食への執着
静子邸で提供される食事の質は、日ノ本一といっても過言ではない。
主食の尾張米は食味に於いて一線を画しており、新米の炊き立てを腹一杯食べられるだけでも御馳走だ。
静子邸に於いては下女に至るまで一日三食、最低でも白米、味噌汁、主菜、漬物の一汁一菜(漬物は『香の物』となり、菜に含まれない)が食べられる。
織田領以外の庶民は未だに一日二食、玄米に稗や粟などの雑穀を混ぜて嵩増しした雑炊を主食に、米糠と塩、水で糠床を作って野菜をつけた漬物を齧り、この糠床を湯に溶いた糠味噌汁を啜るのが精々なのだ。
この糠味噌汁は材料に大豆が含まれていないことからも判るように、旨みが殆どない上に発酵しているために酸っぱいという代物だ。
一方の静子邸で供される味噌汁は大豆と米、塩を原料に醸造して作られた味噌を用い、出汁を取って作られるため現代のそれと遜色のない一品となる。
当然ながら地位が上がる程に食事内容も格上げされる。白米、味噌汁、主菜、副菜二品に漬物の一汁三菜が基本となり、場合によっては食後のデザートまでもが付属する。
「今日の夕餉はクエ鍋なんだって、何か一緒に欲しいものはある?」
本日水揚げされた巨大なクエが献上され、大食漢が多い静子邸の面々を見た料理人は、皆が満足できるよう鍋にしたてたのだ。
「酒!」
「大盛りの飯!」
静子の問いに対して慶次と長可が即座に返答した。
現代に於いても高級魚として知られるクエだが、戦国時代に於いては尚のこと貴重である。
海底の岩礁などを棲み家とする根魚のクエは、一本釣りか刺し網に掛かるのを待つしかないため滅多に手に入らないのだ。
またクエは非常に成長の遅い魚としても知られ、1メートルものサイズに達するには五年以上掛かると言われている。
現代では養殖技術が確立され、多少安価で提供されているものの、天然ものに至ってはキロ単価が一万円超となることもザラにある超高級魚なのだ。
そんなクエはグロテスクな外見とは裏腹に、白身だというのに強い旨みを持ち、皮目のゼラチン質は熱を通すとトロリとろけて極上の味わいとなる。
そしてクエの身を骨ごとぶつ切りにして煮込んだ鍋は、身と骨からしみ出す出汁が野菜の旨みと絡み合い食通を唸らせる絶品だ。
「お酒とご飯大盛りね。勝蔵君、お鍋の締めには雑炊があるんだけど、それまでにご飯食べるの?」
「勿論だ! 雑炊は別腹だから、それまでに櫃一杯は食うぞ!」
「そ、そうなんだ……」
若い長可の健啖ぶりに少し引きつつも、静子は通常のご飯の他に追加でお櫃を幾つか用意するよう命じる。
「今回はちゃんと届いて料理しているから、ノドグロの時みたいな騒動は勘弁だよ?」
ノドグロとは正式名称をアカムツと言い、赤い体色をしたムツとして名付けられた。
ムツとは脂っこいことを指して「むつっこい」と言うことから、アカムツは非常に脂の乗った魚である。
因みにムツとして知られるクロムツと、アカムツは生物学上の分類としてまったく異なる魚であり、外見は似ているものの近縁種ではない。
ノドグロは水深二百メートル付近に生息する深海魚であるため、クエに輪をかけて漁獲量が少なく希少性が高くなる。
秋から春にかけてを旬とするものの一年を通して味が落ちず、型の良いノドグロは高値で取引されていた。
「安心しろ、ここに届く献上品に手を出した奴がどうなるかぐらい覚えているだろう? 忘れたようなら、思い出させてやるまでよ!」
「悪臭とか景観に対する苦情とかが山ほど来たんだから、本当にやめてよね」
ノドグロの時の騒動とは、静子へと献上されたノドグロを輸送途中に強奪され、その報復に長可が行った凄惨な制裁を指す。
二度と馬鹿なことを企てる奴が出ないよう、犯人一味を捕らえた後に刑場で苛烈な公開拷問を行い、その死骸が腐り果てるまで野晒しとしたのだ。
献上品であるがために先触れが遣わされており、目録が先に到着していたことから長可が期待してしまったのも無理はない。
しかし、この献上品を運搬している荷駄の行方が尾張に入る直前に判らなくなってしまう。
当初は事故にでもあったのかと捜索隊を派遣したのだが、その際に争ったような痕跡が残されていたため強盗の襲撃を受けたと判明した。
静子としては積み荷について仕方がないと諦め、襲撃から逃げ延びた人がいないかを捜索するように命じる。
しかし、それで済まなかった連中がいた。
静子に幻の旨い魚と焚きつけられていた長可は、怒髪天を衝くかの様な形相で駆け出していく。
結果として強盗達は壊滅し、その後の公開処刑によってならず者どもは震えあがることになった。
「食べ物の恨みは恐ろしいと言うけれど……流石にやりすぎだよ。ノドグロは食べ損ねたけれど、代わりに鰤の塩焼きを用意したんだから」
夕餉を放り出して報復に赴いた長可や慶次は、夜通し山狩りをしていたために携帯食で腹を満たすこととなった。
「仕方がないだろう……こんなにも旨いものがこの世にあるなんて知らなかったんだ。飯なんか腹を満たせれば良いと思っていたのに、旨い飯を食わせた静子が悪い」
「皆が飢えずに暮らせるよう心を砕いてきたつもりだけど、勝蔵君に美食を勧めたつもりはないよ」
「阿呆か! 一度尾張の米を食ってみろ、他領の米なんぞ臭くて食えんわ! 酒にしても肴にしても、ここ以外では満足できぬ体になったのを美食と言わずになんとする」
長可の反論はいちいち尤もなのだが、それで静子を責めるのは酷というものだろう。
彼女はただ只管に良かれと思い、皆がもっと豊かな生活を送れるように努力した結果なのだ。
「勝蔵、そのへんにしておけ。静っちに悪気がないのは重々承知しているが、これだけ旨いもの食い慣れた俺たちをして更なる美味と聞いては居ても立っても居られんよ」
「むむ……それは確かにそうだけれど。食べ物が関わることで人の命が失われるのは悲しいよ」
「盗賊たちは我欲の為に何の罪もない運搬人を殺めたんだ。それを誅戮しないのでは示しが付かない。決してノドグロを奪われた腹いせでは無い」
慶次の理屈にも一理あるのだが、多分に私怨が含まれているように思えてならない。
隣国には『羊斟の恨み』という故事成語が存在する。
春秋時代に於いて一人だけ御馳走を与えられなかった部下が、それを恨みに主君へ復讐をする話だ。
かくも食べる物に関する恨みは恐ろしい、静子としても身が引き締まる思いであった。




