16話 ヒロ
地下鉄駅を出てから徒歩で程なくして、リクは校門の前にまで辿り着く。眼前で広がるように建つ校舎は、黒檀を思わせるような濃い茶色の塗装がされていて、どこか気品のある外観だ。
〝須和彩高等学校〟――ここが、リクの通う学校である。比較的自由な校風が特徴と言われている私立高で、開校してまだ二十年程度と、その歴史は浅い。
一方で偏差値で言えば進学校の枠に収まるのだが、教育方針の一つに『文武両道』が掲げられ、部活動にも力を入れた高校としても知られている。
(そうだった……この学校なら、僕のやりたい事も見つかるはずだ、って父さんと母さんが薦めてくれたんだ)
校門の脇に掲げられている学校名が刻まれた銘板を見て、リクはふと、これまでの半生を振り返る。幼稚園を経て、小学生から中学生と歳月を重ねても、リクは『将来の夢』といったありふれた目標を思い描くことは無かった。
(厳しく育てられてきたって感覚は無かったんだけどな……習い事や部活とかも色々と勧められてたけど、特に何も興味を持てなかったんだっけ)
そんな折で、両親が須和彩高校のパンフレットを見せてくれたのを思い出す。リクもリクで、親にこれ以上の心配をかけたくないといった配慮で受験を決断したのだった。
(父さんと母さんが好きだったからこそ、ワガママを言って困らせないようにしてたつもりだった。けど僕の場合、それが逆効果だったのかな……)
思い返して考え込むほど、どうしても責任の矢印が自分へと向いてしまう。
(もっと、両親と話したかった……)
そして、感傷に浸ってしまう。
(ダメだダメだ……切り替えないと!)
リクは自らに喝を入れるよう、両手で両の頬をパシパシと叩く。
「よし、行こう――」
沈みかけた感情を掬い上げたところで、気分を新たにして歩みを再開させる。だが校門を通過する直前、何者かに背後から肩を叩かれ、リクは反射的に振り向いた。振り返った先には、自分と同じ学年を表す緑の校章を胸に留めた少年が、こちらの顔色を窺うような表情で立っていた。
「リク……だよな?」
おそるおそるとした声色で、名を呼ばれる。彼の容姿は、スラッとした長身に短く今風に整えられた明るい茶髪を生やし、童顔気味な顔立ちだが精悍さも併せ持ったような大人びた少年だった。一見しただけだと、いわゆる『陽キャ』といったカテゴリーに属するような男子高校生にしか見えない。
(えっ、誰……?)
「俺のこと、おぼえてる?」
そう尋ねられたものの、リクに心当たりはなかった。しかし、喋り方の抑揚から、どこか懐かしい気持ちにさせられた。リクの頭の中で、雰囲気という名の曖昧な輪郭が徐々に形をとどめていき、面影へと変貌を遂げ始める。
「ほら、稲山小で六年間一緒のクラスだった――」
「……ヒロ?」
そして通っていた小学校の名が発せられた途端、リクの口からは無意識に彼の呼び名が零れ出ていた。
「思い出してくれたか……やっぱリクだよな? 久しぶり」
それまでどことなく心配そうな面持ちだった彼も、安堵した様子で顔色を明るくさせる。八重歯を覗かせた人懐っこいその笑顔を見て、リクは改めてヒロだと認識した。
ヒロ――矢間吹尋は、リクの小学校時代の友人だ。性格は快活で、外向的。内気で控え目なリクとは正反対なタイプの少年である。そんな二人が仲良くなったきっかけは、小学校一年生当時にて流行っていた対戦格闘ゲームだ。クラスの中で一番強いと噂されていたリクの家に、ヒロが挑みに行く形で関係は始まる。
だが肝心の結果は、何度対戦してもリクの圧勝に終わってしまう。ヒロは子どもらしい負けず嫌いを高じさせリベンジを誓い、そこから毎日学校帰りにリクの家へ通い詰めていくことで、次第に友情が深まっていくのだった。
ゲームのブームが過ぎ去っても、関係は途切れなかった。入学から卒業まで奇跡的に同じクラスだったのもあってか、互いに口には出さずとも『親友』と認め合うほどの仲になるまで、関係は発展していく――
「久しぶり。小学校の卒業式以来……だっけ?」
「中一になってからも何回か遊んでるだろ。忘れんなって」
――しかし中学校への進学の際、お互いに住んでいる地域の学区がたまたま分かれてしまったのだ。当然、二人は別れを惜しんだが『学校は別でも遊び続けよう』と、約束を交わし合っていた。
「ごめん、そうだったね。というか、雰囲気変わりすぎてて最初誰かわからなかったよ」
「リクが変わらなさすぎなんだよ。横顔見ただけで一発でわかったぞ」
時間というのはあまりにも無情だ。環境が変わってしまえば、それまでの人間関係は徐々に希薄となっていき、思い出は少しずつ希釈されていく。ヒロは新しい友人が出来てしまったのか、中学一年生の夏休みが始まる頃にはめっきり遊びに誘ってこなくなった。一方でリクも、自ら遊びに誘うような勇気を持てないまま、連絡すらもいつの間にか疎遠となってしまっていたのだ。
(確かに、そうか。三年もすれば普通は色々と変わるよね)
自分と比べて大人びた様子のヒロの姿を見て、リクは三年という月日の長さと重さを改めて実感してしまった。
だが、それでも、変わらない部分もある――
「しかしまさか、リクが〝スワ高〟に入学してたとはな」
「ヒロの方こそ、家からかなり遠いし僕よりも勉強できたんだから、もっと良い高校に行けたんじゃないの?」
「いや俺、弓道部入りたくてさ。市内だと弓道部あんの須和彩くらいなんだよ」
「弓道部?」
「そ、弓道部。なんかカッコよくね?」
ヒロはそう言うと身体を半分だけ翻させ、背中に掛けたナイロン地の細長い弓袋をリクに見せつけた。
「まぁ、うん、かっこいい……ね」
「絶対思ってないだろ」
「その理由だけで入部したの?」
「え、なんかマズいか?」
「……ヒロって、少し変わってるよね」
「変わってねえよ。これが俺だよ」
「かっこいいじゃん」
「絶対思ってないだろ」
(……あれ? めちゃくちゃ話しやすいな)
会話をしてて違和感の無さが違和感を呼ぶといった、奇妙な感覚をリクはおぼえる。変わったと思っていたのは背丈と雰囲気だけで、根底にある人間性まではリクの知る『ヒロ』のままだったのだ。
(この感じ……懐かしいな)
ふと、感慨に耽り込む。ヒロと過ごした小学生時代の記憶が、褪せたセピア色からフルカラーへ、まざまざと蘇っていく。駄菓子屋で買い食いをした記憶から、お泊まり会をして対戦ゲームで夜通し白熱した記憶まで、鮮明に――
「ん、リク? どうした?」
「……大丈夫、なんでもないよ。行こう」
少しぎこちのない笑みを浮かべ、リクはヒロと肩を並べて須和彩高校の校門をくぐった。
校門を過ぎると、色とりどりのチューリップが咲いた花壇を囲んで広がるロータリーから、校舎へと繋がる緩やかなスロープが続いていた。数十人の生徒がぞろぞろと正面玄関に入っていき、リクとヒロもその人波に混ざって校舎に足を踏み入れる。
校舎へ入ると、ワックスの効いた床が水を打ったように光り、何列にも渡って整然と靴箱が並んでいた。他の生徒たちが次々と上履きに履き替え、それぞれの教室へと消えていく。ちなみにリクの教室は1年B組で、ヒロとは別のクラスだった。
「えっ? 靴箱こんなに近かったのか? なんで今日まで会わなかったんだ?」
隣同士の列で、背中合わせの位置にあるリクの靴箱を見やって、ヒロが怪訝な顔を覗かせていた。ヒロのそんな様子を窺い、リクの表情が少し翳っていく。
(ああ、そっか……ずっと学校来てなかったしね)
両親が亡くなった事実を、ヒロにはまだ伏せていようと思っていた。再会に喜んだ晴れやかな朝を、曇らせたくなかったからだ。そして何より、ヒロに変な気を遣わせてしまいたくない。もっと落ち着ける場とタイミングで、打ち明けたかったのだ。
(今はまだ、やめとこうか。いや、でも……)
リクは上履きを取り出し、薄く付着した埃を払って履き替えながら、逡巡としている。しかし――
「そういえばさ、リクの母さんは元気にしてる? 今日は部活あるから行けないけど、久々にリクんちでまた遊びたいな」
お互いに靴箱を向き、背中越しに尋ねられたその質問。無邪気さにも似たヒロの悪意の無さが、リクの心をより強く締め付ける。だがそれでも、逃げずに向き合わなければ――なんのために、自分はまた学校に通い始めようと思ったのか。その理由を胸に秘め、リクは意を決して打ち明ける。
「あのさ、ヒロ。僕……入学式から今日までずっと学校に来てなかったんだ――」




