貴女が全て
「はぁ…っ、はぁ…っ、くぁっ……!」
六花から逃げている道中、明日香は緋焔の腕の中で苦悶の声を上げる。煙の成分は媚薬と言っていたがこの苦しみ方は異常だ。
「お嬢、様…?」
闢零は明日香を心配そうに覗き込む。明日香は大丈夫と気丈に振る舞ってみせるが、媚薬の効果で赤くなっていた顔はいつの間にか、蒼白に変わり始めていて、誰が見ても大丈夫だとは思えないような状態だった。闢零はそう、ですか…とそっと引き下がる。
「ここまで来れば大丈夫でしょう。お嬢様、一回降ろしますよ」
医務室まで逃げた緋焔は明日香をベッドの上に下ろすと、その上で苦しそうにうずくまる。それは、どう考えても媚薬の効果などでは無かった。
「お嬢様、服脱がせますよ?」
「あ…っ、いい、よ…」
明日香の服を優しく脱がす。明日香の白い柔肌には首より下を覆うように黒い痣が浮き出ていた。毒の類なのだろうが、そう言う知識のない二人が下手に処置をして悪化させるわけにもいかない。最良の手はマルモに治療してもらう事だが、ここにはいない。となると、治療系の魔法が使えるのは必然的に梓だけになる。
「大丈夫でしょうか……」
明日香は毒で倒れ、六花に追われ、梓は一人で違う敵と交戦中。あまりにも状況が悪い。だが、それでも梓が来ることを待つことしかできない。どちらかが梓の元へ行くことも不可能ではないが、明日香をこの状況下で一人で守りきることが断言できない以上、行くわけにはいかない。
「心配ない。きっと梓さんはお嬢様を助けてくれるから、それまで私たちは守ることに集中するよ」
緋焔の言葉に闢零は力強く頷く。確実に来るであろう六花の追撃を持ちこたえ、梓が来る事を信じて。
「ほらほら~頑張らないと死んじゃうよ~?」
一方、その梓は花陽を襲った二葉と戦闘を繰り広げていた。相手の獲物は大鎌、対してこちらは二本の小太刀と杖という相性的には最悪の物だった。それに加え、援軍には。
「……深月?」
「ええ…援軍に、来た…」
そう言って深月は双剣を抜き放つ。それの柄の部分には鎖が付けられている特殊なものだった。それを深月は投げつける。
「───やっぱり、『私に』援軍じゃないのね」
梓に投げつけられた剣を氷の壁を作り出し、弾く。梓は知っていたかのように、自重気味に笑うと。
「…惜しい」
「そんなのじゃ当たらないよっと」
梓は二葉の攻撃を躱しながら、氷柱を作り出し深月に発射する。それを深月は鎖を使って器用に防御する。状況は悪くなる一方の梓は、この状況を変える一手を考えるが、見当たらない。
外から何かのきっかけが無ければこの状況を打開する事はおそらく不可能だ。前門の虎、後門の狼とはよく言ったものだ。
「ご都合主義の展開とかないかな……」
梓の呟きに、二葉がやる気なさそうに言葉を放つ。
「な~いと、思うよ~?だってぇ~」
「──助けなんて来ませんよ?六花の毒は特別ですから、もう明日香さんも───」
生きてはいない。と言う前に、梓の空気が変わる。それは今までのものとは打って変わり、全てを拒絶するような、そんな空気だった。
「……明日香が、死ぬわけ無いでしょ……っ!!」
梓の頭上に煌々と輝く火球が作り出される。それは、今までの魔法とは威力が桁外れに高い事だけは理解でき、二人の表情にも焦りが見えた。
「灼き尽くせ…っ!!」
灼熱の火球が二人を襲う。それを躱すがそれは無意味だった。火球が床に着弾する。その瞬間、火球は大きさを増し、部屋全体を覆い尽くすほどの大きさになり、全てを焼き尽くす。酸素が急激に減り、気圧の差で窓ガラスが割れ、外の空気が一気に入り込んでくる。
バチバチと爆ぜる音が聞こえる部屋でその姿を留めていたのは梓ただ一人だった。肩で息をして、レイラを人の姿へと戻す。
「大丈夫ですか!?お嬢様!!」
「ええ……ちょっと、魔力を消費しすぎた感じはあるけどね………」
梓はレイラに肩を貸してもらいながら、部屋を抜けようと歩を進めると、瓦礫が崩れる音がする。まだ生き残っていたのか、と思いながら振り向くと。
「…………」
そこには物言わぬ、二人の屍があるだけだった。あれが着弾する瞬間に咄嗟に身を守ったのか、全身の皮膚が焼け爛れ、守らなかった方が良いと思えるような、無残な姿に成り果てている。梓はそれを一瞥すると、興味無さそうに足を引きずりながら出ていこうとする。
「明日香さんの所へ行くんですか?」
そんな声が聞こえる。顔を上げた時に見えたのは、
「六花……!!」
その声に梓は激昂する。今、この時に六花がここに現れる事はあってはならないのだ。
「明日香さんはどこだ?って顔してますね」
六花の声は笑いを隠しきれないようで、所々から梓を嘲笑うような声音が聞こえてきた。
「そこまで分かってるなら───」
「はい、どうぞ」
そう言って六花は何かを投げつける。それが何か分からなかった、否、分かりたくなかった。どさり、と人が倒れる音がする。そこに一番居て欲しくなかった人が、そこに居る。
梓は、倒れた明日香に駆け寄る。六花はついでと言わんばかりに折れた金属片を投げ捨てる。それは、明日香が使っていた剣、緋焔と闢零だった。それにもう一つは粉々に砕かれた白銀の柄だった。恐らく、明日香が使っていた事のある剣だと、アリスなのだろう。
「あ、すか……」
自分の物とは思えないほどか細く、嗄れた声が発せられる。
「……お、ねえ、ちゃん…?」
明日香の小さな声が耳元をくすぐる。
「っ、そうだよ…!私、梓だよ!!」
「…ごめ、ん……約束、まもれ、なかった……」
明日香は悲しそうに笑う。
「約束なんて、いいから!喋っちゃダメ!直ぐに私が治してあげるから!!」
梓がレイラを使って治癒魔法を使おうとすると、小さく首を横に振る。
「だめ、だよ…もう、間に、あわない……」
激しく咳き込んだ後に、梓の頬をつたう涙を明日香の手が力なく拭う。その腕から手にかけて、毒の影響なのか黒い痣が現れていた。
梓は信じたくなかった。信じられるわけがない。現実から目を背ける人間の醜い足掻きだと言われても構わない、そう思って必死に治癒魔法をかける。
「無理、だよ…おねえ、ちゃん……」
「無理じゃない!絶対に助けるから!」
二人のやり取りを嘲るように見ていた六花が口を出してくる。
「無理ですよ、明日香さんの言う通りです。貴女には助ける事が出来ませんよ」
「五月蠅い!集中してるの!!」
六花はこわいこわい、と後ろに一歩下がる。六花はもう助からないと分かっているのか、余裕の表情で行く末を見守っている。
「おねえ、ちゃん…さい、ごの、お願、い……」
「最後って…そんな事、言わないでよ!」
梓が泣き声で明日香に言う。梓のそれを明日香は力無く笑うと、
「アリ、スを…信じ、て……だい、すき…おね、え……ちゃ…」
梓に触れていた手を自然と落下させた。
「あははっ、貴女もすぐに明日香さんの所へ送ってあげますね。あ、死体は回収しますのであしからず」
六花はそう言って銃を構える。梓は背に銃を構えられていても、動かない。それは、まるで石像になってしまったような感じを彷彿とさせたが、
「……あす、か…?ねぇ…起きてよ…もう、えっちな事、しないから…起きてよ」
焦点の定まらない瞳で、おぼろげに呟いている。その身体からはもう何も感じない。抜け殻のようになってしまった梓に六花は任務完了といった笑みを見せながら、引き金を引こうとした。
「…貴女が、居なければ、明日香は……」
身体から発せられる空気が変わる。全てを飲み込むようなおぞましい気配に変わり、反射的に飛び退くが、もう遅かった。
「な………っ!?」
刹那、景色ががらりと変わり、赤と黒がぐちゃぐちゃに入り混じった空間に変わる。そして、今まで動かなかった梓が幽鬼のように立ち上がる。が、その目には光が宿っていない。
「死んで」
ただ一言、そう発した。次の瞬間、自分の身体から歪な音が響く。身体を見ると、そこには景色と同じ色の巨大な剣が何本も突き刺さっていた。
「う、そ…でしょ…?」
そのまま、六花の体は地面に倒れる。梓はゆっくりと近づき、止めを刺そうとする。最後の足掻きをば、と引き金を引く。
その銃弾は梓の肩を貫き、肩から鮮血を流させる。だが、梓はその事を気にも止めず、赤黒い塊で六花を叩き潰す。その直前に一言、梓に言ってやる。
「最っ高の、悪夢を」
殺した。殺せた。何も考えることができなくなった、梓はとにかく明日香を殺した六花が赦せなかった。
だがそれも今、この瞬間に終わらせた。六花は自分が作り出した空間で自らの魔法で六花の身体を貫き、自らの魔法でその身体を圧殺させた。
流れる血は、空間の色と同化し見えなくなる。呆然と立ち尽くす梓の耳に、聞こえるはずの無い声が聞こえる。
『…ねェ……ん』
「え…」
『お、ネぇ…ちゃ、ン……』
ふらついた足取りで現れたのは、
「あ、すか…?」
もう、生きてはいないはずの明日香だった。生きていた。信じていた、信じた甲斐があった。体が自然と動き明日香を抱きしめようとする。だが、その身体が何かおかしいことに気付いた。
「あす、か…?」
異臭が明日香の身体から発せられている。その身体を、よく見てみると───
「ひっ!?」
───その身体は腐っていた。身体の所々に蛆がわき、手を良く見れば指が欠けている。
『わたシ、を、ダいて、くれ、ないノ?』
ゆっくりと手を伸ばしてくる。その手を梓は弾いてしまう。そして、弾かれるように走ってその場を去る。
『ねエ、おねえ、チャん』『どうシて』『にげルの?』
明日香の声が反響して、自分の耳に侵入してくる。脳を侵食する。振り払おうとしても、振り払えない。
「来ないで!」
明日香に魔法を撃つ。すると、身体は驚くほど脆く全身が柘榴の様に弾け飛び、返り血が顔にかかる。
「あ、ああ…いや、いやああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!」
明日香を、自らの手で殺した。最早、それが現実かそうでないかも今の梓には区別がつかなかった。理性が崩壊し、滅茶苦茶に作り出した剣を飛ばす。グチャリ、と肉が吹き飛び、べチャと、吹き飛んだ肉片が下に落ちる。
音が消えたとき、顔を上げると────
「あ、わた、し…が、やった、の…?」
一面の赤い海。そこには何十もの明日香の死体があった。その全てが、原形を留めていない。頭の理解が追いつかない。崩れ落ちるとばちゃり、と足が血の海に沈む。
「もう…いや……」
空間がひび割れ、奈落に自分は堕ちてゆく。それは正しく、今の自分だ。重力に身をゆだね、全てを諦めるように瞳を閉じ、終わりを受け入れようとした。
────えて───
誰かの声が聞こえる。もう、聞きたくない。自分はもう生きる意味は無いのだから、そう思っていると、不意にあの一言が蘇る。
『アリスを信じて』
どうして、あの時に明日香はアリスを、自分の武器を信じてくれと言ったのだろう。思考が少しだけ、元に戻りそんなことを考える。すると、またあの声が聞こえてくる。
───聞こえて───
その声には、聞き覚えがあった。人の姿を取っているときは万年、眠たそうな瞳をしていたアリスだ。その時、梓の頭に荒唐無稽であり得ない事だが、一つだけ幽かな希望が生まれる。
「ま…さか……!!」
梓はその声に応える。すると、空間は完全に砕け、赤と黒だけの空間は光に満たされ梓の身体を包む。
「う…?」
目を覚ました梓の膝の上には、もう目を覚ます事のない明日香の体が、掌には白銀に光る柄が握られていた。あの世界は幻覚だったのだろう。それが、何処からかは分からないが、少なくとも六花は目の前で見るも無残な姿となって息絶えていた。
「アリスの、柄……」
掌に握られていたその柄を見つめて呟く。
(聞こえ、てる…?)
柄から微弱な魔力と共に声が聞こえる。
「聞こえてるよ。アリス」
冷静な声音で応える。すると、アリスはいつもの眠たげな感じを一切思い起こさせないような声音で、
(私を、元の姿に戻して。───ますたーを、生き返らせるために)




