10話 協力
「違うっっ!」
喉が焼けてしまうのではないかというほどの声量で、リクは咄嗟に否定の声を上げた。この部屋が防音加工されていなければ、隣人から苦情があってもおかしくなかっただろう。エイトもさすがに驚いたのか、目を丸くさせている。
「……わかった。とりあえず落ち着け、な?」
「はぁっ……はぁ……」
エイトから宥められるが、リクの心は依然として乱れたままだ。動悸は早まり、呼吸の間隔が狭くなってくる。胸が締め付けられるように苦しい。
(あれ、なんだ……これ……)
「おい、リク! しっかりしろ!」
なんとか落ち着かせようと意識をしてみても、呼吸は浅いまま続く。やがて全身が小刻みに痙攣し、手足がしびれ、視界がぼやけ始めてきた。心配を寄せるエイトの声が、壁越しにいるかのようくぐもって聴こえる。
「……リク、大丈夫だ。ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから……気持ちを落ち着かせるんだ。そうだ、そのまま吸って、止めて、吐く……そう、それでいい。それを少しずつ繰り返すんだ。慌てなくていい」
エイトがリクの両肩に手を添え、呼吸に合わせて優しく耳元で指示を送る。リクは言われた通りに、呼吸を正常に戻そうと心を整えて専念した。途中、何度かむせながらも少しずつ感覚を取り戻し、やがて苦しさが和らいでいく――
「……っ、はぁ……はぁ、ふう」
数分ほどかけて、リクはようやく正常な呼吸を取り戻した。汗ばんだ額を腕で拭い、渇いた喉にコーヒーを流し込む。その様子を見て、エイトもホッと胸を撫で下ろした。
「大丈夫か、リク?」
「はい、すみません……いきなり」
「いや、オレの方こそ悪りぃ。もう少し落ち着いたタイミングで話すべきだったな」
お互いに反省を交わし合う二人。少し気まずい空気が流れ始めたが、リクはまだ少し上がっていた息を整えると、静かに口を開いた。
「僕の母さんも、自殺意のせいで亡くなったんですよね」
リクのその声は、問い掛けるというよりも自らに言い聞かせるような質感だった。真実は、どれだけ覆い隠して目を逸らそうが、真実だ。リクは、しっかりと噛み砕いた上で、向き合う事を決めたのだった。
「……ああ、そうだ」
一方でエイトは、途端に冷静な語り口のリクに面を食らいつつも、濁さずに肯定を伝える。
「どうして、わかったんですか」
「自殺意によって死んだ人間の遺体からは、少しだけ自殺意の残りカスみてえなのが検出されるらしいんだ。オレが直接見たワケじゃねえから、曖昧にしかわかんねえんだけどよ」
無表情だったリクが、わずかに眉をひそめる。エイトは次に来るであろう質問を予見して、すぐに説明を始める。
「あまり大きい声じゃ言えねえんだが、検視に携わった警察からの確かな情報筋だ。さっき言った友人が警察内部にいる奴と繋がりがあって、オレにも情報共有してもらってんだ」
「そうなん……ですね」
エイトの口から発せられた『警察』という単語からリクは、自殺意を取り巻いた事の重大さの規模が、想像していた以上にまで膨らんでいるという事実に慄然とする。
(あれ? それを僕に伝えたってことは――)
しかしそこまで聞いて初めて、リクは一つの結論に辿り着く。いや、辿り着いたというよりかは、エイトによって導き出されたのかと感付いてしまった。
「エイトさん、あの……僕にここまで話したっていうのは……もしかして――」
「そうだ、リク……オマエにも協力をしてほしい」
「……えっと、その」
ある程度予想はできていたが改めて請われると、素直に首を縦に振れなかった。感情の整理をつかせるために、一つずつ丁寧に問い掛けていく。
「協力って……具体的にはなにをすれば」
「今のところは何も考えてねえよ。特に危険な事をさせるつもりもねえ。オレに出来る事も、自殺意を一人ずつ除去していく事くらいだしな。ただ、少しでも事情を知ってるヤツが居てくれるだけで、オレにとっては心強えんだ」
「……協力してくれてる人って、他にもいるんですか?」
「さっき言った友人の他には、あと二人いる。まあ、どれも昔からの顔馴染みなだけで、アイツ等からしたらオレに協力してるって感覚はねえかもしれねえけどな」
そこまで聞いてリクは、小さく一息をつく。そして、エイトに対して今まで抱えていた違和感全てを取り払うかのような疑問を、最後に投げ掛ける。
「あの、どうして……僕なんですか」
ソファで隣に座るエイトの目を見て、リクは恐る恐ると尋ねた。これまで即答していた彼だったが、ここでわずかな間が空く。
「……そうだな、自殺意によって身内を亡くして、オレと知り合って、事情も知ったんだ。これ以上の適任はいねえだろ?」
少し視線を逸らして、後ろ髪を雑に掻きながらエイトがそう答えた。心理学とやらに疎いリクでも、彼の口振りや仕草から、その口上が嘘だとわかってしまった。いや、嘘ではないのだろうが、どこか本心を隠しているように窺えたのだ。
「それだけの理由……なんですか?」
「あ? 他に理由なんてねえよ」
「本当に?」
「マジに」
「…………」
問い詰めても、ひらりと受け流されてしまう。しかし絶対にまだなにか理由があるはずだ、とリクは確信し、エイトを黙って見続ける。
「っ……あぁ、クソ」
そんなリクからの無言の圧力と視線を横顔に浴びたエイトは、耐えきれかねたのか舌打ちと共に毒づいた。そして、我慢比べに負けたかのような苦い表情で、本心を打ち明ける。
「……オマエに死んで欲しくねえんだよ、単純にな」
(えっ……?)
それはあまりにも突拍子のない、明快な理由。リクからすれば当然、意外だった。なにかもっと重大で、今明かすと都合の悪い情報が隠されているとばかり思ってしまっていたからだ。リクはキョトンとした面持ちで、エイトをじっと見つめる。
「んだよその顔、知ってて食い下がってんのかと思ったわ」
「僕、そんなに性格悪くないです」
「なんかムカつくなオマエ。言わなきゃ良かったか」
「それより、エイトさんは僕が死のうとしても〝止めない〟って昨日――」
「あぁー言った言った。だから掘り返すなっての。あれだけカッコつけて言い切ったのに台無しじゃねえかよ」
リクは、久々に声を出して笑った。表情筋を張らせて笑うのは、生まれて初めてかのように感じた。心の底から、『楽しい』と思えてしまったのだ。エイトも、恥ずかしさを含ませながらも口元を緩ませてくれている。
(そっか……こういう人だったんだ)
人当たりは良いが、どこか薄い壁があるかのような素っ気なさが見え隠れしていた男――蒼井詠人。
まだまだ謎の多い彼だが、そんな彼の胸の内側に少しだけ触れられた気がした瞬間だった。
「わかりました……僕、協力しますよ」
――死ぬ理由は、いくらでもあった。
生きる意味は、彼が必要としてくれた、それだけ――
4月22日




