09話 自殺意
エイトの家を訪ねて以降、ここまで状況の移り変わりが目まぐるしく展開されてきた。
半強制的な寝室への隔離。
予想だにしていなかった叔母の訪問。
前代未聞なカウンセリングの一部始終。
そして今、液晶越しで目に映る謎の物体――
照明に照らされ、鈍い光沢を放つ黒い靄のようなその物体は、リビングの中を漂うように浮かんでいる。
「自殺……意?」
なんの捻りもないその呼称に、リクは思わず耳を疑ってしまう。単語の響きからそれとなく意味は理解できたが、存在そのものは到底理解しがたい。
「一体なんなんですか、それ……」
『これからまとめて説明してやる。もう入ってきていいぞ』
素っ気なくぷつっとビデオ通話が切られる。だが、立ち入り禁止は解除されたようだ。リクは慎重に扉を開き、再びリビングへと足を踏み入れる。
(うわ……なんだよこれ)
ぷかぷかと宙に浮いた、黒い物体。実際に間近で目の当たりにしてみると、画面越しで視るよりも異様さが際立つ。まじまじと見つめていれば、なぜだか不安が駆り立てられてくる気がした。
「あの、叔母さんは……」
一方で彫像のように、いまだ硬直したままの叔母――形平さつき。明らかに正常ではない状態の彼女を心配するよう、恐る恐るとリクは尋ねた。
「大丈夫だ」
エイトが即答で、簡潔に済ます。根拠などなにもあったものではないが、このシチュエーションに慣れきっているであろう彼の口から発せられたことで、確かな信用に足り得てしまった。
「自殺意……正しく言えば〝自殺意の可視化体〟だ。人間の中には本来、こんな異物は宿ってねえ」
そしてリビングに戻る前にリクが尋ねた疑問に答えるよう、エイトは静かに語り始めた。
「もちろん、人間っつうのはありとあらゆる生物の中でも唯一、衝動的に自死を選択することがある生き物だ。自殺意はな……要はその選択を後押しさせる、外部から植え付けられた思念体みてえなモンなんだ」
「思念体……? 外から……?」
あまりにも非化学的な話題ではある。だが、実際に目の前の〝黒い光〟を見せ付けられてしまっては、疑いようのない事実として受け止めるしかなかった。リクは余計な疑問を挟まず、平静を装って聞き入る。
「ああ、そうだ。他者が、何らかの形で〝対象者〟に刷り込む。そうやって体内に潜り込ませられた自殺意は、宿主の中に溜まってる悲しみや不安、鬱憤を養分に成長していく。そして限界まで肥大化した時、結果として人は――」
エイトは一度溜め、語気を強めて言い放つ。
「――自分で命を絶とうとするんだ」
リクの手が、無意識に強く握りしめられる。
「刷り込みを誰がやっているかも、実際にどう刷り込んでいるのかも、オレには見当もつかねえ。けどな、現実問題として自殺意のせいで死んでる人の数が増えてきているのは確かなんだ。最近のニュースとか見てねえか?」
「あ――」
一昨日に見たニュース番組で報道されていた内容が、リクの脳裏をよぎる。
「……心当たりあるみてえだな」
「はい……っっ」
リクは生唾をごくりと呑み込む。そして、かねてより気掛かりとしていた疑問を打ち明ける。
「それで、その……叔母さんは助かるんですか?」
視線を叔母とエイトの両目へ交互に動かし、慎重に問う。
「ああ、少し離れてろ」
「え……あ、はい」
まるでこれから『助ける』とでも言ったかのような口振りのエイトに、リクは面を食らいつつも言われた通りに数歩下がった。
「自殺意は今はオレの〝特殊音楽療法〟によって、可視化体になって体外へ出ているだけだ。この状態にならない限りは、一切視認はできねえ。レントゲンとかにも写らないらしいしな」
自殺意とテーブルを挟んでリクの正面に立ち、エイトは丁寧に説明をしている。リクは彼と目が合うたびに、相槌代わりに頷いて応じた。
「可視化体にさせるには条件があってな……対象者の感情や本音を全て曝け出させた後、自殺を仄めかすような一言を引き金として言わせる必要があるんだ」
(あっ、それで……)
リクは、自身がカウンセリングを受けた際の記憶を思い起こす。エイトの『オマエは大丈夫だったようだな』という一言の真意を、ようやく汲み取ることができた。
(ということは、僕が〝死にたい〟って感じていたのは、自殺意のせいじゃ無かったってことか……)
安堵していいのか、それとも惜しんだ方が良いのか。リクは少しだけ複雑な感情を抱いてしまった。その間にも、エイトは話を続けていく――
「――でな、この状態のまましばらく放置しちまうと、コイツは勝手に宿主の中に戻っていっちまうんだ。だからその前に、オレが何とかするしかねえ」
どこか決意を固めたような表情でそう勇むと、エイトは浮遊していた可視化体を右手でいとも容易く掴んでみせた。
(えっ……掴めるんだ、普通に……)
エイトがあまりにも簡単に掴めてしまったことで、僅かに緊張感が緩みそうになる。重さや触り心地はどうなのかと気になるところだが、黒い靄のような物体は彼の手の中でまだ脈打つように蠢いていた。ここからどう処理をしていくのか――リクは瞬きすらせずに凝視する。
「掴んで、それを……どうするんですか」
「こうするんだよ――」
「えっ」
リクは、目を見開いて驚愕する。エイトが掴んでいた可視化体をためらいもなく、口の中へと運んでみせたのだ。彼はそのまま垂直に顔を上向かせ、重力に頼ってごくりと嚥下を終える。
「ちょっ……大丈夫なんですか!?」
「…………っっ! 大丈夫だから黙って見てろっての」
澄ました顔色で、エイトはリクを安心させようとした。
しかし、その直後――
「エイトさんっ!?」
――突如、自らの首を両手で絞め上げ始めたのだ。
「な、何やって……!」
そのあまりにも異常すぎる光景に、リクは半ばパニックへと陥ってしまう。演技やパフォーマンスなんかではない。窒息させるどころか、首の骨を本気で折ろうかというほどに、エイトの指は喉輪に食い込んでいた。
「かっ……は……っ」
彼は額に汗を滲ませ、口からは涎を垂らし、苦悶の表情を浮かべている。だが数秒後には力が弱まってきたのか、首から上を全力で反り返らせ、なんとか両手を引き剥がすことに成功した。
「ゲッホ、ゲホッ……っ、ふぅ」
そしてひとしきり噎せた後、全身の力が抜け落ちたかのようにソファーへどかっと座り込み、リクを安心させるよう平常心をアピールする。
「……心配すんな、もう平気だ。宿主以外が取り込むと、防衛本能みてぇなのが働いてああなるんだ」
「平気って……あんなに危険なこと……!」
「今回は早期発見できたしな。だからこの程度で済んだ」
袖で口元の涎を雑に拭いながら、平然とエイトはそう言ってのけた。首筋には、掴んだ跡がくっきりと赤く残っている。リクは唖然としながら、彼の首元を眺めていた。
(早期、発見……?)
エイトがさらっと口にした単語から、リクは嫌な想像を働かせてしまった。仮に末期へと突入した人間の自殺意を処理する場合だと、一体どれだけ凄惨で壮絶な自傷行為を働いてしまうのか――と。
(一体、今まで何人の自殺意を……)
そして、そんな修羅場を彼はこれまでにいくつ潜り抜けてきたのだろうか。悪寒に似た戦慄が、リクの背すじを走る。
「ん、終わったか」
一方で、自殺意が完全に消失した形平さつきは全身の硬直が解けたようだ。そのまま糸の切れた操り人形のように、ソファーに背中からストンと身体を預けて倒れた。意識はまだ戻ってないが、小さく寝息が聞こえ、どこか安心しきったような寝顔もうかがえた。
「心配すんな。2、30分もすりゃ起きるからよ」
「…………」
「どうした、リク?」
「あ、あの……!」
リクは意を決したように声を絞り出した。
「……エイトさん、質問してもいいですか」
「ん? どうした?」
「なんで……こんな仕事をしてるんですか」
場合によっては、失礼にあたるかもしれない。
それでも、リクは訊かずにいられなかった。
「…………」
対して、エイトは部屋の壁に視線を逸らして応じる。
わずかに気まずい空気が流れ始めてきた。
「あまり答えたくない感じ……ですか?」
「……今はあんま過去のハナシしたくねえんだけどな」
「そう、ですか……わかりました」
冷たい口調で遮断され、リクは少し沈んだ表情を覗かせた。それが良心に訴えかけてしまったのか、エイトは舌打ち混じりに回答をする。
「世話んなった人に恩を返してえだけだ。簡単に言うとな」
「恩……ですか」
「これ以上はもう聞くんじゃねえぞ」
「はっ、はい」
視線は逸らしたまま不貞腐れるような態度ながらも、最低限の身の上話を打ち明けてくれたエイト。リクはそんな彼の不器用な優しさに心を和ませたところで、質問を重ねていく。
「そういえば……叔母さんとはどうやって知り合ったんですか?」
「先週だったか、いつも行ってるスーパーでたまたまレジ担当してくれてな。すげえ疲れ切った顔してたから少しハナシ聞いた後、名前だけ教えてもらって名刺渡したんだよ」
エイトは答えながら立ち上がり、キッチンにある冷蔵庫を開けて缶コーヒーを二本取り出す。そしてその内の一本を放り投げ、リクがそれをキャッチした。
「じゃあ、僕と親戚なのは知らなかったんですか……?」
「いや、名前聞いてから身辺調査して昨日知った」
あっさりと告げられた驚愕の事実に、リクは一口目のコーヒーを噴き出しそうになってしまう。
「身辺調査って……そんな探偵みたいなこと……」
「友人に得意なヤツが居んだよ。このシゴトやってくにはそういうのも必要なんだっての。ちなみに気になってんだろうから先に教えっけど、特殊音楽療法に使ってたアプリも、ソイツに特注で作ってもらってんだ」
次に訊き出そうと思っていた質問の回答を会話の流れで答えられ、リクはエイトの巧みな話術に感服させられる。
「えっと、あのアプリって……一体どういう仕組みなんですか? なんか、色々と文明超越してません……?」
「んー、オレも詳しくはわかんねえな。まぁソイツの説明だと〝一曲目だけは詠人が選曲して、後は相談者次第〟としか伝えられてねえからな」
その説明を聞いただけだと完全に納得はしがたいが、それとなく仕組みを察することはできた。
(多分だけど、相手の声色や相談の内容を聴き取って自動でプレイリストを組み立ててる感じ、なのかな……? もちろんそれだけじゃ無さそうだけど、僕には理解が及ば――)
そこまで考え込んで、リクの胸の内側に、ある一つの違和感が芽生える。
(……あれ? ということは、もしかして僕の――)
「身辺調査だろ? もちろんオマエのも調べてもらったよ」
心臓が、耳の奥で鳴り響いた気がした。
表情の強張りだけで、見透かされていたようだ。
「実はな……さっき帰りが遅れたのも、調査の結果見るためにソイツの家寄ってたからなんだわ」
少しだけ緩んでいたムードが、瞬く間に一変していく。
「〝村崎みゆき〟……オマエの母ちゃんだよな?」
「……っ!」
意図せず、呼吸の間隔が狭くなる。
鼓動が、鼓膜を破りそうだ。
胃の中が、逆流しそうになってくる。
「いいか、落ち着いて聞けよ」
エイトの声がいつも以上に低く聴こえた。
まるで悪魔が罪を読み上げ、罰を宣告してきそうな声。
そんなつもりではないはずなのに。
なぜだかそう捉えて、感じてしまう。
「リク、オマエの母親が自殺したのは――」
「違うっっ!」
『結局僕は、現実から逃げてしまうのか――』




