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妹に婚約者を取られたので独り身を謳歌していたら、年下の教え子に溺愛されて困っています  作者: 雨野 雫


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23.お疲れ様


 一度触れることを許してから、オリヴァーがぐっと距離を縮めてきた気がする。


 手を握ろうとしたり、ハグをせがんだり、キスをねだってきたり。彼の繁忙期も佳境を迎え、甘えてくる頻度も高くなった。どうやら彼は、疲れると甘えたくなるタチらしい。


 彼のおねだりをどうしているかというと、適当にあしらう時もあれば、気まぐれに受け入れたりする日もあり、対応はまちまちだ。自分でもどうしたいかよくわからなかった。


 ただひとつ言えるのは、彼に抱きしめられるととても安心するということだ。彼の腕の中にいる時だけは、自分は誰からも害されないという安心感があった。外界の攻撃から守られていると思うと、それだけで心の緊張がほどけていった。いつも気を張って生きていたんだと自覚した。


 そんな日々がしばらく続き、いよいよこの国最大規模の学会が開催された。オリヴァーがここ最近ずっと忙しく準備をしていたものだ。

 この学会は魔術分野だけでなくありとあらゆる分野の最新研究が発表される場であり、一週間もの間開催される。そして最終日には盛大な懇親会が開かれるのだ。


 ヴィオラは発表予定もないので、この一週間は気楽に興味の赴くまま、いろんな研究者の発表を聞いて回っていた。


 対する主催者側のオリヴァーは、開会の挨拶やら発表の進行役やらを務めて忙しなく動いていた。結婚していることは隠しているので、学会会場ではお互い他人のフリだ。もちろん会話をすることはないし、目が合っても会釈する程度に留めていた。

 学会期間中、オリヴァーは夜遅くに帰ってきて朝早くに家を出るので、この一週間は彼と一言も話すことなく過ぎていった。


 そして、最終日の夜。ヴィオラは懇親会に参加していた。

 国中の研究者が集まる会場は、かなりの賑わいを見せている。著名な研究者は既に多くの人々に囲まれ、あちらこちらで議論が行われていた。


 懇親会では流石にいつも通りの白衣姿というわけにはいかないので、今のヴィオラはシンプルながらも華のあるドレスで最低限着飾っている。


「リーヴス先生! ご高名はかねがね! まさかお会いできるとは!」

「はじめまして。私もお会いできて光栄です。先生のご発表、とても興味深かったです」


 魔術学だけでなく、数学、物理学、天文学など様々な学問に精通するヴィオラは、多種多様な分野の研究者と会話を弾ませていた。夜会とは異なり研究の話ばかりに花が咲くので、ヴィオラとしてもこの場はとても居心地が良いものだった。


「リーヴス先生、少しよろしいですか?」


 そう言って声をかけてきたのは、初めて見る若手研究者だった。体の線が細い上に顔は青白く、少し不健康そうな印象の男だ。


「実は昔からリーヴス先生には憧れていまして。先生の論文には全て目を通しているんです。お会いできて嬉しいなあ!」


 男はそう言ってにこやかに笑うと、ヴィオラの手を取って無理やり握手をしてきた。勝手に触れられたことに嫌悪感を覚えたヴィオラは、思わず顔を引き攣らせる。


「……それはどうも。あなたは何のご研究を?」

「せっかくの懇親会ですし、そんな話は後にしましょう。いやはや、着飾っている姿もなんとお美しい。才色兼備というのは、まさに先生の為にある言葉ですね」


 男はまだヴィオラの手を離そうとはせず、握る手に力を込めている。そして研究とは全く関係のない話をぺちゃくちゃ喋った後、遂には肩にまで触れてきた。


(何だこいつは……ここは結婚相手を物色する場じゃないんだぞ……)


 思わず舌打ちしたくなるのをぐっと堪え、ヴィオラは早々に退散しようとした。


「あの、そろそろ失礼しようかと」

「あ、お帰りですか? でしたら馬車でお送りしましょう。私もちょうど帰ろうと思っていたところで」


 そう言って男は笑いながらヴィオラの手首を掴んできた。流石に嫌気が差したヴィオラは、鋭い目つきで思いっきり相手を睨みつける。しかし、男は気づいていないのか、ヘラヘラと笑っている。


「離してください。一人で帰りますので」

「女性一人で夜道は危険ですよ。ささ、遠慮なく」

「いい加減に――」


 ヴィオラが頑張って手を振りほどこうとした時、不意に後ろから聞き馴染みのある低い声が聞こえてきた。オリヴァーだ。


「リーヴス先生、こちらにいらっしゃいましたか」


 目の前の男が一瞬で血の気を失っていく。一体どんな恐ろしい顔をしているのだとオリヴァーを振り返ったが、こちらと目が合った途端いつもの笑顔に変わってしまったので男が何を見たのかはわからなかった。


 そしてオリヴァーは男の腕を掴むとヴィオラから引き離した。彼の力が相当強かったのか、男は痛そうに顔を顰めている。一方のオリヴァーはにこりとした笑みを浮かべているが、目が全く笑っていない。これはなかなかに怒っていそうだ。


「女性に不用意に触れるのは、いささか無礼かと」

「し、失礼いたしました……」

「彼女をお借りしても?」

「え、ええ……どうぞ」


 男は今にも消え入りそうな声で言葉を返していた。ビクビクと震えながら怯えている男を横目に、オリヴァーはヴィオラを連れて会場をスルスルと抜けていく。そして、扉から廊下に出て近くの適当な部屋にスルリと入る。

 ここは控室のようで、中は無人だった。オリヴァーは誰か来ないように素早く鍵をかけると、心配そうにこちらを覗き込んでくる。


「大丈夫でしたか?」

「ああ、大丈夫。ありがとう」


 オリヴァーはヴィオラが変な男に絡まれているのを見かけて、助けに来てくれたようだった。なかなかにしつこい男だったので心底助かった。


 すると、彼は先程の光景を思い出したのか、眉を顰めながらこう言った。


「あなたに触れていたあの男の手首を切り落とそうかと思いました」

「フフッ。君が言うと冗談に聞こえないな」


 男から離れられて安心したのか、一週間ぶりにオリヴァーと話せて嬉しかったのか、ヴィオラは無意識に顔をほころばせていた。その笑顔に釣られたのか、オリヴァーも表情を緩ませる。


「もう帰りますか?」

「ああ、もう十分かな。またあの男に会うのも嫌だし」

「では、ご一緒させてください」


 オリヴァーはにこやかにそう言うが、まだ仕事が残っているのではないだろうか。もし自分を送るためだけなら、この場を抜けさせるのは申し訳がなさすぎる。


「帰っていいのか? 君は主催者側だろう」

「僕の仕事はもう終わりました。ですので、よければご一緒させてください」


 オリヴァーはとても清々しい笑顔を浮かべていた。彼の表情からして、仕事が終わったというのも本当なのだろう。断る理由もないのでヴィオラは彼の提案を呑むことにした。


「そうか。では一緒に帰ろう」


 そうして二人は馬車に乗り、帰路についた。

 家へ向かう道中、オリヴァーは疲れた様子で背もたれに身を(うず)めていた。そんな彼に、ヴィオラは労いの言葉をかける。


「お疲れ様。大変だったね」

「流石に少し疲れました」


 オリヴァーは力なく笑ってそう返してきた。彼が弱音を吐くのは珍しい。ここ最近は毎日のように夜中まで仕事をしていたようだったので、相当疲れが溜まっているのだろう。


 すると、彼は重たそうに身を起こして、ヴィオラの手に優しく触れてくる。


「今日、寝支度が終わった後、少し会えませんか?」

「? どうして?」


 こんなに疲れているならさっさと寝て休みたいだろうに、何か急ぎの用でもあるのだろうか。ヴィオラはそう思い首を傾げて尋ねたが、彼の答えはそうではなかった。


「……頑張ったので、少しだけヴィオラに(ねぎら)って欲しくて」


 彼はねだるような声でそう言った。どうやら今日は甘えたい日のようだ。


「それに、ヴィオラと一週間もまともに話せなくて、寂しくて死にそうでした。ヴィオラは寂しくなかったですか?」


 オリヴァーはそう言いながら、握っていたヴィオラの手を優しくさすった。彼の大きな両手で弄ばれ始めたので、ヴィオラはどうしたものかと軽く溜息をつく。


「今まであまり寂しいという感情を抱いたことがない」


 ヴィオラのさっぱりとした答えに、オリヴァーは苦笑しつつ少し悲しそうな表情をしていた。今の言葉も正直な答えだが、ヴィオラはもうひとつ正直な気持ちを彼に伝える。


「でも、聞いて面白かった発表を君にも共有して語り合いたいとは思っていたよ」


 その言葉を聞いた途端、暗かったオリヴァーの表情がみるみるうちに明るくなっていく。そんな彼の様子に、ヴィオラは仕方ないというように微笑をこぼした。


「わかった。寝支度が済んだら君の自室を尋ねるよ。ただし、少しだけな」


 あれだけ仕事を頑張っていたんだから、労いのひとつくらいあってもいいだろう。そうしてヴィオラは今日、甘えたいオリヴァーのわがままを受け入れることにしたのだった。


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