幕間 気付くきっかけは大事って話
――正直、限界だった。
今日も朝からろくに休憩も取れず、部下のミスの尻拭いに追われるばかりで、上司には管理責任を問われる始末。会議では、俺が根を詰めて作成した企画資料が斜め読みすらされずに一蹴。一方で、若い社員の口から出た似たような発案には『柔軟な視点だ』と、称賛の嵐。
やってられるか、という話だ。
気付けば俺は、中間管理職という名の板挟み専門家になっていた。自己主張の強くない性格や雰囲気から、下の人間には甘く見られ、上からは過度な要求を押し付けられる。俺の苦労なんて誰も知りやしない。残業してても褒められず、早く帰れば『余裕あるんですね』と嫌味が聴こえてくる。
……辞めたい。
毎日そう思っていた。今日だってそう。帰りの地下鉄ではスマホで求人サイトを開いては閉じ、転職エージェントのバナー広告をスクロールして悩んだ挙げ句、結局『無理だな』と画面を閉じる。俺には妻がいて、もう八歳になる娘もいるんだ。住宅ローンだってまだまだ残っている。今の会社は嫌いだが、棄て去るには重たすぎる現実があった。
そんな『辞めたい』と『辞められない』の間で、宙ぶらりんな葛藤を数年ほど続けていたら、不意にある一つの選択肢に思い当たる。
――いっそのこと、死んだ方が楽なのでは?
いつからか俺の心に巣食いだした悪魔が、救いを教示するかのように囁いてくる。いやいや待ってくれよ。俺にはまだ守るべき愛娘がいて、その成長を見届ける義務が残されているんだ。自分の勝手な都合だけで死んでしまうには、俺の人生はあまりにも手遅れだ。
そうやって理性と良識という名の防波堤を築くも、日に日に『死』という選択肢が、俺の頭の中で比重を増してくる。胃のムカつきや歯痛に近い感覚で、何をするにしても意識の片隅で常に存在していた――
――そんなある日。いつものように仕事を終えた俺は、いつもの時間の地下鉄に乗っていつもの場所に向かう。
午後七時。
地下鉄駅から徒歩一分の店。
俺の生活の中で唯一、安らげる場所。
暖簾をくぐった途端から漂う豚骨の香り。最初はこの獣臭さに顔をしかめたものだが、今では家の布団の匂いよりも嗅いでて気が休まる。このラーメン屋だけが、俺の荒廃しきった精神にとってたった一つのライフラインとなっていた。
「お、今日は定時だったんだね。いつもの席空いてるよ!」
気さくな店長の声に軽く手を上げて応じ、いつものメニューを頼んだところで、俺はカウンターの端っこに腰を下ろす。ここの塩とんこつラーメンは絶品だ。今まで数多くのラーメン店に足を運んだが、この店のスープが一番俺の舌に合う。他の誰がなんと言おうと、ここは俺にとってのミシュラン三つ星なんだ。これだけは譲れない。
しかし――
「お兄さん! 今日も来たのかい!」
「来ちゃいましたよ〜! いつものお願いしまーっす」
「あいよ! カウンターの空いてる席座ってくれ」
軽薄そうな声と店長の案内が聞こえてくると、ガラの悪い大柄な男が俺の隣の席に座ってきた。この店の麺の色くらいに明るい金髪とピアスに、ダボついたスウェット。年齢は二十代前半くらいだろうか。店長とのやり取りからしてこいつも常連なのかもしれないが、見掛けた事が無い。いかにもな、チャラついた若者だ。この時間帯に店が混むのは仕方無しだが、こんな輩が隣では落ち着いて食べれやしない。
――くそ、ツイてないな。
俺の唯一の癒やしの空間を穢される気がした。しかも男は席に着くや否や、趣味の悪いケースで覆われたスマホを取り出し、配信者がパチスロを打つだけの動画を視聴し始めた。やれ『新台がどうだの』、『設定がああだの』といった実況付きの動画を、食い入るように眺めている。
――勘弁してくれよ。
これは勝手な偏見だが、こういった輩はどうせギャンブルと女遊びのことしか頭に無いんだろう。こちとら朝からスーツを着て、毎日神経をすり減らして働いているんだぞ。妻とはもう何年も身体なんて重ねてない。重なっていくのは我慢と責任だけ。それに比べてなんなんだお前のその、お気楽そうな人生は。ふざけるな。いや、むしろ羨ましい。俺もこいつみたいに自由に生きられたら『死んだ方が楽』だなんて考えを持たなくても――
「……ん?」
刺すような視線を無意識に送っていたら、不意に目と目が合ってしまった。やばい、と思って慌てて視線を逸らそうとするが――
「お、打つんすか? 一緒に視ます?」
「い、いや……」
気まずさ全開の返答をしてしまった。だが彼は全く気にした様子も見せず、自然な笑みを浮かべて話題を振ってくる。
「ここのラーメンウマいっすよね」
「ええ、まあ」
「今日は仕事帰りっすか?」
「まぁ、はい」
「スーツ、似合ってますね」
「……どうも」
「なんのお仕事してるんですか?」
「医療機器メーカーの、営業管理を……」
「へぇ、エリートじゃないっすか」
「いや、それほどでも……上司にはひたすらこき使われるし、部下からはナメられる毎日ですよ」
「うわぁ……キツそうっすねぇ。ご結婚は――あ、指輪してるってことはされてるんですね」
「まぁ、一応……娘も居ま――」
自分の身の上をそこまで明かしてから俺はふと気付く。ついさっき会ったばかりの見ず知らずの男に、なぜここまで正直に話してしまうのか。すぐにでも会話を切りたくて適当に相槌を打っていたつもりだったのに、自分の意思とは正反対に口が動いてしまっていたのだ。
「ん? どうしたんすか?」
「べ、別に……」
気味が悪いほどに妙な親しみやすさのある彼が、俺はなんだか怖くなってしまった。顔を俯かせ、スマホをいじるフリをしてこれ以上会話が発展しないように、見えない壁を作った。
「ヘイお待ちィ!」
そしてこれ以上にない程のナイスなタイミングにて、ラーメンが卓に置かれた。黙々と食べることで、更に会話をしづらい雰囲気にすることができる。すぐに食べ終えて、今日はもうさっさと帰ってしまおう。
――と、思っていたのだが。
「おっ、一緒のラーメンじゃないっすか。やっぱこの店は塩とんこつが断トツっすよね〜」
同じ中身が入った二つのどんぶりを見て、彼が再び上機嫌そうに声をかけてくる。あぁくそ、なんなんだこいつは。よくわかってるじゃないか。良いだろう。こうなったらとことん話に付き合ってやろう。今日はもうそういう日なんだと、俺は割り切ることにした。
それからしばらくは、食べながら彼とこの店のラーメンの味について熱く談義を交わす。気付けば時間が嘘のように溶けていき、お互いにラーメンを食べ終え満腹の余韻に浸っていたところで、俺は何の気なしに尋ねた。
「ちなみに、そちらはなんのお仕事を?」
「あぁ、オレっすか? バイトしながら心療士っすね」
「……セラピスト?」
「そうっす。メンタル系っすよ。カウンセリングとか。あ、名刺渡しておきますね」
彼はそう言って財布の中から名刺を取り出し、卓の上にすっと置いてくれた。俺はそれを手に取り、見慣れない文字列を目で追っていく。
「〝特殊音楽療法心療士〟……蒼井詠人」
「ちょっ、口に出して読まないで下さいよ。照れますって」
「あ、あぁ……申し訳ない」
『特殊音楽療法』というフレーズにピンと来なかったが……しかしそうかなるほど、セラピストだったのか。道理で話しやすいわけだと、俺はここで合点が行った。ただそれと同時に、彼に対し勝手な偏見を抱いてしまっていたのが、なんだか無性に申し訳なく思えてきた。
「カウンセリングって……具体的にはどういった相談を?」
「お、興味あります?」
「いえ、うん、まぁ、少しは……」
「別に恥ずかしがる必要ないですよ。そうっすね……相談の内容でよくあるのが、仕事や生活環境、人間関係で悩みを抱えたりってのがほとんどですかね」
なるほど。まあ、想像通りだ。カウンセリングだが、実は数年前に一度、心療内科で受けたことがある。その時は不眠症に悩まされていた時期で、相談ついでに色んな悩みや不安を打ち明けてみたが、本当にただ『話を聞いてくれるだけ』といった印象しか残らなかった。
もちろん、話を聞かせて親身に共感を得てもらうことで、救われたり安心できる人も存在するのは知っている。だからこそ成り立つ職業であって、彼もまた、今のストレス過多な現代社会には必要とされる人材なのだろう。
だが、俺は別に話し相手が欲しいわけではない。話を聞いてもらったところで、俺の辛さは俺にしかわからないんだ。明日からまた新たな企画書の作成で、残業続きの日々が続く。ここのラーメンも、しばらく食べにくることはできないだろう。休日は体力を回復させるのに精一杯で、家族と出掛けたり趣味に没頭するといった気力すら湧き上がらない。一体、俺はなんのために生きてるんだろう。ときどき、分からなくなってくる。
ん?
あれ?
やばいな?
ダメだな?
やっぱり死に……たいのか?
「……大丈夫っすか?」
頭痛を我慢するかのように、眉根に手を添えて考え込んでいた俺の顔色を、彼が心配そうに窺ってくる。
「大丈夫です。少し疲れてしまって……申し訳ない」
「なんか悩みとかあるなら話してくださいよ」
「いえ、そういうのでは無いんです」
俺は平静を装って、冷めかけていた残りのスープをまくった。彼の親切はもちろんありがたいが、事情を話したところで気休め程度にしかならないだろう。とにかく俺は、娘のために頑張るしかないんだ。このまま無理を通し続け、身体を壊そうが心が折れようが、それでも構わない。行き着く先が『死』という結果になったとしても――
――俺に選択肢なんか、残されていないんだ。
「それじゃ、また会ったら一緒に食べましょ」
先に勘定を済ませていた彼が、帰り際に俺の肩をポンと叩く。その軽い衝撃に、俺はハッとさせられた。
「そ、そうですね。また……」
振り向き、彼に挨拶を返す。口では友好的に接しているつもりが、顔では笑みを浮かべているつもりが、今俺はどんな声と表情をしているのか自分でもわからない。
「…………」
彼の反応を窺うのが怖くて、俺はすぐに視線を逸らした。しかし彼は特に気に留めなかったようで、耳を澄ましてみると、店長とカウンター越しに会話をしてくるのが聴こえてくる。どうやら、このまま帰ってくれるようだ。
……良いヤツだったな。
そりゃまあ彼も仕事だし、俺のことなんて悪く言えば〝顧客〟になりそうなおっさんとしてしか見てなかった可能性もあるだろう。ただそれでも、仮に営業だったとしても、素の人柄自体がとても魅力的な人物だと思えてしまった。俺が彼の利用者になることはないだろうが、頑張ってほしいと素直に応援したくなったのは紛れもない事実だ。
そういえば、バイトもしてると言ってたな。本業の稼ぎだけじゃ、食べていけてないのだろうか。彼も彼で、苦労しているんだな……そう考えてしまうと、俺もまだまだ音を上げてなんていられない。
さて、俺も帰るか。明日に備えて、今日は早く――
「あっ……」
勘定を済ませようと席から立ち上がったタイミングにて、卓の上に置いたままだった彼の名刺に視線が固まる。そうだ、せっかく頂いたのだからきちんと持ち帰らないとな。そうして手に取り、財布にしまおうとしたが、そこで名刺の裏面に手書きの文字が記されていることに気付く。
『死にたくなったら、連絡ください。無料で話聞きます』
そうだな、うん。
こういうきっかけは、大事にしないとな。
余ってる有休でも使うか――




