エピローグ ~転 唯一神教会 聖地~
唯一神教会により聖地として認定されたこの地は、正式な地名を忘れ去られて久しい。
教会に伝わる物のみならず、この世界の歴史を紐解くと、本来語られるべきこの地の名は、ある一時期より一切の記録を抹消されているのだ。
それが何故なのか答えを知る者は無く、ただ名を失った地は形骸的に聖地と呼ばれ続けてきた。
そんな無名の聖地は、先に起きた地揺れの影響で長い歴史を歩んだ教会や聖堂の倒壊が相次いだ。
しかしそのような災禍の中、地揺れにも一切損なわれない至尊の建物が存在した。
他の倒壊した教会などと比べても、石造りであることには変わらず、むしろ崩れやすい筈の高き塔。
その由来は記録にさえ残っておらず、かつては鐘楼として利用されようとしたこともある、奇妙な尖塔。
周囲を別の聖堂に囲まれていたが為に、これまで知られる事の無かったそれらの尖塔は、地揺れにより長い沈黙から目覚めたかのように人々の目には映っていた。
聖地各地に点在するそれは、数えて6本。その並びは、やや歪ながらも六角形を描くようである。
ただ、空から聖地を望める者がいたのならば、その並びはある点が欠けていることに気づけただろう。
聖地の中央、再誕の神堂を取り囲むように立つ塔は、本来7本であっただろうこと。
そして、本来最後の一本が立っていただろう場所に、かの地揺れにて生じた奈落へ続くかのような大穴があることに。
本来は綺麗な正7角形を描いていたであろうことに。
同時に、空を飛ぶ以外でも、それらの状況を把握する手段を持つ者がいた。
「……<懶惰>! あの怠け者め! 寄りにも寄って逃げおったか!!」
薄明りの中巻物を広げ、書をめくりながら苛立たし気に吐き捨てる者。
淡い光の中で浮かび上がるのは、広げられた巻物に描かれたこの聖地の地図だ。
何らかの魔力──いや、この地で言うなら神秘というべきか──を帯びているらしく、地図は立体的な幻影となって聖地の地形と建物を再現していた。
更には、地下の様子もくっきりと幻影として再現している。
それによれば、もう一本の塔は現在奈落の穴の底、土砂と瓦礫に押し包まれ、地中深くに埋没していた。
その様に、腹立たしく声を荒げるのは誰あろう、教導帝アヴァロフ3世その人だ。
装束こそ教導帝に相応しき聖導衣であるものの、白を基調とした普段とは違いその色は濃厚な赤に染まっていた。
それも血のような、焼けるような夕日のような、鮮烈な紅。
しかし、教導帝が聖導衣を着替えた訳ではない。
余りに激しい怒りが、周囲の者に攻撃的な赤を想起させる気配となって溢れるがままであるが為に、そういう錯覚を引き起こしているのだ。
それほどまでに、アヴァロフ3世は怒り狂っていた。
昨今の被災した信徒たちに向ける厳しくも徳高い素振りを投げ捨てたかの様に、溢れる怒りを隠そうともしない。
その視線の先は、幻影の地図にあって黒々とした穴に向けられている。
「長らくあの扱いが難しい『純白の祝福』を押さえ続けたのだもの、<懶惰>だって嫌になっていても仕方がないわ」
同様のモノに視線を送りながら、とりなすように告げるのは教会の重鎮たる教導母。しかしその姿は、紅に染まった教導帝とは別の意味で常なる姿とはかけ離れていた。
教会を導く者とは思えない、煽情的かつ背徳的に歪められた教導服。いっそ娼婦がまとうべきであろうそれは、だがしかし恐ろしく彼女に合っていた。
普段はヴェールで隠されているその顔は、情欲に濡れる傾国の相。
教導母とは教会において清楚なる女性信徒たちの頂点とされるが、今の姿は全く真逆だ。
妖艶、魔性、淫靡。彼女を見た者はそれらの印象を抱かずにはいられない。
牡であれば、視線を送られるだけで腰が砕けるか、獣性を抑えきれず襲い掛かるかのどちらかでしかありえないような牝という概念の結晶じみた教導母。
この場に教導帝以外の者が居ないのは、彼女の今の様を前にして正気を保てない為でもあるのだろう。
そんな彼女を前にして、しかし教導帝は一向に彼女に意識を向ける事が無かった。
それは何ら不思議は話ではない。
教導帝は教導母と並ぶ教会の頂点。ならば、その魔性さえ慣れたものであり、もっと根源的な点を語るならば、彼と彼女は同格の存在であるからだ。
「アレがそのような殊勝なモノでない事は分かっておろうが! お前も分かっているだろう<色情>!!」
「まぁ、そおねえ。でも仕方がないわ。私達は私達自身であることから逃れられない。<嚇怒>、アナタが何時も怒りに囚われているのと同じようにね」
視線を虚空でぶつけあう、教導帝と教導母。本人たちの言に置き直すなら、<嚇怒>と<色情>。
どちらも譲る事はなく、しかしため息とともに先に視線を外したのは教導母の側であった。
「はぁ、もう少し私にも寛容であってほしいのだけど、アヴァロフ3世猊下」
「好きでこのような役しているわけではない。であるならば、事情を知る者、役を押し付けた者に寛容であろうものか」
そう言いつつも、教導母と幾らか話した為か、教導帝から溢れる怒気がひとまず収まり始めた。
そして再び、幻影の立体地図へと視線を下ろす。
「……行方をくらました<懶惰>は一旦捨て置くとして、<傲慢>は野放しに出来ぬ。此処に至り、アレは教会にとっては害に外ならん」
「教会にとって、というよりも、唯一神様にとって、よね」
「うむ、奴の狙いはわかっておる。それでも途中までは奴の思惑に乗るよりない。口惜しいが」
つつ、と教導母は指先を辿らせた先には、周囲を瓦礫に囲まれた尖塔が一つ。
再誕の神堂の真北に聳え立つそれには、特徴的な文様が浮かんでいた。
他の塔にも文様が浮かんでいるが、それぞれに浮かぶパターンは別であり、また浮かんでいないものもある。
「<飽食>、<羨望>、<貪欲>。奴らは最早種すらも不活性化している。であるなら、代わりを用意するより他ない。羽化するかもわからぬ種など運任せの遊戯でしかないが……唯一無二なる神の降臨の為には、他に手はない」
「それじゃあ、また火種を撒くのね?」
「いや、芽吹きに足る火種は既に撒かれている。ならば大火となるよう風を送るべきであろうな」
「その風に、種も乗せて?」
「無論だ」
教導帝が地図から、あらぬ方向へと視線を移す。
その先は、遥か彼方。聖地の北方にしてガイゼルリッツ皇国の東方地域に向けられていた。
□
同じ頃、聖地周辺の地下を蠢くモノがあった。
唯一神教会が作り上げた、聖地付近の地下通路。
皇国の、いや関屋商店街のドワーフ達と、皇国の祝福者たちとの戦闘で、僅かに設置されていた明かりさえ失われたそこは、一切の光無き闇の世界だ。
そんな中、もし闇の中でも見通せる目を持つ者がいたならば、驚愕すべき存在が闇をひそかに、しかし高速で移動しているのを発見できただろう。
闇に溶けるそれは、光ある場所なら蜘蛛のようにも、百足のようにも見えただろう。
細長い身体から、無数の腕か脚らしきものが生え、動き回っているのだ。
そして、もし夜光達がこの場に居たならば、すぐさま戦闘態勢に入っただろう。
腕や足らしき無数のモノは、夜光達が『漆黒の呪縛』と呼んだ謎の黒い線、その拡大化されたものであるからだ。
あの地下空間にて、蛇のような姿を取った黒い線の集合体は、今移動しながら自己進化を続けていた。
地下通路の幾つかに打ち捨てられた遺体や、聖地に開けられた奈落の穴付近で、好奇心を代償に命を失った信徒たちの肉体を取り込み、黒い線の集合体は次第に容量を増していく。
そのまま、黒い線の集合体──<懶惰>は闇に消える。
再び惰眠の中に身を浸らせるその為に、必要なものをかき集めながら……。。




