちゃってないか不安になるんだ」
奥戸は声を潜め、照れくさそうにリクの心配に同調をする。
「だから、似たような立場……って言ったら語弊があるかもしれないけど、村崎くんが不安になる気持ち、少しはわかっちゃうんだよ」
「……先生でも、緊張しちゃうんですね」
「もちろんするぞ。この前の授業も噛みまくりで生徒たちに笑われてしまったよ」
堅苦しさのない返しに、リクも自然と微笑んでしまった。
「そろそろ始業の時間だな……じゃあまた後で、ホームルームで会おう」
「……はい。失礼します」
ぺこりと軽く頭を下げ、リクは職員室を後にしようとする。
「そうだ、村崎くん」
だがそこで、思い出したかのような口調で奥戸に呼び止められた。
「その、村崎くんの後見人になってくれるって方と、今度ご面談をしてみたいんだが……どうかな?」
「面談……ですか?」
「そう、村崎くんも交えてだから三者面談になるな」
奥戸から提案を受け、リクはやや思い悩む。人格的に素晴らしいこの先生と、社会的に見たら素性の怪しいエイトを対面させて、果たしていいものなのだろうか――と。
「もちろん、その方がどういった人なのかも興味があってのものだけど、大前提は村崎くんについてもっと話し合いたいっていう先生の願望だ。どうだ?」
ここで断れば後から罪悪感が芽生えてきてしまいそうだと、リクは懸念をよぎらせる。
「……わかりました。相談してみます」
「ありがとう。面談の日取りはそちらのご都合に合わせるとも伝えておいてくれ」
快く、とはいかなかったがリクは承諾し、奥戸と最後に挨拶を交わして職員室を後にした。そして、階段を降りていく最中にて、更新された奥戸の印象を振り返る。
(エイトさんと会わせるのは少し心配だけど……普通に、というかめちゃくちゃ良い先生だったな)
まだ不安は消えない。けれども、エイトや叔母以外にも『誰かがちゃんと支えてくれている』という確かな信頼が、たった数分の会話だけで感じ取れた。そしてその信頼がほんの少しだけ、教室へと向かう足取りを軽くしてくれた気がした――




