13話 形平はづき
「――じゃあ、引っ越しは明後日な。それまでに荷造り済ませておけよ?」
「はい。なんとかやってみます」
地下鉄駅へと続く階段の前。既に時刻は18時を回り、宵に沈みかけた空は紺青色に染まっている。家路につく人々が次々と通り過ぎていく往来にて、二人はリクの引っ越しの段取りについて打ち合わせを済ませていた。
「あの、本当にエイトさんが引っ越し作業を手伝ってくれるんですか?」
「おぅ任せろ。建築の足場でバイトしてた頃にソコの社長さんと仲良くなってな。さっき連絡して相談したら会社の軽トラ一台借してやるって言ってくれたからよ、引っ越しはオレ達二人で済ませちゃおうぜ」
心配に対し、エイトが自信満々に言ってのける。だがそれでも、リクの顔は浮かないままだ。そもそもリクにとって『住む家が変わる』というのは、人生で初の経験になる。引っ越しの大変さもそうだが、新しい生活に馴染めるのかという不安の方が大きかったのだ。
「まぁ、そんなシケた顔すんなよ。すぐ慣れるっての」
「だと良いんですけど――って、あれ? はづきちゃん?」
「えっ、リク――?」
エイトと話していた最中のそんな矢先、リクはすぐ横を通りすがっていった自転車に跨る人物を目に留め、思わず呼び止めてしまう。名を呼ばれた人物も反射的にブレーキを握り、甲高いスリップ音を響かせてロードバイクを急停止させた。
「うわ、マジびっくりしたぁ」
サドルから降り、カラフルなマーブル塗装が施されたロードバイクを手で押して、ややハスキーな声質の女子がこちらへと折り返してくる。ワイヤレスのヘッドホンを首に掛け、オーバーサイズな黒のパーカーを着こなし、やや目深に被ったキャップからダークブラウンのロングヘアーを垂らした彼女こそが――
「なんでリクがこんなトコロにいるのさ」
――形平はづき。リクの従姉妹にして、先ほど見送ったばかりの叔母の一人娘だ。彼女とリクが顔を合わせるのは、母の告別式以来であった。
「少し、用事があったんだよ。はづきちゃんの方こそ、どうしてここに?」
「あたし? あたしは塾が地下鉄駅の東口にあるからね。てか、なに? 本当に呼んだだけ?」
「う、うん……」
「あたし帰ってからも勉強しないといけないし、マジで忙しいんだけど……用無いならもう行っていい?」
はづきは腕を組み、リクを睨めつけ、黄色のスニーカーを履いた片足でコンクリートをパタパタと踏みつけている。
(うわぁ……声、掛けなきゃよかったかな)
リクに対して明らかに不機嫌そうな態度のはづきだが、その理由は明白である。はづきの母である叔母が、娘のみならず自身の面倒も見ているからだ。
(そうだよ……はづきちゃんからしたら、叔母さんが苦労してる姿を一番間近で見てるんだもんな。学校にも行かないでこんな時間に外をほっつき歩いてる僕のことなんて……視界に入るだけでもイラついちゃうよね……)
「ごめん、はづきちゃん……」
今までの自堕落していた分も含めて、自責の念が胸の内を圧迫し、リクは表情を沈ませて反省を口にする。はづきはそれを受け、少しもどかしそうな様相で慌てふためく。
「あ、謝んないでよ……! てか、あたしの方こそゴメン。ここ最近毎日勉強漬けでナーバスんなっちゃっててさ……」
被っていたキャップを外し、伏し目がちに弱音を零すはづきを見て、リクは同情を寄せる。
「はづきちゃん……」
「ママともケンカばっかしちゃうし……リクに当たったってしょうがないのにね……バカだよほんと」
叔母のみならず、彼女も相当精神的に参っているようだ。そもそも普段のはづきは、内気な性格のリクとは異なり、活発で社交性の高い現代的な女子高生だった。女手一つで育ててくれている母の姿を見て、大学受験に本気で取り組もうと一念発起したのである。
「あぁもう、一緒に勉強してくれるカレシでも作っとけばなぁ……こんなに病むことも無かったのに……」
しかし、まだまだ遊びたい盛りの年頃だ。青春や色恋にうつつを抜かしていたい欲と、勉学に励まなければという義務感との間でジレンマに陥ってしまっているのが、はづきの今の精神状態だった。
「……っ」
リクも彼女の性格を知った上で、どう言葉を掛けてあげればいいのか分からないでいた。何とも言えない気まずい空気が、二人の間に漂う――
「おぅ、どうした女子高生? 病んでんのか?」
――だがここで突如、向かい合う少年少女の間に割って入るよう、エイトが横から口を挟む。
(え、えっ、なんで急に……?)
ぬっと現れたエイトに、リクは仰天する。つい先ほどまでエイトは、リクがはづきと話し始めてすぐに察してくれたのか、素知らぬ顔で他人のフリを装っていた。そんな彼の突然すぎる介入に、リクは驚くばかりで絶句してしまっている。
「あの……お兄さん誰っすか? ナンパ?」
一方ではづきも、それまで風景の一部としてしか捉えていなかった見知らぬ大男から唐突に声を掛けられたことで、明らかに動揺を隠せないでいた。だが、なにやら様子がおかしい。エイトのつま先から頭頂まで値踏みするように視線を動かしていくにつれ、彼女の顔つきは徐々に変化していった。
「ナンパじゃねえよ。オレはな、親を亡くした陸のカウンセリングを担当してる蒼井――」
「えっ、てか待って、よく見たらなんかメロいっすね。てかもう激メロファイヤーじゃないっすか。えっ、ヤバ」
一転して、空気が変わる。おそらくエイトはリクとはづきの間に流れていた重苦しい雰囲気をどうにかしようと、声をかけたのだろうが――
「連絡先交換しましょーよ! あ、〝ティッキタッカ〟やってます? フォローし合いません?」
「話聞けよ! おい、リク! なんなんだコイツ!」
――どうやら意図していなかった色の空気へと変貌を遂げてしまったようだ。はづきは今、つい先ほどまで弱音を吐いていたとは思えないほどに、本来の〝形平はづき〟の姿を取り戻していた。
「はづきちゃん。この人はね、僕を担当してくれてる心療士のエイトさんっていって、今日はちょうどカウンセリングの日だったんだよ」
見兼ねたリクが、エイトへ助け舟を寄越すように少し声を張って説明する。はづきはその情報を聞き、キョトンとした表情でエイトの顔を見上げた。
「えっ、マジ? セラピスト……凄いっすね」
「は? 何がすげぇんだよ」
「なんか……セラピスト! 凄いじゃないっすか!」
「語彙力皆無かよ。そんなんで受験大丈夫かオイ」
「それよりも連絡先交換しま……あ、待ってママからだ」
話し途中で母から着信があったようで、はづきはパーカーのポケットからスマホを取り出し、通話を開始する。
「ママ? んー、今帰ってる途中、うん、うん……え! 出前とったの? 寿司? えぇーママ好きぃ〜愛してる〜待って、急いで帰るから一緒に食べよう! えっ、うん……いや、あたしの方こそ朝ヒドいこと言ってゴメンね。うん、ママは悪くないよ」
このたった数分間で、情緒が目まぐるしく移り変わっている形平はづき。そんな彼女が母と通話している姿を、リクとエイトは並んで眺めていた。
「……リク、最近の女子高生ってみんなこうなのか?」
「いや、さすがに……はづきちゃんは結構独特なんで」
「てか、ひとつ聞きたい事あんだけどいいか?」
「あ……僕もあるんですけど先、どうぞ」
「――〝激メロファイヤー〟ってなんだ?」
「それ、僕も聞きたかったやつですね……」
その後、通話を終えたはづきは再びエイトに連絡先の交換をせがんだ。エイトは嫌々としながら名刺だけを渡したが、それでもはづきは満足げな表情を浮かべ、ロードバイクを走らせて颯爽と家に帰っていった――




